ハートに火をつけて

bittergrass

ライト・マイ・ファイア 1

 ある学校の教室。授業も終わり、掃除なんかも終わって、生徒は部活か家かに向かったそのあと、教室に残っていた三人の女子高生たちはあの先輩が格好いいとか、あの先生はダメだとか、そんなことを話しながら昨日も今日も放課後の時間を潰していた。きっと明日もそうなるだろう。別に彼女たちが特別そうやっているわけではない。彼女たちの世間話のためにその教室を集まりの場所としているだけだ。他の生徒も思い思いの場所でそれぞれ似たようなことを話しているに違いない。その話の中には、彼女たちの通う学校にある、ある噂も含まれているだろう。

「ねぇ、この学校のさ、噂話って知ってる?」

 三人の中の一人が二人にそう訊いた。訊いた女子は二人ともその事を知っているとわかっていた。だからか、彼女は少し頬が上がっている。

「うん。知ってるよ。夜の神様の話でしょ?」

「あー、あれ? 私も知ってる。てっきり、なんか他に新しい噂でもあるのかと思ったわ」

 この中の一人は知らなかったようだが、この学校で、この学校の噂話知ってる、と訊かれたらその噂は夜の神様の噂しかないのである。

「もー、いっつも本読んでばっかりで、他の人と話さないからわからなくなるんだよ?」

 からかうようにそういうと、言われた方は首を傾け、何が、と言うような顔をした。

「でも、ほんとに噂の神様なんているのかな」

「さぁ? でも、いたらいいよね。希望を叶えてくれるらしいし」

 きっと、こう言っている彼女も本気で希望を叶えてくれるとは思っていない。それは、会話を進めるための油のようなものなのだろう。

「いないかもしれないけど、もし、会えたらどうする?」

 そうして、彼女たちの他愛のない噂話は続いた。



 深森ふかもり高校の屋上。その場所には一人の男子生徒が立っていた。夕暮れ時の空を見上げ、ただぼぅっとしているように見えた。瞳は実際にそうというわけではないが、霞がかっているような印象を受ける。顔だけでなく、全体的に線が細く、今着ている高校の制服もどことなく力ない。立つ以外の力は使っていないようで上半身は脱力していた。しばらくそうしていたが、やがて屋上の扉がきぃっと鳴って開いた。ぼうっとしていた男がそちらを見る前に、声がかかる。

「よ、朱羽しゅう。またここにいたか。部活、終わったぜ」

 その声の主は学校指定の深緑のジャージを着用していた。肩からスポーツバッグをかけていた。短髪で、全体的に細いシルエットだが、その体は明らかに運動部のもので、筋肉がついているのかわかる。彼は扉を閉めて、空を見上げていた生徒に近づいていく。

「なんかある? 空なんかに」

 彼がこういうのもおかしな話ではなかった。このところ、彼はずっと空を見上げている。その時間は決まって夕方で、なにか探している訳じゃないと言いながらも、あきもせずに、放課後の間、この屋上で、彼が部活終わりに迎えに来るまでそうしているのである。

あき。前も言ったかもしれないけど、特に何かある訳じゃない」

「聞いたよ、それは。とりあえず、帰ろうぜ」

 章かそういうと、ひとつ頷いて二人とも屋上を出ていった。


 屋上から玄関まで、この学校にはエレベーターなんてものはないので自力で階段を下りてきた。その間、頻繁に話しているのは章の方で、そのひとつひとつの言葉に頷いて聞いているのは朱羽だった。端から見ると朱羽の表情は鬱陶しそうに見えるが、彼は章の話が自分の知らないものがほとんどで、聞いていて面白かった。彼らはそんな様子を帰り道が別れるまで続いた。


 翌日も朱羽は屋上に来ていた。章も今日は部活である。

「……」

 朱羽は昨日よりも少し雲の多い空を見上げていた。空は橙色に変わっていっていた。

「毎日、空を見上げて、何かあるの。それとも、あなたにしか見えないものでもあるのかしら」

 その声を彼は聞いたことがなかった。誰かの声に似ているとか、そういうのも感じなかった。さらに、ぼうっと空を見上げている間はあまり空以外に意識が向かない彼であったが、それでもその声はしっかり聞こえるというか、心が勝手に聞いてしまうような声だった。彼はその声のする方がよくわからなかったので、上に向いていた視線を前に向ける。目だけで左右を見た。しかし、見ている範囲には誰もいない。次に上半身をひねって、後ろを確認する。避雷針を支える為の鉄塔のかたわらには黒い影のようなものがいた。その影の大きさは中学生か、ともすれば小学生に見えてもおかしくはない。しかし、それは希薄な気配なのにそこにくっきりと存在しているような、少なくとも彼には理解できない存在であることは理解できた。無意識にそれの方に下半身も向いた。

(異質だ……)

 彼が最初に抱いたのはそんな単純なことだった。単純であるからこそ、彼はそこから動けないほどの恐れが湧いた。その恐れを彼は理解していない。幸い、普段からぼうっとしながら、あることを考えていた彼はパニックにはならず、頭のどこかが冷静だった。

「少しは返事してくれても良いと思うのだけれど」

 その影の言葉に彼は一言も返事ができなかった。そもそも彼はその影が最初に何と言っていたのか覚えていない。冷静な頭があると言っても、混乱しないようにするだけで精一杯だった。

「そう、何も言わないのね」

 彼女はそのまま、くっきりしていた影の輪郭と鉄塔の影との境界線が曖昧になっていき、気づくとそれはいなくなっていた。彼は今のことが幻覚なのではないかと感じ、空も見ずしばらくつったっていた。


 しばらくそうしていて、ふと彼は自分が屋上にいることが意識された。周りが未だに橙であり、それはまだ夕方であると言うことを示していた。あまり長く立ち尽くしていたわけではないのだろうか。いや、今まで立ったまま寝ていたわけではないだろうか。体全体が少しだけ熱い気もする。それは夜布団を被って眠り朝起きた時、仄かに体が暖かいという感覚と似ていた。そのせいでより眠っていたのではないかと言う考えが現実的だと感じた。しかし、あの影のくっきりとしたあの輪郭が記憶に張り付いている。夢を見ていたなら、その姿は必ず、曖昧なものになっているはずだ。そうだ、あの影は何だったのだろうか。

「いや、考えても仕方ない」

 そう口に出して、自分に言い聞かせた。そうしないと先ほどみたいに動けなくなるような気がした。


 屋上には髪を揺らす程度の風が吹いていた。この学校の周りには高いビルなどもなく、この場所は風の通り道になっている。熱くなった体を冷ますには最適な場所であった。だが、彼の体の熱は消えていなかった。あの影のことに気を取られて、全くそのことに気が付いていなかったのだ。

「よ、部活終わったぞ」

 屋上の扉を開けながら、章はそういった。しかし、章は言葉の続きを用意していたにも関わらず、そこで言葉を止めた。その理由は簡単で、朱羽がいつものように空を見上げていなかったからである。彼は朱羽の背中を見る位置にいるが、その頭が空には向いておらず、町を見ているような視線であることが予想できた。しかし、どこか意識がここになく、深刻な考え事をしているような雰囲気であるような気がしていた。そんな様子の彼を放っておけず、さらに彼に近づこうとした。だが、彼の足は一歩踏み出したところで止まった。なぜなら、彼のだらりと下げられている腕に異様なものを見たからだ。その異様なものとは小さく、歪な形の球体のように見えた。それはよく見れば種のような形であったが、二人の距離はそれを確認できるほど近くなかった。さらにそれはだらりと下げられている手から重力に従わず、その掌に張り付いている。それは彼が瞬きをする前に見えなくなった。彼の中ではそれが強引だとわかっていても、それが何か埃のようなものがくっついていたのだと、自分で都合のいいように理解した。

「朱羽、部活終わったぞ。帰ろう」

 屋上に出るときに出した声よりも大きく声を出し、さっき見たことを自分の勘違いだと思い込んだ。

 声をかけられた方は彼の方には向かなかった。

「ああ、わかった。帰ろう」

 そういった後、彼は章の方を向いた。その時の表情は昨日と同じくどこか鬱陶しそうな表情であった。

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