あし
阿瀬みち
1.
風呂場ですね毛を剃りながら、俺なんでこんなことしているんだっけ、と思った。四枚刃のシェーバーの隙間に、ねじくれた長い毛が挟まってうねっている。
*********
引っ越しの荷造りをしている最中だった。別れた彼女の私物入れだったシェルフから、未開封のストッキングが出てきた。予備用に置いておいたのだろう。捨てるか。分別めんどくせぇな。すう、っと息を細く長く吐いて、俺は包装を破いた。ボール紙は資源ごみ、袋は燃えるゴミ。ストッキング本体は?
本体は、これ、なにでできてるんだろう。取り出したそれは、思ったよりもずっと小さく、コミカルな姿をしていた。
「ぺらっぺらやな」
にゅー、と伸びた二本の足。
「ほんまにこんなんに足が入るんか?」
試しに手を入れてみる。生地は意外なほど薄く伸びた。
「うっわ……」
えろ。なんか知らんけど、エロ。
うっすらと地肌の色が、黒っぽい繊維の向こうに透けていた。ナイロンの光沢が肌の色を覆い隠そうとするかのようだ。すぐそばにあるのに、でも触れられない、そんな気がする。
「脚ほっそ、」
言いながら、床の上に伸ばした足の横に、自分の足を伸ばす彼女を思い出す。
「なんでそんなに脚きれーの?」
「しらん」
「うらやましいなぁ」
彼女はしきりに俺の脚を褒めながら、自分のふくらはぎを撫でた。リンパを刺激して、余分な水分を流すのだという。
きれーな、という彼女の声が蘇って、気が迷った。ストッキングに足を突っ込んでみる。
「うわ、なにこれグロ……」
ところどころ網目からすね毛が飛び出していて、押さえつけられたすね毛は繊維の下でとぐろを巻いている。気持ち悪。ふくらはぎまでストッキングに片足を突っ込んだ状態の自分が、ふと姿見に映っていた。みすぼらしい。足の上に乗せた手の平に、ちくちくする毛の感触が伝わってきて、俺はため息を吐いた。なにやってんだ。荷造りはどうした。
いや、でも、毛。
毛さえなければけっこういけるのではないか? いまとなってはなんでそんな風に考えたのかわからない。元からそんなにストッキングが好きだったわけでもない。女の足もそこまで好きではない。乳、顔、尻に勝るものなんかあるわけないだろボケ。
しかし気がついてみればいつのまにか、風呂場で泡まみれの足をシェーバーでさすっているのだった。毛、長。グロ。泡に毛がからめとられている。見ているだけでおぞましい。黒く変色しつつあるように見える泡をシャワーで流すと、自分でもドン引きするくらい、真っ白い脚が現れた。
「俺の肌、白すぎ……」
それはそうである、日中ほとんど日に晒されず、白いままの脚。そして細い。
いや待て、これは
「いけるんちゃうか?」
太ももから股にかけての毛も念入りに処理し、ついでに無駄な陰毛も剃った。玉の毛は構造上処理しにくく、挟まって痛いので、下腹の毛だけ。念には念を、と、足の親指の毛を剃り、シェーバーをすすぎ、風呂場を後にする。ここまでやったんだから、もう履くしかないだろ。荷造り? 知るか。洗い立ての清潔な白いタオルで水気を拭きとった足は、瑞々しく白く輝いていた。ごつごつしたつま先をストッキングにねじ込んでいく。毛を剃った足は思った以上に敏感で、ストッキングとこすれる感触がどうにも気持ち悪い。
シュシュのように丸めたストッキングを、くるくると膝まで巻き上げる。ぴとり、と肌に貼りついたグレーの膜が、光を反射して光をまとったように見えた。
「うっわ、なんやこれ、めっちゃエロい」
エロい。その辺の女の脚よりよっぽど綺麗やんけ。は?
俺は冬用のタンスから、厚手のウールのコートを取り出し、ボクサーの上にストッキングを履いた下半身を隠すように羽織った。ソファに腰かけ、下から煽るようなアングルで、脚をメインに撮影する。コートはちょうど膝上の丈だった。足を軽く組み直しながら、ベストアングルを探る。
「え、まじで?」
仕上がった画像を眺めながら思う。
これ俺? ほんまに?
「どエロいんやけどなにこれ」
ぐぅシコ、奇跡やん、こんなん地上に舞い降りた奇跡やん。は???
*******
「誰かいる~?」
「夜更かししちゃったwww 明日バイトだるーい」
「あ~ひま! LINEちょーだい♡」
「誰かいませんか~」
*********
時間を空けて連投して、さっきのストッキング画像を投下した。自撮りについてそうなタグを何個かつけた。俺、なんでこんなことしてるんだ? いや片付け。エリちゃん♡ じゃなくてさ。誰やねんエリって。
SNSのアカウントを新規取得してネカマとして活動? なんのために? もうほんまあかんやろ、迷走しすぎ。片付けはそら苦痛やけどさ。けど。現実逃避にも限度あるやん。超えたらあかんラインがあるやろ。
もう寝よ。俺はストッキングを脱ぎ捨てて、マットレスに体を横たえる。解放感が心地いい。投げ出した足が、やけにつるつるで、笑えた。空気が直に当たる感じが、何とも言えず気持ち悪い。
************
漫画家のアシスタントを辞めたのが、先月だ。年々、画力は確かに上がっていく、作業効率も、でも、俺には面白い漫画を考えることができない。漫画家になりたくてつなぎのつもりで始めた仕事だった。なのにいつしか、周りの人が体を壊して辞めて行ったり、せっかくデビューしたあと鳴かず飛ばずだったのを見て、すっかり気持ちが折れてしまった。
ネットで個人のアイコンやデザイン絵、背景絵なんかを受注して細々と食いつないでいる。でも俺の絵には魅力がない。下手じゃない、パースの正しい絵が描ける、それだけ。俺にしか描けない、という類の絵ではないのだ。俺くらい描ける人なんか、世の中にはいくらでもいるのだった。
アシスタントの仕事を辞めたからには、家賃・物価の高い東京で暮らしている意味なんかない。地方で何か仕事を探そう。そう思って物件を探した。築四十年の物件をリフォームしたのが安かったから、そこで暮らそうと思う。引っ越しが落ち着いたら、ハロワに行って、なにか人と関わる仕事を探そう。
誰にも顧みられない漫画を描き続けるより、多くの人と関わって、少しでも人の役に立ちたい。
*********
朝起きると通知が溜まっていた。いいねとコメント、DM。
「エロい」
「かわいいね、身長なんせんち?」
「美脚~、脚なが」
「なんてアプリで加工してるんですかw」
誉め言葉と、誉め言葉に見せかけたディス、そして。
そしてちんこ。ちんこの画像。
「いや、いらんわ」
呟いて俺は画面を落とした。他人のちんこなんか見て嬉しいか?
でもあの脚の画像、いいねがけっこうついてたな。三十くらい? 作ったばっかのアカウントで? 俺は無意識に自分の脛を撫でていた。つるつるしてて、まるで他人の脚みたいだ。剃刀の残した傷が目立つ白い脚は、いつもよりずっとひ弱に見えた。
剃刀の傷がどうにもヒリヒリ痛むので、元カノの置いて行ったニベア青缶を塗りたくり、いらんごみを捨てまくり、がらんどうになっていく部屋の真ん中で、コンビニおにぎりをむさぼり、彼女が残していったパジャマを着て、脚を撮ってはネットに上げ、
「おっぱい!」
「えりちゃんの顔が知りたいナー」
「仕事は何をしてるの? 昼間のおしごとかな?」
「3kでどう」
みたいなリプに絵文字で返事をし、
「死にたい。でもエリちゃんが生足見せてくれたら生きられる」
というリプに「うるせー生きろ」と返事をして、昨日から出しっぱなしのコートにくるまって寝た。マットレスは捨てたところだ。
目が覚めて一番に、元カノが置いて行った未開封のブラトップにタオルを詰め、男もののYシャツを羽織って鏡の前に立つ。男である。どう見ても。まず顔が男。肩幅が広くごつい。そして尻の薄さは隠しようがなかった。せっかく剃った毛もすでにちょっと伸びて、ちくちくする。いくら鏡の前で腰をくねらそうと、ダメだった。キモイ。
どことなく、鏡の中の現実の自分に愕然としている。「かわいい」「きれい」と言われることで、いつの間にか自分が「可愛く在ろう」とか「綺麗でいよう」と志向している。ぞっとした。
不用品をまとめて、友達の車に載せてもらって売りに行く。二束三文だった。引き取ってもらえるだけありがたい。帰りに少し飲んで、解散した。車のお礼のつもりで、友達の分の飲み代も出した。結局出ていく金の方が多い。
家に帰って風呂に入ってから、リクエストの着ていたはんぺんを素足で揉みしだく動画も上げた。画質を落としているので、男の脚だとはバレないだろ。っていうかなんではんぺん? 食べ物粗末にしたらあかんやん。とんだ変態かよ。氏ね。
まぁでもなんか、喜んでるみたいだし、よかった……。
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地方に戻る前に、東京のデパコスを買い漁った。カウンターのおねーさんに、「カバー力のある下地ください。髭剃り跡とか隠せるような」
と言ったらなんとかしてくれた。お姉さんの言っていることはよくわからなかったが、とりあえず見せてくれた技は忘れないようにしたい。
実はこういう活動をしているんですが、女装ははじめてなんです。と画像を見せると、お姉さんは俺の脚に感動したということで、色々教えてくれた。「ぶっちゃけ写真のフィルターでどうとでもなりますよ」と詐欺写の撮り方も教えてくれた。俺のアカウントもフォローしてくれたらしい。お姉さんの裏垢らしきものから、いつも即座にふぁぼがつく。俺が言うのもなんだが、この人いつ寝てるんだ?
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引っ越しには意外とカネがかかる。不用品を処分するだけでも、費用が必要なのだ。しんどい。肉体的にも、精神的にも、ふところも、しんどい。
「冷蔵庫こわれた💦 いなかで冷蔵庫なしの暮らしはつらい😧」
エリちゃんの垢で投稿すると、誰か誰かが投げ銭を恵んでくれた。俺と違ってエリには人徳がある。俺と違ってってなんだよ、エリは俺なのに。
最近エリは脚だけでなく胸のアップや加工した顔を投稿するようになった。顔を晒すとフォロワーが一気に増えた。「可愛い!」「癒されます♡」「なんでそんなに綺麗なのw」三十路のおっさんによく言えるよな。って笑ってしまう自分と、投稿してすぐ誉め言葉を見つけられないと不安になる自分がいる。こんなの所詮、メイクと加工技術のたまものなのだ。イラストの仕事をしているのと変わらない。
もやもやする気持ちを抱えたまま、東京を離れた。
地方の空き家をリフォームしたという家は、広々していて、持て余すくらいだった。がらんとした家の中で、荷解きもほどほどに、さっそく化粧を直す俺がいる。いや、地方でこんな格好をしているのを人に見られたらさすがにやばいと思う。石でも投げられるかもな。
しかしこんな簡単に加工できたら、写真屋なんかいらないんじゃないか。トーンアップ、リタッチ、サイズダウンも、アップも思いのまま。エリのアカウントのメディア欄を見て、女装を見抜く人はいないんじゃないかと思った。
女装テクが洗練されていくにともなって増えていくちんこ画像。シコい自撮りをあげると絶対ひとりはちんこを送ってくる。勃起した、という報告だろうか。当初面白がって作った、ちん☆こと名付けた画像フォルダは他人のちんこ画像でいっぱいだった。巨根自慢のあとに連投された、俺のサイズよりも小さいちんこ、「俺の、ちょっと変みたいなんだよね。エリちゃんどう思う?」相談を装って晒されたちんこ。寝起きのちんこ、街中で取り出されたちんこ。右曲がり、左曲がり、ストレート、しわあり、しわなし、包茎、仮性包茎、皮膚が分厚いのか、もったりした質感の物もあれば、粘膜、という質感のものもあった。もはやちんこがゲシュタルト崩壊寸前だ。俺のキャラも迷走していた。
「い~っぱいヌいてね♡♡♡」
「踏みつけられてぇのかクソが。汚ねぇちんこしまえ、カス」
「もう😡 エリ恥ずかしくなっちゃう! バカ♡」
「ちいさい」
「ちゃんとしまってて。でないともうお話してあげないから♡」
どいつにどのテンションで送りつけたか覚えてないから、まじで困る。めんどくさいときは「は?」ですませることもあるし、普通の男はそれ以上リアクションしてこない。時間があるときは、ちんこを褒めたり、気をもたせるようなコメントを伝えることもある。たぶん人生でこんなに見知らぬ人とやりとりをしたのは初めてだ。しかも相手は俺に性的関心を持っている。
嬉しさよりも、困惑とか、気持ち悪さが先立った。そのあと、憐れみというか、共感が沸いてきた。俺もモテない。女からモテたためしがない。遊んでんだろうな、という男たちのアプローチは、相手に断らせる余裕があるというか、相手を引っ張る仕掛けが豊富だった。でも、俺と同じようなモテない人間からのアプローチには、「絶対に、今、この相手とヤる」という必死さ、そして悲壮感があった。
悲しくなってフォルダを閉じる。平均より小さいサイズなのに、大きいと言い張る人間。一般的な見た目をしているのに、自分の性器がグロテスクで他人に受け入れられるものではない、と信じている人間。
やりたいって言うか、存在を認められたいんだろう。たぶん。
ごめんな、俺おっさんなんだよ。
お前らが思ってるような、若い女じゃなくて。
たまにエリに対して攻撃的な意見が寄せられることもある。だいたい女からだ。
「タグ荒らすのやめてくんない?」
「ブスがちょっと褒められると、脱ぎ方に際限なくて草」
「褒められなれてないんだろーね」
「媚びすぎ痛い」
「ってかおばさんでしょ、服のセンスやば」
「部屋殺風景すぎ。金ないの?」
そういう女たちのアカウントを覗きに行くと、「あー、これが生身の女か」とうちひしがれる。彼女らのアカウントは、あくまで同性に見せるもので、俺の自撮りとは意味がまったく違った。プールサイドで流行のスイーツを食べる。友達と高いカフェに行く。彼氏とお揃いのサングラス。ストーリーにあがった記念日のフラッシュモブ。小物の選び方、映り込むアクセサリー、彼氏の顔とか、時計とか、アピールポイントを熟知した構図。俺がなんで他人のちんこばっか見ることになるのか、わかった気がする。
要はたぶん、男からも女からも、舐められてる。
***********
引っ越して三か月が経った。俺はネットの人たちからの施しで、職を探さなくてもそれなりに食いつないでいた。女装のための衣服の選び方にも慣れた。けれども自尊心がメキメキ削られていく気がする。心ないやりとりがかさんで、病んでいたのかもしれない。本心では自撮りを止めたい。でも収入に直結しているから、止められない。
そんなときDMを送ってくれたのが直樹だった。
いつも自撮りをあげると真っ先にいいねを押してくれるアカウントのひとつだった。直樹はモデルの夢を追うか、実家の酒屋を継ぐかで迷っている、という話をしだした。俺はつい数か月前までの自分の暮らしを思い出して、口の中に苦い味が広がるのを感じた。複雑な感情が手伝って、やりとりが長く続いたのだと思う。
こいつになら性別を打ち明けてもいい気がした。
「エリさんっていくつですか」
「それ聞く?w」
「俺もう二十七なんですよ」
「崖っぷちですよね」
「そんなことないでしょw」
「諦めた方がいいと思ってる」
「親父も弱ってるみたいだし」
「いいの? ほんとにそれで」
「いや、だって」
「ちゃんと自分で考えて決めな」
しばらく連絡が途切れて心配していたが、何日か後に、
「……もう少し頑張りたい。」
とだけ返事が来た。
そのやりとりのあと、直樹の態度が変わってきた。しきりに会いたいと言われるようになった。俺けっこういい顔してると思うんですよね。とかって自撮りを送ってきたりする。お前だけはそういうことしないと思ってたのに。
ますます性別が打ち明けづらくなる。地方在住だから無理。と断り続けていると、会わなくてもてもいいから付き合って下さい。と言われた。冷静に、考え直すように何度も説得した。けれども、俺が必死に断れば断るほど、直樹が意地になるのが分かる。
「いや、あたし今年もう三十二だよ?」
「俺二十七だし、ちょうどいいですね」
なんだその返し、お前は乙女ゲーのライターか?
だって、俺、男だし、と打とうとして、指がとまる。
直樹はエリに充てられた理不尽なリプの数々を相談できる、数少ない相手だった。もしカムアウトして返事が来なくなったら? そのことを想像して俺はためらっている。気持ち悪いとか、思われたくない。
*********
しばらくやりとりを続けていたけど、もう限界だった。耐えられない。今日こそ正直に言う。ここのところ毎日そんな決意をしていた。今日こそ、明日こそ。本当のことを、言う。とうとうある夜、俺は震える指で文字を打った。
「おまえの気持ちはありがたい」
「でも」
「まだ言ってないことがあって」
「?」
「俺、男」
未加工の。メイクをしていない自撮りをあげる。おっさん丸出しの。眉を処理しすぎて、痛い感じの、俺の顔。色むらも、毛穴も、髭剃り跡も、そのままの顔。
「ごめんな、黙ってて」
「女っておもわれてる方が、人
に頼りやすくて」
「簡単に褒めてもらえるのも、居
心地よくて」
「言い出せなかった」
「騙すつもりはなかった」
「ごめん」
返事はすぐにこなかった。俺は目を閉じる。スマホの画面を落とす。怒っている、憐れんでいる、呆れている、気持ち悪さをかみしめる。色んなリアクションを想像して、こらえきれなくなって、電源を切った。寝た。
それからしばらくエリのアカウントにログインできなかった。SNSでの沈黙は死に似ている。このまま誰からも忘れ去られたかった。あれから女装もしていない。衣装ケースに化粧品やウィッグ、衣類を全て詰め込んで、かび臭い押し入れに詰め込んでしまった。それらの品に触れているだけで、胸がずく、と痛む。
べつに、男をだまくらかして楽に生きよう、と明確な目的を持って女装を始めたわけではなかった。ただ、認めてほしかった。俺が感じていることを、画面の向こうの人たちも感じていることを、実感したかった。他人の反応を通してしか味わえない実感がある。他人の目を通してしか確かめられない事実がある。美しいとか、かわいいとか、つまりそういう主観的な評価。
鏡の中を覗き込む自分の顔は完全に男だった。肌のきめ、硬い髪、隠しきれない髭剃り跡、皮脂の浮いた額。こんな風ではない。思う自分と、以前からこうだった。と思う自分とで、完全に分裂してしまっている。なんで俺、化粧をしていないんだろう。
押入れの方に目をやる。あそこを開ければ、俺はまた元の姿に戻れる。
元の姿? 元のってなんだ。元の、って言うなら今の姿の方がよっぽど正しい。
これがお前だ。俺だ。そう言い聞かせる。けれども体は勝手に、シェービングクリームを顎に塗りたくり、シェーバーを滑らす。ひげをそり落とし、眉を整え、化粧水とクリームを塗りこむ。もう一度俺は押入れのある方を見た。
ウィッグを身に着け、スカートに足を通し、ストッキングを履く。新調したピアスを耳につけると、男の俺と目が合う。色とりどりの下地を塗りこみ、粉を叩いて、眉を描き、陰影を描く。アイラインをぼかし、目じりにつけまつげをつけ、コンシーラーに重ねたリップバームの上から、色味を押さえたリップティントをなじませる。最後に軽くチークを叩いた。ベージュの上に軽くピンクを乗せる。
よかった、いつもの俺だ。
ピアスを目立たせる写真を撮り「買っちゃった♡」というコメントとともに投稿する。DMが溜まっていた。このなかにはきっと直樹からのDMもあるのだと思う。開く勇気が出ない。そもそも、あいつが他の人間に、俺が男だということを話していない保証はない。画面の向こうの人たちに、とっくに俺の性別がばれているかもしれないのだ。
「エリちゃん久しぶり~!」
「心配してたんだよ」
「今日も可愛い☺」
寄せられるリアクションに特に変化はなかった。以前と変わらないように思える。バレてない? すっぴんを晒されててもおかしくないと思っていた。
「心配してましたよ」
視界に飛び込んできたのは、直樹のアカウントからのリプだった。
「急に音信不通になるから」
「ごめん」
俺は即座に返信を打つ。送信してから、しまった、と思った。俺はまだあいつからの返事も見ていないのに。すぐDMが来た。
「なんか気、使わせちゃいましたね。ごめん」
「男だとは思わなかった」
「でも確かに、言われてみればw」
「そうだったんだ」
「でも、なんだろ」
「エリさんみたいな、女の人が」
「現実にいてくれたらなって。」
「その気持ちは、変わらないです」
溜まっていたDMが目に入ってくる。俺はわけもわからず胸を掻きむしりたくなる。一番新しいメッセージはこうだった。
「おかえりなさい」
視界が歪む。なんでこんなに良い奴なんだろう。意味がわからない。こんな良い奴が、良い人間が、俺みたいなクズに振られてる。あほか? あほなんか?
百回くらい書き直して、やっとの思いでこれだけ打った。
「ただいま」
*********
直樹にはこれ以上隠し事をしたくなかったから、俺の現状をあるがまま話した。今までの暮らしと、今の暮らしぶり。
「え? 漫画描いてたなら、女装のこと漫画にしたらいいのに」
直樹はそう言うけど、女装のことなんか需要ある?
「俺、ちょっと興味あるんですよね。女装。正直晴斗さんより男前なんで。ポテンシャル高いと思いますよ」
「言うやん。ほなちょっとやってみてよ」
直樹が送ってきた画像を見て愕然とした。
メイクが下手。
素材の良さが完全に死んでる。
っていうか男として顔面が良いことと、女装が似合うのはまた別の方向性なのかもしれん。なんていうか普通にブスだった。
「ああ、もうだめ!全然ダメ! なってない!もっと下地で顔の色を殺せ!」
俺は光と色の三原色を説明したが、直樹が理解しているかは謎だった。そうか、絵を描かない人間に顔面に筆を執ることは死ぬほど難しいことだったんだな。今まで俺は、自覚してなかったけど、かなり得をしていたわけだ。クリスタやイラレをぐりぐり触ったり、生原稿にポスカを乗せる作業、あれかなり修正とかメイクに近かったんだよな。
「光をトばすんだよ、顔面でハレーションを起こせ。影は描け。あとお前の輪郭意外と男くせぇな! ウィッグで隠すぞ」
直樹はアイラインをひくのがド下手だ。くっそ、貸せ、ってつい言ってしまった。相手はいまどこにいるかもわからないのに。
「そこまで言うならエリさんやってくださいよ!」
「俺は晴斗!」
「今度の週末空いてます? 俺そっち行きます。メイクとか服の用意よろ」
よろってお前。
は?
**************
まじで来た。こんな辺境の地に、ほんまに来んの? って思ってたけど、来た。
ヘアバンドで顔周りの毛をすっきり上げて、「よろしくお願いします!」って頭下げられたらもうどうしようもなくない? 受け入いれるしかない。家に招き入れ、来客用のグラスなんかないから、500㎖のペットボトルをそのまま出した。
「本題の女装の方なんですけど、」
と直樹が言うので、仕方なく机の上にメイク道具一式を広げる。うわ、という声が聞こえた。
「まず地の色を殺すために、コントロールカラーを叩く。髭剃り跡とか赤みはここで潰す」
「光の反射が均一にならなくなるよう、下地にそもそもムラを作る」
「粉で光を散乱させる」
「シェーディング。筆先で違う色味の粉を含ませて、削りたいところに叩く。鼻筋とか描くのもいいけど、お前の場合彫りが深いからあんまり強調しすぎないほうがいい」
「眉パウダー。ぼかすように馴染ませる。さすがに眉毛は綺麗にしてんな。でも女装するならもうちょい柔らかい印象にすべきだと思うけど。まぁ仕事に響かない程度に触るか」
「チーク入れるぞ。男の俺らが女と同じ位置に入れると死ぬ。頬骨の位置が違うからな。鋭角に、頬骨のへこみを修正するイメージで耳元に向かってすっと引く。粉を落としたブラシで境界をぼかす。血色を足したいとこにも、チークを軽く伸ばしていく。影と皮膚の境目とかに赤みを入れると自然」
「ほら、一気に女っぽくなった」
緊張していたのか、黙っていた直樹も、
「なんか工事みたいですね。ウケる」
とやっと笑った。
「まだ目が残ってる」
工事の最大の山場だ。
直樹の目は綺麗な形をしていた。でもそれが女っぽいかと言われると、微妙だ。黒いアイライナーで、控えめなキャットアイのラインを引いた。さすがイケメン、まつげが長くて多い。目尻に部分用つけまつげを足して、マスカラで下まつ毛を伸ばした。コーラルピンクで下地を作った唇の中央に、つやっぽい赤リップを乗せて縁にむかってぼかせば完成だった。
最後に黒髪ロングのウィッグをかぶせた。強い女メーカーででてくるやつみたいになった。けっこうできがいいと思う。直樹が着てきた白Tとジーンズに似合っている。
「これ、エリさんの好みっすか?」
直樹がウィッグの先を持てあそびながら言う。
「買ったんやけど似合わんくて。もったいないからお前に着せる」
「そうじゃなくて、こういう女が好み?」
「え? どやろ。でも確かに、元カノの髪の毛、けっこう暗めのトーンやったな。基本苦手やねん、茶髪の女」
「へー、じゃあエリさん。自分が苦手な女のコスプレしてるんですね。」
「え?」
え? 気になることを言われた気がする。言葉の真意を尋ねる前に、直樹は撮影をねだった。
「俺事務所辞めたんすよ」
直樹は俺のスマホのレンズを見つめながら言う。撮られ慣れているのか、カメラを向けても堂々としている。でもポージングの方向性は女装とは真逆だった。もっと肩いれろ、体を傾けろ。と言いたいのを抑えて、呟く。
「は? ほんまにそれでええんか?」
「はい。もう悔いはないっす」
「え、でもなんで。」
「俺やっぱ、向いてないなって」
一緒に写りません? エリさんも女装、してくださいよ。と直樹が言う。俺はしぶしぶ、直樹の前でメイクを始めた。
「やっぱ手馴れてますね」
「そら、まぁ。こないだは悪かったな。すっぴんの画像いきなり送り付けられて、引いたやろ。お前は俺のこと女やと思ってたわけやし……」
「エリさん化粧映えする顔ですよね、俺、元がいいから」
「殺すぞ」
これだからイケメンは、死ね。
口の中で呪詛を呟きながら、俺は顔に化粧品を塗りたくっていく。
直樹はぼーっとそれを眺めていたが、ふと思い出したように、机の上に広げられた化粧品の一つを掴んで、俺に向き合った。
「こういう絵面、ぜったい映えると思いません?」
直樹は言って、顎を掴んで強引に自分の方へ向かせた。左手に俺の顎、右手にリップスティック。
女装したイケメンが俺の唇にリップを塗る。
「やめろへたくそ」
こういうのは順番があんだよ。くそが。呟きながら俺はティッシュで口紅をぬぐいとる。直樹は呆気にとられた様子で、俺がメイクを直すのを見ていた。今となっては、俺はその辺の女よりも化粧がうまいかもしれない。
「口紅塗りっこしましょう」
直樹が俺の目を見て言った。
「は?」
「一昔前のアイドルグループのMVを思い出してください」
「なんとか坂とかの?」
「時代は百合です」
「は?」
「ホモ百合動画の先駆けを撮りましょう俺たちならできる」
「だから、は? なに言ってんの? 死ね」
「この家を拠点に、動画を配信しましょう」
「全世界に、変態プレイを配信すんの?」
「いやだから、百合です。さっきから言ってるじゃないですか」
「百合って、これ、女装やし。そもそもお前才能ないよ、体ごついし。モデルってやっぱ線が男っぽいんよな」
「それでいいんですよ、一目見て男ってバレるくらいの女装が萌えると思う」
「は?」
ちょっと何言ってるかよくわからなかった。
あほなのか? こいつ。日本語喋ってる? 喋れてる?
しかし直樹の言っていたことは意外と正しかった。照明を落とした部屋の中で、さしこんでくる西日と一緒に撮影した、俺たちが互いの顔に化粧を施している動画は、今までで一番のエンゲージメントを獲得した。俺はさすがに怖くなり、聞いた。
「元モデルがこんなことしてええの」
「まぁ大丈夫でしょw」
直樹は笑っていたが、本当に大丈夫なんだろうか。
その日直樹は帰らなかった。うちに泊まると言って、ソファの上で寝た。
********
俺単体の画像より、確かに二人で写っている動画のほうが受けが良い。俺はじっとスマホの画面を見詰めている。動画の加工は二次元よりも難しいから、クオリティの劣る女装ふたりがAKBみたいにべたべたしている動画。なのに、拡散スピードがいつもとは比べ物にらない。おもろい? お前らほんまにおもろい思ていいねしてるんか? なんかゲテモノを食わされとるときの気持ちでポチーて押してるん違うか?
女装製造途中の動画やテクニック漫画をあげたせいで、俺の性別は明らかになってしまったわけだが、そのせいで女装の悩みが寄せられるようになった。正確には女装を志す男性の悩みが。
ひげが濃い、とか言われても、俺自身は元から薄い方だったから、なんて答えていいかわからない。ちんこより困る。なにせ相手は真面目で、しかも切羽詰まっているのだ。他の誰にも相談できないけど、俺になら、と言う気持ちが透けて見えて、邪見になどできない。
なぜか一向に帰る気配のない直樹に相談すると、貸してみろ、と言って俺の代わりに返信を考えてくれた。いつのまにか同棲のようになっている。直樹は愛想がよく、誰にでも親しい文面を考えることができた。セクハラをやりすごすのもうまい。前の仕事で慣れているのだろうか。
そうこうしているうちに、女装を手伝ってくれという人間が増えはじめ、俺は出張で女装メイクやコーディネートを承るようになった。客兼ファンと、女装オフ会とかもやる。そのときに決まって聞かれるのが、直樹との関係だった。
いや、なんつうの? いいお友達? ビジネス百合? 笑ってごまかしていたら、なんでか女装男子からばっかりアプローチされるようになった。完全に直樹のせいだと思う。男同士でも行ける、という共通認識がなされてしまったというか、キス動画とかあげさせられたせいだと思った。なんていうかなー、一人の時はそうでもなかったのに、相手がいることで一気に、ポルノ臭が増すって言うかなー。変なDMも増えたし。俺は前の方が楽しかった。純粋に女装って感じで。俺のこと、女だって信じてた人たちも一部では居たみたいだし。って言うと直樹は、
「付き合ってるってことにしといてくれていいですよ」
そう言って爽やかに笑った。
「そういうことじゃなくてさ」
「エリさんのこと自体は好きだったし。別にいいかな」
「や、でも、エリは俺なんだよ」
「知ってますよ」
「や、だから」
「俺、ヒモの才能あると思うんです。エリさんの漫画の才能で俺を養ってください」
「はぁ?」
話が通じていない感じになったので、その話はそこまでになった。まぁでも直樹の言う通り、女装エッセイ漫画は好評で、月に二十万以上の固定の売り上げがある。多い月で五十万くらい。普通に人ひとりくらい養える気がしてきた。めんどくさいファンとの交流とか、俺が苦手なことは直樹がやってくれるし、細かい金の勘定とか、重い荷物の運搬とか、色々役に立ってくれている。地方に行くときには運転や送り迎えもしてくれる。たぶん、俺たちはうまくやっていた。
でもなんていうのかな、周りの人間から、つきあってる、みたいな扱いを受ける、というか、そういう関係を期待されているというのが、ときどきたまらなくしんどくなる。俺は別に、誰かの期待に応えるために、生きているわけではないから。
「お前実家の酒屋はどうなったん」
ラーメンを食い終わったどんぶりを洗う直樹の背中に問いかける。
「うーん、親父、がん治療克服したみたいで、当分死なないかも」
「つっても、色々不安やろ。帰ったら、喜ばれるんちゃうん」
「俺もそう思ってたんですけどね、そうでもないみたで」
直樹は敬語を崩さない。そういう律儀なところは、嫌いではない。俺は家主だし、五つも年上だ。
「なんか親父ね、歌手になりたかったんですって。けっこういい線いってたみたいですよ。俺の顔見たらわかると思うけど、見た目だけはそこそこよかったみたいだし。でも結局、造り酒屋を継ぐことになって、夢を諦めたから、息子の俺には好きなことさせてやりたいつって」
でもなー、と直樹は腰に手をやり、体を伸ばすしぐさをした。
「俺、やりたいことって、ないんですよ。モデルも、周りから向いてるって言われて、そうかなって思って、やってみたんですけど、なんかダメだったし。だから、晴斗さんみたいな、特殊技能? みたいなのがある人、うらやましい」
俺は晴斗さんみたいな、やりたいことがある人を、支える人生を送ろうって、思ったことが、あるんです。 と直樹は言った。
「やりたいことって、女装は別にやりたいことちゃうし」
「でも向いてますよ。晴斗さんにしかできないこと、って感じがします。俺はね、色々やってみてわかったんですけど、ほんとうになんにも取り柄がない。何でもできるけど、でもそれはなにもできないのと同じなんです。俺以上にできる人なんか世の中にいくらでもいて、俺みたいな中途半端な人間に出番が周ってくるのなんか待ってたら、人生が終わっちゃいますよ。
背が高くて、でも運動がそれほど得意なわけでも無くて、ガタイは良いけど、体は強くない。喘息とかアレルギー持ちだし。顔がちょっときれいってだけで、確かに女の子は寄ってくるけど、でも誰も結婚して、とは言わないんですよ。将来性がないって、看破されてんですよね。それに俺より男前なんか、いくらでもいる。これはほんとに。晴斗さんはメイクもうまいし、華奢だし、可愛いって言ってくれるファンがたくさんいる」
「ふざけんな、女装褒められても嬉しくもなんもねーわ。ファンっても別に、誰も俺の人生の責任なんかとってくれへん。化粧褒められてもなんも得せぇへん」
「そんなことないでしょ。女の子の前でそういうこと言ったら怒られますよ。メイクの腕も、センスも、自己演出の手段ですよ、実力のうちですよ」
「はぁ? 俺かてきれいな顔にうまれついてたほうがよかった。その方が得やろ、小さいころからずっと得できるやん、あほか」
直樹はちょっと笑った。
「晴斗さんは別に男前でもない、背も低い、けど飛びぬけて器用で、面白みがあって、漫画も面白いし、人気だってある。リプのやり取りも面白いって、みんなけっこうエリちゃんのこと好きじゃないですか。男ってわかってても、女の子扱いしてくる、紳士なファンがいっぱいいる。俺思ったんですよ。仕事してるとき、体べとべと触られたりして、ああいうのってこっちが無名で、しかも一生浮き上がってくる気配がないから、結局舐められてんですよね。圧倒的弱者って感じ。俺なんもできない、この年までなんにもできないままだった」
なに言うてんねん、こいつ、と思ってムッとした。それからややおいて、心の中に黒いもやもやが沸き起こってくる。心臓を飛び出して、口からあふれそうだ。
「俺かって、俺かて漫画で成功したかったわ。有名雑誌に連載して、自分の絵で、ストーリーで、認められたかった。でも無理やった。俺より書ける若い人間がなんぼでもいてる。体もそんな強ない。腰かってもう、無理やった、限界やった。俺がもっと絵が上手かったら、発想力があったら、体力があって、体が強かったら。そんなん毎日思ってるわ、女装なんかただの現実逃避じゃ。悪いかボケ」
俺は机の上に出しっぱなしだったメイク道具を全て払いのけた。粉が飛び散って、プラスチックケースから飛び出たブラシが床の上を転がる。マスカラが直樹の足元の方へ転がってった。洗い物の手を止めた直樹が、マスカラを拾い上げる。
直樹がゆっくりとこちらを見た。目が合う前に、俺は立ち上がって、タンスの上の現金をポケットにねじこみ、家を出た。
外に出ると、風が冷たかった。秋の訪れを感じさせる気配に一瞬足がすくむ。このまま戻って上着を取ってこようか。でも直樹と顔を合わせるのは嫌だった。家の軒先に、中古で買ったワンボックスが停まっている。俺は免許を持っていない。直樹の車だ。
当てもなく歩き始めて、家の周りが思いのほか暗いことに気付いた。街灯が少ない。「ほんまなんもないねんな、この辺」静かなことはいいことだ、と思っていたけど、静か過ぎるのも考え物だ。ちょっと立ち寄るような商業施設もないのだ。ガソリンスタンドなんかあったって、給油には便利やけど、なんにもならへん。
家を出て十分で、帰ろうかな、と思った。農道をいくら歩いても同じことだ。
けれども帰るのも憂鬱だった。どんな顔をすればいいかわからない。誰もいないところで、でも誰かが働いているようなところで、少し時間を潰したい。しばらくぶらぶら歩いて、国道近くのコンビニに行こう、と思い立った。
風が冷たい。特に山の方から吹き下ろす、冷たく乾いた風が、室内に慣れた、甘やかされた体に辛い。どうしたってみじめだった。背後から、車のライトが迫ってくる。振り返ると、直樹の車だった。俺は前に向き直る。
「乗ってください、あんたの家だし、俺が出ていきます」
「いや、ええわ。歩きたいねん」
「寒いでしょ」
直樹が車の窓を開けて、レザージャケットを投げてよこした。
「別に、いらん」
俺が歩くそばを、直樹の車がとろとろついてくる。これじゃひとりになれない。
「出ていくって、本気?」
「まぁ。押しかけて悪かったな、とは思ってたんで」
「あ、そう」
会話が途切れる。低い排気音、田んぼの虫の声。
………。……。
「荷物もあるし、別に今すぐでなくても」
俺の呟いた声は、聞き取れるギリギリのボリュームだった。直樹は努めて明るく言う。たぶん、俺に気を遣っているのだ。
「あー、荷物は新しい住所決まったら教えるから、送ってください」
「お前ほんまに実家帰んの?」
「どうしようかなぁ」
「……やっぱ寒なってきた。帰るわ。乗せて」
そう言って助手席に乗りこむ。車内ではしばらくふたりとも無言だった。
「飲みます?」
車の中に乗ると、直樹が保温ポットを手渡してきた。中には、お湯で溶かすタイプのミルクティーが入っている。湯気が立っていた。
「ありがと」
指先が冷たい。知らない間に秋が深まっている。
家には八分ほどで着いた。直樹が入ろうかどうか迷っているようだったので、上がれや、と声をかけた。ほっとしたような、困ったような顔をして、車から降りてくる。
「ごめん。俺、漫画のことよく知らないで、偉そうなことを言ったなって、思って、あの、晴斗さんがそういう風に思ってると思わなかった」
「うん。俺が描きたいストーリー漫画と、今描いてるみたいなエッセイ漫画は別やねん。なんか私生活売って食べてるって、水商売みたいで落ち着かへんことない?」
「そうですかね? 晴斗さんにしかできない暮らしをして、それを自分で漫画にして、他の人に役立てる形にしてるんだから、すごいことだと思いますけど」
直樹はそう言って、また口ごもった。クリエーター信仰というか、直樹には変なコンプレックスがある気がする。
「正直、最近は女装褒められても、最初みたいに喜ばれへんくなってきた」
「なんで?」
「俺の自撮りを見て、こういう女装がしたかった、って言ってくれる人がいるのは嬉しいけど、でもさぁ……」
でも……なんか違うんだよな。俺がやりたかったのはこういうことじゃない。違うねん。色んな人に見てもらって、フォロワーも増えたし、なんだかんだ収入にもつながってて、仕事がないよりはありがたいことなんやけど。ムカつくこととか、傷つくことも言われるし、いや、それだけじゃなくて、わからへん、俺甘えてるんやろか。自分の能力を過信しすぎてるんかも知れへん。
俺は直樹の前でパソコンを広げた。
「これ、俺が自撮り始めた頃にもらった画像やねんけど、直樹がさっき言うてた、舐められてるって、あれ俺わかるで。DMのスクショとか見る?」
「うわ、露骨っすね」
「俺も悪いんかも知れへん。煽るような写真あげてたし」
「まぁ今もこういう輩はいますね」
「男二人で女装しながら生活してるとか、そういう人間には何を言うてもいいと思ってる人間がけっこういるっていう、その事実? がなんかけっこうしんどいし。普通じゃない生活を送っている人間は変態やからどういうふうに欲望をぶつけてもいいという、その思い込みがまずだるい。俺ら二人ができてる前提の妄想? も一つ一つ見ていくとしんどい。辞めたいねん」
「……すいません。半分くらい俺のせいかもしれない」
「ちゃうちゃう、お前とこういう風に暮らす前から、俺結構やばかってん。女装続けるか死ぬかみたいな。むしろお前が作業に参加してくれて、ずいぶん楽になった。そこは感謝してる。ありがとう」
めちゃくちゃ嫌やし、しんどいねんけど、やっぱやめられへんねん。なんでやろ。というと、直樹は、才能ってやつじゃないですか。って笑った。
風呂場に入って、剃刀を手にする。一日経過しただけで、脚の毛はもうチクチクしてくる。ひげもしかり。肌が傷むから、レーザー脱毛しようかな、とか考えて、慌てて否定する。そんなことしたら、ますます女装を辞められなくなるに決まっている。あほか。
俺は別に、男の自分が嫌いなわけでも、女になりたいわけでもなかった。ただ、女装している自分も嫌いではない。っていうかむしろ好きかもしれない。好きな格好をして、好きなポーズをとって、好きなところへ行きたい。
好きな格好して、好きな漫画描いて、それで食べていけるんだから、俺は幸せなのかもしれない。直樹の言う通りかもしれなかった。
水に濡れた自分の、傷だらけの脚を眺める。妙につるつるしていて、青白い、細い脚。細いのは多分筋肉がほとんどついていないからだろう。もとから筋肉がつきにくい体質なのかもしれない。ずっとコンプレックスだった。早くも走れない、少し蹴られただけで腫れ上がってしまう、弱い脚。サッカーボールで青あざを作ったの、あれ、いくつの時だったろうな。馬鹿にされて、笑われて、いつしか自分から笑いを取るようになって。でも、大嫌いだった。こんな脚。
ずっと大嫌いだったはずの自分の体が、ひとたびスカートをはいてしまうと不思議だった。ぞっとするほどきれいに思えた。164センチの身長も、男にしたら小さい。でも、女にすると理想的じゃないか?
それに俺の脚は膝下が長い。身長は低くても、写真映えする形をしてた。足を組む角度を少し変えただけで、本物の女の脚みたいに見える。手だって、指が長くて、肉付きが薄い手は、まるで少女漫画みたいだ。
アシスタントをしているときに、よく怒られた。俺の描く絵は、少年漫画向きじゃないって。だって仕方ない、自分の体を見ながら描くんだ。登場人物だって華奢になる。
体の水分を軽くぬぐって、全裸のまま玄関の姿見の前に立った。男らしくない。青白い肌の、辛気臭い顔をした男がじっとこっちを見ている。整え過ぎた眉、薄くて尖った鼻、薄情そうな目つき、古代の彫刻像の誰とも似ていない。大好きだった漫画の中の、誰とも似ていない。
今となっては化粧や加工をした自分の方が、真実の姿に近い気がする。素の自分の顔を見ると、奇妙な気分に襲われた。俺は鏡の表面にそっと触った。ふやけた指が触れた部分から、ガラスが曇っていく。自分の顔がぼやけていくのを、ただずっと眺めていた。
「なにしてんですか、風邪ひきますよ」
直樹の呆れたような声が聞こえる。俺には自分の顔がよく見えない。
〈了〉
あし 阿瀬みち @azemichi
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