対決・狂熱

 招かれて<403号室>の中へ入ると、そこは生活感のない手狭な部屋だった。何らかの事務を行うための部屋にも見えた。オフィスの一室だろうか。玄関などはなかった。


 奥の隅に飾り気のないグレーの事務用デスク、その隣にはまた扉があり、真ん中にガラスのテーブルとそれを挟んで向かい合った二つの椅子があった。

 唯一、意外だったのは左手前の棚に飾られた人形たちだった。ブリキの猿が笑顔でシンバルを掲げていた。背中のネジを巻けば動き出すのだろうか。さらには、色とりどりの立方体を組み合わせて構成されたたくさんの小さな人形。どうやらそれらは職業的な役割を記号的に表現しているらしかった。チェスの駒のようでもある。そして、ちょっと怖い日本人形もひっそりと鎮座していた。

 棚の下の床にはダンボール箱が置かれており、使用感のある野球道具のバットとグローブが無造作に詰め込まれていた。


 ――この部屋には決定的に欠けているものがある。それは著しいほどの欠如であり、許されてはならないことだった。私は強くそう感じていた。ただ、それが具体的に何なのかはまだ見当がつかない。


「こちらへどうぞ」この部屋へ私を招き入れた女性は、手のサインで着席を勧めながら言った。

「どうも」私はここまでの道のりで非常に疲れていたので椅子に座った。ガラスのテーブルを挟んで、女性と向かい合う形になった。


 一見したところ、彼女は五十歳くらいに見えた。ただその頬には年齢に不釣り合いなくらいに健康的なつやがあった。服装は年齢相応のそっけないワンピースだった。何の主張も思想も感じられない、自らの肉体を隠すための淡い衣だった。

 彼女の外見には(部屋も含めた)全体としての調和がまるで感じられず、演出されたような感じが私の不信を煽っていた。中指にキラリと光る、銀色の指輪も妙に気になっていた。


 おそらく私は何らかの対決と解決を求めてここを訪れたはずなのに、それを避けたいという気持ちになっていた。だからといって、逃げるわけにはいかない。これは最後の確認なんだ。


「アサクラさん、ですね?」女性は抑制的な低いトーンで言った。

「……はい、そうですが」なぜ、私の名前を知っているのだろう。名乗った覚えはない。


「私はあなたのことをよく知っていますし、力になりたいと思っています。あなたがこの部屋へと来られた目的は何ですか?」女性の声の響きには冷たさが感じられた。

「対決し、解決するためです。私は自分を証明したい」私はずっと前から頭の中で準備していた言葉を並べた。


「そうですか。それは結構なことで……」女性は気持ちを少し引き締めたようだった。「でも、やめておいたほうがいいですよ。私はあなたよりずっと強い。それに私は、自分に従わない者を決して許すつもりは無いのです」なぜそんな話になるんだ。対決という言葉の意味を敵意と誤解したのだろうか。

「ここはそういう場所で、あなたはそういう人間なのですか?」私は相手の調子にやや引きずられて言った。


「あなたの質問に答える必要はありません。ここは、私があなたを問うための場所です。わかっていますか?」彼女はこの会話のルールを定めたがっているのだと思った。しかしそんな権限はないはずだ。あらゆる有意義な会話は共同作業なのだ。一方通行ではない。

「よくわからないですね」私は率直に言った。


「よくわからない、なら頭を働かせて考えてみてくださいね?」女性は常識知らずの相手を非難するかのような呆れをこめて言った。そのことによって、自分の発言がさも自明であると錯覚させようとしているのだ、と私は感じた。

「まあそれは、お互いに必要なことでしょうね」私は少し怒気を含んだ声で言った。話の流れが本質から大きく逸れているけれど、なかなか修正できない。


「何で私なの! あなたに必要なことなことですよね?」女性は同意を求めてきた。いちいち問いかけてくる話し方がどうにも鼻につく。

「まあ、ある程度はそうかもしれないですね」私は曖昧に答えた。戦いを求めているわけではないのだ。しかし相手が好戦的過ぎる。何を言っても攻撃として受け取られてしまっている。


「あなたは私よりも年下で未熟、そうですよね?」彼女は言った。

「お話が抽象的すぎてどうにもこうにも……」私は言った。


「あのときの出来事はやはりあなたが間違っていた。あの失敗はあなたに全責任がある。周りの人はみな素晴らしい人格者ばかりだった。何の問題も起きていなかった。そうだよね?」何を急に……。何の話? 彼女のこの発言に対し、私は少し間を置いた。たくさんの過去の残響が一瞬のうちに浮かんでは去った。今までのことや、これからのことが。そして、

「……本当に間違っているのはあなただと思います」私はきっぱりと言った。


「はぁ…………」女性は大げさなため息をついた。通常のため息の13回分を凝縮したかのような深いため息だった。「あなたはここに何しに来てるの! 私に従いなさい! 私の言う通りにしておけばうまくいくんだよ! 私が間違っているなんてありえないのだから!」彼女は頭に血を上らせた様子で叫び出した。

「なぜ、あなたに従う必要があるのですか?」私は堅く言った。


「まだわからないの! あなたは人と話すのが苦手だね! でも、これが現実だからね。そのせいで他の人とは違って、あなたには優しくしてあげられないんだよ?」


 もはや私は対話の意思を失っていた。ぶつぶつとひたすら何かを愚痴っている目の前の人物を無視して、思考を整理し始める。

 すると、ここまで私は自分の話なんて全くしておらず、ひたすら相手が抱えている問題につき合わされていたと気づいた。そして彼女もまた苦しんでいるのだろう。単なる世界の背景や構成物ではなく、私と同じように迷っている人なのかもしれないと思った。


 ガラスの窓ごしに外を見た。雨足は強さを増していた。空も暗さを増していた。この世界にも夜が来るのだろうか。


 そのとき、不意にノックする音が聴こえた。コンコン、という音はどうやら奥の扉から発せられた様子だった。

 嫌な予感がした。こんな場所に救世主が訪れるとはとてもじゃないけど思えない。

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