雨宿り―Side B―
ぽつりぽつりと音を鳴らし始めた雨粒は、あっという間に土砂降りとなり、寂れた街の景色を灰色に煙らせた。すでに見慣れた雨の軒下からの風景。もうすぐここに父がやってくるはずだった。
程なくして、スーツをぐっしょりと濡らした若い男が駆け込んでくる。私の存在に気づくとばつの悪そうな笑顔を浮かべ、いつものように濡れた髪の毛を素手で拭った。
「おや、貴方も雨宿りですか。いやー天気予報じゃ晴れだって言っていたものだから傘持ってなくて、お恥ずかしい」
「……ええ、まあ」
無益だとわかっている会話に関与すればするほど、その後に訪れる喪失感が大きいことを私は知っていた。
「自分も似たようなものですので、お気になさらず。……その、煙は気にされませんか?」
父は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに人の良さそうな笑顔が戻った。
「全然大丈夫ですよ! 職場じゃ上司が皆スパスパやってますから、こちらこそお気遣いなく!」
「どうも」
「しかしあれですね、お互い災難ですねぇ。雨が降るならちゃんと天気予報でやってくれよって思いません?」
「まあ、こういう日もありますよ」
そう言いながら、自分の発言に自嘲気味な笑みを浮かべた。「こういう日」はもう二度と父には訪れないことを知っていたから――。
最初のころの困惑や驚きはとっくの昔になくなっていた。なぜ自分はこの雨の日の軒下で父に会うことを繰り返しているのか。その問いに答えがあるとすれば、ただ一つのはずだった。
――父を救うため。
だが、現実には自分が何を言ったところで、何をしたところで、父が車に轢かれて死ぬという結末を変えることはできなかった。それどころか、救おうとした回数だけ、父は死んだという事実に落胆することになった。自分がしていることは、己の無力さを下手くそな油絵みたいに何重にも我が身に塗りたくる行為でしかなかった。
やがて私はその重みに耐えられなくなり、諦めることを選んだ。軒下で繰り返される限られた時間を、過去を変えるために使うのではなく、ただ父と共有するために使うようになったのだ。救おうとしなければ、落胆することもない。
雨空に向かって吐き出した煙は、じっとりと湿気を含んだ軒下の狭い空間を漂い、消えた。
「それにしてもお互いツイていないというか、数日と空けずにまた雨に打たれてここでお会いするとは」
父の言葉に思考が停止した。いや、思考だけではない。力を失った指の間を煙草がすり抜け、乾いた地面にぽとりと落ちた。思考が戻らないまま、反射的にそれを拾い上げた。父の言葉を口の中で反芻する。まさか――。
「……すみません、うっかりしていて。その、今日は、何年の何日でしたっけ」
「今日ですか? えぇっと、一九九三年の六月十日ですよね?」
いつもの日の三日後――。六月十日は、父の命日だった。
「今日、何かあったんですか?」と父が続ける。
「……家族の、その、大切な日でして」
三日ずれた。これはいったい何を意味しているのか――。
「僕もね、家族の大事な日なんですよ。今日じゃなくて明日ですけども、息子が五歳の誕生日なんです。だから明日、お祝いに遊びに連れ行ってやることになってまして」
今日このあと自分が死ぬことになるとは露ほども思っていない父は、決して迎えることのない明日について無邪気に話し続けた。
「……それは、楽しみですね。ちなみにどちらへ?」
「ほら、えーと。なんだったかな、名前。ああ、思い出した」
父は私が予想したとおりの場所を口にした。明日、私の五歳の誕生日に行くはずだった場所――。
「あの場所ですか……」
「ご存知でしたか?」
「ええ、懐かしいですね」
私の言葉に、父が首をかしげる雰囲気があった。それもそのはずだ。父にとって、明日行くことになっているその場所は「懐かしい場所」などではない。
そこで、場に似つかわしくない着信音が流れ、私の胸は締めつけられる。もう何十年も聞いていなかった三和音が奏でるそのメロディーは、父親の思い出そのものだった。
「ちょっと失礼」
父はボタンが並んだ携帯電話のアンテナを伸ばすと耳に当てる。しばらくしてから「えっ」と声を上げた。
「明日の昼までに、ですか? いえ……わかりました」
父は電話を切ると、肩で大きくため息を吐いた。雨が一段と強くなったようだった。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
そう言ったきり、父は言葉を継ごうとしなかった。私はそれが運命の電話だったことを察した。
「明日、行けなくなったんですね?」
父は驚いたように私の顔を見たあとに、清々しいまでの笑顔を見せた。
「いえ、明日は是が非でも行かなくてはならんのです。息子と約束したんで。今から会社に戻ってもうひと頑張りすれば、明日は予定どおり休めますから」
それから父は止む気配のない雨を恨めしそうに見やり、「では、これで」と言った。
「あの!」
走りだそうとする父を慌てて呼び止める。「これを持って行ってください」
脇に立てかけていた傘を差し出す。
「おや、傘をお持ちでしたか。私と違って用意がいい」と父は笑う。「まだしばらく止みそうにないですから、それはお持ちになってください。私はこのとおり、すでにシャツまでぐっしょり濡れますんで」
「雨は……もうすぐ止みます。でも、また夜には降りだしますので」
父は不思議そうな表情を浮かべた。
「いや、でもまだ止みそうには……」
「いいから!」
思わず語気が荒くなった。一緒に過ごしたわずか五年の間に、父親にむかって怒鳴ることなどあるはずもなかったから、初めての感覚に私はひどく居心地の悪い気分になった。早く受け取ってくれ――。そんな私の心の声が届いたのか、父は差し出した傘に手を伸ばした。
「では、ありがたく借りることにします。そうだ、返しに行きますので住所を」
「いいんです。ついこないだ、息子に新しいのをプレゼントしてもらったので。気にせずお持ちください」
「……そうですか。では、遠慮なく」
男が傘を開く。バサッという小気味よい音が湿った空気を震わせた。その音が呼び水だったかのように私の脳裏にある記憶が蘇る。
『あの人、傘を持たない人だったから。あの夜も雨の中に飛び出したところを車に……。傘を持ってれば、もしかしたら助かったかもしれないのにね――』
母親が七回忌の時に、ぽつりと漏らした言葉だった。
「それでは」
父が軽く会釈をし、軒下を飛び出していく。その背中に私は焦燥感に駆られた。まだ、まだ過去を変えるには足りないかもしれない――。
「車には……車には気をつけてください!」
父は振り向くことなく、来た道を小走りに戻っていった。叫んだ声が、私の祈りが、父に届いたのかはわからなかった。
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