ストレンジ・デイズ 3
その日、薄雪は珍しく学校に来ていた。それも朝に他の生徒が登校してくる前には学校にいた。目的はもちろん、あの男子生徒である。名前は分からないが、顔は少し覚えている。彼が見つからなくても、彼と共にいた男子生徒は覚えているので、その人にも話を聞こうと考えている。
彼女は自分の席に荷物を置いて、二人のうちのどちらかが既に学校に来ているかもしれないと考えて、学校を見て回ることにした。
校内のほとんどを見てみたが、まだ、ほとんどの生徒が登校していなかった。それどころか、教師ともすれ違うことがなかった。何人かの生徒とすれ違ったが、どれも彼女の探している顔ではなかった。
しばらく歩き回っていると、運動部の朝練があることに気が付いた。たしか、もう一人の男子はジャージを着ていた記憶があるので、もしかするともうどこかにいるかもしれないと、グラウンドや中庭などの学校の敷地内の外も見て回った。
グラウンドは二つあり、片方は野球部が、もう片方はサッカー部が使っている。それぞれから大きな声が聞こえている。サッカー部の方が近いのでそっちから部員の顔を見てみた。しかし、その場所には探している彼はいなかった。サッカー部員たちが彼女に気がついたが見なかったふりをして、そのまま試合を続けた。野球部の方にも行ったが、結果は変わらず、そこには彼はいない。
ある程度、時間が経ったのでまた、校内を歩き回ってみたがやはり、目的の人物はいなかった。一旦落ち着いて、自分のクラスに戻ることにした。
クラスにも数人、登校して来ている。彼女がクラスに入っていくと、皆が一瞥し、自分のしていた作業に戻る。周りから見ると冷たい対応ではあったが、彼女はそんなことは気にせずに自分の席に座った。
(クラスが分かれば簡単なのに)
彼女の頭の中は自分の気になることで一杯なのである。そもそもそうでなくとも彼女が周りのことを気にする性格ではない。
気になることをメモしたノートを取り出して見つめる。前のページに戻ったり、次のページを捲ったりしている。そうして時間を潰していた。
クラスにはほとんどの生徒が来ていた。彼女がクラスにいることを話題に小声で話している生徒もいたが、彼女が立ち上がったことで、その話を止めた。彼女はそのまま廊下へ出た。クラスに居づらかったわけではなく、これだけの人数が登校してきたのだから、そろそろあの男子生徒も来る頃だろうと思ったからだ。クラスは分からないが、全てのクラスを見ればどこかにいるに違いない。見つからなくても夕方の屋上にいるだろうとも考えている。まずは自分のクラスのある階と同じ階を探してみることにした。彼がどこの席に座っているかも全くわからないので、それぞれのクラスを少しの間眺めて見てまわった。全ての教室で彼女が今度は何を始めたのかと奇異の視線を集めていたが、彼女は気にはしていなかった。三つほど教室を覗いて次の教室に行こうとしたところ、彼女は廊下で目的の彼を見つけた。すぐさま、彼が行ったであろう方向に移動する。すると彼は薄雪の方に向いた。彼は自分が見られていたと言うことを知っていたかのように驚くことなく、彼女をじっと見ている。
(……)
彼女もそれに対抗するかのように、じっと見る。彼は声をかけることはしないが、何の用か、と目で問うているようにも見える。彼女はそんなことを考えもせずに、これ以上睨み合っていても、時間の無駄と考え、彼に近づいた。
「あの球体、どうなってるの」
不躾に、唐突に質問した。彼は少しだけ、訝しげな目をしたが、すぐにもとの鬱陶しそうな表情に戻る。
「何の話だ」
表情が変わらないので、もしあの屋上での出来事を見ていない者だったら、簡単に騙せたかもしれない。しかし、彼女はあの現場を覗くつもりなどなかったが見てしまっているのだ。
「知らないわけないわ。私は屋上で見たから」
目を細めて彼を睨んだ。
「なるほど。たが、あれがなんなのか、俺にも分からない」
彼はあの種のことを隠す気はほとんどなかった。ばれると面倒くさいことになりそうだと思っていたため嘘をついたが、種自体のことは隠す必要はないと考えている。まずいのは、種の力が多くに知れ渡ってしまうことであった。
「わからないって。そんなはずは――」
彼はそれ以上話を聞かずに教室に入っていった。彼女がもし、彼の周りの人と同じなら、ここで彼女が去るのだろう。しかし、彼女は一般的に言う普通とは違った。彼女は彼が自分のクラスに入るのをみて、そのまま後を追うように、彼の教室に入った。そして、彼の席の前に立つ。
「人の話は最後まで聞くものよ」
彼は元々の鬱陶しそうな表情をさらに、鬱陶しそうにした。
「ここまでついてくるなよ」
「それで、あの球体って何なの」
「知らん」
「だから、知らないはずないでしょ。それに公園でもやったはず。鳥と男性に何かしたんだわ」
そこまで言われ、彼は心の中で舌打ちした。しかし、彼は自分の種の力を知らないというしかなかった。それに、彼自身、その力をなぜ自分が使えるようになったのかまでは知らない。気づいたら使えるようになっていた。彼からすれば、それだけなのだ。
「これがどんなだか、よくわからないんだよ。なんで俺が使えるのかもな」
「いいわ、もう。教える気がないなら、自分で調べるから」
彼女はこれ以上訊いても時間の無駄だと思い、彼のいる教室から出て行った。
それを目線で見送りながら、彼は一言呟いた。
「面倒くさいことになるかもな」
彼女はそのあと、彼と一緒にいたもう一人の男子生徒を探そうとした。しかし、探す手間をかけることなく、目的の人物を見つけることが出来た。なぜなら、目的の人物は今話した人と同じクラスだったからだ。彼は教室に入る前で、簡単に接触できた。
「ねぇ、ちょっと待って」
今度は彼女から声をかけた。睨んだり、見つめたりはせずに目の前に立った。
「な、なに」
目の前の彼は彼女に関する噂を知っているために、狼狽した様子である。
「あの……」
今更だが、彼女は彼らの名前を二人とも知らなかった。そのため、どう話せばいいのか、少しだけ迷う。名前がわかれば、話も簡単に済んだはずだった。彼女はほんの少しの間、首を傾け、どう話そうかと考えた。
「
その言葉を聞いた瞬間、彼は目を丸くした。どうしてそれを知っている、というのをそのまま表情にしている。
「それが、どうした」
「あなたもそうなの」
「もしかして、もう朱羽にあったのか」
彼女はようやく、あの種を使う男子生徒の名前を知ることが出来た。そして、それをさも知っていたというように話を続ける。
「ええ。あまり得るものはなかったけれど」
彼はそれから、何かを考えこんだ。一瞬の間が出来て、薄雪が話を続ける。
「あなたは、あれについて知っていることはあるの」
「俺は、何も、わからない。俺の方が知りたいくらいだ。あいつは何かしようとしてる」
(何か、ね)
彼女にとってはどうでもいいことだった。あくまで彼女は自身の知的好奇心を満たすためにやっていることである。どこかの誰かの内面の事情は知ったことではなかった。
これ以上は聞いても無駄だろうと見切りをつけ、彼から離れようとした。
「なぁ、あんたなら何とかできないのか。人知れず町を救ってるみたいな噂もあるあんたなら、あいつをどうにかできるんじゃないのか」
「私は誰かを救ったことなんてない。私の噂なんて全部嘘よ」
「そう、か。そうだよな。高校生が、そんなことできないよな。そりゃそうだ」
彼は額を掌で抑えて、ぎこちない笑みを作っていた。そんな彼に彼女はあきれて、普段は全くしない助言という行為をしてしまった。
「はぁ、できないとか言っているうちは何もできないわ。何かしたいなら何かしないと、何も知ることなんてできないの」
彼女が誰かに助言しない理由は自分がまだまだ未熟であるということと、人から考える力を奪ってしまうかもしれないと考えているからである。そんな彼女があきれ、助言してしまうほどに、彼は参っているように見えたのだろう。
彼女は、自分が当たり前のことを言ってしまったと恥ずかしく思って、顔が熱くなった。それを見られないように彼から顔をそらして、背を向けて、その場を早足で去る。
(全く、だから助言なんてしたくないのよ)
その場で彼女の背をぼうっと見ながら、彼は立ち尽くす。その間に、最後に彼女が残した言葉が頭で流れる。それを理解した時、彼女が案外、周りの人と変わらない人で、しっかりとした人だと感じた。
(何かしないと、何も知ることが出来ない)
彼は何かできることはないかを考えて、結論がいつも何もできないと思っていたが、そうではなかった。彼女の言葉を彼は理解できた。
彼女は自分の教室に戻って、自分の席でノートを開く。彼女が教室に入ったタイミングでは授業をしていたが、お構いなしである。また、教師も彼女を一瞥するが、それだけで咎めることなく、授業を進めた。
彼女は気になることを記したノートに今回のことをいくつか書いた。しかし、それを書いてもあまり進展があるようには見えない。それでも彼女はノートを見つめた。その後、放課後にまた、あの二人に話を聞きたいと考えたため、学校に残り他の気になることを調べつつ、時間を潰した。
彼女は朱羽に、自分で調べると言っていたが、そもそも不思議な種は彼しか扱うことが出来ない上に、他に例がないのである。インターネットで検索しても、アニメや漫画のキャラクターがヒットするくらいで、何かの病気とか現実の超能力者みたいなのは一切でてこなかった。せいぜい、火を使った手品が少し出てくるだけだ。
(やっぱり、ないわね)
やはり、彼自身に聞くしかないと結論し、放課後にもう一度話を聞こうと予定を立てた。
放課後、話を聞こうと思ったが、朝に話を聞いた感じだと教えてくれそうにもないと、話を聞くのを止めた。付いていって彼らを監視している方が、情報を得られるかもしれない。そう思って、彼女は彼らに気づかれないようについていくことにした。
彼女は電柱の裏に隠れるとか、角から様子を見ながらついていくということはしなかった。それはむしろ見つかりやすいことを知っていた。また、彼らをずっと見続けることもしなかった。人は視線に敏感で見つめ続けると簡単に気づかれる可能性があった。だから、彼女は彼らの後ろ数十メートル後を、なんでもないように歩いている。彼らの話が微かに聞こえる距離を保ちながら歩く。
しばらく歩いていると喫茶店に入ってしまった。そこは彼女がよく利用しているニルヴァーナという喫茶店で、普段から客数が少なく、何かするのに集中しやすい環境なのである。この店のマスターとは仲が良く、よく情報交換をしている。しかし、今入れば彼らにばれてしまう。何気なく入って行ったとして、朝のようにあしらわれてしまうかもしれない。ここは教室ではないので、簡単に逃げられてしまうだろう。色々なことを考えた結果、彼女は彼らが出てくるのを待つことにした。
しばらくすると、彼らが楽しそうな表情で店から出てきた。そして、また薄雪は彼らの尾行を始めた。
その後も特に気になるようなことはせずに、二人は別れた。彼女は興味のある方、つまり、朱羽の後を章にばれないようにつける。やはり、何かするわけでもなく、彼は家に入っていった。
(収穫なし、か)
彼女は少し残念に思いながらも、自分の家の方に向かおうとした。しかし、彼の家から離れつつ、歩きながらノートを取り出す。その内容を見ながら考える。彼が何かするならどうするか。
彼の力を考えると、すぐに効果が確認できた方がいいのだろう。公園で見た男性の年齢は四十代ほどだった。あまり、若いとは言えない年で彼の力の効力はあまり長くなかったかもしれない。ただの推測でしかないが、若い方が彼の能力の効果が持続しやすいのかもしれない。とすれば、学校で何かするのが一番分かりやすいが、そんな誰にでも見つかりやすい場所で行動を起こすだろうか。確かに、あの学校は人通りが多い道に面しているわけではないから、大きな通りでやるよりは見つかりにくいかもしれないが、やはり学校である以上、生徒はよく通るわけだ。いや、人通りというところだけを考えると、夕方になれば生徒は遅くまで残っている部活動の生徒だけである。その人数はあまり多くないことを、前に気になったことに関連して調べたので知っていた。
彼女はそこそこの情報を頭の中でまとめると、学校へと移動した。
学校に面した通りでは、多くの生徒とすれ違った。ここで生徒とすれ違うということは、学校にはあまり人が残っていないということだろう。この時間では、部活動をしていない生徒が残っていることはほとんどなく、部活動をしている生徒も片付けをしているか、既にそれも終わって帰っているかのであることも彼女は知っている。そこで、彼女の勘が告げていた。この場所にきっと、彼が来る。
部活動を終えた生徒の中には片付けの当番の生徒がいた。彼は水泳部だが、この学校の水泳部は訓練という名目で、いつも水球のようなことをしたり、ビート版で遊んだりしている。それを片付けるのは結構な手間で、片付け当番の生徒は今、ようやく終わったところだった。
(よし、終わり。遊ぶのはいいんだけど、片付けは面倒だよな)
心の中で、愚痴を言いながらも、しっかり片付けるのは水泳部の全員が遊んでばかりいるのがばれないようにするためである。もちろん、片付けている彼も遊んでいたのである。
「帰るかー」
疲れを吐き出すように、そんなことを言って、彼は帰り支度を始めた。
その時間には、他の部活動の生徒は帰っていた。
薄雪は校舎の中に隠れることにした。校門が見える位置にしゃがみ、校門からは見つかりにくいようにする。校門からは見つかりにくいが、グラウンドがある方向からは見つかりやすい位置にいた彼女は部活終わりの生徒の何人かに一瞥されていたが、やはり、それを彼女は気にする様子はないようだった。
(毎回、何してんだろうな)
片づけと身支度を終えた水泳部の男子部員は、プールから出て、グラウンドを通り、校門の方へと向かった。グラウンドを通るときに、誰かがしゃがんでいるのが見えた。それは校門を注視していて、こちらには気づかない。その人物が誰かはわかっていた。学年が違っても知っているくらい変人で有名な生徒、天津薄雪である。彼女の見た目が美人であることは誰もが認めるが、その言動があまりに非常識なために、彼女に関わろうとする人物は少ない。水泳部の彼も、関わろうとしない人の一部で、見かける度に何かをしているが、彼女に声をかけることはしない。今回も、それに違わず、彼女の後ろから視線を少しの間送るだけで、何事もなかったように、彼女の横を通りすぎた。
(人も少なくなってきた。そろそろ、出てくるかしら)
薄雪は、自分の興味のことになると凄い集中力を発揮した。彼女がしゃがみ始めてから既に一時間は経過している。しかし、彼女は体勢を変えることなく、校門の方を注視している。少しの変化も見逃さないためだ。そうしていると、その場に影が現れた。あの裏路地を進んだ先で出会ったあの影だった。
「こんばんは」
不意に誰かに挨拶された。しかし、その声は聞いたことがあって、それもまた裏路地を進んだ先で聞いた声だった。彼女の隠れている場所から、校門まではかなり離れている。それでもなおはっきりと聞こえてきた。頭に響いてくるのではなく、耳で音を聞き取っているのだ。しかし、辺りに響いている風には聴こえない。影が自分の横で話しているような、そんな風にしか聞こえないのだった。
「今度は返事、しっかりしたわね」
彼女の予想した通り、やはり、彼はこの場に来ていたようで影と会話しているらしい。彼女は影がわざと自分にも聞こえるようにしているのかと予想したが、影がそんな気を遣ったやり方をするとは思えない。しかし、少なくとも自分がここに隠れていることは知っているに違いない。そういう風に考えて、彼女は隠れ続ける。
隠れつつも、影の声を聞き続ける。彼がどんな返答をしたのかは分からないが、推測を含めて情報を集める。それがどういう風に役立つかは分からない。
真剣に集中して見続け、聞き続けていると、影に何かが当たった。それはきっと、種だった。薄雪には遠くからだと何かが飛んだとしかわからなかったが、この場で何かと言えば彼の扱う種くらいしか思い浮かばないだろう。
「何も意味がないと知っているのに、なぜかしら」
次に飛んだものは彼女にも見えた。それは火だるま。中に何かあるようだが、火の中で物体の輪郭がかすかに見える程度だった。それが影にぶつかろうとしているとき、影は手を素早く振るった。火だるまは二つになって火が消え中身が露になる。影の手には先の平たい剣が握られていた。シンプルな作りで先から長方形の
「いきなり、そんなものを投げるなんて危ないわね」
その声を聞いたときには、そこに影はいなかった。瞬きをしていないため、本当にその場から急にいなくなったのだ。
「ふ、ふ、ふ」
影の文字通りの空気を吐き出す音を聞いたがそれでも影の場所は掴めない。耳を意識しながらも、校門の方から目を離さなかったため、彼女から死角になっていた方の門の向こうから男子生徒が飛び出してきた。明らかに人間の跳躍力ではなく、更に空中でくるりと方向転換している。
「焦ると見えていたものも見えなくなるわね」
彼が着地したその瞬間、影は彼と回りの空気から溶け出したかのように現れる。液体のようではなく、気体であったものが流れにのって、一つの個体になっていくような動作で、影が形作られていった。先程持っていた剣も同じようにして固まっていく。影の体と剣が完全にできる前に影はその剣の先を彼に突き刺した。しかし、剣は刺さらなかったのか、彼は彼女の死角に吹き飛んだ。影はその体を完全なものにして、彼が吹き飛んで行った方向を見ている。再び攻撃する様子は全くない。
「案外、粘るのね。逃げれば良いじゃない」
影の言葉は彼がまだ生きていることを示していた。薄雪は改めて彼が人間ではないことを理解した。
校門にいる二人は睨みあっているのか、動きがなくなった。周りに人がいないため、この騒ぎに駆けつけるものもいない。そう思ったが、彼女は彼を思い出した。朱羽といつも一緒にいる男子生徒だ。彼女は考えた。もしかすると、彼が近くにいるのではないか、と。いつも彼らは一緒にいた。朱羽の変化にも気づいていたはずだ。しかし、友人とはいえ、そこまで気にかけることはあるのだろうか、と言う疑問も彼女の中に生まれた。
はたして、答えはすぐに訪れた。
「そろそろ、ね」
影の声が聞こえ、次には聞こえたのは影の声ではなかった。
「朱羽!」
辺りに響き渡るほどの大声で、彼の名を叫んでいる。校門の向こうで姿は見えないが、明らかに彼だろう。
彼女は隠れているのに、そろそろ我慢できなくなっていた。向こうで面白いことが起きている。それは蝶が花の蜜に誘われてしまうのと同じようなことであった。しかし、彼女にも危機管理の能力がある。今出ていくのは面白いものを知ることができるメリットと命の危険と言うリスクが予想できた。それは彼女にとっても天秤にかけるまでもなく、自分の命を優先することを選んだ。
さらに彼女の視界には、彼女とは違い状況を把握せずに校門から出ていこうとしている生徒がいた。
水泳部の男子生徒は、忘れ物に気づいてしまった。それはスマートフォンである。水泳部室に持っていけばよかったのだが、ホームルームの時にこっそり弄っていたため、机の中に入れたままにしていたのである。不用心だったが、幸い机の中にあった。誰かが使った形跡も無さそうなので、特に何もせずに帰ることにした。
廊下を歩きながら、外を見ると遠くの空は藍色になり始めていた。しかし、彼は急ぐことなく、玄関に向かい、そのまま靴を履き替えて、校門へと向かった。
薄雪が気づいた時には、彼女の位置からでは止めることはできなかった。章は朱羽に話しかけることで精一杯で、彼に気づくことすらなかった。影は気づいていたが、何もしなかった。そして、朱羽は誰よりも先に動いた。その動作に追い付けそうなのは影だけだったが、それはじっとこの場の行く末を見ているだけだった。
校門のすぐそこに何かがいた。人の形をしているのに、人ではないような気がした。心臓が大きく、一度脈打つ。ここにいてはいけない。頭が警鐘をならす。しかし、体は硬直したままだ。この現状に意識がついていかない。
「戦えっ!」
辺りに声が
(……戦わなくては)
やがて、思考も意識もそれで埋め尽くされる。
(戦わなくては、いけない)
ハートに火がつき、燃え上がる。全身がその命令を実行しようとしている。
(怖いものと戦え)
生きたいのなら、そうしろ。
薄雪は彼に種が二つ、埋められるのを見た。戦えと言う命令を聞くのか、それとも暴れだすだけなのか、何も起きないのか。じっとその日焼けした男子生徒を見る。彼はじっと影を見つめている。攻撃する気がないのかと思ったが、威嚇しているようにも見える。
「あなた、どうしたのかしら」
影はそう言って、急に手元に現れた刃先の平たい剣で、男子生徒に切りかかる。しかし、男子生徒は二つに別れることはなく、ゆっくりと膝を突き、前へと倒れた。影がそれを支え、ゆっくりと地面に横たえさせた。
「大丈夫よ」
その言葉は明らかに、薄雪に対してのものだった。その場にはきっと今は影しかいないのだろう。二人の男子生徒はその場から逃げているのだ。その証拠に影は校門から、彼女の前まで、いつの間にかに移動してきていた。
「彼はしばらくすれば起きるわ。そうね、この夕方が終わるくらいにね」
「……彼を追わないの?」
既に薄雪にとって倒れた男子生徒にあまり興味がなかった。
「すぐに会うことになるのよ。必ずね」
影にとっては深刻な事態ではないらしい。
「……彼が何をしてるのか、知っているということ?」
彼女は考えながら、少しずつ言葉にする。
「さぁ。そんなことは私にはなんだっていいのよ」
「じゃあ、何故彼を殺そうとするの」
「彼がルールからはみ出したから。みんなは見て見ぬふりをしているけれど、大体の人はわかっている。認識してしまった時点でルールの枠に収めなくてはいけない、ということを」
影は目を細めることなく夕日を見た。日は既に落ちかけていて、夕日と呼べるかどうかは曖昧だった。
「ルールの認識? みんなって誰のこと? 彼はルールを破ったってこと?」
「そうね。誰もが決定して、みんなが認識した。その時点で、これから外れたものは誰もが倒すべき敵になる」
影は彼女の質問すべてに答える気はないようで、言葉はそこで止められた。
「さようなら。やはり、あなたとはまた会うでしょうね」
その場には声と薄雪が残って、影はどこかへと消えた。
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