雨上がり―Side ?―

 しばらくして雨が上がった。いつもそうだった。雨が降ってきてこの軒下に入ると、父がやってくる。父がいなくなると、雨が上がる。そして私は父がいない日常へと戻っていく。


 雲の切れ間から差し込む夕日に、雨上がりの寂れた街が黄色く輝いていた。止まっていた時が再び動き出したように、目の前の通りを何台かの車が通り過ぎた。ため息をひとつ吐き、歩き出そうとしたところで、胸ポケットのスマートフォンが複雑な音色を奏でた。実家の母親だった。

「もしもし」

「もしもし? 明日、誕生日でしょう? みんなでご飯でも食べにいらっしゃいよ」

「母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 いつものように名乗ることも時候の挨拶もなく始まった母親の話を遮る。父に会う日が三日ずれた――。その事実が、父親の未来に、自分たちの過去に、何かしらの影響をもたらしたかを確認したかった。

「何よ? 改まって」

 母親の言うとおり改まって切り出したものの、次に言うべき言葉を考えていなかった。「父さんは生きてる?」では、あまりに不躾ぶしつけで不謹慎だ。迷っているうちに、あの場所の名前が口を衝いて出た。

「あら、懐かしいわね」と母親が言う。「まだやってるのかしら?」

「僕が五歳の誕生日に行こうって父さんと約束してただろう?」

「結局、その前日に父さんが事故に遭って行けなかったけどね。それがどうしたのよ?」

 探り探り話を進めていると、母親があっさりと答えを言った。

「やっぱり行かなかったんだ……」

「やっぱりって、何回も話してるじゃない? 何よ、いまさら」


 性懲りもなくまた期待し、そして徒労に終わった。三日のずれ。そこに何か意味があると信じたが、何もなかった。神様なんていまさら信じないが、誰であれ、無意味に私を雨の日の軒下に誘い続ける者の無意味な気まぐれに過ぎなかったのだろう。私の落胆に気づかない母はなおも続ける。

「それよりも明日の話。夜ご飯食べに来れる?」

「あぁ、そうだね。帰ったら相談してみるよ」

「お父さんも孫の顔が見たいってぼやいてるわよ。確かに、最近来てないわよね」

「え?」

「みんな連れてたまには顔出しなさいって話よ。あ、それからね。お父さん、来年で退職することに決めたって。雇用延長はしないみたい」

 あまりに自然に発せられたその言葉に思考が追いつかない。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。

「何言ってるんだよ……。父さんは、事故に遭ったんだろう?」

「は? あなたこそ何言ってるのよ。それはあなたが五歳の時の話。いまはぴんぴんしてるわよ」


 ――父さんが生きてる……?


「それにしても、あの日、傘を貸してくれたのは誰だったのかしらね。誰にせよ、命の恩人よね。あの傘を取りに戻ってなければ、お父さん、本当にいまここにはいなかったかもしれないんだから」

「もう一回……もう一回聞かせてくれよ。その事故の話」

「……いいけど」

 母は依然不思議そうではあったが、私の切羽詰まった様子を感じ取ったのか、訥々とうとうと語り始めた。


「あの日の夜は雨が降っててね。お父さん、真夜中まで残業して帰ろうと会社から出たところで、傘を忘れたことに気がついたらしいのよ。ほら、お父さんって昔から荷物が増えるのが嫌だからって傘を持ち歩かない人だったんだけど、その日に限ってたまたま誰かから借りたらしいの。で、いつもの癖で雨の中に走り出てから、『そうだ、借りた傘があるんだった』って思い出して引き返したんだって」

 息継ぎをするような間があってから、母は静かに続けた。

「二歩。お父さん曰くね、二歩戻ったところを、濡れた路面でスリップしたトラックが突っ込んできて、バンパーでお父さんを撥ねた。掠った程度だったから左肩の脱臼だけで済んだけど、もし引き返さないであと二歩進んでたら、まともにトラックに追突されてて一溜まりもなかったって、お父さん未だに言ってるわよ」

「……父さんは、いまそこにいるの?」

「いま? いまはまだ仕事よ。昔話はこれくらいにして、明日のことなんだけど……」


 その後、母親と何を話したかは覚えていない。気がつくと、電話は切れていた。にわかには信じられなかった。しばらく呆然とスマートフォンの画面を見つめていたが、やがてはたと気づき、視線を通りの左右へと走らせる。実家はタクシーで十数分の距離だ。


 ――いや、待て。まだ帰ってきていないと母さんは言ってた。それなら、会社に行ってみるべきか?


 父親がいまも私の知っている勤め先にいるのかはわからない。思考が錯綜し、頭が混乱した。自分は何をするべきだ?


「あの」

 その時、脇から声をかけられた。見ると、いつの間にか青年が立っている。年の頃は三十手前、だろうか。以前にどこかでその青年のことを見たことがある気がした。

「はい?」

「少しお時間ありますか?」

 勧誘の類か。残念ながら、いまそんなものに付き合っている暇はない。すでに先ほど感じた既視感は頭の中から抜け落ちていた。

「悪いが、急いでるんだ」

 そう鰾膠にべもなく言い捨てると、再び路上に目をやる。ちょうど左の方向からタクシーがやってくるところだった。手を上げながら通りの反対側へと駆け出す。


「……父さん、危ない!!」


 そう聞こえた気がした。けたたましいクラクションの音が鳴り響き、思わず足が止まる。振り向いた目の端で、濡れた路面にスリップしたトラックが見えた。次の瞬間、濡れ布団で力いっぱい殴られたような衝撃がある。体が宙に浮かぶ。体中の骨が軋んだのはその後だった。


 ぐしゃり。音だけで、地面に落ちた感覚はなかった。ただ、左半身が徐々に冷たくなっていくのを感じた。これは……雨? それとも、血? こめかみのあたりから流れ出る鮮血が、路上に落ちたたんぽぽの綿毛を黒く染めていく。


「あー、またダメだった」

 先ほど声をかけてきた青年が呟くのを、薄れる意識の片隅で聞いた気がした。




 過去でも未来でもない世界を、私は覗き込んでいた。

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雨が止むまで 水城たんぽぽ @mizusirotanpopo

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