第4話
聡明な優等生。それが篠原へ抱いた第一印象だった。
優等生といっても、篠原は自分から主張し、そして強い意思に満ちた、いわゆる教師には受けるが生徒には煙たがられるような優等生ではない。
学業でも、彼女が所属している弓道部でも、篠原は優秀な成績を残していた。けれど、それに驕ることなく、誰にでも分け隔てなく接し、女子だけでなく男子の冗談にも笑いながら付き合う。
そして、彼女は外見も、無駄の無い整った顔立ちをしていた。すっと通った鼻。くっきりとした二重に、大きな瞳と、長い睫毛。あまり良い言い方ではないかもしれないが、今もこれからも男性に困ることはないだろう、というくらいの容姿だった。
容姿にも恵まれ、人格も能力も優れている。才色兼備。その言葉が、篠原には最も似つかわしかった。
一般的に、そういった人間の周りには、なにもしなくても自然と人が集まるものだ。教師からも生徒からも、異性からも同姓からも、彼女は好感を持たれていた。
僕がそんな彼女と接点を持つようになったきっかけは、学校の委員会だった。去年同じクラスだった僕と彼女は、くじ引きで図書委員となった。
カウンターでの受付、返却された本の整理整頓、推薦図書などのポスターの作成。図書委員の仕事はそんなところだ。時間を拘束されることを除けば、委員会のなかではおそらく楽な部類だろう。
「三枝君、図書委員が似合うね」
図書委員としての、初めての活動の日。図書室のカウンターの受付に座っている僕の姿を見て、篠原は笑いながら言った。
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ」
図書委員となってからは、教室でも図書室でも、篠原と話す機会が必然的に多くなっていった。多くなったと言っても、彼女から話しかけてくることがほとんどで、僕から話しかけることはほとんどなかった。
僕は人とコミュニケーションをとるのが得意ではない。苦手という意味でも、好きではないという意味でもだ。
得意ではないから、僕は人とのコミュニケーションを最低限に留めるようにしていた。たとえその相手が、篠原であっても。
そして、おそらくこの消極的な姿勢が僕に友人がいない理由のひとつだろう。だからと言って、直そうとは思わないけれど。
その日は、今日と同じくらい暑い夏の日だったことを覚えている。
「ふたりとも」
司書の先生に呼び掛けられたとき、僕たちは書架の整頓をしていた。
この図書室の書架は、自然科学や社会、文学といったように細かく分類されているが、読まれた本が本来とは異なる、全く関係のない棚に返されることが多々ある。それを元の位置に戻すのは、図書委員の仕事のひとつだ。もちろん、生徒から返却された本も元の位置に戻さなければならない。
「ごめんなさい、ちょっと急用ができちゃって。悪いけど書架の整理が終わったら、照明と鍵の戸締まりだけしておいてもらえない? 鍵はそのまま職員室に返してくれればいいから」
「分かりました」
「ありがとう。それじゃあ、よろしくね」
先生は近くにいた篠原に鍵を渡すと、急ぎ足で図書室から出ていった。閉室まではあと少しだけ時間があるが、図書室を利用している生徒はもういない。僕と篠原だけが図書館に残された。
「じゃあ、残りもさっさと片付けちゃおうか」
【図書室】と書かれた簡素なタグがつけられている鍵を指で弄びながら、彼女は言う。
「僕が今持っている何冊かで最後だから、すぐ終わる」
「そう?じゃあ、待ってるよ。どうせ電気も消さなきゃいけないから」
書架に挟まれた通路を、僕は縫うように歩く。篠原は所在無げに、そんな僕の後ろをついてくる。
「それにしても、なんだろうね。急用って」
「さあ」
僕は適当な返事をした。手元の本と、書架の本。それぞれの本の背表紙に貼られたラベルを見比べながら、持っている本を棚の正しい位置に差し込んでいく。僕はその作業に没頭していた。単純な作業は、嫌いではない。
僕が手に持っていた最後の一冊を戻したところで、篠原はなにかに気づいたような声をあげた。
「あれ?」
すると、彼女は入り口の近くにある、閲覧席の辺りへ向かっていく。誰かの忘れ物でもあったのか、と僕も篠原の後を追う。
篠原の駆け寄った一席の閲覧席の机の上には、見るからに古く、そして重厚な書物が置かれていた。おずおずと篠原はそれを開く。
「・・・これ、年鑑?」
学校年鑑。いわゆる、この学校の歴史や成り立ち、そういった事柄が全て纏められている書物だ。
その年鑑は、表紙の装丁もくすみ、ところどころ破れかけてしまっている。随分と珍しい本を読む生徒もいたものだ。いったい誰が読んでいたのだろう。
「これってどこに返せばいいの?」
「一番奥。総記でいいと思う。戻してくる」
「へえ。詳しいね」
総記というのは、図書の分類のひとつだ。当該の書物が複数の分野に及ぶもの、もしくはどの分野にも属さないもの、というのが定義らしい。このような学校年鑑や、他にも百科事典、新聞などが総記に分類される。
その総記の書架は、この図書室の一番奥にひっそりと存在している。ここから本を取る生徒はおそらく少ないだろう。室内の照明も届きづらいのか、この辺りだけ少し薄暗く感じた。
僕は学校年鑑をそっと書架に戻す。息を吸うと、木とインクが混じったかのような、古い本に特有のどこか懐かしい匂いがした。
「ねえ」
いつの間にか、篠原は僕の後ろにいた。どうやら本を戻す僕をじっと見ていたようだった。
振り向いた僕の目を見て、彼女は言った。
「三枝君って、童貞?」
なにかの聞き間違いかと思った。けれど、そうでないことは僕自身が理解していた。
もしかすると、僕もどこか無意識の内に、彼女に期待をしていたのかもしれない。非の打ち所がなく、万人から好かれる女子生徒。そんな偶像を、頭のなかに作りあげていたのかもしれない。
篠原陽香。彼女はとても聡明な生徒だった。
しかし、彼女は優等生ではなかった。
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