10 アレは、駄目だ。


 答えを知りつつ、かつて断られた問いを再び口にすると、道玄の太い眉がきつく寄った。


 健啖けんたんぶりを発揮していた箸を止め、酒杯を呷った道玄が苦い息を吐く。


「オレは自分の道士の腕前に、自信を持っている」

「逃がした妖怪は、十六年前に一匹だけ、だったか」


 以前、道玄から聞いた武勇伝を持ち出し、榮晋はからかうように口の端を上げる。


「ああ。あの時はまだ、お師匠について回る見習いだったからな。まあ、仕方がねえ」


 道玄がひげの下でにやりと笑った。


「そこいらの道士に、腕前じゃ負けやしねえ。人に害をなす妖怪を退治するのに否はないが……」


 道玄が重々しく首を横に振る。


は駄目だ。封じるためには、根本を叩かなきゃいけねぇが、領域内での力が強すぎる。オレ一人の手に負える相手じゃねぇ。残念ながら、オレは自分の命と引き換えに妖怪を封じてやるほど、お人好しじゃないんでな」


 道玄の言葉に、榮晋はゆったりと頷く。


 自分の命が第一だと明言する道玄は、綺麗事を言う者より、よほど信頼できる。


「さすがに、何百年と丹家に取り憑いて、その血をすすり続けてきた大妖たいようだけはある。ま、丹家の直系も、旦那で最後の一人だが」


「この呪いを次代にのこす気はない」


 決然と言い切り、榮晋は薄く笑う。


 両親はもういない。誰よりも大切な姉は、遠い他州へ嫁いで幸せに暮らしている。


 媚茗びめいは、丹家の血と土地に取り憑いている白蛇の妖怪だ。

 丹家の外ではさほど力を振るえぬが、その領域内では甚大な力を持つ。


 ――後は、榮晋だけだ。


 榮晋さえ、命を絶つことができれば、何百年も昔に、媚茗と交わした盟約から逃れられる。


 血族の中から清らかな乙女をにえとして媚茗に差し出す代わりに、多大な富を丹家にもたらすといういにしえの盟約から。


 道玄ほどの実力があっても、媚茗を封じることが無理なのなら、からめ手でいくしかない。


 そのために。

 一縷いちるの望みを託して、榮晋は香淑を娶ったのだ。


 『夫君殺しの女狐』と噂される花嫁を。


 榮晋は向かいに座る道玄を、期待を込めて見やる。


「道玄。わたしでは香淑の本性を見抜くことはかなわなかった。お前ならば、本性を見抜けるか?」


 榮晋の問いに、道玄が眉を寄せて頷く。


「確かに、さっきの話だけじゃあ何とも言えんな。会ってみて……。必要とあれば、多少手荒なことをしてもいいってんなら……」


 「女に手を挙げるのは趣味じゃねぇんだがなぁ」とぼやく道玄に、榮晋は、


「かまわん」

 と即答する。


「お前さえよければ、今すぐにでも――」

 腰を浮かせかけた榮晋に、道玄が困り顔で頭を掻く。


「わりぃ。実はこの後、急ぎで出かけなけりゃいけねぇ用事があるんだ」


「今度は、どこで妖怪退治だ?」


 豪放磊落ごうほうらいらくで人を食ったようなこの男が、実は情に厚く、困っている者を見過ごせない性格だと、榮晋は知っている。


 だからこそ、媚茗を滅ぼすことはできないと言いつつも、こうして慶川けいせんの街に留まり続け、榮晋の相談相手を務めてくれているのだろう。


 もし、道玄と出会っていなかったら、とうの昔に自暴自棄になり、生ける屍と化していただろうと思うと、道玄には感謝の気持ちしか湧かない。


 榮晋の問いかけに、道玄は言葉を濁した。


「あー。おいおい、そうなればいいっていうか……」

 大きな手でがしがしと頭を掻く。


伝手つての伝手を頼って探してた蛇の妖怪に効くってゆー妖刀が手に入りそうなんだよ。見返りに、一つ仕事を手伝うことになっててな。二、三日ほど出かけなけりゃならねーんだ」


「それ、は……」


 咄嗟とっさに言葉が出てこず、榮晋は言葉を途切れさせた。


 道玄が榮晋のために蛇の妖怪に効くという妖刀を求めてくれているのは、明らかだ。


「わたしは、お前にどう礼をしたらよいのだろうな? 花嫁のことといい、今回のことといい……。どれほどの礼を尽くせばよいのか、わからん」


 正直に告げると、豪快な笑いが返ってきた。


「馬鹿言え! やっぱり、まだ寝惚けてやがるだろう!?」


 大声に驚いて、うつむけていた顔を上げると、道玄が明るい笑顔を榮晋に向けていた。


「オレはまだ何にもしてねぇだろうが! 心配すんな、見事、媚茗の奴をどうにかした時には、丹家が潰れちまいそうなほど飲み食いして、たんまり報奨金をせしめてやるからよ!」


 手酌で杯を呷った道玄が、無精ひげの下でにやりと笑う。


「覚悟しとけよ。その時には、この卓に収まりきらねぇほどの高級料理を並べて祝宴だからな。酒瓶の林を立ててやるから、たっぷりの銭を用意しておけよ!」


「……ああ」


 ぞんざいな口調の裏にひそむあたたかさに、榮晋は口元をほころばせて頷く。


「お前と祝杯を交わせる日を、楽しみにしている。どうか、気をつけて行ってきてくれ」


「もちろんさ。旦那も、オレが帰ってくるまで、変なことを考えるんじゃねぇぞ?」


 釘を刺すように睨まれ、榮晋は笑ってうそぶく。


「わかっている。せっかく手に入れた花嫁なのだ。逃げられるわけにはいかんからな。お前が帰ってくるまではおとなしくしていよう」


 逃がす気など、欠片もないが。


「……おいおい、仮にも花嫁に対する言いぐさじゃねぇだろ、それ……」


 再び箸を料理に伸ばしながら、道玄が呆れた様子で嘆息する。


 榮晋は微笑んだまま、あえて答えない。


 道玄を、もちろん信頼している。

 だが、同時に。


 その道玄が「アレは無理だ」と告げる媚茗から、逃れられるただ一つの方法が、教えられて以来、胸の奥でずっとずっと、渦巻いている。


 もう、丹家の直系で残っているのは榮晋一人なのだ。

 遠い他州で暮らす限り、媚茗は姉には手を出せない。


 ならば。


 後は榮晋が死ねばいい。


 むろん、媚茗はどんな手段を使ってでも、榮晋を死なせぬだろう。

 実際、媚茗の呪われた加護がある限り、刃物だろうが、毒だろうが、榮晋を傷つけることは叶わない。もうすでに、何度も試して失敗済だ。


 榮晋の嫁取りを、不承不承だが媚茗が了承したのも、丹家の血を絶やさぬためだ。


 それを、榮晋は逆手に取った。


「道玄。好きなだけ食べてくれ。勘定はこちらで済ませておく」


 椅子から立ちながら告げると、骨付きの豚の足にかじりついていた道玄が「んぁ?」と視線を上げた。


「全然、食べてねぇじゃないか。そんなんで身体がもつのかよ?」


「この後、屋敷で取引相手と会って、食事をする予定があるのでな。お前は好きなだけ食べていろ」


 榮晋はあっさりと嘘をつく。

 屋敷で取引相手と会うのは確かだが、食事の予定はない。


 媚茗に絶えず精気を吸われている自分が、男としては痩せぎすだという自覚はある。食べねば身体がもたないという判断も。


 だが、どうにも食欲が湧かぬのだから、仕方がない。


 ああ、早く。

 と榮晋はこいねがう。


 早くこの忌々しい呪いから解放されたい、と。


 道玄に背を向けて歩む榮晋の胸の中で、蝶のようにひらひらと舞うのは、かつて、道玄と出会って間もない頃に教えてもらった言葉だ。


 あの時の道玄のしかめたひげ面も、苦々しい声も、昨日のように思い出せる。


「呪われた加護を受けた人間が、そこから抜け出す方法? そりゃあ、その妖怪自体を封じるか、滅するか。でなけりゃあ……」


 ――聞いた時、己の心に宿ったくらく、ひそやかな熱も。



「同等かそれ以上の力を持った妖怪に殺されるか、だ」



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