第11話
喫煙室から戻ってきた後、僕と篠原は取るに足らない話をした。メニュー表に載っている間違い探しはなぜこんなにも難解なのかとか、ドリンクバーで元を取るには何杯飲めばいいのかとか、ファミレスでする会話としては模範的とも言えるほどに内容の薄い話だった。
僕たちがファミレスから出たとき、時刻はもうすぐ夜の十一時を回ろうとしていた。
「近くの駅まで送るよ。ここからそんなに遠くないけど」
軽く伸びをしながら篠原は言う。僕はちょうど、スマートフォンで地図のアプリを開こうとしていたところだった。
「かなり前から気になってたんだけど、ここはどこなの?」
「私の家の近くの駅から、ふたつ先のところかな」
ふたつ先。歩いている時間はかなり長く感じたが、思っていたより遠くまで来たわけではなさそうだ。
「篠原は家に帰るの?」
「帰るよ。気は進まないけどね。まあ、もうお母さん仕事に行ってて家にいないだろうし」
鍵が閉まってなかったらいいな、と篠原は小さく呟く。それが独り言だったのか、それとも僕に聞こえるように言ったのかは分からなかった。
「篠原」
「なに?」
分からなかったからこそ出そうとした言葉を、僕は飲み込む。
「ああ。いや、なんでもない」
「言ってよ。気になるから」
が、彼女に促されてしまったので、僕は口を開く。
「『もし困ったことになったら、僕の家に来ればいい』って言おうとしたんだ。もちろんセックス云々は別にして。けれど、そういう時は普通だったら同性の友達を頼るだろうと思い直して、言うのをやめた」
「うーん。今までにも家に入れないことが何回かあったけど、誰にも言ったことはないかな。コンビニとかファミレスで時間を潰すようにしてる」
「何回か?」
「門限過ぎちゃってさ。二、三回くらいかな。まあ、それは別に大したことじゃないんだ」
光が眩しいのか、すれ違う車のヘッドライトを彼女は軽く手で遮る。
「話が逸れちゃったね、誰にも言わない理由だっけ。簡単だよ。誰かの家に泊まるよりも、ひとりでいるほうが疲れないから。あと、武器にされたくない」
「武器?」
「分かりやすく言うと『私しか知らない篠原陽香の秘密』みたいな感じかな。それって、私との親密さを仄めかすのには充分な材料なんだよ」
「よく分からない」
「男子にはちょっと伝わりづらいかな。もっと単純に言おうか。─私と仲が良いっていうのは、一種のステイタスなんだ。それだけで学校での立ち位置が無条件で保障されるような。馬鹿みたいだよね、ほんとに」
ステイタス。社会的な地位や、身分を表すもののことだ。
例えば、高価な車や腕時計を所有したり、ブランド品を身に付ける。それらは裕福な暮らしを送っているという象徴となる。
これを学校という社会に置き換えてみる。外見も内面も完璧な、人気者の優等生である篠原と仲が良い。どれだけ仲が良いかで、優位に立てる。
もちろん全員がそういうわけではないだろう。純粋に篠原と話したい、仲を深めたいと思っている生徒も大勢いるはずだ。けれど、彼女が初めて自分がマウンティングのための武器にされているということに気がついたとき、どんな気持ちになったのか。僕には想像ができない。
僕は篠原と関係を持っていることに、それこそステイタスや優越感といったものを感じたことがなかった。付き合ったとか、セックスしたとか、そういう生々しいことを言葉にするのが好きではないというのもあるけれど、何よりもそれを誇示するような相手がいない。相手がいなければ、そんなものは虚しいだけだ。
「そういう意味では三枝君が一番付き合いやすいよ。割り切った関係ってことでお互いに接してるし、君がどう思っているかは知らないけど性格も合うし。喜んでくれてもいいよ。誉めてるから」
「へえ」
「それ、喜んでるの? ─まあいいけど。というわけで、今度からは家に入れなくなるようなことがあったら三枝君の家に行こうかな。場所、後で送っといてね」
そんなことを話しながら、僕たちは駅までの道を歩く。
もう夜も遅い。夕方までの照りつけるような暑さは少しずつ鳴りを潜め、微かにではあるが涼しい風が吹いていた。日中もこのくらいの気温であればいいのに、と叶うはずのないことを思った。夏は暑いから夏なのだ。
「あのさ」
「なに?」
「君は、どうして私とセックスをするの?」
篠原はとても率直に、はしたない質問を僕にぶつける。
「たまに考えるんだ。私は単にストレス解消というか、日常の憂さ晴らしだけどさ。たぶん君の場合は、したいからするっていう動機じゃないよね。かといって、私に好意を抱いているようにも見えないから」
僕たちは、まだ高校生だ。
なんとなく興味があるから。気持ちいいから。したいから。そういうものだから。純粋に短絡的に、快楽を求める。
夫婦のように子どもをつくるわけでもない。愛なんて抽象的なものもまだ知らない。高校生がセックスをする理由なんて、きっとそれくらいだ。それ以外の意味や目的を求める必要もない気がした。
僕の場合はどうだろう。「お前も気持ちいいからしてるんだろ」と誰かから言われても、僕は素直に頷くことができない。
なぜなら、そうではないと思っているからだ。うまく言葉にすることができないけれど、きっと僕は、そうではない。
けれど、勝手に他人を枠に当てはめておいて、自分は彼らと同じ枠組みに入れられたくないというのは単なる我儘だ。それは分かっている。だからこそ自分の感情を言葉にできないことがもどかくて、苛立たしい。
「いつか話すよ」
「本当かなあ」
「本当。けれど、いざ言葉にすると恥ずかしいから、心の準備がしたいんだ」
「準備?」
「そう、準備。けれど、したいからする。それとほとんど理由は変わらないかな」
言葉を濁しているうちに、彼女の言っていた駅にはすぐに着いた。僕が通学で利用している駅よりも一回り小さい。時間のせいか乗降客も少ない、物静かな駅だった。
「今日はありがとう。今度、埋め合わせするよ」
「別にいい」
「する。なんか気持ち悪いから。あ、私の気分がね」
僕が駅の改札をくぐろうと歩き出す。けれど、彼女は歩き出さなかった。それにつられて、僕も数歩だけ進めた足を止める。
「篠原は乗らないの?」
「私は歩いて帰るよ。なんとなく歩いて帰りたいから」
「そう。それじゃ」
「うん。じゃあね」
僕は改札を通り抜け、ホームまでの階段を途中まで上ってから振り返る。もういないかもしれないと思ったけれど、篠原はまだそこに立っていた。
「篠原。僕からもひとつ、訊きたいことがあった」
距離が離れているから、自然と僕の声も、そして彼女の声も大きくなる。人のいない駅に、僕たちの声が反響する。
「なに?」
「本当に、ただの親子喧嘩だったのか?」
一瞬の沈黙の後に、篠原は答えた。
「そうだよ」
彼女がそう言うのであれば、僕からはそれ以上何も訊くことはなかった。
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