第8話
理由もなくただ歩き続けるという時間は、とても長く感じるということを僕は知った。
家を出てからの彼女は、あれから一言も言葉を発することなく、ただ前を向いて歩き続けている。僕は黙ってその横を歩く。端から見れば、奇妙な学生の男女と思われるかもしれない。
彼女はどこかの目的地に向かって歩いているわけではなさそうだった。なぜなら、僕の勘違いでなければ、僕たちは何度も同じ道を行ったり来たりしているからだ。これでは歩き続けているというよりも、彷徨っていると言ったほうが適切かもしれない。もう何十分も、僕たちは彷徨っている。
「篠原」
痺れを切らした僕が名前を呼ぶと、彼女は歩くことを止めて振り返る。街灯にぼんやりと照らされたその顔は、普段の表情と変わらないように見えた。
「篠原。少しどこかで休もう」
「なんかホテルへの誘い文句みたいだね、それ」
「だったら言い方を変える。どこか座って落ち着ける場所に行こう」
彼女は首を傾げる。
「私、そんなに取り乱してるように見える?」
「君はとても落ち着いているように見えるよ。単純に、僕が歩き疲れたんだ」
半分は本当で、半分は嘘だった。確かに彼女は見た目には落ち着いている。けれど、内面も冷静であれば、目的もなく歩くようなことはしないだろうと僕は思った。表情と感情の向きが揃っていなくて、歪だ。
彼女は少し考えるような素振りをしてから言う。
「ファミレスでいいかな」
ちなみに、歩き疲れたというのは本当だ。だから僕は、割りと大きめに頷いた。
ファミレスは、今いる場所からそう遠くないところにあった。交通量が多い道路の交差点の一角で、そのファミレスは煌々と辺りを照らしていた。
店内にいる客は、テーブルでノートパソコンを開いているスーツ姿の男性や、小さな子どもを連れた親子が何組かいる程度だった。静かな店内には、曲名までは分からないが、とてもゆったりとした曲調のピアノの音楽が流れている。
「あ」
店員に案内された席に向かい合って座ると、篠原は声をあげる。
「なに?」
「部屋に置いてきちゃった。財布」
「・・・僕が出すからいいよ、別に」
「ありがとう」
僕たちはドリンクバーを頼んだあと、篠原はカルボナーラ、僕はシーフードドリアを注文した。去っていく店員の背中を見つめながら、夏だというのにドリアを頼んでしまったのは失敗だったかもしれないな、と少し後悔する。どうして暑い日に熱いものを食べなければならないのだろう。
客が少ないこともあってか、注文した料理はすぐに来た。
僕はドリアを口に運びながら、店内をそっと見回す。店員たちも暇なのか、黙々と空いているテーブルの掃除をしたり、厨房のなかで談笑したりしていた。
「篠原は、ここのファミレスにはよく来るの?」
僕は篠原に尋ねる。彼女は無表情のまま、カルボナーラをフォークでくるくると巻いていた。
「たまにね」
視線を手元に固定したまま、言葉少なに篠原は言う。元気がない。やはり、いつもの彼女と同じ、という様子ではない。
「なら、この時間、ここにはうちの学生とかも来たりする?」
「・・・どうだろう。あまり見たことはないと思う」
「そう。なら、いいや」
もし知り合いがいたとしても関係ないか、と思いつつ僕は席を立つ。
「どこに行くの?」
トイレに、と言おうか迷ったが、やめた。
僕はそっと煙草の箱をポケットから取り出し、控えめに篠原に見せる。彼女は驚いた様子だった。
「意外。吸うんだ、煙草」
「ごくたまにしか吸わない。─両親の影響」
言い訳するかのように、僕は短く答える。
「未成年って煙草、買えないんじゃなかったっけ」
「家に大量にストックがあるんだ。 ─ごめん。そう言えば、先に聞くべきだった。煙草の匂いとか、気にする人?」
「うん」
未成年で喫煙しているのにも関わらず、煙草を吸う際のマナーは守ろうとする。矛盾した行動であることは、自分でも理解しているつもりだ。
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