マッシュアップ 1
朱羽は学校から全速力で離れ、一度林の中に隠れることにした。この街は駅の周辺だけは発達していて、駅から離れていくとどんどん店や会社などはなくなって、住宅街になる。住宅街の中にも公園や、林があり、街としてはあまり発達していない。しかし、今はそれが朱羽の味方をしていた。なぜなら、彼が身を隠す場所が多くあるということである。
(いや、そうでもないか)
彼はあの影が自分をすぐにでも見つけられることをわかっていた。それにそういうことがなくても、きっと影と彼は出会うことは必然だったのかもしれない。どちらにしろ、結果として、彼と影は出会うのである。
この出来事のせいで、明日学校へ行き、今日種を埋めた生徒たちの様子を確認することが出来なくなっている。少なくとも学校へ行けば、章に会ってしまい、何か言われたり、この行為を止められたりすると簡単に予想がついた。
(今日は家に帰るべきなのか)
章が家に来るかもしれないことを考えると、家にいることが良い手立てだとは考えられない。かといって、どこかに宿泊する場所を取ることはできない。今手元にはそんなお金などはないのである。
(野宿するか。一応、俺の力でどうにかできるだろうし)
力を持っている彼はあまり突き詰めて考えずに、そんな決断をしてしまった。
彼は疲れ切っていた。今までやる気を出すことなく、色々なことに本気をださなかったために心の体力とでも言えるものが少なかった。彼はそのことに気づいていなかったのだ。そのせいで、この夜を過ごす場所を適当に決めてしまったのだった。
(朱羽、どこにいるんだ)
章は街中を早歩きで歩いていた。既に走った後で、息は上がって、足は棒になっている。それでも彼を影より先に見つけ、彼が殺されないように彼の行動を止めなくてはいけない。彼は章に捕らえられないほどの速度でその場から移動していた。移動した方向はわかるが、あの速度だと自分の死角に移動してから反対方向に移動していてもわからない。既にこの街にもいないかもしれない。
(いや、力を使っていたから、それの結果を確認するか)
はっきりとは言えないが、朱羽が自分の力を使った結果を知らずにどこかの違う街に移動するとは彼には思えなかった。彼の中には根拠もあった。それは朱羽の瞳が霞がかったようなものでなく、やる気のあるような瞳をしていたからである。あの目をしているものは自分のやっていることを投げ出すことはない。それは彼の経験からもそう言えた。
(この街の中、それもあまり遠くへは行っていない)
考えを巡らせ、それをまとめつつ、朱羽を探し続ける。
朱羽と影の戦いを見た翌日、薄雪は種を植えられた男子生徒に会うことにした。それは彼を心配したからではなく、種を植えられたときにどう感じていたのかを聞きたかったからである。昨日の時点では覚えていないようなことを言っていたが、一日たって、記憶の整理がついたとしたら思い出しているかもしれないと考えたからだ。もし、覚えてなくてもそれはそれでいいと思っている。彼の記憶だけが朱羽の力の解明に繋がるわけではない。
水泳部の男子生徒が目を開けると、まず仰向けになって寝ていることがわかった。視線の先には藍色の空が広がっていて、周りにはそれを阻むように建物が建っている。小さな声で呻きながら、ゆっくりと起き上がる。それと同時に、無意識に自分が何をやっていたかを思い出そうとする。しかし、何か熱いものが心の中に急に現れたような感覚は思い出せるのだが、肝心の自分が何をしていたかという点に関しては記憶がなかった。それももう少しで思い出せそうとかそういう類のものではなく、完全にその時間だけこの世に存在していなかったのかもしれないと思わせるものであり、その心に宿った熱いものと合わせて考えると、記憶が燃焼したとも思えた。
「……っ、なんだ」
額を掌で抑えて、首を少しだけ左右に動かす。体のどこからも痛みは感じない。なくなる前の記憶を辿る。水泳部にいたのは覚えている。片付けもした。そのあとに、天津薄雪を見た。確か、校門の方を監視しているみたいな感じだったような。それから、スマホを忘れたからとりに行こうとした。いや、取って帰ろうとした。玄関で靴を履き替えた。それから……。どうしたんだ。
燃焼した記憶は、玄関を出たところからこの起きる寸前まであった。しかし、彼には自分が記憶喪失であると言う自覚というか実感が薄く、まるで怖いとは感じていなかった。
「起きた」
その声は、彼には聞き覚えの無い声であったが、その声が誰のものなのかはすぐに分かった。声質が周りとは全く違い、この声と同じような声は全く存在しないだろうなというような綺麗な声で、声だけで声の主は美人なのだろうなと想像するほどである。
そうは思ったが、彼は返事をせずに声のする方向をみた。するとそこには、直立で校門の前に立つ美人がいた。その様子は朝の挨拶運動をしているようである。
「大丈夫ではなさそうね」
彼は彼女をしっかりと見たことはなかった。噂ばかりを聞いていて、思えばいつも後ろからとか、横からとかしか見ていなかったのかもしれない。それより、噂のせいで印象が良くなかったために、穿った見方をしていたと思った。なぜなら、この藍色の空の下、街頭に照らされる彼女が本当に女神に見えたからだ。高校生の彼でさえ、彼女を美少女ではなく美人と感じたのだ。
「自分の家の場所はわかる?」
彼女にとってはどうでもいいことのようでどこか突き放すような言い方をする。しかし、彼は話を聞いていない。彼女に見とれている。
「ん? 返事くらいしなさい」
「あ、ああ。な、なんだって」
そこで彼はようやく意識を取り戻し、それと同時に頭もはっきりしていた。
「自分の家はわかるのかって聞いたの」
「わかる。俺、自分の家、わかる」
彼は改めてはっきりとした意識の中で彼女が綺麗であると感じた。そのせいで緊張して、片言になっていた。
「そう。じゃ、今まであったことを覚えてる」
「いや。その、玄関まで来たのは覚えてる。でも、俺がなんで倒れたのかまでは……」
「そう、じゃ、明日また話を聞くわ。何年何組」
「二の五、です」
「わかったわ。今日はもう帰りなさい」
彼女は気を遣ったわけではなく、単純に彼に用がなくなったのでそう言ったのだが、彼は彼女が気を遣ったと勘違いして嬉しそうな顔をして立ち上がり帰ろうとした。しかし、一歩目を踏み出す前、片足を前に出したその瞬間にバランスを崩し、その場に手を突いて転んだ。彼は自分の痛みよりも、彼女の前で転んだことが恥ずかしかったので顔を赤くしたが、彼女はそれを気にせず、上下に一度だけ頭を往復させて、彼に肩を貸すようにした。これも全く親切のつもりはなく、筋肉に疲労が溜まっているのかどうかを試したのである。全身の筋肉に全力の力をかけた後、さすがに気絶することで回復するのかと考えたのだ。そして、その結果を得られたので、その実験の後始末として、彼に肩を貸しただけなのである。しかし、当然、彼はそんなことは知らないので、やはり彼女は噂とは違って優しい人なのだなと感じた。
「あ、こんにちは」
「こんにちは。それで具合はどう」
彼女は二年五組まで行き、彼を呼び出して、廊下の二つの通路を繋ぐ広場のような空間に設置されているベンチに腰かけて話し始めた。
彼女と会話をしている人は全くいないため、彼女が誰かと会話をしていると人目を引く。もちろん、彼女はそんなもの気にも留めていないが、彼はそうではなかった。彼は人目に晒されることで、自分が何か間違ったことをしている、もしくは普通ではないことをしているような気がして落ち着かない。実際、彼女と話すこと自体が、周りの生徒にとっては普通のことではなかった。
「あの、場所、移動しませんか」
彼は初めて味わった大衆の視線から不安が込みあがってきて、そういってしまった。
「移動するのは手間でしょう。ここでいいわ」
「いや、その、人の視線が……」
「え、そんなもの気にしているの」
「怖い、というか、不安になる、ような」
「はぁ」
彼女はそんな小さなことを気にして移動するのは本当に手間でしかないと思っているが、このままだと話を聞くことも難しそうだと考えて、手間のかかる方を選んだ。
場所は屋上。二人で話をするには定番の場所である。屋上は風が強く、屋上に来るなら、グラウンドの近くにあるちょっとした広場を利用するものが全てで、ここに来るということは、人前で話したくないことを話すということである。
「それで。もう一度訊く。具合はどうなの」
「何も、変わってない。やっぱり、あの玄関から記憶が、ない」
彼は自分の記憶がないという得体のしれない不安感は昨日、風呂に入っているときに味わった。疲れをとるために浴槽に湯を張り、それに浸かっている間に、その日のことを考えていて、ようやく実感し、不安に襲われた。しかし、彼は不安と共に何か湯舟とは違う熱いものを心に感じた。それを彼女に話した。
「なるほど。それはきっと燃えた後の灰みたいなものなのかもしれない。その灰をもとの状態に戻すことが出来れば、記憶も戻るかもしれない」
「いや、この際記憶はいいや。なんというか、その時の記憶が戻ったら、あなたと関われなくなりそうだし」
薄雪にはその言葉の意味が全く分からなかったが、記憶に頓着しない彼にあまり興味を抱かなくなった。もし、ここで彼が意地でも記憶を戻したいというのであれば、興味も沸いたかもしれないが、そういう風には見えなかったので、彼を放っておくことにした。
「じゃ、大丈夫そうならもういいわね。さようなら」
彼女はそう言って、屋上から出て行った。彼はその姿を見つめるだけで何もしなかった。
「今はまだ、駄目なんだろうな。俺じゃ」
彼は一瞬だけの記憶喪失を抱えながら、生きていくことになった。しかし、彼には既に目標が出来た。種など無くとも、彼の心には火が灯っている。それは着火する種の燃えカスではなく、彼自身が自分の心に灯した新たな火である。
(朱羽、今はどこにいるんだ)
章は今、学校にいた。もしかしたら、彼が登校してくるかもしれないと思ったからだ。しかし、それは彼の望みであって、本当に彼のことを考えるなら来るはずはなかった。そもそも、章自身に彼を手伝う意志はなく、なんとしてでも彼が殺される前に止めるということしか考えていないため、そんなことを考える余裕はなかった。
(頼む、まだ生きててくれよ)
教室では昨日、一昨日と同じく、教師の声が響いている。
(学校には行けない。種がどうなったかだけ確認したかったが)
学校に入る前に章の姿を確認していた。どうやら、彼の体調には変化がなかった。あの影に狙われているのはやはり朱羽であった。そういうことなのだ。章に被害が出ないのなら問題はない。
学校から変えるという作戦はもう使えそうにない。やはり、この街のどこか一角とか、他の街に移動することも考えた方がいいかもしれない。どちらにしろ、どこに行こうとあの影のような存在に出会うことは避けられないはずだ。彼は力が使えるようになってから時間があまり経っていない。そのせいで、自分の力のほとんどを把握することが出来ていない。やる気を無理やり引き出す。それが彼が使える方法である。もっと時間があれば、物質の一部だけを燃焼させたり、やる気以外の感情を引き出すこともできたかもしれない。やはり、彼自身の能力を研究するための時間がない。彼は自分の持つ方法では、あの影に勝てないことを理解している。少し頭が回るからではない。彼と同じ境遇で頭が悪くても、きっと本能などで理解できることなのだ。
(今、打てる手は……)
彼は一つの可能性を思いついた。
章は授業があるのを理解していたが、いてもたってもいられなくなり、学校から抜け出した。朱羽を探すために出たわけだが、手がかりは全くない。昨日、警察に三度補導され、強制的に帰宅させられるまで探し続けても見つからなかったのだ。
章が学校を抜け出したころ、彼と同じように学校を抜け出すものが何名かいた。教師がそれを見つけて止めようとしたが、高校生とは思えない力で、捕まれた手を解いたという。その教師の話は誰も信用せず、自分が責任を負いたくないがための出鱈目な嘘だとした。しかしながら、昔から生徒が学校から抜け出すと言うことがあったため、その教師が処罰されることはなかった。
抜け出した生徒たちが向かった先は山の中の廃墟であった。章はこの場所のことを知らないため彼だけは街を走っている。
「よし、とりあえずは成功、か」
朱羽は集まった人物の顔を眺め頷いた。彼らは昨日の内に彼に種を植えられたものたちだ。朱羽は自分の力の一部だから、植えたものたちに何かを働きかけることができるのではないかと考え、昨日種を植えた生徒の顔を思い出しつつ、自分のいる場所を伝え、ここへ来させた。意識を乗っ取ったと言うよりは、何となくここへ来たいと思わせるようにして、ここへ来るかどうかは、その人たちの意思によって決められている。そのため、植えた人全員が来ているわけではない。優先すべき何かがあるものは来ていないし、ましてや授業中だ。授業を優先したと言うことだろう。彼は種を植えるときに、そういうところを見て選んでいた。その人の心に作用できるかはわからなかったが、毎日が楽しいのかどうか、授業を抜け出したいほどつまらなく思っているとかだ。そういう人ほど毎日にやる気はなく、結果が大きく出やすいのではないかと考えていた。それがまさか、こうした形で役にたつとは考えてはいなかったが。
「なんだ、ここ」
「何というか、廃墟、よね」
「ここに何があるってんだよ」
主に話しているのは三人でその周りにもう三人いる。男子が四人、女子が二人。いずれも運動部のはずである。
「君たち、俺の仲間にならないか?」
彼はその場にいる人の注目を集めるように声を出した。大声と言うわけではないが、心に気づかせるような声だ。しかし、全員が彼が誰なのかもわかっておらず、また、こいつは何を言っているんだと言うような表情をしていた。
「俺はライト・マイ・ファイア。人の心に火をつけられる」
これに対して何か訊かれるのが面倒だったので、廃墟に散らばっている瓦礫の一部に種を投げ発火させた。その場にいた人はその火を見つめて驚き、火が消えたあとに恐怖が襲ってくる。
「大丈夫だ」
そんな言葉ひとつで全員の不安が収まった。彼は彼らをここに来させることで種を植えた相手の心の方向を動かすことができるようになっていた。完全なものではないが、不安になりたくないと言う意思が元々あって、それを利用したのである。
「……それで仲間になるか、だっだな」
この中で一番、筋肉質で体の大きな男子生徒がそう言った。
「学校で勉強しているより面白そうだからな。協力してやるよ」
彼は本当に何も考えていなかった。この中で一番頭が悪いのだ。彼が何かする理由は面白そうだから、やりたいから、だからやるそういう単純な男だった。
「あんたはそれで良いかもね。でも、私は違うわ」
次に声を挙げたのは、ポニーテールの女性徒。彼女は朱羽を半端に睨むような視線を送っている。
「あんたは何に協力しろって言うのよ」
「ああ、僕も彼女と同じだ。それを聞かないとなんとも言えない」
一言も発していない生徒もこくこくと頷いている。訊かれた彼は俯いていたが、彼が考えていたのは、どう伝えるかであって伝えるかどうかではない。やがて、顔をあげた。
「人はもっとすごいことができる。俺はそう思ってる。だが、人は同じ人間でも区別して、協力するどころか、いがみあっている。だから、ここからまず変えたい。まずはこの学校をいい方向へ、それが終わればこの街を、そして、それを広げていく。人はもっと上へ行ける。そして、俺はその力を持っている。人のハートに火をつけて、いずれ全員が世界をより良い方向へと動かしていく」
ほんの少しの間を空けた。
「君たちには、この活動に協力してほしい。やってほしいことはただひとつ。この種を人に植えるだけだ」
彼の言っていることは誰にも理解はされていなかった。しかし、集められた彼らは既に朱羽の掌の上にいるのだ。種を植えられたと言うことはそういうことであった。
「そう、じゃ、私も協力するわ」
彼と話してしまったことで、より彼の能力の影響を受けていた。朱羽はそれを意図していなかったし、このときもそれは考えていなかった。
「僕もやるよ。ハートに火をつける」
喋らなかった残りの生徒も頷いて、協力することを承諾した。
これで彼は活動しやすくなった。六人に自分の種のことを説明して、一人十個の種を持たせた。もちろん、彼らがすることはその種を誰かに植え付けることである。こうして、彼の計画が始まった。
薄雪は章を探していた。本当は朱羽を見つけたかったが、そう簡単には見つからないと考えていた。そう思ったのはあの校門での出来事があったからである。影にあそこまでやられて、見つけやすい場所に身を置くとは思えなかったのである。それを考えるなら、章は隠れる必要はないのでそちらの方が見つけやすいと考えた。
彼女は屋上で彼と話したあと、すぐに学校を出た。抜け出した訳ではなく、堂々と校門から出ていった。できる限り早く出ていきたいと考えていたのは、章の様子から彼が授業に出ずに朱羽を探すかもしれないと思ったからである。早めに行かなければ、もしかすると隣の街や森の中に入っていってしまうかもしれない。そうすると見つけるのが難しくなるのだ。なんとしても、この街にいる間に見つけないと手間がかかるようになってしまう。
そう考えて、街中を歩き続け彼を探した。しばらく歩いていると、駅の近く、人通りが多い通りのその向こうに、彼らしき人物が走っているのが見えた。彼女はそれを確認したが、焦って走り出したりはしなかった。それどころか、彼の見えた方には移動せず、あらぬ方向へと歩き始めた。
彼女が向かった先は林の中にある金持ちの家だった廃墟である。章が向かうであろう場所を予想して、先回りしようと言う魂胆である。なぜその廃墟かと言えば、彼の走っていった先は住宅街で、特に公園があるわけでもなく、密会できるような場所は林の中の廃墟くらいしか思い当たらなかったからである。
(どこだ、朱羽がいるとしたら)
街を疾走する。息が少しだけ上がり、ほんの少し苦しい。それでも、彼は見つからない。この街の目立つところはほとんど回った。反対に極端に人目につかない場所も見てみた。しかし、どこにも見当たらない。
彼は今、住宅街の中を走り回っているところであった。彼が走るこの辺りの住宅街には公園もない。隠れる場所と言えば、家と家の間の一メートル程の隙間だけ。さらに、そんなところで誰かと何かをすることなどできるはずかない。何をするにも狭すぎる。それに隠れるにしても案外住宅街のこういう場所は目立つ。回りが明るい中暗い場所で何かが動けば、そこが気になりそこを見てしまう。つまり、この住宅街のそう言う場所を探す必要はあまりない。
走っている間にも様々なことを考え、彼がいそうな場所を探す。彼が行かなさそうな場所も先程から考えているが、目立たない場所となると難しい。そこでふと、住宅街に面する林を見つけた。この林と平行に道路が続いていて、この林を抜けても住宅街は続いていないように見えた。しかし、その中に何かが建っていて、木々の間から見えるそれの様子は窓ガラスが中途半端に割れていて、壁にもひびが入っている。
(なんだ、あれ)
彼にはそれが廃墟だと言うのは見ればわかることだが、ここにそんなものがあったことを知らなかった。だから、彼の頭の中にはこの廃墟という選択肢はなかったのである。
彼が廃墟の中に入ると、外から見た通り、中も荒れ放題でガラスや欠けた壁が床に散らばっていた。
誰かが入ってくる音がした。ガラスが警報の代わりをしてくれるので、この場所は隠れやすい。また、床も天井もボロボロで、二階の床の隙間から一階を見ることが出来る。彼はこの場所に来た人物を見るために、その隙間から一階を確認した。そこにいるのは女性であった。その人物はわざわざ彼のいる教室まで入り込み、しつこく質問してきた女生徒だった。名前は学校中で広がっているから知っている。天津薄雪だ。
(何しにきた。俺を探しているのか。どちらにしろ見つかると面倒だな)
彼は隠れ続けることにした。彼女はゆっくりと動き回っているが、二階の床に開いた穴から、彼女の同行を探ることは簡単である。
「あれ、いいの」
彼の協力者の一人は彼の近くにいた。彼は他の人と違う役割も与えられていた。その役割の結果報告に来ていたのだ。
「ああ。出てった方が面倒なことになる」
彼らは頭を寄せ合って、二人にしか聞こえない小声で話している。
「でも、あの人、天津薄雪、だよね」
「そうだ。何の用か知らないが」
二人は話もそこそこに彼女の監視に移った。
廃墟の中は埃が舞っていて、あまり息を吸いたくない空気の汚さだった。朱羽が本当にこの場所にいるかどうかは今は問題では無かった。彼女は章がここに来るであろうと考えて、この場所に先回りをしたのだ。
この廃墟のドアは既に壊れていたし、埃の状況で誰かが入ったかどうかはわからなかった。既に章がこの場所に入って出てきた後かもしれないが、彼女は一応、この場所で待つことにした。
しばらく待つと、廃墟を囲む草木が音を立てた。風が吹いたというわけではなく、明らかに誰かがこの林に入ったという音だ。彼女は章だと証拠もなしに確信して、ドアの前で待った。果たして彼は本当にそこに来た。
「……なんで、あんたがここにいるんだ」
彼は驚いているのか、怒っているのか、そのどちらも含んだ表情をしながら、声をだした。
「あなたを待っていたの。彼が何かしようとしているって話、今ならわかるんじゃない」
「知らない。あんたこそ何か知ってるんだろ」
彼女は一つため息をつく。
「知らないから聞いてるのよ。それにしても、ここに来るということは彼はここにいるということ?」
「それもわからない。探してない場所がここだけだった、それだけだ」
彼女はそうとだけ言って、何かを考え始めた。
「……もう行く」
彼は彼女の横を通り過ぎて、その廃墟へと入った。床に散乱しているガラスがバキバキと音を立てている。
「彼はきっと二階にいるわ。ここに居なければ、既に別の街に移動してるわね」
彼女はそれだけ言うと、その廃墟から出て、住宅街のある方へと歩みを進めた。
(やはり、彼には直接会わないと)
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