潮
生津直
潮
気配とは、つまるところ空気の揺れである。
間を埋めるものが水に
見下ろす先は、闇。
果てなどないとしか感じられない底に、焦点は定まらない。遠近感、いや、視覚自体が意味を失う。
思うに、完全な闇と無音というものが仮に手に入ったとして、それはきっと思いのほかうるさいものではなかろうか。静かすぎて却って己の聴覚に
夜光虫が少ない時期の、夜の海中。その解にたどり着いた時は、思わずほくそ笑んだ。
ほんの数メートル先に一人の人間がいること自体は認識しながらも、その気配を無視することなら、いくらかの工夫とチームワークによって十分可能だった。相手が
日が暮れてからのエントリーを依頼するだけで俺の要望を丸ごと察してくれる崇さんは、まさに理想のダイブパートナーだ。新婚の頃に奥さんを連れて離島に移住し、ダイブショップを開いて二十年のベテラン。
お互い、生い立ちだ何だを詳しく語り合う仲ではないが、様子見のつもりで浅場に初めて同行してもらった時から、海中での行動の
安全面でのリスクとは無関係に崇さんに声をかけるようになったのは、ここ数年のこと。黙って好きにさせてくれることに、甘えるためだ。俺がいつまでも
俺はもともと、海中生物に大して興味があるわけではなかった。むしろ海の中という空間そのものにこそ惹かれ、種々雑多な生き物は「いてもかまわない」程度の存在。
本当なら一人になりたい。しかし、海外で何度か
俺が水中ライトを体に押し付けて光を遮れば、崇さんもそれに
はぐれないための目印になるサイリウムは、俺の背中のタンクに付けている一つのみ。二人の間の距離の維持は、完全に崇さん頼みだ。
俺が闇を見つめ、あるいは目を閉じてじっとしている間に潮に流されても、彼の方で追ってきてくれる。それに、最悪はぐれても独力で岸に泳ぎ着く、あるいは海面に浮かんで救助を待つだけのスキルは二人ともが備えていた。
それにしても、今夜はなぜだか、無を得ることが難しい。自身の記憶が邪魔をし続ける。
俺は幾分長めの
男の素性は、興信所に調べさせたらすぐにわかった。都内の中流サラリーマン家庭に生まれ育ち、姉一人を持つ長男。高校時代に演劇に熱を上げ、大学へは行かず、アルバイトの
俺が電柱の陰から見た印象でいうと、顔や体格、服装などを総合して、いかにも女にモテそうな
新婚の頃、結が俺を気に入った理由として挙げたのが、「誠実さ」だった。しかし、誠実さを褒められて喜ぶ人間などいるものだろうか。すなわち、人としてまとも、と言われているようなもので、悪人ではないという最低条件をクリアしたにすぎないと思ってしまうのは俺だけなのか。
言ってみれば誠実でしかない俺と結婚した結は、一体何が不満だったのか。六年も我慢した挙句、俺には何一つぶちまけることなく裏切りに走るとは。それぐらいなら最初から断ればよさそうなものだ。
灰色の思考に気分を害されながら、潮だけはおとなしいな、と苦笑する。
結と出会った日の海はしかしこんなものではなく、あり得ないほどに
妹は見るからに快活、社交的な印象で、典型的な高嶺の花。だからというわけでもないが、俺は結の方に興味を惹かれた。三十代も半ばに差しかかり、そろそろ俺も婚活ってやつに手を出すのかな、などと考え始めた矢先だった。
惚れた、という覚えはない。軽い気持ちで連絡先を交換し、東京に戻って何度か食事に行くうちに互いの間に生まれたのは、これならまあありかな、というごく消極的な肯定。年齢も年齢だった。親からの圧力も双方にあった。
燃え上がるような恋愛ほど冷めるのも早いという説もあり、俺もそれに賛同する。その証拠に、俺たちの結婚生活は順調だった。少なくとも俺にとっては。そして……あの日までは。
あの日俺が感じたものは、怒りとも、嫉妬とも、悔しさとも、どこか違った。驚きと妙な現実感。ああ、あんな風に始まった俺たちはこうやって終わるのか、という納得。これからのことを漠然と考えた時の疲労。倦怠。諦観。
問いただすこともできた。責めることも。訴えることだって。だが俺は、訪れた終わりを覆すだけの動機を持ち合わせていなかった。
結の華奢な身体が、あらゆる生物の血となり肉となる
母なる海に、俺は何を求めているのだろう。癒やし? 慰め? 受容?
それとも、
潮 生津直 @nao-namaz
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