第八夜
「先輩。先輩、……先輩」
何度も何度も、何度も彼女を呼んだ。暗がりの中で手向けられた応酬は艶やかな微笑のみ。ただ、それだけでも満たされた気分になる。いや、錯覚する。自分はなんて幸せなんだと妄信しようとする。
だって、実際に幸せなのだから、幸せなはずなんだから。
――先輩と僕とはシングルベッドで繋がっていた。
肌と肌との触れ合い、なんて甘酸っぱい青春色のソースじゃ足りない。その先へ、凹と凸の菅家気を縫うように甘い甘い中毒性のある感触を舐めとるのだ。舌で、下で。剥き出しにされた粘膜まみれのか弱いところを蛇のようにしつこく虐めてみれば、その度に女の喘ぐ声が鼓膜を震わす。水浸しにする。
かつて少女だったものは女になり、ついさっきまで少年だったものを男へと昇華しようとしていた。いや……交わってしまった瞬間に、上り詰めてしまったのだけれど。びりびりと脳細胞の一つ一つに飴と鞭と飴と飴と鞭をくだすことで身体は逃げるということを忘れてしまった。僕の理性ってなんなんだろうな。きっと、安物のセキュリティロックに過ぎないのだろう。
粘膜と粘膜を擦り合わせることでお互いの味と匂いを共有する。肉のようなかぐわしい香水めいた何かが彼女を僕の合間をちろちろと伝っていく。ベッドのスプリングがぎしぎし、と軋んでいた。マットレスには汗とその他の体液が既に染み込んでいる。その中にはきっと、僕のものではない匂いも混ざっていることだろう。ただそれだけの心残りのせいで僕は眼前に横たわる幸せを全うな幸せだと定義できていない。
まるで、不仕合せだ。
鼻腔は麻痺していた。僕と彼女のまき散らす異臭を識別できていなかったのだから。使い物にならなかった。でも、それこそが唯一の安心だったのかもしれない。混ざり合った体液は、僕らを束縛してくれる。ただ、好意のその瞬間だけでも、僕らが僕らを持ち物として馴染ませているような、そんな気持ちになる。
多幸感に近似して、それには及ばない形骸化した幸せの骸。
もう、先輩と後輩の関係に戻ることはできない。首筋につけられた赤黒いキスマークとか噛み跡とか、あるいは真っ逆さまでつままれた使用済みの避妊具から女の肌を滴っていく僕の、欲望の形跡とか、……凹から垣間見える白濁、とか。
肉体的なパズルのピースを嵌めて埋め合わせるだけでも快楽物質が思考を汚染する。ずぶずぶと、駄目になっていくのだ。
離そうとしたら、締め付けて離さない。彼女の五指とそれ以上の細かい指や腕のようなものが、僕の欲望に満ちた手指を、身体を至近距離にとどめてしまう。五指と五指、絡み合った二組四本の手から玉のような汗が滴り落ちていく。シーツを濡らすよりも前に、先輩の舌がそれをすかさず舐めとっていく。喉がこくんと流動するさまが窓の向こう側から照らす月明りのせいで、より艶めかしく映えてしまった。網膜に焼き付いて離れようとしなかった。
嵌ったピースをおもむろに、前へと突き出す。肉と肉が縫合したようにぴたりとくっつき、四つん這いになっていた彼女は途端に力をなくし、ベッドへと倒れ込んだ。その上から体重をかけてのしかかる。身動きを取ろうとする細い腕や、肉付きのいい太腿を抑えつけると、一層息を荒げて、先輩は耳まで顔を真っ赤に染めた。羞恥に満ち満ちている。が、それでも彼女は「もっと……、もっと」とねだる。僕を欲しいと切望してくれる。
『君はきっと、幸せになれるよ。どんな形であれ。、ね』
風早先生の言う通り、というのは非常に不服なんだけれど、確かに僕はある意味幸せになれてしまった。好きな女の子とこうして交わっているのだから。まるで、預言でもされたかのようだ。
深海の青を塗りたくった空が、部屋の窓外でペンキを垂らしたように広がっている。境界線の欠片もなく、天蓋の深い青に月がぽっかり風穴を開けたように風景の中で佇んでいた。夕景をバックに告白をした数時間前が千年万年も昔のようだった。僕と彼女の輪郭は夜の闇に紛れた地平線のように曖昧だ。曖昧で、だからこそ、さながら一心同体に見えてしまう。
何度も欲望を吐き捨てたせいだろう。責任とか、避妊とか、蔑ろに、有耶無耶にして――、という先輩の欲望と、彼女を僕で満たしたい、という汚らわしい雄の本能は奇跡的に合致した、してしまった。まるで夢物語だ。敵わなかったはずの恋を形勢逆転し、我が物にしたのだから。少なくとも、そういった構図に持ち込めたのだから。
しかし、この現実じゃ、紋切り型の幸福な終わり方なんてあって、ないようなものだったけれど。
先輩に告白を了承されたことも。一人暮らしのワンルームに招待されたことも。テンプレートな連れ込みのシチュエーションに対し素直に頷いたことも。部屋に着く手前で避妊具を買うよう耳元で促されたことも。暗い玄関で先輩から初めての接吻を奪われたことも。皴一つないシングルベッドに押し倒されたことも。舐められ、指の腹で弄られ、濡れそぼったお互いのものを慰めあったことも――きっと幸せの範疇なんだろう。
使用済みになった避妊具とその容器はもはや皴だらけになってしまったシーツの上に放り投げられた。
(どんな、形であれ。幸せになる……なんて、な)
後処理もとい次の行為の前哨戦のために体液を吸い取り、味わう先輩の顔はだらしなくて、嬉しそうで、ただその悦びの表情に溜まらなく悲しくなった。どんな形であれ、先輩は幸せそうな顔を僕に向けてくれる。でも、僕だけではない。
「先輩は」
「……どうしたの、ナギサ君」
「名前で、呼ぶんですね。さっきまでは『後輩くん』って」
「だってもう、彼氏だもの……もちろん、君の名前は知っていたよ? 大事な大事な後輩君だもの」
「そうでもなきゃ、僕の立場がありませんよ」
「それは、そうよね。だったら――、作者名で呼んだ方がいいかな。読み方はどっちもナギサ、だけどね」
「やめてくださいよ、その名前はもうずっと昔に捨てたつもりだったので」
「いいじゃない、ずっと昔から君のファンなんだから」
「ファン、なんですか」
「……そんな悲しそうな顔、しないでよね。分かっているよ――君は今日から、わたしの恋人」
告白をして、承認を得たから。道理には叶っているのだろう。恋は成就した、はずなのだ。それでも、わだかまりは解けず、僕だけがただ苦しかった。どうしてか。きっと先輩の性質のせいだ。彼女の、男に対する向き合いの仕方、というか。
「僕の彼女になっても、他の男の人との関係を続けるんですか?」
「そうだよ。当たり前じゃない」
即答だった。
喉の奥が倍以上の重力に逆らえずずり下がっていくような、感覚。心臓が、重い。重いのは僕が抱いている感情なのかもしれない。
「……悲しい? 独り占めにしたい?」
「そりゃ、恋人なら」
「ふふ、重いね。後輩くん」
「その呼び方は、やめたんじゃないんですか」
「彼氏っぽくないから、今は」
デリカシーの欠片というものもない、剥き出しの言葉が剥き出しの心をえぐる。深手の傷を少しでも垣間見せたら思う壺だった。それでも、先輩はやはり先輩で、僕の内心を覗き見ることなんて朝飯前だった。
「やだなあ、勘違いしないでよね。そもそもまだ彼氏になって数時間も経ってないから慣れていないんだよ。あと……、これは恋人のナギサ君に向ける言葉じゃなくて、後輩くんとしての君に伝えたいことだったから」
「妙ちくりんな言い回しですね。直感的な先輩らしくない」
「馬鹿にしてる? わたしに楯突こうっていうならもっと君から搾り取っちゃうけど」
「冗談でも、やめてください」
体に馴染んでしまった快楽のせいで、誘い文句一つで先輩を直視することができなくなっていた。
「君が彼氏なのはもはや自明なんだけれど、わたしにとって君はあくまで彼氏なの。決して、性欲処理の道具として見ることはできない。愛のあるセックスは君で補えるけど、獣のような交尾をするのに君は向いていない。貧弱過ぎる……って、わざわざ当人の目の前で白状しちゃったら駄目、なんだろうけどね。できる彼女は、そこらへん不安を抱かせないんだろうけど」
「先輩は、不器用ですもんね。だから――、事前に告白してくれたんですよね。ありがたい、ことなんですよね?」
告白というのは、もちろん、僕以外の男との性的な関係について、だ。
その話に頷いたのだから、僕らは今、こうしてベッドで交わっている。
どうして、頷いたのか。頷かなければ先に進めないからだ。
先に進もうとしたのは――、いわず、もがな。
「君がどうとらえるか、によるよ」
「だとしたら、ありがたくないのかもしれません。何も、かも」
「恋人になったこともかな?」
「それは……違います。違うって信じたいです」
「なら、わがままの一つや二つ、聞いてほしいな。ほら、お互いを縛り続けてもいいことはないから、さ。束縛されたら息苦しいし、君だって束縛されちゃったらうんざりしちゃうかもしれないよ」
先輩にだったら束縛されてもいいけれど。彼女はきっと、僕を縛り付けることなんかしない。自分がされて嫌なこと、なんだろうから。だから僕も、彼女を独り占めすることはできないのだろう。今は、まだ。いずれ、そうなる日が来るとしても。
「君と無責任な行為をするのも、プレイとしては好きだよ。むしろ大好きかも。でも、君からされることだけじゃ、満足できないんだよ」
「僕がもっと上手くなれば、いいんですか?」
「そういう問題じゃないよ。――わたしは生来、そういった性質なんだ。ポリアモリーとか、それに近い何か。あるいはそういった性質の人から叩かれても仕方がないくらいに、承認欲求が大きいのかも。一人に愛されるのもいいかもしれないけど、やっぱりみんなから等しく承認された方が心は満足してくれる。君以外とは恋人としての行為はできないけど、君以外はわたしを無制限に承認してくれる。――第三者の都合のいい友達やパパの視点から、ね。お金にもなるし、さ。でも、雄に認めてもらうには過激であらねばならないの。行為が交尾でなきゃ、関係は続かない。でも、君とはそういった承認だけのことをする気が起きないの。そんな未来を、想像できない。したくない」
「僕を大事にしているのか、それとも僕に少しでも抱いてくれた感情を一過性の気の迷いくらいにしか考えていないのか」
「大事に、してるのかもね。でも、まだまだ『彼氏』じゃなくて『後輩』だよ。その先は君の今後次第」
身勝手だ。告白したのが僕で、告白されたのが、先輩なんだからこちらからとやかく文句を垂れる筋合いはないんだろうけど。
「君は男の子であって、男や雄にはなりきれていない。雄にはなれなくてもいい。もしなれたとしたら、その時は君のことを離さないけどね。――最低限、男にはなって欲しいな。今のままじゃ君は、可愛いだけの後輩だから、さ」
「つまり、僕はどうすればいいんですか?」
「あはは、そこで答えを聞いちゃうのはナンセンスだなあ。……難しくないよ。君が男で、わたしが女。ただ、それだけだよ」
「抽象的過ぎますよ。僕は貴方のように頭がいいわけじゃない」
「簡単に解けない問題だったとしても、思考放棄しちゃったらそれまでだよ。解決の糸口は常にどこかしらに横たわっている。気付きさえあれば、君はすぐに男の子から男に昇華されるよ」
「そう、なった方が先輩は喜びますか?」
「喜ぶか、どうかじゃないんだけどなー。まあ、君が男の子のままだったとしてもそれはそれとして、好きだよ」
やめてくれ、その四文字は、
「どうして、そんなに軽々しく好きって口にできるんですか」
「好きを、どんな形であれ使い慣れちゃったからだよ。今じゃ、手に染みついた一級品の武器だよ。――いや、言葉は口から放つものだから、口に染みついた、かな?」
その些細な違いは、この際至極どうでもよかった。ともかく、その薄っぺらい『好きだよ』に耳を塞いでいたかった。痛かった、胸の奥が。どうせ、幻肢痛だ。幻心痛か。どうでもよかった。それ以上のことを聞く気にはなれなかった。幻心痛でどうにかなってしまいそうだ。
応酬は無言で、彼女の茶色に染まったボブ・ヘアーを撫でること。元は黒髪にロングだったのに。時を経れば、誰だって見た目くらい、少しは変わるだろうし、変わらない、なんてあり得ない。あり得ないから、致し方ない。ないのに何で、ないものねだりをするんだい。髪色も、化粧の濃さも、生々しいくらいの艶めかしさも。変わってしまった。変わらないものを一つ希求するならば、それはきっと『心』だ。
先輩の純粋な好奇心に満ちた『心』は、いつ廃れてしまったのだろう。廃れ、というのはあからさまに僕の偏見が満ちているんだろうけど、僕にとっての『理想だった先輩像』からかけ離れてしまった彼女は、きっと廃れてしまったと形容しても遜色ないのだろう。ないの、だろうか。――それとも、変わっていなかったとしたら。
僕がただ勝手に映していた先輩への憧憬が、ただの色眼鏡だったとしたら。色目から生じた、手の施しようのない色眼鏡だったとしたら。おぞましい、恐ろしい。清浄で正常な感情って何なんだ?
僕の心に在ったはずの好意の正体が生殖行為への
僕は僕を勝手に認めようとしているだけなのだ。気持ちいい、気持ち悪い。酷く、気持ち悪い。先輩への偶像は僕の胸の奥の奥のそのまた奥に押し込めてしまいたかった。できるなら、一生。
複数の男と都合の良い関係を築くような女だった。
真実は残酷だ、っていうフレーズは使い古されたボロ雑巾のようなたとえだけど、そんなたとえこそが相応しかった。相応しくなっているのが、悲しかった。
偶像は片手で軽々と壊された。破瓜よりも、あっけなく。
恋人関係になるのは僕が初めてだったらしいけど、言い訳に過ぎなかった。他人に使われた彼女で気持ちよくなってしまう自分が非常に情けなくて、死にたくなった。殺してくれと内心泣き叫びたかった。
でも、行為を続けてしまう。純然たる好意だけじゃままならない、獣のような情動に突き動かされて。やるせなく、でも本心だと取り繕っていた感情は虚しくも実像にはかなわなかった。僕の目に映ったものは、少なくとも僕にとっての現実で彼女にとっての真実だと捉えられてしまうのだ。
汗だらけでベッドに横たわる、体臭と湿った生ぬるい空気だけが耳元で滞っていた。何度突き刺して、何度受け入れてもらったのだろう。どれくらい、彼女を満たせられたのだろう。
寝返りをして枕へとうつ伏せになった。途端に両目が熱くなってどうしようもなかった。静かに枕元を濡らすことしか、できない。僕はまだまだ、男の子にとどまっている。せめて、泣きじゃくる余裕のなさは見せないように。小手先だけの見栄っ張りだった。
「どう、気持ち良かった?」
「……………………気持ち、よかったです」
気持ち良くて、とても、気持ち悪かったです。
先輩は、僕のものではない。でも、僕の彼女だ。彼女になった。
「ふふ、正直でよろしいよ――わたしの『恋人』君」
耳元で囁かれる。試合は続行らしい。彼女は付き合って数時間にして僕の弱点をいくつも掴んでしまっていた。
「恋人、なんですよね」
「わたしに聞かないでくれよ」
「すいません、先輩は僕の『恋人』、ですね」
「それで、いいんだよ」
いいのでしょうか。
――その曖昧な『恋人』という繋がりが、酷く不安になって僕は再び硬さを持ってしまったそれを持ち上げて、先輩の中に埋めるのだ。寂しさを紛らわすように。長い、長い初めての夜を、濃密な臭気と恍惚で満たすのだ。
満たすことでしか、空虚にも、満たされないのだ。
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