12 ぎゅっと抱きしめてもいいかしら?


 小さな体に激しい震えが走ったのが、つないだ手と、寄りかかった身体から伝わってくる。


 幼い顔を強い衝撃と恐怖に強張らせた晴喜の顔を見た途端、香淑は己の失言を激しく悔やんだ。


「ごめんなさいっ! 晴――」


「香淑」


 謝るより早く、晴喜がぎゅっと強く、香淑の手を握る。

 香淑を見上げた茶色の瞳に宿るのは、祈るような真摯しんしなまなざしだ。


「香淑は、榮晋を幸せにしてくれる?」


「え?」


 咄嗟に脳裏をよぎったのは、昨夜、榮晋に告げられた言葉だ。

 「お前をめとったのは――わたしを殺してもらうためだ」と。


 そんなことを望まれている香淑が、榮晋を幸せにするなど――。


 だが、香淑の内心など知らぬ晴喜が、ぐっと身を寄せてくる。


「香淑は、榮晋が選んだお嫁さんでしょう? 榮晋、今まではかたくなにお嫁さんを娶ろうなんてしなかったのに……。香淑のことは、必死に探して、今か今かって嫁いでくるのを待っていたんだよ? すごく楽しそうな顔をして……」


 晴喜が必死に言い募る。


 が、香淑には晴喜が話す内容と、自分が昨夜見た榮晋が、どうしても結びつかない。

 同じ名前の別人ではないかとさえ思う。けれど。


「お願い……。ぼくじゃ、力不足だから……っ」


 今にも泣き出しそうな晴喜の声と表情に、香淑は反射的に小さな手を握り返す。


「わたくしに、どこまでできるかわからないけれど……。できる限りのことをやってみるわ」


 晴喜の憂い顔を何とかしたい一心で、力強く言葉を紡ぐ。

 ついさっき会ったばかりだが、時間など関係ない。晴喜は、誰一人親しい者のいない丹家で、初めてできた友達なのだから。


 素直で愛らしい晴喜が、香淑に嘘をついているとは思えない。


 夕べ、一瞬だけ見えた榮晋のすがるような表情。

 あれが、本当の榮晋の姿なのだとしたら――。


「ありがとう」


 そ、と晴喜の柔らかな短い髪を撫でると、びっくりした様子で晴喜が顔を上げる。大きな目を見開き、きょとんと見上げる晴喜に、香淑は優しく微笑んだ。


「あなたのおかげで、大切な気持ちを思い出すことができたから。だから、ありがとう」


「……?」


 なぜ急にお礼を言われるのかわからず、不思議そうに小首をかしげる晴喜に、香淑はふわりと笑う。


「昨日は、驚愕することが多すぎたせいで、すっかり頭から抜け落ちていたけれど……」


 榮晋との結婚が決まった時の気持ちを、思い起こす。


 『夫君殺しの女狐』と疎まれていた香淑に、突然舞い込んだ縁談に、大きな不安と――同時に、かすかな希望を抱いたことを。


 今度こそ――。今度こそ、結婚相手と添い遂げられるのではないか、と。


「榮晋様のことを教えてくれて、最初の気持ちを思い出させてくれて、ありがとう」


 香淑はそっと晴喜の顔をのぞきこむ。


「あの……。一つ、お願いがあるのだけれど……」

「なあに?」


 小首をかしげた晴喜に、遠慮がちに切り出す。


「あなたのことを、抱きしめてもいいかしら?」

「もちろんだよっ!」


 言うなり、晴喜のほうから香淑に抱きついてくる。


 勢いよく飛びついてきた小さな体を、香淑はぎゅっと抱きしめた。


 少年らしい華奢な体躯たいく。明るい茶色の髪からは、胸をあたたかくするような陽だまりの匂いがする。


 榮晋の心を解きほぐせば……。もしかしたら、いつか、我が子をこうして抱きしめるという夢が、叶うかもしれない。


「やっぱり、香淑はあたたかくて優しい匂いがする。不思議な匂いも混じっているけれど……。でも、いい匂いだ」


 晴喜が甘えるように、香淑の胸元に顔をすり寄せてくる。


 子どもは好きだが、接する機会自体少ないので、こんな風に甘えられた経験などない。昔、年の離れた弟とじゃれあった時くらいだろうか。


 あたたかく小さな身体は、抱きしめているだけで、自分の胸にもあたたかなものがあふれてくる気がする。


 同時に、丹家での生活に対する希望も。

 香淑の努力次第で晴喜の笑顔を守れるのなら、励まぬ理由がどこにあるだろう。


 名誉も、矜持きょうじも、清らかさも。両親からの愛情も。もう、全部、とうの昔に失っている。


 香淑に残っているのは、もう、この身ひとつだけだ。

 ならば――。


 わずかなりとも望みがあるのなら、それに賭けぬ理由が、どこにあるだろう?


 そう思い、香淑はふと、己の心が身軽になったのを感じる。


 身一つで丹家に連れてこられ、夫である榮晋には、子をす気はないと明言された。


 どころか、殺してほしいなどと、とんでもないことを願われ。


 ふつうの精神の花嫁ならば、泣き伏し、我が身の境遇を嘆いていることだろう。

 だが。


 逆に、香淑は不思議なほどの清々すがすがしさを感じていた。


 きっと、これが香淑の人生で最後の機会だ。


 この婚姻がついえたら、今度こそ、香淑はただ日々を消費していくだけの生けるしかばねになるだろう。


 恐怖はまだ、胸の奥底で渦巻いている。

 けれど、今、目の前にあるかもしれない希望に見て見ぬふりをすることのほうが、ずっと怖い。


 求めても、見つからないかもしれない。

 手を伸ばしても、振り払われるかもしれない。


 けれど――。


 今朝、胸に抱いた梔子の花のように、香淑は心をこめて、晴喜の小さな体を抱きしめる。


「晴喜。あなたは力不足などではないわ」


 香淑は、声に力をこめて、先ほど晴喜がこぼした嘆きを訂正する。


「あなたのおかげで、挑んでみる気になったのだもの。あなたは、すごい力を持っているわ」


「……ほんとに?」


 不思議そうに問いかける晴喜に視線を合わせ、香淑は、大きく頷く。

 と、ようやく少年の顔から憂いが晴れていく。


「そう、だといいなあ……。榮晋は、大事な友達なんだ。もう、今は榮晋しか残ってない……。あっ、違った! 今、香淑も友達になったもんね!」


 てへへ、と舌を覗かせて笑う晴喜につられ、香淑も笑みをこぼす。


「ねえ、晴喜。教えて欲しいのだけれど、あなたと榮晋様がお友達だというのは――」


 問いかけた瞬間。


 ぴくり、と香淑の腕の中で晴喜が身動ぎする。

 耳を立てた兎のように、晴喜が首を巡らせ。


「聞こえる……」


「……これは、子どもの泣き声……?」


 晴喜に続いて耳をそばだてた香淑は、庭の向こうから、かすかに響いてくる子どもの泣き声を、耳にした。




~作者より~


「夫君殺しの女狐は今度こそ平穏無事に添い遂げたい」をお読みくださり、誠にありがとうございます。

 WEB版ではここまでの公開となります。


 こちらの作品は2024年4月25日に『夫君殺しの女狐は幸せを祈る』と改題、改稿のうえ、角川文庫様より発売となります。


 大いにすれ違っている香淑と榮晋の関係はどう変わっていくのか。

 香淑は本当に『夫君殺しの女狐』なのか。

 そして榮晋は媚茗から逃れることができるのか……。


 続きはぜひ、書籍版でお楽しみくださいませ……っ!


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【4/25書籍発売】夫君殺しの女狐は今度こそ平穏無事に添い遂げたい ~再婚処女と取り憑かれ青年のあやかし婚姻譚~【WEB版】 綾束 乙@迷子宮女&推し活聖女漫画連載中 @kinoto-ayatsuka

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