第3話

 図書室を出て、僕たちは篠原のクラスの教室に行くことにした。篠原のクラスは二年二組で、僕の隣のクラスだ。

 試験が近いため、基本的に全ての部活は活動を禁止されている。普段であれば校舎内に満ちる、グラウンドから届く運動部の掛け声も、吹奏楽部が演奏する楽器の音も、今日は聞こえない。ただ蝉の鳴き声だけが、普段よりも大きく聞こえる。

 教室には誰もいなかった。すでに教室の冷房は止まっているようだが、まだ室内には若干の冷気が残っていて、ほんのりとした涼しさを肌に感じた。


「三枝君、進学希望だっけ」

「ああ」

「どこ志望なの?」


 僕は県内の国立大学の名前を挙げる。けれどその大学は、進路調査票の提出期限が迫ってきたために、形式的に空欄を埋めただけのものだった。これを志望していると言ってもよいのだろうか。


「へえ、こっちに残るんだ」

「はっきりと決めたわけではないから、まだ分からない」


 僕はまだ、大学受験というものを意識できずにいる。半年後には受験生となり、一年と少しが経てばこの高校を卒業するという事実が、遠い未来のことのように思える。そんな先のことまでは、どうしても思考が及ばない。


「篠原は?」

「東京に行くことになるかな。私もまだ具体的にどこの大学っていうのは決めてないんだけど、まあ適当に入れそうなところに行くよ」


 本人はそう言うものの、篠原は学年でトップクラスに成績が良い。彼女の言う「適当」は、おそらく平均よりもかなり高い位置にある。知名度もあり、そして偏差値も高い大学に入ることは、彼女にとってはきっと容易なはずだ。

 けれど、彼女はそこまで勉強熱心というわけではなかった。彼女の成績は、その地頭と、要領の良さによるものが大きかった。

 せっかく試験で良い点数が取れるのに、努力してもっと上の大学を目指そうとは思わないのか。以前、僕は篠原にそう尋ねたことがある。


「本気で努力しても報われなかったら、もう後がないじゃん」


 篠原は笑いながら答えた。

 後がない。それは、なんとなく彼女らしい表現だなと思った。

 試験においても、部活においても、彼女は一番を目指そうとするのではなく、自分の決めた基準を超えていればそれでいいと考えているらしかった。だから今日も、勉強より読書を優先しているのだろう。


「三枝君」


 そんな彼女が、静かに僕の名前を呼ぶ。

 その表情は、困ったようにも、どこか疲れているようにも見えた。それでも、その顔には薄い笑みを携えていた。


「もう、面倒だよ」

「初めて言われたな、そんなこと」

「ああ、ごめん。君のことじゃなくてね。三枝君は相当に淡白な人間だから、そこは安心してくれていいかな」

「それは、褒めてるの?」

「私はとても気に入っているし、助かってるよ、君のそういうところ。他の人がどう思うかは知らないけど、ね」


 どうやら褒められてはいないようだが、僕は彼女にとって都合の良い人間であることには間違いなさそうだった。彼女は言葉を続ける。


「面倒っていうのはね、自分のことを考えるのが」


 そう言いながら、彼女は教室の窓際にある机に腰かける。夕日を背にした彼女の身体に、濃い影が差した。


「前に、自分が特別な人間じゃないことに気が付いたって話をしたの、覚えてる?」

「ああ」

「私は結構昔からそのことに気付いちゃったんだけどね。それ以来、私は自分に関心が湧かないんだ」


 彼女は靴を脱ぎ、ふわりと両脚をあげて、腰かけていた机の上に体育座りをする。


「あ。念のため言っておくけど、ここ私の席だから。他人の机の上でこんなことしないよ、流石に」

「・・・」

「なにか言いたそうだね」

「別に」


 他人の机の上に座るべきではないという常識はあるのに、自分の机の上にその姿勢で座ろうとする理由が僕にはよく分からない。わざわざ机の上に座らなくても椅子に座ればいいのに、と思った。

 篠原は、僕の正面を向いて体育座りをしている。スカートの隙間から下着が見えてしまいそうで、僕は目のやり場に困る。けれど、考えてみれば、僕に下着を見られたところで、彼女は今更気にしないのかもしれない。僕に下着どころか、裸の姿も見られているのだから。


「上の中」


 まるで演目を読み上げるかのように、彼女は短く呟く。


「なんの話?」

「多くの人が私に対して下すであろう、総合的な評価。顔とか学力とか運動神経とか、そういうのを全部ひっくるめたやつ」

「それが?」

「下の下から上の上まで、大きく分けると九段階か。君は、私をどこに位置付ける?」


 少し考えてから、僕は答える。


「上の下」

「そう」


 彼女によく思われたいだとか、そういう打算などはなく、僕は素直に答えたつもりだった。篠原は、僕の評価に気を良くした様子も、気を悪くした様子もなかった。


「私はね、自分のことを、あらゆる面で中の中だと思っている。謙遜してるつもりも、卑下してるつもりもない。本気でそう思ってる」

「へえ」

「けれど、私が自分のことをそんなふうに思っていても、他人の目にはそうは写らない。平気な顔をして、悪意なく私に能力以上のことを求める。勝手に理想を押し付けては、その結果に対して勝手に一喜一憂する。―みんな期待しすぎなんだよ。自分にも、周りにも、私にも」


 小さくため息をついて、彼女は言葉を続ける。


「受験でも就職でも、いずれ私たちは、どういう人間になりたいかっていうことをこれから嫌でも選択せざるを得ない。けど私には、なりたい自分なんてない。なりたい自分にはなれないことを知ってる。自分が満足するであろう理想には、どんなに努力しても到達できないことを知ってる。―そんな自分がどういう道を歩もうが、どうでもいい。そう思ってるのに『将来どうするの』とか言われても、困るよね。どうでもいいんだから」


 立てた両膝の隙間に顎を埋めて、篠原は話す。小さな子どもが不貞腐れて拗ねているような、そんな姿に似ている。


 理想の自分と現実の自分に、大きな乖離がある。それは僕も同じだった。

 僕は、おそらくこれからの人生で何も為せないであろう凡庸な自分を知っている。

 そう感じるようになったのには、なにか明確なきっかけや出来事があったわけではない。

 ただ、生きている内にいつの間にか、自分が無力な人間であることを察してしまっていたのだ。次第にそれは根拠のない確信となって、僕の心の奥底に深く根付いている。

 そして、抱いた理想と、その理想とは異なる現実。その狭間の葛藤から抜け出そうともがくことを、僕はしなかった。その理由はとても単純で、意味のない行動だと思ったからだ。

 等身大の自分を受け入れた。理想の自分を諦めた。そのどちらも、おそらく同等に正しい。


 けれど、篠原はきっと、まだ自分を受け入れられても、諦められてもいないのではないか、と僕は思っていた。いや、受け入れられないし、諦められないのだ。彼女を取り巻く他人が、そうはさせない。

 僕と彼女の違う部分は、彼女は周りの人間に大きな期待を寄せられている、という点だろう。

 親、教師、あるいは友人たち。彼らが無意識に篠原に向けている願望は、彼女が諦めることを許さない。彼女が平凡な人間であることを認めようとしない。彼らの願望は、目に見えない鎖のようなものだ。彼女の内面を強く縛って、放そうとしない。


「篠原」

「ん?」

「君の理想は、なに?」


 蝉の鳴き声が、一際大きくなる。窓を見ると、一匹の蝉がこちらに腹を向けてくっついていた。


「蝉の裏側って、グロいよね」


 驚くわけでもなく、ただ淡々と篠原は言って、窓を軽くトンと叩く。

 窓についていた蝉は「ジ」と一声だけ鳴いて、遠くへと飛んでいった。

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