第10話
喫煙室から戻ると、篠原は料理に手をつけることなく、テーブルに片肘をつきながら、じっと窓の外を眺めていた。窓の外は明かりも何もなく、ただ真っ暗だった。もし見えるものがあるとしたら、窓ガラスに反射する自分の顔と、客の少ない店内の様子だけだ。
戻ってきた僕に気がつくと、篠原は顔をこちらに向ける。
「お帰り」
「ああ」
そして、篠原はドリンクバーのカルピスウォーターを一口飲む。僕が戻ってきたことをきっかけに食事という作業を再開したかのように、その動きは事務的だった。
そんな篠原に、僕は尋ねる。確かめたいことがあった。
「ひとつ、確認していいかな」
「なに?」
「さっき家にいたあの人は、君のお母さん?」
「うん」
それはそうだろうな、と自分で訊いておきながら思った。あの人がもし母親ではなくて赤の他人だったとしたら、それはそれで別の問題が生じる。具体的に言えば、住居侵入とか。
それからしばらく、僕たちの間に会話は無かった。店内に流れている静かな曲が、やけに大きく聴こえる。
篠原はカルボナーラをフォークで巻き取り、黙々と口に運んでいる。僕もシーフードドリアを食べる。僕が煙草を吸っている間に、ぐつぐつと煮立っていたドリアはそれなりに温くなっていた。
やがて、篠原が食事をする手を止める。彼女の持っていたフォークの先端が皿が触れて、カチャ、と甲高い音が鳴る。もう食べ終わったのかと思ったけれど、そうではなかった。
「ごめん、三枝君」
彼女は申し訳なさそうな顔をして、小さく頭を下げる。
「お母さん、今日は仕事で泊まりになるって言ってたんだけどね。三枝くんが来るほんの少し前に、荷物を取りに帰ってきちゃって。ごめん」
僕は複雑な気持ちになった。いったい彼女は何に対して謝っているのだろう。僕はなぜ頭を下げられているのだろう。
無関係である僕に、自分の親との喧嘩を聞かせてしまったことだろうか。それとも、セックスが出来なかったことに対する謝罪だろうか。僕には分からなかったけれど、せめて後者でないことを望んだ。そんなことで篠原に謝られたくなかった。
「タイミングが良かった」
「え?」
「してる最中に部屋にでも入ってこられたら、大変なことになる」
僕がそう言うと、篠原は少しだけ驚いたような顔をした。冗談のように聞こえたのかもしれない。
「・・・そうだね」
けれど、すぐに篠原はほっとしたように笑う。それは、さっき彼女が家の前で浮かべた笑顔とは違う、柔和な笑みだった。
僕は普段、ほとんど冗談を言わない。というよりも、言えない。
他人に気を遣ったり、感情を察したりして、相手の望んでいる言葉をかけることを、僕は困難に感じることが多い。だから僕は、考えていることを、考えたままに言う。
「それと、篠原」
「なに?」
「別に、謝ることじゃない。だから、謝らなくていい」
「うん。じゃあ、もう何があっても三枝君には二度と謝らない」
「そういうことじゃない、と思う」
「冗談だよ」
彼女はグラスに半分ほど残っていたカルピスウォーターを、一息に飲み干す。そして、僕の目を真っ直ぐに見る。
「君に余計な気を遣わせるのも嫌だから、先に言っておくね。あれ、単なる親子喧嘩だからさ。あまり気にしなくていいよ」
「親子喧嘩」
「そう。どこの家庭でも起こりうるような、ありきたりな親子喧嘩」
「へえ」
自分の親、もしくは自分の子どもと口論になったとき、お互いあのように声を荒げることは普通のことなのだろうか。あまり親と喧嘩をしたことがない僕にはよく分からなかった。
「ねえ、三枝君。私も煙草、吸ってみてもいいかな」
突然の彼女の言葉に、僕は少し戸惑う。
「別にいいけど。君、吸ったことあるの?」
「いや、初体験」
「どういう心境の変化?」
「心境の変化、なんて大層なものじゃないよ。ただ吸ってみたいだけ」
断る理由も、断れる理由もなかった。僕も吸っているのだから、彼女に対して『未成年が煙草を吸ってはいけない』なんて注意することはできない。僕は篠原に煙草の箱とライターを手渡した。
彼女はそれらを受け取って、煙草やライターの感触をひとつひとつ確かめてから席を立つ。
「じゃあ、行ってくるね」
どこか緊張しているように見える篠原の背中を見ていると、彼女は正しく煙草を吸えるのだろうかという不安が頭をよぎった。けれど、わざわざ介助のように喫煙室の中まで彼女に付き添うのも変な話だ。どうにかなるだろう、と僕は楽観的に構えていた。
けれど、篠原が喫煙室に入ってから、僕が烏龍茶を一口飲み終わるまでの僅かな時間で、彼女はすぐに戻ってきた。そして、困ったように言う。
「ねぇねぇ三枝君。火がつかないよ」
「え?」
火がつかない。ライターのオイルが切れてしまったのだろうか。けれど、さっき僕が煙草を吸ったときにはまだ残っていたはずだ。そこまで考えて、僕は思い当たる。
「ああ。もしかして、口にくわえずに、手に持ったまま火をつけようとしたの?」
「うん」
「篠原。煙草は吸いながらじゃないと、火が点かないんだ」
「え、そうなんだ。意外と面倒くさいね」
「それでも吸いたい?」
「うん」
結局、僕は篠原と一緒に喫煙室へ向かうこととなった。
店内の隅にひっそりと設けられている喫煙室は、室外とは透明なパーテーションでしっかりと隔てられている。部屋の中央付近には、腰くらいの高さまである円柱状の白い灰皿がふたつ、並ぶように置かれている。
時代の流れなのか、最近は全席禁煙化を推し進めているファミレスが増え、喫煙室が併設されている店舗は徐々に少なくなってきているらしい。けれど、そもそも昔はこういった分煙という概念すらなかったというのだから驚きだ。
「先端を少しだけ炙るような感じかな。そうしたら、軽く息を吸う」
僕に言われた通りに篠原は煙草を口にくわえ、恐る恐る煙草に火をつけてから息を吸うと、思い切りむせた。
僕が初めて煙草を吸ったときの反応と、全くと言っていいほど同じだった。それを見て、僕は思う。
父はなぜあの時、まだ小学生だった僕に煙草を勧めたのだろう。単なる気まぐれだったのだろうか。単なる気まぐれで、自分の子どもに煙草を勧めるだろうか。そこには深い意図があったようにも思えるし、やっぱり大した意図なんてなかったのかもしれない。父にしか分からないことだ。
今となっては、もう確かめようのないことだけど。
「なにこれ。クソ不味いね」
涙目になっている篠原に僕は言った。
「ファミレスでクソなんて言葉を使うべきじゃない」
「未成年が煙草を吸うべきじゃないんじゃないかな」
それは確かに、と僕は頷いた。
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