雨が止むまで

水城たんぽぽ

雨宿り―Side A―

 ぽつりぽつりと音を鳴らし始めた雨粒はあっというまに叩きつけるような勢いになって、スーツの上から下まで全てを濡らしていた。いつもは賑わっている商店街近くの大きな通りも、天気のせいか歩いている人の姿は一つも無かった。

 聞きなれた人ごみのざわめきの代わりに耳に届くのは、絶え間なく地面を叩く雨の合唱と、走る自分の足音だけだ。


 今日は雨なんて降らないと聞いていたから、傘など持っていない。

 早く帰れると思っていたぶん残念に思いながらも、私は雨宿りのできそうな場所を見つけて飛び込んだ。他の日ならともかく、今日風邪を引いたりすれば明日の予定が台無しだ。

 

 飛び込んだのはシャッターが下りた店の軒下だった。潰れたのか単に定休日なのかはわからないけれど、ありがたく使わせてもらおうと入って、そこで初めて先客がいた事に気がついた。自分と同じようにスーツを着込んだ、背の高い男だ。

 目元や顔立ちから察するに多分自分よりは少し年上だろう。一応、その顔にだけは見覚えはあった。名前は知らないけれど。

 つい三日前にも今日と同じように急な雨で、今日と同じように私は傘を持っていなくて、今日と同じようにここの軒下に飛び込んだ時に全く同じ顔と出くわしたのだ。その日は小さく会釈をしたきり、なんの会話も無くて気まずい思いをしたものだ。


 スーツで毎日会社へ行くような歳になると、全力疾走というものは少し気恥ずかしい。雨に降られてやむを得ずとはいえ、息を切らして飛び込む瞬間を見られていたとなればその居心地悪さはすさまじいものがあった。


「おや、貴方も雨宿りですか。いやー天気予報じゃ晴れだって言っていたものだから傘持ってなくて、お恥ずかしい」

「……ええ、まあ」


 照れ隠しに笑顔を貼り付けて、わざとにこやかな口調で声をかける。返ってきたのは低い声で、短い言葉だった。

 やっぱりちょっと取っつきにくい人だ。いつ止むかもわからない雨をしのぐ道連れには、少しだけ気まずい相手である。参ったなぁやっぱり少し無理してでも早く帰ろうかなぁ、などと一瞬迷うと、

 

「自分も、似たようなものですので。お気になさらず。走ってお疲れでしょうし……その、煙は気にされませんか?」


 相変わらず低い声ではあったが、そんな言葉が続いた。

 煙、というのは手元を見てすぐにわかった。手のひらに収まるような紙箱と、カラスのイラストが描かれた小さなライター。わざわざ吸ってもいいか確認するとは珍しい。職場じゃそんなの気にする人は数えるほどしかいないというのに。

 ――なんだ、別に悪い人じゃなさそうだぞ。三日前には気付けなかった事に気がついて、ほっと息を吐く。ついでに肩の力も少し抜けた。

 心の壁が低くなるにつれて口が軽くなるのは、もう完全に生まれ持ったさがだ。

 

「全然大丈夫ですよ! 職場じゃ上司が皆スパスパやってますから、こちらこそお気遣いなく!」

「どうも」

「しかしあれですね、お互い災難というか。雨が降るならちゃんと天気予報でやってくれよって思いません?」

「まあ、こういう日もありますよ」


 相手の男は少しだけ口元を緩めながらそう言って、煙草に火をつけた。少し吸って、白い煙がほんの一瞬だけ空を舞う。雨で空気が湿っているからか、あまり長続きしないらしい。

 煙が完全に消えるまで眺めてから「あぁそうだ」と話の種を見つけた。


「それにしてもお互いツイてませんねぇ。数日と空けずにまた雨に打たれて、同じ場所でお会いするなんて」


 そう言った瞬間、ぎくりと相手の男の肩が強張ったのが見て取れた。おや、向こうは気付いていなかったのだろうか、と気付かれない程度に小さく首を傾げる。ほんの三日前のことだしこちらの記憶はかなりハッキリしていた。

 まあ、会話も無かったから向こうにとっては印象が薄かったのかもしれない。私だって、前回も飛び込むところを目撃された気恥ずかしさのと気まずさのミックスがあるから覚えていたというだけだ。


 ぽとり、と耳に届く軽い音。何事かと驚いたのと、相手の男が素早くしゃがみこむのは同時だった。すぐに立ち上がった手には火の消えた煙草が一本。うっかり落としたらしい。


「すみません、うっかりしていて。その、今日は、何年の何日でしたっけ」

「今日ですか? えぇっと、一九九三年の六月十日ですよね? 今日、何かあったんですか?」

「……家族の、その、大切な日でして」


 それっきり相手の男はだんまりを決め込んだ。なんだろう、誕生日か、結婚記念日か。赤ちゃんが生まれるとかかもしれない。いや、それなら雨でも構わず帰ろうとしたっておかしくないから違うだろうか。

 とはいえ、その受け答えは一気に親近感を抱かせるものだった。理由はとても簡単だ。

 

「僕もね、家族の大事な日なんですよ。今日じゃなくて明日ですけども、息子が五歳の誕生日なんです。だから明日、お祝いに遊びに連れ行ってやることになってまして」

「それは、楽しみですね。ちなみにどちらへ?」

「ほら、えーと。なんだったかな、名前。ああ、思い出した」


 つい去年オープンしたばかりの、大きなテーマパークだ。実は去年も息子にせがまれて連れて行った事がある。その時よっぽど楽しかったらしくて、今年もう一度行きたいと言われたのだ。テーマパークの名前を教えると、相手の男は少し考え込むような目で屋根の外――雨のカーテンの向こう側を眺めてから「あの場所ですか」と返してくれた。有名な場所だから彼も行った事があるのかもしれない。


「ご存知でしたか」

「ええ。少し懐かしいですが」


 その返しには少し首を傾げた。つい去年開いたばかりのはずなのに、懐かしいというのはちょっと変だ。まあ人によって時間の感じ方なんてそれぞれだよな、なんて少し無理に納得して、そのまま話を続けようとして。

 懐に入れていた携帯電話が鳴って、思わず苦虫を噛み潰したみたいな顔になってしまう。


「ちょっと失礼」


 相手の男に一言断ってから渋々電話を取ると、案の定、会社の上司からだ。取引先の都合で、来週末までに用意しておけばよかったはずの書類を明日の昼までに形にしてほしい、と。無茶ぶりもいい所だ。

 とはいえそこでノーと言えないのが会社員というやつで、承諾して電話を切るなり私は深い深いため息を吐いた。屋根を叩く雨の音が、少し激しさを増して耳に届く。


「どうかしましたか?」

「あ、いえ……」


 横からそんな風に言葉をかけられて、なんと答えたものかと言葉に迷う。

 ついさっき、明日は息子の誕生日だから遊びに連れて行ってやることになっている、と言った直後にこの流れは口にするだけでも少々気まずい。

 けれど相手はその辺り、勘のいいほうだったらしい。


「明日、行けなくなったんですね?」


 あっさり見抜かれてしまったことに驚いて、そうなんですよあはは困っちゃいますよねホント、と口にしかける。口にする前に、ふと相手の目が気になった。

 随分と泣きそうな目をしていた。悲しんでいる、という感じではない。仮に悲しんでいるとしたらそれはそれで不思議な話だが。なにせ彼とはこれで二度目の会話でしかなくて、子供と遊びに行けなくなったことを彼が悲しむ理由も無いだろう。


 なんだろう、というのは考えても答えが出なくて、だからといってわざわざ確認する筋合いも無くて、けれど妙に気にかかる。少しだけ考えてから、私は別の言葉を口にした。


「いえ、明日は是が非でも行かなくてはならんのです。息子と約束したんで。今から会社に戻ってもうひと頑張りすれば、明日は予定通り休めますから」


 正直に言うと、明日の事は素直に息子に謝ろうと思っていた。考えを改めた理由は、これもまた実に単純だ。泣きそうな彼の目元がどことなく――本当に何となくだけれど、家で待っている幼い息子を連想させたのだ。

 謝ったら息子の目もこんな感じで泣きそうになるんだろうか、なんて考えてしまうともう、ちょっと無茶でも今日頑張ってしまえと思ったのだ。


「では、これで」


 ここから会社なら、走ればそれほど遠くない。よく考えれば散々濡れ鼠になった身でまだ濡れることを嫌がる方が滑稽だ。


「あの!」


 駆けだそうとしたところで、背後から声が飛んできた。今日話した中で一番大きく、慌てたような声だった。

 振り返ると、彼は傘を手に持っていた。


「これを、持って行ってください」

「おや、傘をお持ちだったんですか。私と違って用意がいい。まだしばらく止みそうにないですから、それは自分でお持ちになってください。私はこのとおり、既にシャツまでぐっしょり濡れてますんで」


 冗談半分、遠慮半分でそう言ったのだが、相手の首は左右に振れた。


「雨は……もうすぐ止みます。でも、また夜には降りだしますので」


 言われてつい首を傾げる。雨音はいまだ激しく、落ち着く気配なんて微塵もない。


「いや、でもまだ止みそうには」

「いいから!」


 突然声が大きくなって、反射的に一歩飛びのいた。

 いったい何事だろうか、と顔を伺うと、彼は視線を左右に泳がせて何とも気まずそうな顔をしている。怒鳴りたくて怒鳴ったわけではない、というのだけはその表情から伝わった。

 事情は分からないけど、妙に無碍むげにできないのは目元で息子を思い出したせいだろうか。


「では、ありがたく借りることにします。今度返しに行きますので住所を」

「いいんです。ついこの間、息子に新しいのをプレゼントしてもらったので。気にせずお持ちください」

「……そうですか、では、遠慮なく」


 ありがたいのは事実なので受け取るけれど、言葉通りに気にしないというわけにはいかない。いずれまた雨の日にでもここで会えるだろうかと思って、これ以上気まずい顔をさせないために素早く受け取った。


「それでは」


 小さく会釈だけして屋根の下を出ていくと、背後からまた声。


「車には……車には気をつけてください!」


 心配性なのだろうか。

 妙な人もいるものだな、と思わず口元が緩む。見知らぬ相手同士でも、こういうやり取りは案外悪い気がしないものだ。

 そういえば、どうして傘があるのに雨宿りなんかしていたのだろう――ふと脳裏に浮かんだその疑問は、急いで会社に向かわねばという小さな焦りに紛れてすぐに消えてしまった。

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