第81話 天から来た子供
天順元年(一三二八年)十月三日、
中華の伝統に則り、皇帝の礼装である五つ指を持つ龍の刺繍の
この幼い君主は、天下万民の重荷を背負う覚悟を胸に抱き、今まさに、
モンゴル帝国第十一代皇帝・大元帝国第七代皇帝――天順帝の誕生である。
天意に順ずる、天から統治を譲られたという意味であろうか。
母后は我が子の晴れ姿に涙が光る。
感極まったのか、
「
「万歳!!」
「万歳!!」
「万歳!!」
「ウッキッキー!」
天高く、果てしなく続く青空に向かって。
大歓声は、なかなか止むことはなかったという。
天順帝は、玉璽を携え側に立っている文官にこっそり話し掛けた。
「ねぇ知ってる?本物の玉璽はね、戦乱に紛れてなくなったんだって。これは宋室から受け継いだのだけど、本物を偲んで作ったそうだよ。ウフフ、本物も一辺が四寸(約9㎝)の四角。これにも五つの龍が彫られてるけど、ある特徴がないんだ。本物は、
本物の伝国璽は何処に?
その存在は歴史から忽然と姿を消したと伝えられているが……
実は――あなたの身近な場所にあったりして。
天順帝は遥か南を見つめ、そっと呟いた。
「トクトア…… ありがとう」
そしてトクトアも。
大都城北門の一つ、健徳門の楼閣から。
「
漢人の臣下が、君主をそう呼ぶように。
大都では来る決戦の日に備え、着々と軍備が整えられていた。
「……
剣を置き、平伏している上司。
アスト親衛軍の紅い戦袍を着た赤毛の小柄な部下が、躊躇いながらも背後から声を掛けていた。
「……あの御方の戴冠式だからな」
トクトアは目線を北に向けたまま、ゆっくり立ち上がった。
「え!?では皇太子殿下は、大ハーンになられたのですね!!」
「こら、デカイ声を出すな。表立って言えないんだぞ」
「ご、ごめんなさい……ではこっそりお祝いしましょうよ。今夜はご馳走ですね。勿論!トクトア様の、お・ご・り・で!」
「おい、なんでそうなるんだ?」
突然、上都の方角から風が吹いた。
「ここ、なんか肌寒くないですか?」
「北の城門だからな。よし、こっちへ来い!」
不意に伸ばされた腕に、半ば強引に抱き寄せられるが、この上司に限ってそう甘くなかった。
愛と呼ぶには程遠い。
雪花は、トクトアの脇に頭を挟まれる格好になった。
「ちょ、ちょっと!やめて下さい!」
「なんで?温いだろ?」
「もう!やめてってばぁ!」
「嫌だ、やめない!」
上は碧空、下は大都の街。
二人はじゃれ合い、楽しげに笑いながら楼閣から望む美しい大都の街並みに満足した。
この大都は、歴代のどの中華王朝もなしえなかった、完璧なまでの統制美の中華式帝都だった。
大都の南の正門・麗正門から北を望めば、壮麗な宮城寝殿、鼓楼、鐘楼、大路が、ほぼ一直線に重なる。
「あれは伯父上だな…… ほら!」
トクトアは、都内にある緑地の方角を指差すが、バヤンの姿など何処にも見当たらない。
空気も秋らしくなり、霞もない小春日和だ。
「何処ですか?私には見えませんけど……」
トクトアが言うには、バヤンは中華鍋を持ったまま、
「と、言うことは……伯父様もこっちが見えてるんだ!ええ!?嘘でしょう?めちゃめちゃ離れてますよ!」
ここからだと数キロ以上は離れている。
モンゴル族の驚異的な視力。元朝秘史でも度々語られる話だ。
「あの鍋の中身……多分焼き飯だろうな……」
「そ、そんなことまで……とにかく、訓練場まで戻りましょう。焼き飯食べられるし!」
焼き飯と聞いて雪花は、喜びを全身で表すかのように軽くスキップしながら歩く。
「おい、連れてってくれよ!」
ふざけたトクトアが、後ろからのしかかる。
「お、重っ!うっ!!」
バッタ~ン……
二人一緒に転けた。
「わーん!もう帰る~!」
下敷きにされて拗ねていじける雪花を、やれやれ、とトクトアが背負った。
トクトアの柔らかな髪に、雪花はそっと頬を埋めた。
温かい……
「あの御方も天からの御子。お前の場合は、天から降って来たな…… なぁ?お前、本当は何処の何者だ?」
などと、冗談めかして言ってるが、絶対天順帝に事寄せて聞いている。
「…………さあ?月からの使者ってことで」
「…………そうか、
トクトアはもう何も聞くまいと思った。
背中を通して伝わる雪花の胸の高鳴りが、どうか今は何も聞かないで欲しい、と言ってる気がしたからだ。
第一部 完
元酔紅線夢譚 ミルキーウェイウェイ @manulneko
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