第7話
翌日の夜。
篠原の家の前に着いた時、腕時計の針は、ちょうど午後八時を指していた。
僕の家から篠原の家までは、電車で十五分ほどかかる。その間には僕たちの通う学校の最寄り駅があるため、お互いに学校からはそう遠くないところに住んでいる。学校にも篠原の家にも自転車で行けないこともないのだが、僕は電車を使うことが多い。暑い日には、あまり自転車に乗りたくないのだ。
僕は彼女の家のインターフォンを鳴らす。が、呼び鈴が鳴ったあとしばらく経っても、なんの応答もなかった。寝ているのだろうか。それとも急用で外に出ているのだろうか。
彼女にラインを送るか、もう一度インターフォンを鳴らそうか迷って、結局僕はもう一度インターフォンを鳴らすことにした。さっきよりも少しだけ長く、そして少しだけ力を込めて、ボタンを押す。
今度はすぐに返事が返ってきた。
「どちら様でしょうか?」
けれど、それは篠原の声ではなかった。聞き覚えのない女性の声に、僕は少しだけたじろぐ。
誰だろう、と考えたのはほんの一瞬のことだった。考える必要もないくらい当たり前の事だ。この家に住んでいるのは、篠原だけではない。彼女の家族も住んでいるのだ。
僕はこのインターフォンの向こうにいるであろう、篠原の母親の姿を想像する。
僕たちはお互いの家の事情についてほとんど話したことがない。けれど、篠原の家を初めて訪れた時、彼女はこんなことを言った。
「うち、親いないこと多いから」
そのことを聞いた僕は、彼女の両親はふたりとも仕事で忙しいのだろう、という程度の認識を持っていた。
僕は篠原の家を何度も訪れているが、篠原以外の誰かが出てくるのは初めてのことだった。大方、仕事が早く片付いて帰ってきただとか、急に予定が変更になっただとか、そんなところだろうか。
ともかく僕は今、なにかを言わなければならない状況であることは間違いない。篠原の母親には、きっとモニターを通じて僕の姿が見えているだろう。このまま黙っていたら、ただの不審な人物でしかない。
「夜分遅くにすみません、篠原さんと同じ学校の三枝と申します。篠原─
出来るだけ平静な声音を心がけて、定型文のような挨拶を述べる。すると、しばらくの沈黙が流れる。
答えるのにそこまでの時間を要する質問だろうか、と僕は疑問に思った。いるか、いないか。答えはそのふたつしかない。
「どのようなご用件でしょうか?」
僕の求めていた答えはどちらも返ってくることはなかった。
それにしても、用件。いったいどのような用件と言えばいいのだろう。あなたの娘が誘ってきたんです。彼女の気分次第ではこれからセックスをするかもしれません、なんて答えることは流石にできない。
僕が思うに、篠原の家では、セックスという言葉を使うことが容認されるほど、性に関して寛容ではないだろうという予感があった。寛容な家庭のほうが珍しいだろうけど。
仕方なく、僕は適当なことを言う。
「─委員会活動の打ち合わせをする用事がありまして、それで伺ったのですが」
即興で考えた割りには、もっともらしい理由な気がした。篠原が事前に真実を言っていなければ、だが。
実際、夏休み中にも図書委員の活動は少なからずあるので、僕の言っていることは完全に嘘というわけではなかった。けれど、事前に打ち合わせが必要なほどの業務なんてものはない。
「・・・少し、お待ちください」
その言葉を最後に、インターホンの電源がブツリと切れる。電話口で相手に受話器を勢いよく切られたときのような、そんな気分になった。不愉快とまでは感じないけれど。
言われた通りにじっと待っていると、やがて玄関の扉越しに、怒気を孕んだような声が聞こえた。僕は眉をひそめる。篠原か、それともその母親か。どちらの声であるかは分からない。
徐々にその声は大きくなって、ふたつの足音とともにこちらに近づいてくる。そこで初めて僕は、声を荒げているのが篠原と彼女の母親、その両方であることに気がついた。どちらかが一方的に怒っているわけではない。ということは、喧嘩だろうか?
やがて、勢いよく玄関の扉が開く。そこには篠原がいた。
「ごめん、お待たせ。三枝君」
篠原は僕に向けて、柔らかく微笑んだ。
その顔は、彼女が僕に初めて見せるような、とても精巧で、そして人工的な笑顔だった。
そして篠原の背後には、彼女の母親であろう、細身の女性が立っていた。
高級そうな黒い革製のトートバッグを肩にかけたその女性は、清潔感のある黒いパンツスーツを一切の乱れなく、小綺麗に着こなしている。見るからに仕事ができそうな女性、といった印象を受けた。高校生の子を持つ親は若くても四十歳前後くらいになるはずだが、服装のせいか、それよりも若く見える。
けれど、その顔は篠原とは対照的で、少し強張っていた。娘の同級生である僕を目の前にしているからか、憤りを表に出すことをなんとか堪えているのかもしれない。
「じゃあ、行こうか。三枝くん」
行くってどこに、と僕が言うよりも先に、篠原の母親が静かに口を開く。
「陽香」
静かではあるが、とてもはっきりとした、鋭く突き刺すような声だった。相手を攻撃するというよりも、抑制するような声。
けれど、篠原は後ろにいる母親の呼び掛けに一切の反応をすることなく、僕の手首を掴む。
その力は想像していたよりもずっと強かった。男性である僕が、痛いと感じるくらいには。
「お邪魔しました」
僕は篠原に引っ張られながら、玄関にいる彼女の母親に軽く頭を下げる。掴まれている手首に伝わる痛みが、また少し強くなった。
僕が挨拶をすると、彼女の母親の表情が、強張ったものから、落ち着きを取り戻したようなものになる。そして、そのまま僕に向けて小さく会釈をした。
篠原がそんな母親の姿を見ることはなかった。見ていたのは、僕だけだった。
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