夏空に叫ぶ
鹿島 コウヘイ
第1章 初夏
第1話
明かりの点いていない天井のシーリングライトを、じっと眺める。そんなものを見つめていて面白いか、と僕を小馬鹿にしているかのような甲高い烏の鳴き声が、窓の外から聞こえてくる。もう夕方になったのだな、と僕は思った。
「ねえ」
「なに?」
「自分が特別な人間なんかじゃないってことに、君はいつから気が付いた?」
僕の隣で寝ている彼女が、唐突に話を始める。
「覚えてない。君は?」
「私は結構前から自覚してたよ。小学生くらいからかな」
果たして小学生のときからそんなことを考えられるものだろうか。
彼女が小さい頃から達観していたのか、それとも、ただ成熟した考えを持つことに憧れて背伸びをしていただけなのか。彼女の性格を考えるに、そのときから達観した視点でものを見ていたのかもしれない。
僕の場合はどうだっただろう。小学生の時の僕は、なにを見て、なにを感じ、なにを考えて生きていたのだろう。今よりもずっと小さかった頃の記憶を辿ろうとしても、僕の脳裏には何も浮かばなかった。
「勉強ができて、運動もできて、容姿も人並み以上の高校生。学校では一目置かれててもさ、そんな人間は探せば腐るほどいるんだよね。私が欲しかったのはそんなものじゃなかった。特別な人間になりたいっていうより、どこまでも平凡でつまらない自分が嫌になったっていうのが近いかな。今こうしてるのも、その反動なのかもしれないね」
布団の擦れる音がする。彼女が僕の方へ寝返りを打ったのが分かった。僕の腕に、彼女の確かな体温が伝わってくる。僕も自分の身体を彼女の方へと向けた。なんとなく、そうすることがある種の礼儀のように感じた。
「君は、自分が嫌いなの?」
僕は彼女に訊いた。
「嫌いだよ、とても」
そう言うと彼女は目を閉じて、そっと僕に身体を寄せる。彼女の髪からは石鹸のような、柔軟剤のような、甘く優しい香りがする。女子というのは、どうして男子とは違って良い匂いがするんだろう。以前、香水をつけているのか、と彼女に尋ねた時は『香水なんてつけたことない』と言われた。女性ホルモンだとか、そういうのが影響しているのだろうか。
彼女の髪が揺れて、僕の頬に触れる。柔らかな羽でなぞられたかのように、くすぐったい感触だった。
「ねえ」
「ん?」
「髪、触っていいかな」
「いいよ」
許可を得てから、僕は彼女の髪にそっと指を通す。
僕には他人の髪の毛に触りたいという欲求が抑えなくなる、という特殊な嗜好があるわけではないのだけど、それでもこうしていると、なぜか彼女の髪を触りたくなる。
肩の辺りで切り揃えられた彼女の黒髪は、とても綺麗で、さらさらとしていて、そして触り心地がいい。しばらく触ってから、僕は手を引いた。僕に髪を触られている間、彼女は何も言わなかった。僕に身を委ねているのか、自分の髪を触られることに興味が無いのか。どちらかというと、後者のような気がした。
気が付くと、部屋の外から聞こえてきていた烏の鳴き声はいつの間にか聞こえなくなっていた。その代わりに、風量を最大に設定した冷房のファンの音だけが、この部屋に響いている。
今年の夏は例年と比べてとても暑くなると、テレビやインターネットでは盛んに取り上げられている。そのどれもに、もれなく異常気象という言葉がつけられている。毎年のように異常、異常と騒がれているのは僕の気のせいではないはずだ。もはや、異常であることが正常となっている。
そんなことを考えていると、彼女が突然「あ」と声をあげる。
「どうしたの?」
「今のが最後だった」
「何が?」
「コンドーム」
学校の授業が終わって、放課後に恋人でもなんでもない女子の部屋で、セックスをする。これは正常だろうか。それとも、異常だろうか。健全か、もしくは不健全か。そう言い換えてもいい。
僕はそのどちらでもよかった。正常であっても異常であっても、健全であっても不健全であっても、僕たちを取り巻く日常は、どこまでも平穏で、平凡で、そしてつまらない。
高校生と性欲というのは、きっと切っても切れない関係にある。その性別に関係なく、だ。
学校で過ごしていると、セックスしたいだとか、ヤりたいだとか、童貞だとか、童貞卒業だとか、そんな話題が男子の間では自然に上がる。が、それは女子も似たようなものだよ、と僕は彼女から聞いたことがある。
「そういう話題は、男子よりも女子のほうが具体的に話してるんじゃないかな」
「具体的?」
「男子ってさ、想像で話すことが多いじゃん。胸のサイズとか、経験人数とか、勝手に予想したりしてるでしょ」
僕はしていないのだが、一般的な男子高校生の意見として、肯定することにした。
「ああ」
「女子はその逆。例えば、彼氏とする頻度とか、場所はどこでやっただとか、あとは体位とかかな」
「へえ」
「」
健全な成長をしている証拠、と言われればそうなのかもしれない。
もちろん、世の中には性的な話題に嫌悪感や罪悪感を示す男子、もしくは女子がいることを僕は理解している。だから僕は自分の性体験を大っぴらに話すことはないし、それを堂々と話すような人のこともあまり好きではない。
けれど、僕自身は性的な行為に対して嫌悪感も罪悪感も抱いていない。だから僕はセックスをする。
午後六時、間延びしたチャイムが鳴る。七月ともなると、この時間になっても外はまだとても明るい。
昔、いつもこの時刻に鳴るチャイムは何かの童謡の音楽であると聞いたことがある。けれど、それが何の童謡だったかはもうとっくに忘れてしまった。僕としては、時刻が分かりさえすればサイレンでも電子音でもいい。つまりは、童謡でもいいということだ。
「そろそろ帰るよ」
僕は制服を着ながら彼女に言う。彼女は下着姿のまま、ベッドの周りに脱ぎ散らかしていた自分の制服を丁寧に畳んでいる。
「まだうちの親帰ってこないと思うから、もう少しゆっくりしていってもいいよ」
「ありがたい申し出だけど、帰って期末試験の勉強をしなくちゃいけない」
「真面目だね」
「君ほどじゃない」
僕の言葉に、彼女は小さく笑った。
膝上のショートパンツに、彼女の華奢な身体と合っていない、薄手のパーカー。楽な部屋着に着替えた彼女は、ご丁寧なことに、僕を玄関まで見送ってくれた。
「じゃあね、三枝君」
「さようなら、篠原」
篠原の家の玄関の扉を開けると、茹だるような熱気とともに、刈ったばかりの草のような、青い夏の匂いがした。彼女の部屋の冷気が、とても名残惜しい。
ふと、上を向く。燃えるように赤い夕陽が、淡い水色の空と混じりあっていた。
真面目だね。空を見上げながら、僕は篠原に言われた言葉を思い返す。
真面目な生徒は試験前にこんなことをしないんじゃないか。そんなことを思いながら、僕は帰路に就いた。
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