空絶

Haruki-UC

選択・荒漠

「アサクラジュリさん、次のお部屋へどうぞ」

 受付の女性の無機質な声が白い部屋に響いた。同時にその七音が私の名だと気がついた。


 樹里という、いかにも西洋かぶれで行動的な人物を連想させる名前には未だに慣れない。もしかすると一生、慣れることはないのかもしれない。墓石に<朝倉樹里>と刻まれ、その下の土に眠っている白骨の私ですら違和感を覚えているのかもしれない、と思った。


 兎にも角にも次の部屋へ進むことになっている。なら行くだけだ。


 私は人工的な観葉植物の脇を抜けて、次への扉に手をかけた。スチールのドアノブをひねると、なんのことはなく扉は開いた。大丈夫、ここまでは問題ない。これまでに何度もやってきたはず。今更の失敗はない。誰にだって出来ることだ。


 扉を開くと、やはり白を基調とした地下室のような空間が目の前に出現した。物は一切置かれていない。配電盤の箱と太いパイプくらいしか目を引くものがなかった。私はここに留まらず、足早に歩み出す。また扉を開く。


 続く廊下についてはあまり語るべきことがなさそうだった。ただただ長く、冗長な白い廊下だった。しかし単なる過程としての役割を全うしていた。きっとこれでいいのだろう。


 それよりも私の注意を引きつけて止まないのは、奥にある左右二つの扉だった。本当は他にも気にしなければならないことはあったのかもしれないが、私の両目は金属製の冷たい扉たちに釘付けになっていた。


 二つの扉を見た瞬間、どちらかを選択しなければならないと思った。たぶん誰だってそう思うだろう。私だけが思い違いをしているわけではないはず。ならどちらを選ぶのか、それが問題だ。しかし選択は今回だけとは限らないのかもしれないし、時間制限があるのかもしれない。何もかもが深い霧の中だ。


 私はここに来るまでにあまりにも傷つきすぎていた。選択の責任にはもう耐えられそうもない。過去に出会ったろくでもない何人かの顔が思い浮かぶ。

 続いて受付の女性の顔も意識に浮かび上がってきた。その顔立ちの細部までは思い出せなかったが、確かとても職業的な笑みを浮かべていた。感じは悪くなかったが、今の私の助けになる存在ではないだろう。大事な事ほど一人で決断しなければならない。


 覚悟を決めて、左右の扉を見た。どちらも同じように白い扉だった。何も語ってはいない。沈黙によって私を笑っているかのような威圧感すら覚える。


 私はこの場所のあまりの白さに、色を認識する能力を失ったのではないかと自らを疑う。最初の受付の女性を見た時には、髪の毛の黒やパンツスーツのグレーを判別出来たので大丈夫なはずだ、とすぐに思い直す。色々なものを失って、捨てて、害されて来たが、まだ色くらいはわかる。

 残された力を振り絞って、どこかにあるはずの安住の地へとたどり着かなければならないのだ。そこに行けさえすれば、きっと私の欠点の幾分かは解決されて、ささやかな安寧が待っているのだろう。

 少なくともそう信じている。そうでなければもう、倒れ果て地に伏すくらいしか出来ることが残されていない。いや、それすらもきちんと出来ないのかもしれない。


 ああ、だけどもう、うまく集中できないんだ。目の前の景色が、意識の中の地獄絵図と重なっていく。しかしこういった照合によってのみ、クリアに見えてくる事柄もあるんだよ。誰か信じてくれ。


 私の精神が悪夢に苛まれる。ギイイイイ、ギイイイイ、と古い木造家屋のように音を立てて胸が軋む。

 また私を非難する誰かの声が脳裏に浮かぶ。続いて、また本意ではない行動をしている自らの姿が浮かぶ。なんであんなことを言ってしまったのだろう。私の口からは発したいと思わない言葉ばかりが次々と噴水のようにあふれ出してくる。どうしてもそれを止めることが出来ない。



 ――結局、左の扉を選択した。

 理由は私が左利きであるからだ。その程度のことでしかなかった。少しでもましな選択をしようと、頭を悩ませて必死になった結果がこれだ。ろくでもない。



 * * * 



 苦心して選んだ扉の向こうには、開けた景色があった。

 果てしない灰色の空が広がっていた。視線を下ろすと赤茶色の荒野が寒々しい。その上を五十年は補修されていなさそうなアスファルトの道路が真っすぐに一本走っている。

 道の彼方には直方体のコンクリート建造物が見渡す限りに林立していた。何の味わいも感じさせない無機質な箱がただただ並んでいた。そして無数にあるどの箱も同じような絶望を抱えているように見えた。まるで世界の終わりのような光景だな、と私は思った。


 それでも歩き出した。私にはもう戻る道なんて無いのだ。

 しばらくして一陣の寂寞な風が不意に、私の髪を肩に揺らす。同時に小雨が降って来る。地面のアスファルトが濡れて、独特の匂いがした。子ども時代に歩いた道を少しだけ思い出した。

 脇の荒れた土壌にもぽつりぽつりと雨粒が落ちていった。赤に咲く一輪の花の鮮やかな発色が妙に目についた。こんなところにも生命があるのか。私以外にも、生きている存在があったのか。

 誰の姿も見えない、誰の声も聞こえない、この場所で。どんなに叫び声を上げても、全てが虚空へと霧散してなかったことになってしまう、このモノクロームにおいて。


 三十分ほど歩いた頃だろうか、私は彼方に見えていたコンクリート建造物の一つの正面に立っていた。いくつかの窓が付いていたが、中の様子を知ることは出来ない。ガラス製の自動ドアが開きっぱなしになっていた。私はそこへ吸い込まれるように足を踏み入れる。


 なぜかこの時点になって、自身の外見に意識が向いた。私は服を着ていないんじゃないか、靴以外の全てのものを身に着けていないんじゃないかという不安に襲われた。もちろんそれは杞憂だった。黒いスカートに白いカッターシャツ、そして黒いジャケットを羽織っていた。フォーマルな装いだった。メイクは自分では確認できないがきっと薄化粧にしているはずだ。よし、自分の色はちゃんと消してある。どこへ行っても目立つことはないだろう。


 再び歩き出した。パンプスと地面が衝突する度に発せられる、コツン、コツンという渇いた音を、自分が出しているとは信じられない気がした。


 建物の内部は、マンションのような構造になっていることが窺えた。部屋は不気味なほど規則的に配置され、その全てに番号が振られていた。そのことがエントランスに設置されていた案内板から理解できた。もっとも、この案内板の情報の正確性を保証するものは存在しないが。本当はもっと違った姿をしているのかもしれない。だとしても、そんなことは誰にもわからないし、興味を持つ者もいないだろう。


 案内板をじっと眺め、耳鳴りがするくらいの空間の静寂に耳を澄ませているうちに、脆弱ながらも覚悟が固まっていった。私を呼んでいるのはきっと<403号室>なのだ。私を苛む声を、どこまでも付いて回る不安を、取り除くことが出来る場所はきっとそこなのだろう。すがるような思いだった。


 エントランスを抜け、エレベーターの中に入った。4階のボタンを押した。4階のボタンを押せば4階に着くとは限らないが、それでも3階や5階のボタンを押すよりは良い判断だといえるだろう。扉は両側からゆっくりと閉じていった。

 縦二列に並んだボタンを上昇中にまだ眺めていると、これは私がむかし住んでいたマンションのエレベーターと同じ機種だということに気がついた。あの時代はまだ良かった。暖かさが残っていた。適切なものが適切な場所に配置されていたとまでは言えないが、少なくとも致命的なずれは表面化していなかった。


 チーン、というこの状況に不釣り合いなほど小気味よい音が鳴り、エレベーターは停止する。扉は両側へゆっくりと開いていった。

 またもや何も語らない冗長な廊下を抜けて、コンクリートの手すり越しに相変わらずの曇天を眺めながら、<403号室>の前へたどり着いた。ここが<403号室>であると、白地に黒で事務的に印字されていた。

 中へと入るための扉も、むかし住んでいたマンションのものと同じだった。親密な感じがした。しかし当然ながら、表札などは掛かっていなかった。


 唐突に「どうぞ」、と中から女性の声がした。意図的に調子を抑えているような響きがあった。私は心を乱されながらも、促されて中へと足を踏み入れる。

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