第九夜/潰えぬ夜の始まり
明けない夜はない、なんて綺麗ごとだ。何かを得れば、何かを失うという残酷な真理で、法則で、この世界は回り続けている。
先輩の家を出てからの記憶が穴だらけだ。僕は知らず知らずのうちに電車に揺られていた。つい、一時間ほど前まで、彼女に腰を打ち付けていたはずなのに。その感覚すらも曖昧模糊で、まるで途轍もない桃色の夢に呑まれているような錯覚に陥る。気持ちの良い、悪夢だった。気分が最悪だけれど。胃の中は空っぽで、喉の下まで酸っぱい胃液が上り詰めている。少なくとも、最寄り駅までは吐くまいと、足の指に力をこめて踏ん張っていた。
――僕は、得られないはずだった幸せを手に入れた。ただし、幸せの定義が崩れる直前に。後戻りできないくらい、直前に。
一年間、ずっと片思いしていた先輩と結ばれようとも、汚らわしい純潔を奪われようとも浮かべるべき喜悦は委縮していた。
幸せのフィルターで濾過され、僕の深層心理に焼き付いたのは迸る、獣のような性欲。女を求める情欲ただ一つだけ。
知りたくもなかった、汚点だった。中途半端、大人に染まってしまった。何より、幸せがすり替わった後で、元の幸せを成就させてしまった。交わりの余韻は夜の霞とともに失せる紫煙と同じで、酷く虚しく舌をざらつかせる。
電車内は相も変わらず、人の数が少ない。過疎地帯を走り抜ける路線の利用者数なんてたかが知れていた。
だから、僕はしわくちゃになったズボンのポケットに手を突っ込んだ。手中に収まったのは薄いビニールで放送された煙草の箱だった。セブンスターのソフト。『たばこの煙は、周りの人の健康に悪影響を及ぼします。健康増進法で禁じられている場所では喫煙できません』『二〇歳未満の者の喫煙は、法律で禁じられています。喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くする恐れが――……』うるせえ、黙れ。誰もいない車内。車輪がレールを擦って進む音に隠れて、紙の箱がくしゃっと潰れる小さい断末魔が吐き出された。憂さ晴らしにもならず、僕の気分は決して晴れない。窓辺から外を眺めれば、濃厚な雲海が天蓋を覆っていた。
各駅停車の終電が最寄り駅への到着をアナウンスする。席から立ち上がったときには、高速で巡っていった世界がゆるやかになっていく。屋根のない駅のホームに真っ白な幻影が掠めた、気がした。
幻影ではない。一瞬だけ、彼女と目が合った。酷く冷めた瞳が、刹那のうちに脳裏を焦がしていく。嗚呼、幸せの定義を瓦解させた張本人めが。君さえいなければ、君とさえ出会わなければ、僕は先輩との浅い幸せに錯覚できたのに、溺れられたのに。
背中に空虚な重荷がのしかかる。僕から幸せの概念を奪いきった女の子を、僕は捨てなければならないのだ。
どうして? 先輩を手放せばいいじゃないか。誰にだって股を開く女なんだろう? 独占欲に焦がされて、ついには身を亡ぼすことだろうよ。嫉妬、嫉妬、嫉妬――有象無象。心をすり減らしてまで、恋愛のママゴトに勤しむつもりか?
僕の中に宿っていた恋とかいう病は先輩との交わりを境に綺麗さっぱり失われた。
心のどこかに残っていたものは『愛』という形を借りた『性』という名の化け物だった。
内心で獣が世間体を引きちぎる。同時に、プシュ―……、と空気が抜ける音とともに自動ドアが開かれた。外の空気は秋を匂わせる涼しさを孕んでいた。鈴虫の輪唱が駅を囲む田畑から奏でられる。
電車が去っていく。ガタゴト、と車輪が噛み合い夜を開いていく。残されたのは風化して寂びれた無人駅。そして、男、女。
「――せんぱいは」
ホームの裾で突っ立っていた後輩、草薙さなは僕へと、一歩ずつ歩み寄りながら言い放つ。
「幸せになれたようですね。素直に、おめでとうございます」
まったく素直じゃない称賛が拒絶だってことくらい、愚かな僕でも察せた。
午前一時半、無人駅にて。僕は煙草に火を点けた。
「非行少年ぶっているんですか、それとも……大人になりかけの身体を持て余しているんですか」
「さあ、な。持て余すほど、大人じゃないよ僕は」
羽化したての蝶を見つめる害鳥のような目線が後輩から注がれる。噴かした紫煙は夜に濡れて色をより濃くしていた。まるで、恋の遺灰だったなんて、洒落込んだメタファーは脳髄に溺れて何もかも消えてなくなってしまえばいい。
「後輩、僕はきっと、もう何も君に求められないよ。絵も、そもそもの君すらも」「……月が、綺麗な夜だったとしても。千年の恋すら冷めてしまうような、そんな匂いのせいですか?」
「もう、察してるのかよ」
「私がいったい、いつからこの無人駅で待っていたと思ってるんですか。想像つかないでしょう。想像する暇なんてなかったのでしょう? ……気持ちが、良かったのでしょう?」
目尻に熱い激情が溜まる。今の僕には、――いや、これより先の僕に、それを流す権利も資格もない。熱っぽい呼気をゆっくりと吐き出して、高まっていく感情を初期化する。草薙さなに対する悲哀の感情を禁則処理する。笑顔も泣き顔も、感情の起伏を、たった一つの最適解――ポーカーフェイスに収束させる。
「今宵の月は、明かないな。明いていたとしても、僕は死んでもいいわ、なんて軽口、叩けないよ。今更、大言壮語で取り繕ってもぼろが出るだけだからね。せっかくの幸せをこれ以上、壊したくないんだ」
今の言葉が後輩にどのような変容をもたらすだろう。解釈が違っても構わない。壊したくない幸せが指すものの正体を間違えればいい。そうして、僕を軽蔑してくれ。幸せを見失い、勝手に路頭を彷徨っている僕のことを突き飛ばしてくれよ。
僕は、狂犬病に罹り死に近づいていく発情期の野犬と同じだった。
紫煙をぷかぷかと噴かす。煙草。先輩から貰った煙草。先輩の家に置き去りにされていたらしいそれらの有害物は、大人の嗜好品は、決して先輩のものではなかった。股を開いた先輩という誘蛾灯に寄ってきた蛾が落としていった薄汚い鱗粉だ。
先輩曰く、「わたしは吸わないから。君にあげる」ということだった。未成年に喫煙を勧める姿勢を問いただそうとした自分もいたけれど、晴れて彼女となった好きな人から、初めて貰ったプレゼントだから、手放すにも手放せなかった。あれ、僕の好きな人って誰だっけ。先輩なんだっけ、それとも。
紫煙がお焚き上げの如く空へと上り詰めていく様をじっと眺めていたら、どうでもよくなった。
情愛とかプラトニック・ラブとか、人並みの性欲を持っているこちらからしたら、馬鹿馬鹿しい思想信条だ。一蹴する。どんなに相手を好きであろうが、あくまで見え隠れする愛には、一つまみ以上の性欲が見え隠れしている。あるいは、見え見えな人だっているのだろう。不純な異性交遊をしたがる男女の内心はビビッドのピンクで塗りたくられていて、見苦しい。ぼくもまたその一員に加わったのだと振り返ってみると、胃の蠕動運動が活発化してしまう。――荒げた呼吸を整えなければ。
肩に掛けていたスクールバックを風化したアスファルトの床におろす。するりと噛み合ったファスナーを切り開いて、一枚の原稿用紙を引っ張り出す。二〇×二〇。どこにでも売っている何の変哲もない原稿用紙。マス目の中はほとんど虚ろが占有していて、緋色のインクの流線形は冒頭一行目を汚すのみにとどまっていた。
「『ずっと大好きだった』……なんて、今更手遅れだよな」
「ずっと前から、何もかも手遅れでしたよ、何もかもが」
「振られたのか、僕」
「……概念的には、そうなんじゃないですか」
「概念的って、なんだよ」
「知らないですよ、深夜のテンションですよ。どうせ、知らなくったってこの世界は果てることなく、回るんですから」
口元が、煙草を吸っているくせに寂しかった。
「回るんですから、せんぱいは……私のいない幸せの世界にずぶずぶ溺れちゃって、一生、底なし沼から出てこないでください」
はい、とすんなり頷く気持ちはなかった。人間って「やるな」と言われたことをやりたくなる生き物だろうが。
原稿用紙を手前に引っ提げると、その切れ端にライターの小さな口を触れさせた。着火。華氏四五一度が焦がしたのは、ただの原稿用紙だけなのだろうか。いや、きっと……。不思議な喪失感。別に、酷く落ち込むようなことはなかったけれど、まるで自分の身体が幽霊になり果ててしまったかのような錯覚に陥った。心が、苦しかった。
ライターが噴いた焔は、原稿用紙を隅から隅まで焼き尽くしていく。そして。炎が手首の筋を擽るより前に手放す。
火花が大輪の花のように燃え広がっていく。この先存在するはずだったラブコールを未然に撃ち落した。先輩と結ばれずに、後輩と結ばれるはずの未来は、先輩と布団の上で繋がった瞬間に選択肢から除外されてしまったのだ。共通ルートはもうおしまい、ここからはセーブ&ロードのできない個別ルート一直線。残念ながら現実はゲームほど融通が利かない。
夏前にバッサリ切った後輩の髪は二か月も経てば、また伸び始めていた。前髪の長さが一定なのを鑑みるに、また伸ばしているのだろう。どうでもよかった。僕にはもう、彼女に制約を課す資格もない。そもそも資格なんてものとはない。僕が勝手に過去で彼女を束縛していただけの話だ。
長い髪が好きで、嫌いだ。長い黒髪が大嫌いで、大好きだった。
今はもう分からない。
僕の嗜好で、過去の怨恨で後輩を束縛するつもりはもう、ない。やめちまえ。
夜目が利いてきた。草薙さなの背後に柱を組み合わせた影があった。イーゼルに乗ったカンバスが鎮座している。その周りには油絵具のチューブがちらほらと転がっている。パレットに載せられた色彩は暗色、寒色がほとんどを埋め尽くしている。僕が駅に到着するまで、黙々と描いていたのだろうか。得意でもない文章を書き連ねた僕の原稿用紙とは相対的に、カンバスに標本された彼女の世界は、かつて僕が何度も観たかったすべてを内包していた。
敵わなかった。
ビビットにパステルが散りばめられ、有象無象が細かい筆致で描かれている。人々が、街が、国が、世界が、過不足なく、草薙さなの手中に収まっている、そう思わざるを得なくて、この時、僕は察したくなかった解を導出してしまった。
――たとえ、僕がまだ十全に絵が描ける身体だったとしても、草薙さなっていう少女が持った才能の塊は僕の前に超えられない壁として立ちはだかるだろう。或いは、光量で目を殺せる光。届かない光源。隣をずっと占有していたくせに、少しの間にずっとずっと遠くに行ってしまった、彼方の君。
もう、昔の話だ。破廉恥で不純な劣情に上書きされてしまった悲哀と憎悪は白ポストにでも放り込んでしまえばいい。
僕と彼女が過ごした今夏はきっと、僕らにとって最後の真夏だ。かけがえのないものってくだらない表現で言い包めるのがあまりにも烏滸がましくて、呼吸も浅くなって、喉の奥が狭まってじんわりと痛んでいく。ああ、胸が苦しいとはこのことだ。
この切なさだ、虚しさだ、どうしようもなくやるせない感情の総量を胸が苦しいと形容するのだ。
「僕はもう、君のカンバスのモデルにはなれないね。……もう、ならないよ」
「せんぱいのいない世界なんか、」
詰まった言葉が僕らの合間に空隙を吐き散らした。
「要らないのに、って、……今更ですね」
沈黙が台詞を食い潰していく過程がせめてもの救いだった。僕にはもう、君に待ってもらう資格はない、権利もない。彼女の絵が完成することは、もう、ない。
「せんぱい、ライター貸してください」
何の抵抗もなく、僕は手元にあったそれを手渡した。
「ここで、終わらせます、せんぱいのすべてを、何もかも、灰に還します。なかったことにはできませんので、上書きしてしまいましょう」
消灯した駅舎のホームの中心で、ライターの穂先からイーゼルへと焔が移る。黒く塗りたくられた煙が、風に侵されることなく、天頂へと上り詰める。イーゼルの骨子が黒く染まるのとほぼ同時に、カンバスに焔が乗っかる。パレットや、絵の具のチューブにも煉獄の悪魔のように、およそ一五〇〇度が食らいつくしていく。さながら、絵画が毒を吐くように。汚れた色彩のすべてを、〇で消し炭にするように。後輩の人生すべてを、刺し貫いていくように。鮮やかな殺人、君は笑っていた。
完成され尽くした絵が燃え尽きた後で、僕らは駅舎のホームに並んで座った。線路へと脚を放り投げる。
肩と肩が触れて、温もりを共有する。後輩が、力なく僕の身にしなだれかかる。重力が働いていないのでは、と疑えるくらい軽かった。栄養失調を疑うほどだ。女性に及ぶ重力についてサンプルは少ないが、少なくとも、先輩の二分の一くらいだ。幻のようだった。せめて、幻影であって欲しかった。精神が無茶苦茶に引き裂かれるよりも前に。虚脱感の浸透した二つの肉体は、ただ一定の脈を打つ。それ以上も、それ以下もなく。僕らの過ごした一刹那がきっと幸せであらんことを。
幸せでも、手を叩けないもあるんだと、痛感した深更だった。
「お役御免ですね、私も、私の絵も。先輩と再会してから、今日までの糖蜜のような日々すらも」
名残惜しむように草薙さなは首を斜めに傾げた。その手にはいまだ、ライターが握られている。指先で金具を回し、火花が弾ける。点火する。
「いいことですよ、本当に。だって、せんぱいが幸せになれたんですから。罪悪感の一つや二つが消滅してくれたんです。満足なんです、もう。これからはもっと楽しい日々が待っているんですよ、せんぱいには。喜ばしいことのはずです」
嗚呼、喜ばしいことのはずだよ。恋に落ちて、恋をなした。順序はともかく、僕と先輩はこれから、手を繋いで、抱きしめ合って、接吻を繰り返して、身体を重ねて。それだけの生物的な愛撫とまぐわいがすべてではない。デートをするだろう、一緒に過ごす時間も増えるだろう、僕が先輩の部屋に住み着く日もそう遠くないはずだ。
そうして、一日一日を先輩色で、濃密なビビッドの桃色で染められて、しまいには後輩との夜色が真っ白に褪せてしまうのだろうか。
――そんなのは、嫌だ? 出まかせを口走ってみろ、失われた後輩の絵に一生消せない泥を塗りたくるようなものだ、そんな戯言は。
自分の存在を有耶無耶にしたくて、ポケットから煙草を取り出した。無言のまま、察しのいい後輩がライターを僕の方へと向けてきた。草の詰められた先端に、緋がともるとともに、白色の包装が茶色くくすんでいく。先端の赤らみに充血した女性器を幻視して、呼吸が浅くなっていく。視界に星々が浮かび、明滅する。滅茶苦茶な、人生だ。齢一六にして行く先が壊れてしまい、先行きが見えない。無差別に幸せを噛み締めることが、できない。熱い水滴が目尻にじりと薄い膜となって覆う。
「あ、ああ。僕は幸せなんだ、幸せなんだ、無条件に幸せなんだ、拒むのが無意味になるくらい、最高に絶頂期なんだ、幸せなんだ、絶対的に幸せと定義すべき運命なんだ、ああ、幸せだ、ああ、ああああ、幸せ、僕は、幸せ、だ。だから、君がいなくても、いいのに、ああ、」
ぼた、ぼたぼたぼた、と。怨嗟を嘔吐するごとに、滂沱、滂沱、滂沱の波に呑まれて、水死しかける。塩っぽい体液は悲しみと理不尽をただひたすらに嘆いている。幸せの定義を、理由を再構築することができずに一生留まったまま、足踏みしている。
「――どう見ても、幸せに見えませんけどね」
「……根拠のない言いがかりだよ、それは。だって、現に僕は有り余る幸せを舌の上で踊らせているじゃないか」
「告白、終わったら、この駅で結果を報告してもらおうって、私は勝手に決めました。だから、私は決めたとおりに、ずっとせんぱいを待っていたんですよ、今の今まで。美術室から持ち出したイーゼルに、先輩と約束した絵を乗せて、絵の具をパレットの上に並べて、細部まで詰めていました。きっと、確実にせんぱいが帰ってくる午前一時半まで、ずっと。家にも帰らずに」
でも、それはあくまで私の勝手な自慰行為に過ぎませんから。だって、せんぱいの幸せを願っていないことと同義ですよ?
やめて、……やめてくれ。それ以上、願望を僕に押し付けないでくれ。押し付けられた、と思わせないでくれ。今更純情を吐かないでくれ。僕はもう僕の選択を帰ることなんて、できないのだから。憶えてしまったのだから。
夜を、シーツを握る女の手の細さを、か細くとも、その一点に込められたありったけの生を、性を、吐き出した、精を。
「早く帰ってきて欲しかったです。ただ、それだけの本心を添えましょう。手向けましょう。綺麗ごとです、おとぎ話です。
……ねえせんぱい。私って、性格悪いんですよ。観ての通り、貴方の不幸を願って、ずっと帰りを待ってしまうくらい。絶対に帰ってくるって盲信していたくらいにね。せんぱいには意気消沈してほしかった。こっぴどく振られてほしかった。だって、あんなの、結果が分かっている負け試合としか思えないじゃないですか。希望の芽なんて見出せませんよ。相手がいる女に。何夢見てるんですかって、ずっとずっと、夏から、せんぱいに好きな人ができてから、ずっと馬鹿にしていました、口には出さず、態度にも出さずに。それで、そんな馬鹿にした態度を押し殺したまま、振られたせんぱいを余すことなく、骨の髄まで、心の奥のさらに奥底、最も暗い深層真理の隅々まで、甘い言葉で溶かしてあげたかった。私で恋を塗り替えて欲しかった。ねえ、せんぱい、――貴方は、中学の頃、事故になるまで、私のことが好きだったんでしょう? 目を見ていれば分かりますよ、貴方は買いに出やすいですからね」
察しがいいのか、それとも鎌をかけただけか。問い詰めるよりも先に、草薙なぎの小さな唇は、細く艶めかしい舌は回る、回る、回る。酷く、頭が痛い。僕には、彼女の夥しい台詞群が醸しだす感情の名前が分からない、知りたくも思わない。どうでもいいことだからだ。僕の欲望とは一切合切関係のない、不純な負の感情でしかないからだ。そう定義したのだから、きっとそういうことなのだ。
「恋敵なんて一生できないと思っていました、だって、せんぱいには私がいればいいんですから。中学時代、たった一つの事故で解れてしまった糸は、夏から秋にかけて傍に居続けただけで、――せんぱいに首輪を掛けてもらったことで、或いはせんぱいに首輪を掛けたことで元通りですよ。また仲睦まじい先輩と後輩の関係に元通り。せんぱいの命令でバッサリ切った私の黒い髪はさながら、私と貴方を結ぶ赤い糸として強固に機能していた……機能していた、はずなんです。
嗚呼、――せんぱいは。せんぱいだけは、私のものになってくれると思っていたのに。信じていたのに」
信じて、いたのに。まるでいつかの裏返しだ。事故に遭って記憶を失った後輩。怪我を負って満足のいく絵を描けなくなった僕。信じて、いたのに。僕は何を信じていた? 後輩が事故を覚えていることを? 事故のせいで精神的に不安定な状態に陥り、僕と同様、絵が描けなくなることをか?
過去とは、呪いだ。メモリーが勝手に消去されなければ、ずっとずっと当人の首を絞めつけるのだから。真綿よりも柔らかく、しかしじわじわと苦しめてくる、精神的な鎖、束縛。たった今、後輩の瞳に縋るような意思が浮かんだ。蜘蛛の糸から、愚者を引き摺り下ろす罪人のような目に、僕の背筋がぞわり、と粟立つ。
「せんぱい、ねえ、聞いていますか、せんぱい」
「……ぅ、ぁあ、な」
鼓膜が震えることを拒んでいる。聴覚を硬い殻に閉じ込めておきたいと、切に願っている。けれど、残念かな、人体にはそんなご都合主義様様の機能なんて備わっていない。過去の記憶を勝手に消さない優秀な脳味噌とか、呪詛を吐き出す口とか、毒蛇のように見るものをすくませる双眸とか、備わったもの、全てが生々しく、使い勝手が最悪だ。その上、僕の身体は簡単に動かせない。逃げるべき瞬間ですら、腰はすくみ四肢は震える。ありったけの殺意じみた呪詛から目を逸らすことすらできない。
愛だ。愛は呪詛だ。薄味の恋なんかではない。縋る思いだ。縋る、重い。重い。ああ、クソほどに重い。鉛なんて触れたことがないけど、鉛よりもきっと重い。物理的な質量で喩えられないくらい、重い、重い、ひたすら重い――想い、愛。
「貴方の女になった先輩っていう女性は、貴方の知らない人と腰を振るような阿婆擦れ女なのでしょう? ねえ、そうでしょう。嘘を吐かないでください。私は、全部知っているんですから」
「な、え、ど……どう、し」
訳が、分からない。思考を加速させても、後輩の言葉のすべては光速を纏って、僕の理解の先を行く。ひたすらに追いつけないくらい、前を。何処で見られていた、どこで聴かれていた、どこで話した、どこで情報が伝わった、どこで耳打ちされた。どこで、どこで、どこで。僕は決して、後輩に語らなかった。語る暇もなかったはずだ。僕ですら、先輩の素性を知ったのは今日の夜、彼女と交わる直前だったのだから。
「いいんですよ、困惑しなくても。情報なんて案外近い所から容易く手に入れられるのですから。それよりも――、」
「…………、ぁぁ」
「せんぱいは、私よりも、どこの馬の骨だか分からない男とも気持ちよくなってしまう女の人を選ぶんですね」
貴方は、私だけのものではないのでしょう。私にとっての、貴方と違って。口元の動きとともに呼吸のような妬みが耳元で爪を立てる。黒板を爪で引っ掻いたような深い音が鼓膜でリフレインしている。
後輩の、光を失った視線に、僕は何故か釘づけにされていた。不覚にも、その、感情が欠如した双眸が美を心臓に刻んだ。喉の奥から風切り音が空回りするせいで、弁面の一つすらもろくにできない。六にする気すらないのかもしれない。煙草の臭いに隠れるように、女のせい臭が鼻の粘膜を甘く傷つけた。気分が悪くなって、白煙の根源を床に穿き捨てて、靴底で蹂躙。
凹凸で擦れた火の粉が弱弱しく、項垂れていくのを冷めた目で見つめていた。煙草が消されたことで深いな煙たさが夜の静まった空気に吸収されていく。しかし、女の匂いは濃くなるばかりだった。どこかで、モーターが鳴る音があった。ぽちゃぽちゃと、雫が垂れる音がした、気がした。天蓋を見上げる。空は相変わらずの曇天で、星一つすら拝むことが出来ない。けれど、雨が降る様子もなかった。じゃあ、さっきの尾とはなにゆえのものなのか。
突っかかった疑問は視界の上で熾った光のせいで灰となって空に呑まれた。
橙色がゆらゆらと、揺らめいている。ライターから火炎が目覚め、ごうごうとけたたましい産声を上げているのだ。
「……後輩、何を」
「せんぱい、もう、ここで終わりにしましょうか、私との関係」
刹那。神風のように都合がよく、一束の強い風が吹いた。後輩の胸に抱えられたライターの炎がひと際大きく跳ねて、不自然に燃え上がる。「……ぁ、」思わず、声が洩れ、脳が停止する。後輩の着ていたセーラー服に、火の粉が飛び散って燻っている。虫食いのように痕は広がっていく。臙脂色が吹き付ける風のせいで産声を上げる。揺らめく、生を解き放つ。後輩の胸元を覆う布の生地が、たちまちボロボロと崩れていく。悪夢のような現。不覚にも、僕はその様に美を映してしまっていた。咄嗟に危険を回避することが出来なかった。僕の身体が動いたのは、
「づっ、あ……、あづ、ぅぁあああ……ぁ」
――噛み殺した悲鳴が後輩から漏れ出てからだった。唇の隙間から生える犬歯がじりじりと肉を引き裂いて、傷を生む。彼女の奥に秘められた鮮やかな赤が一筋、流れていく。破瓜の夜だった。
「……こ、後輩、なに、何をやってるんだよっ」
制服を脱いで焼けている箇所を叩こうとする。けれど、後輩はじりじりと後ろへと下がっていく。まるで、燃え尽きることを所望しているかのように。堪らず、彼女の背中に手を回した。逃れようと腕の中でもがく彼女を懸命に抑えつけながら、胸を布地で叩いて擦る。白の煙が燻っていく。可燃物が燃える煙たさが鼻梁を占めた。
「……ぁ、ああ、……鎮火、した、ようだな、ぁ、ああ」
幸い、火が大規模に燃え広がることはなかった。やや焦げてしまった自分のワイシャツを脱ぎ捨てて、シャツ一枚になる。後輩の胸には焼け跡が残ってしまった。制服とワイシャツを超えて、下着すらもちりちりの灰になっている。黒く焦げた女物のシャツの先にあったブラのレース生地も無残な格好になり、双丘を支えていたワイヤーが剥き出しになっている。
夜に照らされた後輩の素肌には傷一つつかなかった。
たったそれだけが、救いだった。
「どうして、……どうして、」
「え、っ?」
救いの応酬として返ってきたのは、
「どうしてっ! 私を助けるんですかっ!」
激昂だった。
「……せんぱいにはもう、
私を救う理由なんてないはずなんです、
よく見てください、
よく耳かっぽじって聞いてください、
よく脳味噌ほじくりかえして思い出してください、
私は貴方の不幸を願っていた、
ずっとずっと、
願っていた、
貴方の苦悩とか、
煩悶とか、
幸福とか、
日常とかありとあらゆる喜怒哀楽を自分のものにしたかったから、
どうしてだと思います、
知らないですよね、
どうせ分かりっこない、
だって先に消えたのは先輩ですもの、
私を顧みずに消えたのはせんぱいだった、
前もそうだ、
中学のときも、
そうでしたよね、
病室で目覚めた私に向けた第一声、
憶えていますか、
『大丈夫か?』よりも先に、
『後輩、……憶えているか』ですよ、
どうせせんぱいはたった一フレーズだとお思いでしょう、
事実、
確かに私は事故の記憶を忘れています、
忘れているんですよ、
今も、
だから、
せんぱい、
ねえ、
せんぱい、
おい、
せんぱい、
聞いていますか、
いや、――聞けよ、
ねえ、
貴方は昔からずっと、
私を顧みていないんですよ、
貴方は貴方の殻にこもって好きなことしているだけ、
気持ちいいことをしているだけ、
勝手に私と仲良くなったつもりでいただけ、
切磋琢磨していたつもりだっただけ、
……だけなんです、
強く強く、
網膜に、
神経に、
鼓膜に、
皮膚のすべてに、
脳髄の奥の奥の奥まで、
一生、
『つもり』だけの関係を刻みつけておいてください、
勝手に一人で自慰に耽るように、呪われていてください」
「……、ぁ、な、なんなんだ、よ。おい、何が、……何も分かっていないくせに、何を偉そうに語っているんだよ、後輩、おい、草薙さな。自分のことを棚に上げておいてさ。君の腕は、僕の腕が犠牲となって生き延びたものなんだよ、だから一生、その事実を刻めばいい。僕に『つもり』の呪いをかけるんだったら、僕だって君に『失われた過去』っていう最大級の呪詛を吹っ掛け――」
「――せんぱい、…………うるさいんですよ」
風が。耳元で鋭く断たれた。月光と星明かりが眦の上で煌めいていた。
後輩が平手で思いっきり叩いただなんて、暫く気づけなかった。
「心の底から、反吐が出るほど。清々しさの片鱗もなく。気持ちが悪いです」
真に刃物とは、すなわち言葉のことだった。すとん、と。切れ込みが入る。――胸に疑似的に作られた“心”とかいう臓器に。
「良かったです。せんぱいが心の底から気持ち悪い人間でよかったです。先輩とやらに恋を擦り付けてよかったです。せいせいしました。ええ。貴方の好きな女の人って所詮は売女なんでしょう? その女の人はさぞかし目の付け所が良かったんでしょうね。何と言ったってこんなにカモなせんぱいをまんまと騙して、性奴隷の一員に加えられたんですから。何も考えることなく、疑うこともなく、ひたすらに尽くしてくれる絶好のカモを手に入れたんですからね。いやはや偶像崇拝っていうのはと問えもとても素晴らしい部下ですね。分厚い猫の皮を被って、客寄せパンダになりきっていれば、自然と狂信者が周りに寄ってくるのですから。ねえ、せんぱい――、ふふっ、間違えました、立派な性奴隷さん。――女の匂いが隠しきれていないですよ?」
すん、と後輩の鼻が大きくなり、夜の空気を吸い上げる。僕もまた、同じように呼吸をして、すぐに顔をしかめた。不快なにおいが混じっているからだ。純度一〇〇パーセントの後輩ではない……何か、男の臭いが、混じっている。煙草の後味が引いていくにつれて、最悪の臭いは徐々に濃くなっていった。気付かない、気付かないふりをしていたんだけど、もはや、ふりも聞かずに口元を両手で覆った。ぴちょん、とまた、水音がどこかで弾けていた。
ああ、この臭いは。確かに、最悪だ。だって、僕も嗅いだことがある、臭いだったからだ。ちょうど昨日、ある人物から授かった臭いが鼻について、そのことを自覚してしまったら、途端に目頭が熱くなってきた。世界の色彩がワントーン落ちていき、水晶玉を見上げたように歪んでしまう。使い物にならない。
「……性奴隷、なのは、」
嗚咽。吐き出せるものは何も、ない。
「…………君も、じゃないか」
草薙さなは、とっくに。僕だけのものじゃなかった。
もう、僕のものですらないけれど。
「答える義理は、もうないでしょう?」
徹底的な拒絶。僕の膝からついに力が失われて、そのまま前方へと倒れる。辛うじて前に出した手が地面を捉え、四つん這いになるも差した影の下を辿れない。首を上げることすらままならない。
「もう、私が貴方に話しかける意味はありません。脅迫内容に頷く必要もない……ってこれはせんぱい、ですね。よかったんじゃないですか、もうこれ以上、好きでもない女の子に振り回されるの、疲れちゃうでしょう? ……貴方のために描いた絵だって焼き尽くしちゃいましたし、これで夏から積み上げた何もかも、初期化されちゃいましたね」
初期化だなんて、悲しいこと、言わないでくれ。とか、お涙頂戴の台詞一つすら、僕には似合わない、釣り合わない。
後輩はローファーを履いた良橋を翻し、僕は四つん這いのまま身体を起こすことすらできなかった。
「さようなら、せんぱい。どうぞ、幸せになってください。誰よりも、幸せになってください。いつかばったり出くわしたときに、幸せの重力だけで私を圧し殺してしまうくらいに、手放しの幸せを手に入れてください」
遠ざかっていく後輩のスカートからハイソックスを履いた生足が露わになる。そこには、なめくじの通った後みたいな痕跡があり、妙に艶めかしいと同時に、僕は、そのたった一筋で心に止まない闇を抱えることとなってしまった。
――午前一時半の、無人駅にいるはずのない、憎い先生の臭いが後輩から漂っていた。
そして。
後輩が僕の前から姿を消した夜。
意識が曖昧なままに実家へとたどり着いた僕は、右掌を工具用の金槌で何度も、何度も何度も何度も……何度も、容赦なく叩き潰していた。
『午前一時半、無人駅にて。』 音無 蓮 Ren Otonashi @000
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