第80話 上都脱出 其の四 〈蒼き狼の神話〉
男達は神器を手に、火柱の前に立って一斉に叫び声を上げ、隊商は円月刀を掲げている。
舞姫達は色鮮やかな赤の
手首、腕、肩をしなやかに曲げ伸ばし、快活なリズム、素早く力強いステップを踏み、大地を蹴って飛び跳ねる。
これを見た追っ手のモンゴル兵と諸侯達は、全員度肝を抜かされた。
丘の方から鬨の声が轟き、打ち鳴らされる進軍の太鼓や角笛に合わせて陽気に踊る者達の姿。
「ここは大都軍の兵営地か!?」
「い、一里(約500m)に渡って焚き火!?…… 敵はいったいどれくらいいるのだ!?」
「あれは罠だ!絶対に挑発に乗るな!あの丘の反対側に、まだまだ伏兵が潜んでいるかも知れん!!」
さらに、火柱の後ろから高く掲げられたそれを見た時、敵は背筋を凍らせた。
炎の形をした
目も覚めるように鮮やかな蒼穹を飛ぶという、鷹の仲間である白き
それぞれが揺らめく陽炎の中で、いっそう神秘的に見えた。
実際これらはチンギス・ハーンが戦に使っていた物で、とても尊い物とされている。
また、たてがみはトゥグと呼ばれ、チンギス・ハーンがモンゴル族を統一したことの象徴であった。
おまけに白い絹の
ユーラシアの果てまで聞こえた殺戮の帝王、チンギス・ハーンの再来に。
町中の者から生き物に至るまで、全てを皆殺し――それが彼の真実の姿。
だがしかし、偉大な覇者と敬われる存在でもある。
「ブンチュークが九本…… 大ハーンだけが、その数を掲げることが出来る。チンギス・ハーン!? 」
「皆の者!太祖聖武皇帝陛下がいらっしゃったぞ!さっき見た流星は、お出ましの証かも知れん……」
諸侯達が慌てて下馬をして跪くのを見て、一兵達らも一斉に地に伏した。
「太祖様!」
「なんと、麗しい海東青なのだろう…… たまに変なのも混じってるけど」
「おお!神よ!感謝致します!!」
「トゥグの色が白ではなく黒いぞ!これは戦であることを示されている証!偉大なる我らが大ハーンよ!どうかどうか、怒りをお鎮め下され~!!」
「どうか草原の宮にお帰りください!」
チンギス・ハーン伝説を小さな頃から聞いて育った者達ばかりが、この茶番劇を一層盛りに盛り上げカチ盛りにしてくれた。
彼らにとってチンギス・ハーンとは、最早ただの建国の父ではなかった。
それは一代の英雄の麗しき神話でもあり、彼らの精神の拠り所でもあった。
諸侯達は感動の涙を流し、天を仰いだ。
「……誠に喜ばしい。憧れの太祖様の御姿を拝せるとは!」
「誠に感激の至り!」
そしてチンギス・ハーンへの畏怖の念からか、速やかに部下に撤退を命じた。
良かった。トクトアの貞操は守られたらしい……
因みにさっきのチンギス・ハーンの正体は、実は村長で、
なんと言っても今年は、競馬大会、巻き狩り等の娯楽が中止になっている。
ホイサッサ村の者達にとってこれが、最大級の娯楽だったという訳だ。
「やった!」
「帰って行くぞ!」
みんな勝鬨を上げた。
「トクトアにいちゃん!」
ヌールは、トクトアに抱き付いてわんわん泣いた。
「こらこらヌール泣くなよ。お前らしくないぞ……お前が作った下手うまな海東青。大事にするよ」
トクトアは、ヌールの小さな身体を抱き寄せた。
本当に泣きたかったのは自分だった。
上都での日々は決して穏やかではなかったものの、その分充分に得るものもあった。
何より、こんな良い仲間達に出会えたことが、一番の収穫だったから。
彼の、長い長い夜が、ようやく終わりを迎える。
漁り火の様な一文字に並ぶ炎を、少し離れた場所から眺めるテムル・ブカとオルク・テムルは満足げに言った。
「蒼き狼チンギス・ハーンの神話……上手くいきましたね」
「ほんに大成功じゃ、孫子兵法か。兵を用うるの法――高陵に向うことなかれ、丘を背にするには逆らうことなかれ、を逆手に取ったのか…… 気付いた諸侯らも、まるっきり馬鹿でもなかったということじゃな。さあ、ワシらも行くとしよう!」
ええ、とオルク・テムルは頷き、立ち止まった。
「実は……テムル・ブカ様、私は上都に残ろうと思います」
「なんじゃと!?大都を裏切ると言うのか?いや、まさか……オルク!それは危険じゃ!」
テムル・ブカには、オルク・テムルがこれからやらんとしていることが分かった。
「……いえ、私の腹は既に決まっております。一族の存続、我が願いはそれだけです!さればこの地に残り、大都が勝てる手助けをする所存!何卒お許しを!」
テムル・ブカは、諦めずに説得を試みるが、オルク・テムルの決意は固く揺らぐことはなかった。
(間者を続ける。だが万が一……いや、こいつならやり遂げる。誰よりも勇気ある男だからな)
別れ際、二人は固い友情の握手を交わした。
「オルク!絶~対死ぬなよ!!」
「はい!私は勇猛なジョチ・カサルの血を受け継ぐ者!勇ましさではオッチギン家にひけを取りません!テムル・ブカ様、また月を愛でながら酒と肴で一杯やりましょうぞ!その日を楽しみにしております!」
何度も何度もオルク・テムルは振り返り、こちらに向かって手を振っている。
やがてその姿は、まるで闇に溶けてしまったかの様に消えて見えなくなった。
「おお、何やら急に寒く感じるな……」
相棒のオルク・テムルが去った。
ぽっかり心に空いた穴に、すきま風が吹き込んできたような気がした。
「殿、そろそろ参りましょう…… 高原の夜は寒いのでお身体に障りまする。なあに、斉王はきっと、勝利に貢献なさいます。そう信じておりますでな。ワシは少々暴れ過ぎて、その ……膝が痛うて……」
テムル・ブカに長年仕えている口うるさい爺や。御歳八十、まだまだ現役。
「爺やの申す通りじゃな。さぁて
参るかの」
テムル・ブカは、夜空を仰ぎ見た。
「流れ星か。人の命が落ちる、と縁起の悪い星ではあるが、願い星とも言われておるそうな…… オルク、死ぬなよ」
天から降り注ぐ慈雨の様な沢山の流れ星に見とれていると、不意に、誰かの視線を感じた。
これは夢であろうか……
「父上とお祖父様……」
夜空に、父トガンとフビライの幻影が見えた。二人は肩を組み、こちらに向かって優しく微笑んでいる。
愛の為に、自分の栄光を捨てた父。
子供の頃、そんな父をアホだと軽蔑していた。
しかし祖父は、多くの孫達と同様に贈り物と手紙を届けてくれ、自分の境遇を心配してか、出会う度に優しく温かい言葉を掛けて慈しんでくれた。
父も全ての職務から退いたことで、家族と居る時間が増えた。
今はこう思う。父は、これで良かったのかも知れない――と。
ただ、祖父との仲は最悪だったが。
(良かった。仲直りされたのだな……)
「あれ?」
親子の後ろに、もう二人の幻影が現れ、互いに激しく罵り合っているのが見える。
見たことのない兜鎧の男と白い長衣を着た男。
どちらも目つきが鋭い。
「こ奴~ワシが、本物のチンギス・ハーンじゃ!」
「こっちのせいではないわ!誰かが勝手に
「な、なんじゃと~!?写真写りが悪いだけじゃ!この出っ歯でチビの
「み、身共が一番気にしていることを――っ!よ、よくも言ったな~!ジンギスカン鍋に突っ込んでグツグツ煮込んでやるっ!」
「うるさい!このクワガタ
げんこつでポコポコお互いを殴り合い、それから互いに鼻フック。
「あの二人…… い、いったい誰じゃろか!?」
テムル・ブカは、夜空に繰り広げられる低次元の争いを見つめて呟いた。
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
駒の命婦は小さくため息を付き、寝床に就いた。
彼女が見る夢……
少女の姿になった自分を出迎える精桿な容貌の見知らぬ若者は、こちらの姿を認めた瞬間、なんとも優しい眼差しに変わり、その柔らかな笑顔にハッとした。
時を経ても変わらぬ、と言われた自分の主君の面差し。
「……
「ああ、そうだ。ずっと、そちを待っていた……」
太陽が燦々と降り注ぎ、柔らかな手触りの青草に、命婦は桃色の頬を緩めた。
命婦は、若者の手に引かれて金色に輝く草原の宮に行き、そのまま永遠に戻ることはなかった。
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