牛を殴ると美味しくなる話

笑顔のTシャツ

牛を殴る朝は早い

 野菜にストレスをかけると甘くなるように、牛を殴れば味わい深くなる。小学生にも自慢できないような当たり前の常識が明らかになったのは、まだ元号が令和だったころだ。


 花子と目を合わせる。振りかぶる。その目は澄んでいる。早朝の冷え込みと眠気による倦怠、これから起きることへの受容。その目は裸の心を伝える。人のように覆い隠さず。

「ラアッッ!」腕を振り抜く。殴打で首が傾き、視線がそれる。俺は花子ををぎろりと睨み、コンクリートを大げさに踏みしめる。目を合わせる。俺とお前は繋がらなくてはならない。振りかぶる。花子の目には怒りも悲しみもなく、無関心さえその瞳に映る。

「ッダアアアッッ!!」拳を振り抜く。踏みしめた脚から拳へ、真っ直ぐに全体重を乗せる。グモゥと花子が小さく唸る。その目に苦悶がちらつく。そうでなくてはならない。俺は花子を苦しめなくてはならない。

 合わせる。振りかぶる。振り抜く。合わせる。振りかぶる。振り抜く。呼吸が噛み合い、リズミカルな殴打が適切なストレスを与える。過剰すぎず、微弱すぎず。最適な痛みを測るため、目と目を常に交わらせ俺は花子と一体となる。拳から痛みが伝わる。初めて殴った日のように、鳴き叫びうずくまることももうなくなった。大人になり全てを受け入れた。それでも常に新しい痛みを教えなくてはならない。角度を見極め、強さとタイミングに緩急を。一打ごとに伝わる痛みと慣れが、次の一打を教えてくれる。合わせる。振りかぶる。振り抜く。いつしか花子とともに俺も苦悶の声を上げる。滲み出てくる涙を涙腺に押し戻す。この目をぼやかしてはいけない。花子を、痛みを見据えろ。


 終わってみれば僅か一分ほどのことだ。俺は荒くなった息を整えながら、そっとつやつやの頬を撫でる。皮膚がわずかに傷んでる程度で目立つ怪我はない。またそっと撫でる。慈しみがなければ、牛を殴ることはできない。愛する子の名を柔らかく呼び、目を合わせる。花子は無関心そうに目をつぶりまどろみへ帰っていった。

十分に息が整わなくても、待っている間はない。あと42頭。半分も終わっていない。隣で始終を睨みつけていた太郎は、ぐるぐると唸り声を上げ抵抗するように頭を伏せる。

「ウラァッッ!」顎に掌底を放つ。衝撃で浮き上がった顔に、雄々しい戦意が浮かび上がった。


 日もすっかり出てきた頃、牛舎の掃除に取り掛かる。コンクリートの隙間に生えた雑草を引き抜き、後で捨てるよう端に放る。太郎との死闘が後のペースを遅らせてしまった。元々気難しかったが、この頃は抵抗が激しい。何の反応もなくなるより喜ばしいが、このままだとそうも言っていられない。同業の話を聞くと、抵抗されたら子供のうちに処分することも多いそうだ。ストレス負荷を人力から回転殴打マシンに置き換えるところもずいぶん増えた。痛みを知らない者が与える痛みで、何が育つというのだろう。何の慈しみが注げるのだろうか。

 ひとまずは太郎のケア時間を増やし、牛同士の関係も考えながら殴打の順番を組み直そう。掃除を済ませながら考えをまとめ牛舎を一旦離れる。ゆっくり朝食をとる時間はもうなさそうだ。


 忙しい朝はタピオカミルクティーに限る。俺は玄関横の大型水槽に腕を思いっきり突っ込む。5匹のキャッサバ達は目を白黒させ、慌てふためき逃げ惑う。岩の底を攫うとぷちぷちした粒がひとすくい。昨夜産卵したばかりの新鮮なタピオカだ。台所でそれを軽くすすぎ、立てかけていたグラスへ放る。近隣の酪農家から贈られた濃厚ミルクを注いで、冷蔵庫の麦茶を申し訳程度に加える。調理1分実食10秒の即席タピオカミルクティー(アイス)。時間がある日は妻が紅茶をじっくり蒸らして入れるものだが、正直大した違いも分からないからこれでいい。

 グラスからぐいとかっこむ。喉から鼻へミルクの香りが駆け抜け、タピオカの破裂する食感が脳に刺激をもたらす。子を育む母の愛と、無限の可能性を孕んだ生命そのもの。種こそ違えど、親と子という生の循環が体内で混じり合う。朝の疲労がみるみる回復し、筋肉は膨張して感覚は研ぎ澄まされる。隣室でつけっぱなしのテレビが、過激派ネオヴィーガンの肉フェス襲撃を報じる。更に耳を澄ませれば、遥か遠くを走る人々の足音まで聞こえてくる。

 大五次タピオカブーム真っ盛り。妻がキャッサバを飼うと言い出したときはとんだミーハーと笑ったが、おかげで身体はすこぶる快調である。温度調節やレイアウト、餌まで吟味し(俺には分からないと何度返しても)相談する妻の入れ込みよう。その愛が生命を成し、糧となる。

「過激派組織、『アルカロイド』は、肉フェス会場を国土とした独立を宣言しました。現在もDHO動物はおかず軍との戦闘が続いており──」

 舌打ち、床を踏みしめ苛立ちを抑える。タピオカがそうであるように、あらゆるブームは繰り返す。グルメも、ファッションも、思想も同じく。ネオヴィーガニズムが徐々に浸透し、畜産農家への襲撃も増えるばかりだ。半年前は同業の知人が狙われた。不快な音が徐々に強まる。飽きるほど連日続くニュースの声ではない。どこからか聞こえていた足音が、既にこの家に肉薄している。微塵も隠れる気のない、堂々たる音。先月忍び込んできた、タピオカテンバイヤーのようなコソ泥ではないだろう。


 足音が止まる。俺は玄関へ急ぐ。施錠はしていなかったが、確認すらせず戸を蹴破る相手だ。戸を開ければ、勢いよく飛び込む影が一つ。

「自由を奪った状態で殴るなんて!!!この俺が裁ばばぎゃぼぁっっ!!??」

腕を振り抜く。肉塊が玄関から吹っ飛び、庭先に体液を撒き散らす。葉緑体インプラントの真緑肌が真っ赤に色づく。ヴィーガニズム植物食主義を超え、人であることを辞めたネオヴィーガニズム植物同化主義。筋肉に力を込め、腕に絡まった蔓が弾け飛ぶ。樹皮や葉、ツタや枝で覆われる彼らも圧搾されればヒトとよく似ていた。

 正面を見据える。辺り一面に立ち広がるネオヴィーガンの樹林。今転がった樹肉は斥候か功に急いだのか。50本ほど広がるそれらが本隊だろう。ネオヴィーガンは集団で「狩り」をする。

 駆け出す。倒木を踏み越え樹林の方へ。機を伺っていたそれらは枝葉を激しく揺らし鋭い棘を向けた。陽光によって生き、あらゆる生命との共存を主張する新種達。それでも最低限必要だったいくつかの栄養素を、それらは食人によって補う。ヒトは生態系を外れ、命を一方的に搾取する侵略者だからという。掃討は自然を侵さぬという。ヒトでも獣でも植物でもなくなった、テクノロジーの化身がそう言い切る。どこが顔かも分からぬものらの言葉は、ただ不快な音として響いた。拳に力を込める。


 振りかぶる。振り抜く。ネオヴィーガンの樹皮が弾け飛び、血と肉と内臓がこぼれ落ちる。牛達の重量はおよそ700kg。並の刃物を通さぬ皮膚の厚み。彼らに痛みを与えるため、俺はその強靭さを超えなくてはならない。舞い散る落ち葉の全てを掴み取り、トラックのタイヤを体に縛りつけ荷台ごと牽引。あの子らを一頭ずつ背負いあげながらの牛舎掃除。筋肉増強剤。規則的な高栄養価の食事。タピオカに新鮮なミルク。レーシック手術。一日でも鍛え続けることを辞めれば、彼らはまともに応えてくれない。俺を古臭いと笑った同業の男は、半年前に血も肉もネオヴィーガンの養分となった。

 振りかぶる。振り抜く。枝という枝があらぬ方へ曲がり自らの幹に突き刺さる。昨日のニュースで大学教授が、牛を適度に殴ることでむしろ精神状態にメリハリを作るとコメントした。

 振りかぶる。振り抜く。全身を覆うツタとともに胴が引きちぎれる。牧場体験で牛を殴らせた同業が、非難を浴びて廃業した。

 振りかぶる。振り抜く。ぷっくり実った真っ赤な果実を潰すと、精魂尽き果て事切れる。屠殺場でピースしたアイドルを炎上から守るため、畑やステーキ屋、墓地や病院でのピース写真がSNSで流行した。

 振りかぶる。振り抜く。ウツボカズラめいた大顎が破裂し、飛び散った消化液が仲間を溶かす。ミルクとタピオカが胃で踊る。命が俺に力をくれる。

 振りかぶる。魚の踊り食いを非難した外国人観光客をつまみだした店主に、日本中から喝采が響いた。振り抜く。動物愛護が題材の美術展で、殺された猫の模型が撤去された。振りかぶる。白米を捨てた息子を殴った父親へ、全国から非難と称賛と応援の白米総計2トンが届いた。振り抜く。限界集落が観光資源のため樹齢100年超えのクスノキ伐採を決定し、企画したコンサルへの抗議署名が全国で湧いた。村は廃村となった。振りかぶる。振り抜く。振りかぶる。振り抜く。単調なリズムに欠伸がこぼれ涙が滲んだ。

 終わって見れば僅か一分ほどのことだ。返り血を落とし着替えなくては。給餌の時間が迫っている。申し訳ないが、庭掃除は妻に頼むしかないだろう。踵を返し玄関へと戻る。

 刹那、えぐり抜くような視線が入り交じる。側背面へ振り抜く。拳は虚空に吸われ、水面がかすかに揺れる。水槽だ。弾け飛んだ肉片が、均整の取れたアクアリウムを鮮血に染めている。キャッサバ達はネオヴィーガンを貪り食らい、こちらに見向きも寄越さない。一匹だけが岩場に潜み、殺意の視線を発している。まさか。腕を突っ込む。キャッサバ達は新たな獲物に目を輝かせ、牙を突き立てる。「ンンァッッ!!」魚と水槽を傷つけぬよう、慎重に拳を握る。掌内で急速に圧縮された水がプラズマと化し炸裂。キャビテーション現象でキャッサバ達は気絶。それでも岩底の一匹は決して離れぬ不動の姿勢。どうにかひっくり返せばなんということか。3日に1度産卵する改良キャッサバが、昨夜に続き再びタピオカを孕んでいる。

 キャッサバの餌は、妻が厳選に厳選を重ねた冷凍肉片と人工飼料だ。栄養上完璧である。それでも初めて喰らう新鮮な獲物を前に、野生を躍動させ繁殖力が倍増している。

 俺は気づいた。人はタピオカを飲み、ネオヴィーガンは人を狩る。そしてキャッサバが、ネオヴィーガンを貪っている。

 返り血に染まった頬を舐める。ビリビリと舌先が痺れ、全身が歓喜に震える。生命の味だ。ネオヴィーガンもまた生態系の内にいる。タピオカだけでは未完成だった。自然の全てを食らうことで、好き嫌い無き完全食となるのだ。

 俺は庭先に転がったネオヴィーガンの欠片を掴み取り、台所へと駆け込む。グラスに血と分泌液を絞り出し、引き裂いた残りを放る。すり潰された葉から風味が全体に浸透し、即席ネオヴィーガンティーが完成。

 ぐいと一気にいくためグラスを掲げると、肉に混じってタピオカが転がり出た。タピオカのはずはない。よく見ればそれは眼球だった。樹皮と葉に隠れ分からなかったが、どうやら頭部だったようだ。彼の目には狩りへの興奮、殺意、絶望とそして痛みが映る。胃がせぐりあがり、全身が内から震える。俺は彼らに痛みを与えた。

ぐいと飲み干す。生態系が胃の中で合流し、消化器系が生の躍動を祝ぐ。循環器系は踊り狂い全身を紅潮させ、呼吸器系は壊れたように短い息を繰り返す。感謝で涙と汗が溢れ、筋肉はますます膨張する。この星全ての息遣いが聞こえてくるようだ。この身体なら、太郎と正面から向き合える。彼らをもっと深く愛し、深く殴れる。誰にも負けない、深いうま味に育てあげる。

「ごちそうさま。」気づけば手を合わせていた。忙しない毎日、しっかりと言葉にしたのはいつ振りだろう。涙を拭き取り俺は庭へと向かう。痛みには慈しみを。彼ら一人ひとりを弔わなくてはならない。キャッサバとその肉を分かち合い、樹皮で墓標を立てよう。ネオヴィーガンも弔いに来るだろう。生態系の全てを食らい、殴り、愛そう。

「終わらない過激派ネオヴィーガンテロとノーパンしゃぶしゃぶ疑惑を受け、DHO動物はおかず理事長が辞任しました。」

 鋭敏になった感覚は、庭へ出てもニュースの続きを捉えていた。忌々しかったネオヴィーガンの報道も、今となれば動物ニュースのように微笑ましい。後任会長の就任演説が自動翻訳で生中継される。聞き流しつつ倒れたネオヴィーガン達の樹皮を丁寧に剥がし、表れた顔へ手を合わせる。死をたたえつつある顔が、俺の心に静謐をもたらす。

「えー、つまり。特に大きな反発を受けている牛への暴力ですが、これは牛も意思と感情を持った動物であるということが問題でありまして。つまり、えー、その。我々はこの問題を、この問題に、一つの答えを発見したわけであります。そもそも、なぜこの飼育法が定着した、定着できたのかということですが、当時の日本のコメディアンにヒントがありまして。」

 胸がざわつく。胃の中でたぷたぷと命が跳ねる。スタジオから残り時間を気にする声が上がる。ネオヴィーガン達はただ死の表情を俺に伝える。

「あの、ですから、つまり、牛は牧草を食べます。草、草ですね。それを食べて成長するわけです。その全身が草によって作られていますね。だからその、つまり、牛は野菜なんです。」


 静寂。世界が一瞬静まり返る。湧き上がる。俺はテレビへと駆け出す。

 中継では肉フェス会場で殺し合っていた兵士と兵士が抱き合う。画面が変わり、ヒトとネオヴィーガンの子供達が同じ食卓でサラダチキンを分け合う。

 こらえきれぬ悪寒が湧き出る。鋭敏な五感が塗り替わる世界を突きつける。シカは青々しく枝を広げ、ネズミは地中深く根を伸ばす。ゾウは蔓を天へと掲げ、ライオンは雄大な花弁を飾る。生命の息遣いは消え、すべての生態系が変わる。草を食う動物は野菜へ。それを食う者たちも野菜へ。あまねく全てがネオヴィーガンとなり、タピオカは芋にでもなるだろう。

 胃の中が全て草へ変わる。食べてきた生命が全て痛みを知らぬものになる。目を逸らすようにテレビを消せば、血の気の引いた男が映る。葉緑体を埋め込んだかのように。その顔は堅く強張り、目も耳も口も樹皮に覆われたかごとく何も示さない。

 違う。違うだろう。俺は肉を食った。豚を、鶏を、魚を、牛を、タピオカを、ミルクもネオヴィーガンも。牛を殴り、愛した。牛は俺に応え、愛した。痛みによって慈しみを知り、そうして生命は廻った。俺はあの子らに餌をやり、殴り、慈しまなければならない。早く着替えて、今日中に太郎のケアまで終わらせる。

 遠くで牛がもうと鳴いた。

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