11 陽だまりの少年
「待って!」
がさり、と茂みの向こうに隠れようとした少年を、香淑は
「待って、その……」
うまく言葉が出てこない自分に歯噛みしながら、渡り廊下の端に取り付けられた階段から、小走りに庭に下りる。
少年は茂みの向こうに姿を隠したままだ。が、茂みが揺れていないところから察するに、じっと息をひそめているのだろう。
庭に下りた香淑は、茂みから少し離れたところで足を止めて屈む。急に近づきすぎて少年を驚かせては気の毒だ。
「こんにちは。わたくしは香淑というの。昨日、丹家に来たばかりで、何もわからなくて……」
できるだけ、柔らかな声を意識する。
「一人で心細い思いをしていたの。よかったら、茂みから出てきて、おしゃべりをしてくれない? わたくし――」
先ほど見えた幼い顔立ちを思い描くだけで、口元に自然と笑みが浮かぶのを感じる。本心を乗せた言葉は、するりと唇からこぼれ出た。
「わたくし、あなたとお友達になりたいの」
「とも、だち?」
がさり、と声とともに、少年の迷いを表すように茂みが揺れる。
姿が見えぬままの少年に、香淑は大きく頷いた。
「そう。この家には、親しい人はまだいないから……。あなたが、わたくしの一人目のお友達になってくれない?」
「友達に!? うんっ、もちろんいいよ!」
弾んだ声とともに、
無邪気そのものの笑顔は、初夏の陽射しよりもなお、明るい。
香淑の前まで駆けてくると、少年はにっこりと微笑んだ。
「ぼく、晴喜っていうんだ! お姉さんは、香淑っていうの?」
「ええ、そうよ」
間近でふりまかれる笑顔がまぶしい。
お姉さんなどと呼んでもらえる年ではないのだが、晴喜の言葉を否定するのもどうかと思い、笑顔で頷く。
人懐っこい晴喜の笑顔を前にすると、こちらまで自然と笑顔になってしまう。
「ふうん」と頷いた晴喜が、くりくりとした目を、香淑に真っ直ぐに向ける。
「じゃあ、香淑が榮晋のお嫁さんなんだよね?」
◇ ◇ ◇
きゅ、と香淑の手を強く握りしめる晴喜の手の小ささに、香淑は言いようのない愛しさを覚える。
子どもは好きだ。
自分自身に授かる見込みがないせいか、小さい子どもを見ると、無条件で可愛く思えてしまう。
「こっちこっち」
晴喜は香淑の手を引いて、弾むような足取りで庭木の間を歩いていく。
香淑の部屋がある棟の角を曲がったところで。
「あ……っ」
ふわり、と鼻をくすぐった香りに、香淑は思わず声を上げた。
「どうしたの?」
立ち止まった晴喜が小首をかしげる。
「ごめんなさい。ちょっといいかしら?」
晴喜が頷くのを待つのももどかしく、
つやつやと厚みのある濃い緑の葉の間に、一重の白い花びらが、初夏の陽光の中で自ら光を放つようにきらめいている。
「香淑?」
梔子の木の前で、凍りついたように動かなくなった香淑に、晴喜が不思議そうな声をかける。
「その……」
答えかけて、ためらう。
香淑が見つめているのは、梔子の木の一点だ。
そこだけ、ぱきりと枝先が折られている。
梔子の枝を折ったのは誰かと晴喜に尋ねたところで、知るはずがないだろう。
「なんでもないの。いい香りだと思って……。待たせてごめんなさい」
「ううん」
あっさりとかぶりを振った晴喜が、香淑の手を引く。
晴喜が案内してくれたのは、庭木の間に隠れるように建てられた、こじんまりとした
やはり、ここにも人気はない。
四阿に
座りながら、香淑はそっと晴喜の様子を
年の頃は六、七歳くらいだろうか。陽光をはねかえしてきらめく茶色の髪と、同じ色の目をしている。
黒髪に黒い目の者が大半を占めるこの国では比較的珍しい色彩だ。もしかしたら、異国の血が流れているのかもしれない。
明るくあたたかな色合いは、晴れやかな晴喜の笑顔によく似合う。
が、この少年は何者だろうか。
丹家の庭に詳しそうなので、別の屋敷の子ではあるまい。ということは……。
香淑は、榮晋の白皙の美貌を思い返す。
榮晋は二十三歳だ。あの美貌なら、周りの女達が放っておかぬだろうし、若気の至りで、子どもが生まれてしまったという事態は、十分に考えられる。
それにしては、先ほど、晴喜が榮晋を呼び捨てにしたのが
それに、月の光を
母親似なのだろうか。こんなに愛らしい笑顔を振りまく晴喜の母親ならば、きっと当人も、榮晋の心を捕まえて離さぬ、笑顔の素敵な美女に違いない。
まだ見ぬ榮晋の愛妾を思い描いた心が、ずきりと痛む。
「人形みたいにすました顔が気に食わん」
不意に、一人目の夫の言葉が記憶の底から甦り、香淑は固く目を閉じてかぶりを振った。
「どうしたの?」
つないだままの手に力が入ったからだろう。晴喜が心配そうな声を出す。
香淑は目を開け、あわてて口元に笑みを浮かべた。
「なんでもないの。その……。この四阿は素敵な場所ね」
こじんまりとしているが、それがかえって落ち着く。
深く息を吸えば、花々の優しい香りが心の痛みをまぎらわせてくれる気がする。
香淑の言葉に、晴喜の顔が、ぱぁっ、と輝いた。
「そうでしょ! いい場所でしょう!? ぼく、ここ好きなんだ~。ここでそよ風に吹かれながらお菓子を食べたら、いつもよりもっとおいしく感じられるんだよね!」
「晴喜はお菓子が好きなの?」
「うんっ、大好き!」
無邪気な即答に、香淑も自然と笑みがこぼれ出る。
「じゃあ、次に会う時までにお菓子を用意しておくわね。焼き菓子は好き?」
「うん! どんなお菓子も大好きだよっ」
大きく頷いた晴喜が、甘えるように香淑に身を寄せてくる。
「ああ、よかったぁ~。香淑が優しそうな人で。ちょっと不思議な感じがするけど、すっごくいい匂いだし」
「……その」
「なぁに?」
笑顔で見上げる晴喜に、ためらいを振り切るように、問う。
「晴喜はその、榮晋様のお子様なの?」
「へ?」
くりっとした目が、更に丸くなる。かと思うと。
「ぷっ! そんなわけないじゃないか! ぼくは榮晋の友達だよ!」
けらけらと晴喜が明るい笑い声を立てる。
「友達……」
「そうだよ! いくらぼくがちっちゃく見えるからって……」
胸を張って何やらいいかけた晴喜が、途中で口ごもる。と、ごまかすように小首をかしげた。
「それにしても、なんで息子だと思ったの? 榮晋、まだあんなに若いし、顔だってぼくと似てないのに」
「それは……」
まだ幼い少年に言っていいものかどうか、ためらう。が、知りたいという欲求が、唇を動かしていた。
「だって、榮晋様には、わたくしの他に、おそばに
さすがに「愛妾」とは言えず、ぼかした言い方をする。
明確な答えを期待したわけではなかった。が。
「……っ!」
晴喜の顔が、凍りつく。
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