混入・奔流
奥の扉からノックの音が聴こえた。誰かがこの部屋へ入ってこようとしているようだ。
「誰ですか?」対面していた初老の女性は迷惑そうに振り返って言った。虚をつかれたためか、どなたですか、ではなく、誰ですか、という言葉遣いになり、その声の響きには迷惑そうなニュアンスが含まれてしまっていた。
「失礼します」老婆のような声がした。「名前は言えませんが、私です」
「……了解です、どうぞお入りください」女性は言った。
私は黙って様子をうかがっていた。二人の関係はどのようなものなのか。この偽りと悪意に満ちた場所に新たな敵が増えるのか。いますぐに駆けだしてここを出ていくべきなのだろうか。しかし私は消耗しすぎている。映画みたいな脱出行を始める前に、もう少し回復を待ちたい。
「では、私はいったん引っ込みますね」女性は言った。
「はい、後は任せてください。上手くやりますよ」老婆は言った。何を上手くやるつもりなんだ。いい加減にしてくれ。
女性はこの部屋を出て行った。扉はギイイ、と軋むような音を立てて閉じた。
老婆はもともとあの女性が座っていた椅子に座った。私と向かい合う形になった。彼女もあの女と同様に、歳の割には血色がよかった。栄養状態が良いのだろうか、それとも整形か何かの類か。髪の毛は短く切りそろえられていて、濃紺のジーンズに深い緑のタートルネックを着ていた。全体的にボーイッシュな装いだったが、どこか不均衡な雰囲気がにじみ出ていた。まるで強引に何かをアピールしているかのよう。
「アサクラさんのことはよく聞いていますよ。調べさせてもらいました。それに基づいて対応させていただきます。あなたには厳しいことを言わなければならないときもあるし、時間もかかると思うんですよ。私としても、本意ではないんですけどね。これは必要なことなんです。アサクラさんのためなんですね」老婆は張り付いたような笑顔を浮かべながら言った。
「……」私は嫌悪と疑念の眼差しを送っていた。
「でもね、まず、あなたはここに来る前に大きな成果を出しています。本当にすごいと思います!」彼女は高ぶるように言った。何のことを言っているのだろう、と私は思った。私が掴みとったのは価値のないものばかりで、本当に欲しかったものは何一つ手に入れられなかったというのに。心の中は荒野のようにどこまでも荒れ果てていて、ひどく飢えているというのに。
「はぁ、ありがとうございます……」私は相手の高ぶりから距離を置くように言った。
「もっと喜んでいいと思いますよ! あなたを認めなかったあいつらこそが間違っていたんだ!」彼女はさらに高揚して言った。
「それはそうかもしれないけど、そういうことじゃない……」私は言った。
「いえいえ、そんなことないですよ!」彼女は言った。そして少し間をおいてから、
「ただ、あんな風に裏切ったのはまずかったかもしれないですね……」諭すように声のトーンを落とした。表情と体の動きも付随していて、芝居がかっていた。
「何の話? 私は裏切ってなんかいない!」私の語気は反射的に強まっていた。
「うーん、本当にそうなのかなぁ?」彼女は語尾を上げて言った。癇に障る言い方だった。
「偉そうなことを言うな!」私は怒った。こういうやつ、嫌いだ。
「…………」それに対し彼女は、しばらくの間沈黙した。それは作為的な沈黙だった。この状況を予期していたかのように、顔色を変えずにこちらを見続けていた。
「…………」私も何も言わなかった。こうしていると、私の怒りが空間に反響しているかのようで気分が悪い。
「……でも、あなたは頑張っていたんですよね」一拍置いて、彼女は言った。
「…………」私は答えなかった。
「良いと思います!」すると、また一人で高揚し始めた。べとつくような嫌な言い方だった。……あ、そうか。これは褒めてるんじゃなくて媚びてるんだ。相手のためのふりをしているだけで、本当は自分だけのためなんだ。だから嫌な感じがするんだ。
「あなたはもう少し真面目にやったほうがいいんじゃないですか? さっきからの一人芝居、見苦しいですよ」さすがに私も言った。
「…………」老婆は凍り付いたように、仮面のような笑顔のまま無言になった。今度はその眼に明らかな動揺の色が浮かんでいた。誰でも思うような当たり前のことを当たり前に言われただけで、なぜそこまで驚いているのだろう。ついさっきとの反応の差も理解に苦しむ。そして、
「勘違いしてますよ!」突如として取り乱して怒りだした。
「始末に負えないね……」私は呟くように言った。
窓の外はますます暗くなっており、もはや様子がよくわからなかった。風が吹くと雨が窓に打ち付けられる音がした。電灯が部屋をぼんやりと照らしていた。
「……あなたには教育的な罰を与える必要がありますね」そう言いながら老婆は立ち上がり、後ろを振り返って事務用デスクの引き出しに手をかけた。
――やられる、と直感した。
もしあそこに凶器が入っていたら。
いくら老婆とはいえ、この広くはない一室で凶器を振り回されたら。拳銃を取り出すこともありえるか。
あるいは人を呼ばれたら。相手は2対1だ。いや、2という数字は10にも20にもなる可能性があるが、1という数字が増えることは期待できない。
――こちらから先に仕掛けないとやられる。状況の安定は死を意味する。私の意識は、この部屋に入った直後に見つけたダンボール箱の中の金属バットに集中していった。
一瞬の後、私は素早い動きで音もなく金属バットを手にしていた。予想していたよりもずしりと重さがあった。うまく使いこなせないだろう、全力で殴打しても殺しきるにはかなりの時間が必要だと思った。それに疲れすぎている。こんなことなら、日ごろからもっと鍛えておくべきだった。
私がバットを手にして振り返ろうとするのと同時に、老婆は先端が鋭い裁縫用のハサミを見つけ出し、それを手にこちらへと接近し始めていた。尋常ではない形相をしていた。それを見て、この部屋に入った時点で、私はすでに殺され始めていたんだと気づいた。
「あなたのためにやるんです」老婆は独り言のように呟いた。目が血走っていて、私の方を見ているようで見えてはいなかった。
――こちらの武器は小回りが利かない。距離があるうちに仕留めないとやられる。アドレナリンが大量に分泌され、時間がゆっくりと進むような感覚だった。
私は振り返る勢いを利用して、こちらの手の内が完全に明らかになる前に、人を呼ばれる前に、老婆の横っ腹めがけて渾身の一撃を放った。
そこから先は、無我夢中で、よく覚えていない。
気が付いたときには、辺りには老婆とあの女の二人分の赤黒い血液の痕が、自分の腕には不愉快な肉と骨の感触がこびりついていた。
死体はなかった。あの二人は傷を負いながらも、どうやら命からがら逃げていったようだ。あるいは私がとどめを差さなかったのかもしれない。
どちらにせよ、嫌なものと出会ってしまった。胸の内に後悔と喪失が漂っていた。複雑、あるいは混沌という言葉でしか表せない、境界線が不明瞭な感情が渦巻いていた。
その感情は動的なものであり、私を侵食して変色させていった。やはり私は真の意味で「樹里」にはなれなかった。アサクラジュリを全うすることができなかった。
しかしなぜ、あんなところにバットが置かれていたんだろう。私がこうすることを誰かが予測していたのだろうか。私は乗せられたのだろうか。誰かの意図だったのだろうか。それともただの偶然か。
いくら正当防衛でも、憎くとも、殺そうとしたのはやりすぎだったのだろうか。相手がいくら悪くとも、その罪は死刑に値したのだろうか。殺すか殺さないか、その二つからしか選択できなかった自分を恥じる気持ちが生じ始めていた。
さらには恥じている自分自身が嫌になり、他にも過去の失敗が連鎖的に脳裏に思い浮かんでいった。終わることのない負の循環だった。
ふと、部屋の灯りが消えていたことに気がついた。つまり、私はいま暗闇の中にいる。生きているのか死んでいるかもわからない。何もかもがわからない。何もかもが不愉快で仕方がない。そういう暗黒の世界だ、ここは。
(終)
空絶 Haruki-UC @sora-ti
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