ライト・マイ・ファイア 3
「朱羽、すごいじゃない!」
母親のあの嬉しそうな顔を彼は今でもたまに思い出す。今ではあまり見せてくれなくなったあの顔。自分が凄い奴でなくなった証拠のような気がして、その顔を思い出すときは、ほんの少しだけ泣きたくなる。
「朱羽、すごいじゃない!」
朱羽が家で子供用のピアノを弾いたとき、彼の母親は目を大きく開けて、驚きと嬉しさの混じった笑顔をして、彼を抱き上げた。小学校に上がる前、背も小さく、体重も重くないような時期の話。
「お母さん、どこに行くの?」
彼の母は、彼の手を引いて、彼の歩くスピードに合わせてどこかに向かっていた。母はにこにこしていたので、彼は自分にとって悪い場所ではないと確信して、手を引かれるままに着いていった。
「ピアノ、やってみない?」
母が連れてきた場所はピアノ教室だった。その場所は色々な音が響いていて、彼には楽しそうに感じた。今まで、一人でひいてきたそのピアノは自分だけしかできないと思っていたが、そうではなかった。自分以外の人もピアノを弾ける。その感動は彼をその場所を気に入らせるのに十分だった。
「朱羽くんって言うのね。今日からよろしくね」
彼のピアノを聞いてくれる人はもう母や父だけでなくなった。色々な人が彼のピアノを聞いてくれるようになった。先生は彼が間違っていたり、弾けなかったりしても優しくどうやるのか教えてくれた。彼自身も家でピアノをずっとひいていた。
「お母さん、うまくなったでしょ」
無邪気な笑顔で、母に自分のピアノの腕を自慢する。母はそれに満面の笑みで頷き返す。彼は幼心に母が自分に期待していることを感じていた。
「今日もよろしくね。こんな曲、用意してみたんだけど、ひいてみる?」
ピアノの先生はいつも、彼に笑顔で楽譜を渡してくれた。先生は彼のピアノを聴くのが好きになっていた。途切れることなく、水が流れるような音の連なりは先生だけでなく、その教室にいた人の全員が綺麗だと感じたはずだ。
「朱羽くん、ピアノうまいね」
同じ教室に通う彼以外の生徒も絶賛していた。彼はいままで以上にピアノを弾くことが楽しくなって、仕方がなかった。彼はピアノをひくことを努力だとは感じていなかった。ただただ楽しいからひく。それだけだった。
「朱羽くん、ピアノの発表会に出てみない?」
ピアノの発表会。彼はそれを知っていた。大勢の前でピアノをひくことだ。それはきっと今まで以上に楽しいことだろう。そう思って、母に出たいと告げ、発表会のリストに彼の名前が載った。順位や賞が出るわけでは無かったが、母も、先生も彼が誰かに目をつけられて、ピアノの世界に入っていけると思っていた。その期待を知っていて、彼はより努力した。ピアノをひいていない時間はないほどで、母が止めても、引き続けた。
皆の期待はきっと彼の幼い心と体には重すぎたのだ。発表会前日、彼は熱を出してしまった。当然、ピアノをひくことはできない。彼は発表会に行くと言って聞かなかったが、母と父が無理矢理止めた。ピアノは彼にとって大事なものだと、両親は分かっていたが、何よりも我が子が元気になってくれることが一番だった。両親は彼が無理をしていることに気づいていたが、我が子が頑張っているのを無理に止めることもできず、ただそれを後悔していた。あのとき無理にでも止めていれば、発表会には出られたかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
その後、彼自身が発表会に出られなかったショックが大きかったのか、通っていたピアノ教室をやめ、二度とピアノに触らなくなり、ピアノも売ってしまった。教室の先生は彼をどうにかショックから立ち直ってピアノを続けてほしいと思って、自分の出来ることをやったが、やはり彼がピアノをひくことは無かった。
次に彼が興味を持ったのは、水泳だ。ちょうどオリンピックをやっていて、金メダルを取ったと言うニュースを至るところでやっていたからだろう。彼はニュースに出ていた選手に憧れて水泳を始めた。
そのときの彼は小学三年生で、スイミングスクールに入って、そこでもまた実力をどんどん伸ばしていった。ピアノを習ったときとは違って、家にプールはなく、湯船も水泳の練習を行えるほど大きくはない。そのため、彼が家で練習することはなかった。母は彼を迎えにいくときは少し早くスクールに着くようにして、彼の泳ぎを見て、毎回成長している息子のことを誉めた。彼はまた、期待してくれていると思って、スクールにいる間は泳ぎの練習に勤しんだ。ピアノの時のように無理をすることはしていない。スクールでも、しっかりと休憩をとって練習を行っていた。
「まだ、入ったばかりだけど、記録会にでるかい」
スイミングスクールに通い始めて、しばらくしたころ、スクールの先生にそう声をかけられた。記録会というのは、名前のままで自分の泳ぐ速さを記録するための会である。しかし、ここでいい記録を出すと区内や市内の大会に出ることもできる。彼は他の大会のことを考えずにその大会に出ることを決めた。ピアノのことを思い出し、あの時のリベンジのような気もしていた。
記録会の前だからと言って、練習量を増やすようなことはしなかった。ピアノの時のように無理をして、熱でも出たらまた出られなくなると考えたからだ。それは少し不安だったが、それでもその不安を気にしないようにして、記録会に支障が出ないように毎日を過ごした。
記録会当日、彼は膝や手に大きな絆創膏を張っていた。そんな状態では泳ぐことなどできなかった。張り切りすぎたのか、緊張しすぎたのか、彼は普段なら転ぶはずのない場所で転んでしまったのである。そして、膝を固いアスファルトの上に打ってしまい、手を着いたときにその地面に擦ってしまったのである。出血の量は少なく、幸いにも大怪我にはならなかった。しかし、そんな怪我をしては水の中で泳ぐことなんてできなかった。彼自身も転んで怪我をした瞬間にこれはもう泳げないなと思っていた。彼はスイミングスクールで一緒に習っていた友達を客席から眺めるしかなかった。本来ならあの中で一緒に泳げたはずなのにと考えたりもしたが、結局は仕方のないこと、今回も運が悪かっただけだと思い込んだ。
彼はそのまま、水泳をやめた。今回もスイミングスクールの先生は何度か説得しようとしたが、どれも失敗に終わった。やめた理由は、一緒に泳いでいたはずの友達たちが気を遣ってくれたからだった。どうしようもなく、気まずくてそこにそれ以上いられなかった。母は頑張ったよと言って、彼の頭を撫でた。しかし、彼は母の表情にどうしても残念なような、悔しいような感情があるように感じられて仕方なかった。
その次は習字だ。彼はあまり時のきれいな方ではなかったため、それを習うことにした。きっかけは友達がやっているからという簡単なもので、そのせいか練習もあまりきちんとできてはいなかった。しかし、彼はその能力が低くはなかったために、適当にやっていても、上達するのは早かった。その習字教室では一か月に一度、教室内で一番字がうまいのは誰か決める、というイベントをやっていた。当然、彼も参加しなくてはいけなかったが、彼はもう大会とかそういうものにうんざりしていた。
(どうせ、今回もどうしようもない。何か自分の力ではどうすることもできないことが起こるんだ)
二度も期待されて、二度も大会に出られなかった。それは彼を消極的にするには十分な理由だったのかもしれない。
その習字教室で習っている以上、彼は何らかの作品の提出をしなくてはいけなかった。彼は自分の名前である、朱羽という字を書いた。本気でやってしまっては、駄目になる。なら本気でやらなきゃいい。そんなことを考えながら書いた作品は彼の力量では酷いものだったが、それでも周りの人には評価される程度のできにはなっていた。教室内での一番ではなかったが、それでも母は彼を誉めた。
(本気じゃなくても、これくらいならできるな)
彼の考え方は少しゆがみ始めていた。どれだけ頑張れるか、ではなく、どれだけ手を抜いてもばれずにいられるか。そういうことを思っている。習字以外もこれならうまくできるからもしれない。
しかし、彼は習字をやめた。本気でやらなかったら、それはそれで空虚なように感じたのかもしれない。少なくとも、それで満足できるような性格ではなかったということである。
これ以降も彼は色々な習い事をしてみるが、そのどれでも大会などの前では怪我をしたり、病気になったりした。本気を出さないでやってみると、一番ではなかったがいい記録が出た。しかし、目立つほどの記録ではなく、その記録はいつしか大量の記録の中にひとつにしかすぎなくなっていた。
そして、多くのことに諦めが付いたのは中学二年のとき、部活に精を出していた時のことだった。
「頑張んなくったっていいじゃん。どうせ誰も本気にしてないよ」
彼が言われた言葉ではなかった。部活ごとに設けられている着替えの時間。同じ部活の人がそういう会話をしていて、彼の耳に入ったというだけであった。その言葉の真意はよく理解していなかったが、しかし、それが彼の心に染み込んだ。それ以来だろう。彼の瞳には霞がかったようになったのは。それから彼は何に対しても本気を出さなくなった。本気を出さなくても、ある程度評価された。それから彼がやることは力を抜いてやった。全身から余分な力が抜けた。まだまだ十余年しか生きていないのに、それでも、世の中を生きやすくなったように感じた。
それでも部活はやめずに続けた。理由としては、体を動かすこと自体は好きだったからだ。大会に出ることだけは何かしらの理由をつけて辞退し、他の本気でやっている人に自分の出場枠を使ってもらった。彼が出場枠を上げた選手はそこでいい成績を出して、スカウトされた人もいたそうで、彼にお礼を言う人もいたが、彼は頑張ってと一言だけ励ました。そこで彼は自分が努力できないなら、他の人に託すという方法を思いついた。それを考え続けてみても、いまいち良いアイデアなんかは思いつかない。それをずっと考え続けていた。何度も考えたのは、他の人のやる気を出させる方法である。やる気スイッチなんてテレビでは言っているが、彼はスイッチのように簡単に切り替えられては困ると思った。スイッチではなく、やる気が根付くような何かがないかと考えていた。きっと彼が大人であれば、お金や人脈、他にも利用できるものが多くあっただろうが、彼はその時中学生で考え続けるしかなかった。その考え事を持ったまま、深森高校に入学した。その理由は家から一番近かったからである。彼は既に自身が頑張って何か成し遂げようとは考えていない。どうにかして、他人に努力させるかが重要であった。
高校に入っても彼は変わらず、それを考え続けた。いつしか、何も思い浮かばなくなった時、周りを観察してみると、やる気が元々ある人というのは少なかった。そして、彼はその情報も考えた。
(全員に熱意があったなら、元々熱意のある人はもっと頑張れるのではないのか)
そうだ。今回の計画は俺が最後にする努力だ。きっと、俺の行動を邪魔する何かが起こるだろう。でも、今回だけは何があってもやめてはならない。諦めてはいけない。
「そうだ。これだけはどうあっても成功させなくては。そう、まずはこの街から変えてやる」
彼はそう呟いて、ようやく橙に染まった街に出た。
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