第七夜

 熱に浮かされた意識の中で揺蕩っている。地面と空の境界が曖昧になり、それらが何度も入れ替わりを繰り返す。天変地異のリフレインに三半規管が悲鳴を上げるけれど、僕の額に浮かぶ汗粒はいっこうに減る見込みがなかった。資格も聴覚も触覚も味覚も嗅覚も何もかも感覚がないまぜになって思考を混乱へと導く。導いている。


 だけど。確かにその声は聞こえた。


「……ぱい。ほら、……ですよ」


 意識の狭間をすり抜けるようにして、断片的に彼女の声が耳に入った。狂い、火照った感覚に水枕を載せるように彼女の声だけは確かに鼓膜が脳へと届けた。途切れ途切れだけれど。唇をゆっくり割って、中にスプーンとやや熱めの液体と固体の中間みたいな、どろっとしたものが投入される。不思議と吐き出す気にはなれなかった。彼女が僕に与えたものだったから。拒絶は彼女を悲しませると確信していたから。


 口の中に運び込まれたものを咀嚼する。米粒をふやけさせたような歯触り。薄味の塩気。成程、たった今僕が噛み締めているものは何の変哲もないお粥だ。誰が作っても同じような味になるであろう、その料理。病人の胃にストレスを与えることなく、栄養を補給させるための主食。


 確信、というかもはや盲信だけれど、お粥でさえ彼女が作ったものだから、特別に美味しいのだと感じられるような気がした。別に彼女が口に運んだだけで、作ったという保証はないし、作ったとはいえどうせ炊飯器で炊いた、誰でも作れるような代物なんだろうけれど。盲信なんだから、そんな言い訳は熱で溶けてしまった。結果的に、彼女が口に運んでくれたものだから美味しい、と錯覚しているのかもしれない。


 なんというか、面倒臭い思考だ。でも、幸せだからオッケーです。相変わらず、声の主に反応することすらできなかった。一声、「ありがとう」くらいは言っておきたい。けれど、口と喉がガラガラに乾いてしまい、それどころではなかった。


 うだうだしているうちに、彼女の温もりが枕元から遠ざかっていく。不意に、ぼろっと目尻から何かが溢れた。熱く、滴った。まるで赤ん坊みたいだな。振り返り、顔が熱くなる。きっと高熱のせいではない。


 茫洋とした視界ははっきりとど真ん中に彼女を――僕の後輩であるところの草薙さなをくっきりと映していた。意識はゆっくりと何度目かの眠気に誘われる。沼に沈む僕は最後、後輩の唇が微かに蠢いたのを目に焼き付けた。


 いったい、彼女がなんて言葉を遺したのか。

 意識が潰えてしまった僕に知る由はない。



 ※ ※ ※



『せんぱい、いってきます――……』



 ※ ※ ※



 文化祭当日までには熱が引き、身体は充分に動かせるようになっていた。誰かさんが土日二日間とも献身的な看病をしてくれたおかげだ。そのせいで、母親からは後輩のことを彼女――もちろん、ガールフレンドの意だ――だと誤認されてしまったが。彼女ではないのだ、まだ。『まだ』って付け加えるとまるで後々自分の彼女になる運命を背負った女っていう意味を付与できるんだけれど、それってなかなか自尊心をこねくり回した発言だな、と思う。

 リバイス、彼女は僕が好きだった人、そしてまた好きになるかもしれない人。


 では、草薙さなから見た僕は――。

 いや、過去の話だ。今は、忘れよう。そう、今は。


 なぜって、今日は僕の好きな人に思いを伝える日だからだ。好きだった人ではなく、好きになる人でもない。現在進行形で行為を抱いている人。ただし、僕の恋愛感情が満たされないことが前提だ。


 我が校の文化祭は、九月最後の週末を使って行われる。金曜日が前夜祭で、土日が本祭。ここらの地域では一番歴史がある高校であり、本祭では地域住民や受験生、生徒の親御さんなどなど多くの人々が集まり、それなりに盛大な祭典となる。当然、卒業生もたくさん来校する。


 先輩は土曜日に来るとのことだったので、余裕をもって午後に待ち合わせをすることにしていた。午前中はクラス企画のシフトに精を出す。そうすれば、本祭一日目は夕方まで仕事が入っていない。


 天文部の企画であるプラネタリウムは一日二回開催するわけだが、早い方には後輩が入ってくれることになっていた。つい先日、彼女は入部届を提出したばかりだった。文化祭に天文部として参加する際に必要だったからだ。実行委員会か生徒会かに注意をされたのでその場で入部届を渡してもらい書きなぐったのだ、と正式に入部した後で彼女は隠しようのない得意顔で語った。


 そういえば、入部していなかったんだよな……。すっかり彼女は一人ぼっちだった天文部の空間に溶け込んでいた。一人が二人になるのはきっと、二人が三人になるよりも大きなことだと思うんだけれど、二人目が彼女だったからか、日常の緩やかな変革に気付くことはできなかった。だって、部室で二人っきりでも後輩はひたすら絵を描いているだけだし。


 僕はといえばプラネタリウムの調整やら望遠鏡の整備やらに現を抜かすか、本を読むか、もしくは学生椅子を並べてその上に寝そべる等々している。活動に一貫性がない。そもそもどうして後輩はうちの部室に入り浸っているんだっけか。あ、随分前の脅迫関係が続いているから、僕が何を反論しようが無駄なのか。


 ……後輩の部活事情について振り返っている暇はあまりなかった。クラスの丸時計を見上げれば本祭のオープニングセレモニーがもうじき終わる時間に差し掛かっていた。教室の外では同じ階に教室を構える同学年の面々が企画の最終点検のためだろうか、いそいそと速足で行き交う。あるいは、セレモニーから途中退場した面々が喧騒の火おこしをしているようだった。


 セレモニーが終わり、暫くするとまず、生徒の客が少しずつクラスに入ってくる。同級生が多いが、先輩や後輩も混ざっている、といった具合だ。僕は、あまり客を意識せず、ぎこちない営業スマイルで乗り越えることにした。営業スマイルとは言ってみたものの、実態はぎこちない表情なのだろう。現に頬は強張っている。何故かというと、非常に緊張しているから、ドキドキしているから。何より、自分の着ている衣装が非常に恥ずかしいものだからだ。先輩には当然見られたくないし、後輩なんてもってのほかだ。七五日は笑い話をされる。噂じゃないからもっとかもしれない。


 ……大丈夫、大丈夫なはずだ。この衣装を安心して纏えるように入念な準備はした。事前に後輩からシフトは聞いてあるし、わざと彼女と被るシフトに入っている。じっとりと滲む汗をの裾で拭った。


 


 誤表記ではないし、神様が今この瞬間、服飾文化に天変地異を引き起こしたわけではない。スカートとは大抵女性が着るもののはずだ。というか、ジャパニーズ的にはそっちの方が映える。ミニスカートともなれば別格だ。


 でも、僕はミニスカートを穿いていた。


 ひらひらレースで縁取られた白いエプロンを前に掛け、ふわふわと内側から膨らむ黒いスカート。その奥から伸びる、ストッキングで締め付けられて無理矢理細くさせられた両足。もちろん、除毛済み。僕はこれでも中性的な顔だったらしく、クラスの企画の花形に大抜擢されてしまったのだ。いやあ、困っちゃうなあ。最初は遠慮がちだったのに、クラス全体の熱に折れてしまった自分がなんとも情けない。


 どうか、先輩が来ませんように。どうか、後輩が来ませんように――、


「あらあ、せーんぱい? ――とっても、とても可愛い恰好ですね?」

「あひゃい!?」


 背後から肩をトントン叩かれただけで変な声が出てしまった。不意打ちは心臓に悪い。錆びついたロボットの関節部よろしく僕の首はぎこちなく振り向く。振り向かなくても、声の主なんて一人しかいないのだけれど。僕のことを唯一、『せんぱい』と呼び、慕う人間なんて、たった一人だ。


 ――()は、酷く赤面した。僕のことだった。


 クラス企画は、無難にもメイド喫茶だった。ただし、メイドには一人、男がいる! 泣きたい。恥ずかしすぎて。


「ど、どうして君がここに……!?」

「どうしてって、シフトが被っていないからですよ」

「でも、前に聞いたときは土曜日の午前中いっぱいはクラスで仕事しているって……」

「どうしてせんぱいがわざわざ私の、土曜日のシフトだけを知りたがるのかなーって聞かれた後考えてみたんですが、『私とシフトを被らせたい』か『私とシフトを被らせたくない』の二択なんですよね」

「……そりゃ、小学生でもできる推理だね、身も蓋もない」

「で、それぞれ考え得る理由を挙げてみたら、『私とシフトを被らせたくない』方が正しいのかなって。だから、せんぱいの文化祭デート計画表を作りがてら、こっそりクラスの人にせんぱいのシフトを聞いておいたんですよ」


 なんたる根回しのスムーズさ。どうにも彼女には敵わないようだ。ちなみに彼女の言う『』なるものは、僕が熱で倒れているときに作ったものらしく、いつの間にか自室の勉強机に置かれていた。


 表向きは何の変哲もない一冊のキャンパスノートだが、中には各クラス・各部活の企画についてのレポートがびっしり書き尽くされている。まるで、修学旅行を待ち侘びて旅のしおりを書き過ぎてしまった小学生みたいに。『バナナはおやつに入りますか』とか、振り返ればクソしょうもないことを書き連ねているのだが、書いている瞬間は胸を高鳴らせているから気付かないとかそんな感じの、アレだ。


 どんだけ楽しみにしているんだよ、を。逆に引いてしまう。中学時代の僕が心のどこかに残っているならば、ちょっとは傷ついているんだろうな、と思ったけど、口にするほどではなかった。


「でもでも、どうしてせんぱいが女装を? 他のメイドさんはみんな女の子ですし、先輩が出る幕じゃなかったんじゃないですか?」

「なんか、女子勢から推薦を受けてしまったらしい。承諾した覚えはないけど」

「一応聞きますけど、らしい、とか、覚えがないっていうのは」

「役決めの日にちょうど熱で休んでいた」

「はははは、それは災難でしたね」


 他人事かよ。安い同情だけれど、背中を擦られながらだと思わず涙目になってしまう。ぐっと首を上げて、眼球の皿から熱い塩水を垂らしてはならないと心に誓った。よし、堪えた。ってか、後輩は同情こそすれど、口元はニヤついていたし、内心面白がっているのだろうと、確信した。盤石の自信ってやつだった。


「でも、女子勢が推したのも頷けますよ、――メイドさん。素材が中性的ですからね。とても似合っています」

「オイオイ後輩、喧嘩売ってるのかい?」

「おやおやメイドさん。ご主人様に荒々しい言葉遣いをしてはいけませんよ?」「ま。まだ接客は始まっていな」

「私はもう、このクラスに踏み込んでいるんですから。もうお客さんであり、ご主人様なんですよ?」

「くっ……」


 呻き、しかし、彼女の言が正しいことを悟る。内心をざわつかせながら、ぎこちない営業スマイルで「い、いらっしゃいませご主人様ー」とメイドの常套句を口にすると、「うむ、このメイドはまだご主人様の下に就いて一か月も経たない新入りですね」と品評される。


 喧しい、嗚呼喧しい、喧しい。心の一句。


「そういえば、君――ご主人様のクラスは何をや、やるんデスカ」

「メイドのキャラが定まってませんね。別に、二人で雑談するくらいだったらいつも通りでいいんですよ?」

「……メイドを求めてきたのはどこの誰だったっけな」

「細かいことに気にしていたら電柱にぶつかりますよ? この部屋に電柱はないので、ぶつかるとしたら私でしょうけど」

「あー、そのときは受け止める努力はする。善処は、する」

「善処という言葉がいやに空回りに聞こえますね」


 メイド服に限らず、慣れない女性の服を着ているんだ。勘弁してくれ。で、結局、後輩のクラスは何の出し物をするんだろう。


「お化け屋敷です。ちなみに午後はお化け役になりますからぜひ来てくださいね? 可愛い後輩の、ゾンビメイクですよ? 一生に一度……か、二度? せんぱいに頼まれればやらなくもなくもなくもないですが、ともかく高校の文化祭で私のお化け役が見られるのは今年くらいしかないですよ!! ないんですからね!!」

「そんな、尻尾ブンブン振られたら行くしかないじゃんか……」

「わーい、せんぱいやさしー」


 棒読みだった。茶番でもあった。立ち話をしている暇はなかった。


「ねえ、せんぱい。――いいや、メイドさん。私を席に案内しなさいです」

「ですます調にすれば丁寧に聞こえると思うなよ?」

「では、――おいそこのメイド、私を案内しやがれ」

「言葉の棘ッ!! って痛っ、地味に脛蹴るなよ!? うちのメイドはおさわり禁止なんだよ」

「せんぱいメイドにお触りするのって私くらいですよ。――私くらいですよね? 私専用ですよね」


 脛に追撃。涙目になりながら、後輩を引っぺがす。僕はメイドとしての職務を全うしなければならないのだ。


「……どうしても、君専用のメイドになってほしいのか?」

「それは、もちろん。私だって、メイド服を着たせんぱいに馬乗りになって、おしりをぺしんぺしんしたくなるんですよ」

「何たる性的倒錯。せんぱい涙目だよ」

「冗談ですよ冗談。でも、独り占めにしたいのは本当ですから」


 シフトのマニュアル通り、僕は後輩をテーブルへと案内する。メニューを差し出したところで、受付の方から次の客の接待を頼まれたので、そちらへと向かう。向かおうとした。


 でも、後ろからスカートの裾がきゅっと握られていた。振り向く、じっと僕を覗く後輩の顔は、眉根を寄せた真剣な面持ちだけれど、心の中に拭いきれない暗雲が立ち込めているような、そんな不安さも含んでいるような、気がした。思い違いかもしれない。少なくとも、僕がそう、感じ取っただけだ。


「今日は、せんぱいの好きにやってください。やっちゃってください。――でも、その代わり、って言ったら変ですが、明日は私のために時間を使ってくれませんか?」

「……メイドじゃなくてもいいのなら」

「むしろ、私がメイドになればいいのでは?」

「はいはい。じゃあ、僕はお仕事頑張ってくるから。明日、君とめいっぱい遊べるようにね」

「……ありがとうございます」


 後輩のお礼を背中で受け止めて、クラスの作業場に戻る。同じシフトの男子女子が口々に後輩を褒めそやしている。時々、僕の方をちらちら見たり見なかったり、やっぱり見たり。その中の一人が意を消したのか僕の方へ駆け寄ってきた。クラスのカーストでも高そうな、イケイケの女の子だ。名前は割愛。覚えてすらいないかもしれない。


「あのー、もしかして君、さなちゃんの恋人だったりする?」


 ……と聞かれた。もしや、僕の名前が認知されていない説があるな。無言で僕が首を横に振ると、「なーんだ」と詰まんなさそうな顔をされて、同じグループの仲間の輪に戻っていった。心外だ。


 後輩が頼んだのは珈琲とパンケーキだ。うわあ、女子高生が好きそうなメニュー。

 タピオカだったら二重丸だったかも。何が二重丸だって? 後輩のミーハー度が。


 ともあれ、注文を受けたからには手早く厨房役に指示を回さねばならない。パンケーキを調理役に任せている間、僕は珈琲を淹れていた。淹れた、とはいえたかが高校の文化祭だ。バリスタの極めた芳香を生み出すことは敵わない。インスタントの粒を紙コップに盛って、水を注ぐだけだ。アイスコーヒーならば、ネスカフェのボトルから注ぐだけだ。メイドはお客様の受け答えと配膳、そして飲み物の用意をしていれば成り立ってしまうのだから楽な仕事だった。


 後輩への配膳役は半ば押し付けられる形で僕になった。うーん、無言の圧力。でも、胸がざわつく種のものではない。むずがゆくなる反応だ。シフト各位のニヤニヤが止まらない顔を目に焼き付ける。ぎらり、と涙目で睨みつけると彼女らは誤魔化すように視線を逸らしたり、わざとらしく口笛を吹いたりしつつ、作業に戻っていった。あらぬ誤解を掛けられたものだ。


 変に気を利かせられて、クラスメイトから「話し相手に出なってくれば?」と言われたものだから、仕事をサボりがてら後輩とご歓談することにした。余計なお世話だが、後輩と喋っていれば時間なんて颯爽と過ぎてしまうし、先輩とのデートへの気持ちばかりが先行して緊張にやられてしまうよりはマシだと判断した。唯一、迷惑顔が隠せなくなることといえば、草薙さなという偉そうな我が後輩に一秒でも主従しなくてはならない、ということだった。


「…………ご主人様お待たせしました。パンケーキと珈琲でございます」

「わあ、何という棒読み。さては慣れていませんね」

「一般人がメイドに慣れるわけあるか」


 いや、脅迫関係的にはとっくの昔に主従していることにはなっているのだけれど、その、さすがに隷属までは到達していないと思っていたのだ。古代ローマでのメイドは奴隷として定義されていたし、僕がメイドで後輩がご主人だとしたら、僕はもう完全に奴隷であることを認めたようなものじゃないか。嗚呼、なんと屈辱的なことか。


「棒読みって、君な。仕方ないだろう、慣れていないんだから」

「でも、他のお客さんにも私と同じように応対するんでしょう?」

「ご主人様、はつけるかもな。メイド喫茶なんだし。あと、もうちょい棒読みは改善する予定だ」

「私で露悪な対応を消費しないでください。メイド失格です」

「少なくとも、いや、多くとも、君のメイドでいるのは今日このメイド喫茶限りだ。再入場せず、淡々とシフトをこなしてくれ」

「ちぇっ、釣れないですねえ」


 たかが文化祭の一企画であろうが、これじゃお嫁に行けないぜ。いつからボクは性転換したんだよ。


 ただまあ、いずれこの仮初めの主従が逆転したら、それはそれで悦に浸れていいのかもしれない。いつになるのかは未定だし、そもそもなれるとも限らないが。


 僕はかつて後輩に一方的な好意を抱いていたが、果たして彼女から僕へ手向けられた感情の名前が何だったのか、尋ねようにも尋ねられずに今の今まで時は過ぎた。今更、感情を問い合わせる資格はない。


 もうすぐ、好きな人に告白をするのだから。告白をして、振られてくるとしても。結末が分かりきっている恋だとしても。その恋に後輩が加担してしまった以上は、僕が彼女の感情をわざわざ問い合わせるなんて不可能だ。できない。できっこない。資格はない、ってそりゃ、体のいい言葉の遣い方でしかない。


 本当は、聞くのが怖いのだろう? どうして、君は僕の恋を助長する?


「デートまであと三時間を切りましたね」

「……そうだな」

「反応が遅れていますが、まさかまさか緊張しているんですか? たかがデートに。た、か、が! デ、ー、ト、に!」

「なんだよ、そのいささか神経を張り裂くような語調は」

「緊張が解れるかなーと思いまして」

「緊張は解れたけど、君の独占欲を満たす気が失せそうだ」

「きゃ、きゃー!? 許してください、言い過ぎました。ごめんなさい……!」

「いや、マジで謝らなくてもいいけどさ。ってか独占する気満々かよ」

「せんぱいを独占できない文化祭なんて文化祭なんかじゃないんでっ」

「愛が重いなあ」

「軽い愛情を向けられるよりは慕われていた方がいいでしょう」

「ヤンデレ化したら三歩以上は身を引くので、なるだけ精神衛生は保っておいて。死ぬのだけは勘弁だ」

「ぜ、善処します……」

「うわー、心底信用できない」


 まるで、カップルみたいな会話だ、なんてまるで井の中の蛙大海を知らないみたいな小さな高慢だろうか。人間失格ならぬ、先輩失格かもしれない。とっくに相応しい先輩の座は剥奪されているかもしれないけれど。


 ――自問他答ができなきゃ、他問自答も叶わない。自問自答をしても返ってくるのは世界の中心に僕が在るのだ、と自惚れているようなポエムの連なりのみ。恋が一過性ならば、そんな刹那に僕は振り回されているのだろう。愛が永続的なものならば、僕は恋を捨てるまでその感情にたどり着けない。さて、僕はどの道を歩もうとしているのだろう。自分にすら分かりっこない。


 嗚呼、人を好きになるなんて苦しいだけだ。だけれど、その麻薬じみた中毒性に溺れてしまっているのだろう。


 救われない。報われない。誰も、救えない。救えると天狗になったつもりでいるのが馬鹿馬鹿しい、あさましい。


「でもでも、デートさえ終わってしまえば、私は引き続き、せんぱいを独占できるんですよね?」

「どうだか。……一応、告白が叶う可能性だってあるわけだし。そうしたら、部室では独り占めできたとしても学校の外じゃ、君は僕の隣を歩けないと思うけれど」

「ふふ。残念ながらせんぱいの恋が成就する可能性はゼロに等しいですよ」

「端から否定しないでくれ。いや、分かっているつもりだけれど。一縷の望みってやつに賭けてもいいじゃないか」

「はー。大体ですね、溺愛している彼氏さんがいるんでしょう? それこそ不倫する隙もないはずですが……」

「わ、分かっているよ! だとしても、やってみないと分からないことはやってみないと分からないんだから。すべては終わってから嘆けばいいし、嘆きを受け入れてくれる最高の後輩もいるから」

「さ、最高の……、ふふ、『最高の』……、と、当然ですね、私は最高の後輩ですから、せんぱいの愚痴の一つや二つ、それどころか百くらいは受け止めますよ! この豊満な胸で」

「豊満ではないと思うけど……、それともイマジナリ・豊満かな。最近はヴァーチャル空間にモデルさえあれば大きくも小さくもなれるかr」

「ぶっ飛ばしますよ、ぶっ飛ばしますからね、ぶっ飛ばします、今からでも遅くないので、このデリカシー皆無せんぱいが野に放たれる前に弁慶の立ち往生にしますから」

「いだっ、蹴るな、蹴り続けるなっ。この服だって一応借りものなんだからさあ!」


 後輩さん、後輩さん。たとえ、黒タイツで生足覆っていても痛いものは痛いので脛ばっかり狙うな、弁慶すら泣き所指定を受けるんだから一般人の僕にとっては、相当のダメージが入るに決まっている。だから向う脛に正確な蹴りを入れるな。


 慌てて厨房に戻ろうとする。しかし、後輩はまだ気が済まないらしくスカートの裾を引っ張ってきた。オッサンだったらセクハラ認定受けるだろうけど、生憎後輩はオッサンとは正反対の位置にある現役の女子高生であり、それなりの美少女に属していた。むしろ、引っ張ってくれと所望する男子もいそうだけれど、逆にセクハラじゃないか、それ。


 ともあれ、僕はとうに、後輩を対処することが億劫に感じていたので、引っ張られた布地を軽く振り払って、はたき落とした。ちょっとだけ、ほんとちょっとだけ、後輩が寂しそうな顔を見せた、ような気がした。自惚れるのも大概にした方がいい。


「で、今度は何なんだよ」

「せんぱ……、メイドさんにご奉仕をお願いしたく……」

「あー、はい。畏まりました。お触り以外だったら何なりと」

「……せんぱいは私を中年のおじさんか何かと勘違いしていませんか?」

「まさかまさか、気のせいですよ、ええ」


 図星だったので、わざとらしく言葉に嘘の匂いを塗りたくった。代償として溜息をつかれて、なんともやるせない気分になった。


「私はただ、パンケーキに絵を描いてほしくて呼んだだけですから。多分、せんぱいのことだから呼んでも一度か二度は無視するでしょう?」

「三度目くらいでクラスの連中に背中を押されて強制召喚されるだろうけど」

「でもなんか……それは癪です。私以外の力でせんぱいが召喚されることが」

「台詞がファンタジー小説に出てくる敵役のそれなんだけど。何なの、僕は魔王かなんかなの?」

「せんぱいは私のせんぱいです。今はメイドさんですが」


 答えになっていない気がしなくもないけれど、言語中枢が悲鳴を上げていたので考えなかった。


「で、絵の内容はどんなものがご所望で?」

「でかでかと『せんぱいLOVE』とでも」

「……帰りますね、いや、帰る。さっさと食べて帰れっ!」

「冗談ですよ、冗談。一世一代の告白をする人の手前で、ふざけた告白するなんてさすがに非道でしょうし」

「そういう問題かよ。で、絵は何がいい?」

「タスマニアデビルで」

「またまたニッチなものを選ぶな」

「嘘です、秋桜コスモスで」

「優柔不断か? でもまあ、描きやすいので僕としてはありがたい」


 というわけで、僕は机に備え付けられたメイプルシロップのチューブを掴んだ。蓋を開きながら秋桜コスモスをイメージ。そういえば、絵を描くことから大分離れていた気がする。けれど、不思議なことに元美術部エースの血は騒いでいた。


 おかしいな、今の今まで絵を描くことへの抵抗感は果てしなかったはずなのに。告白を手前にして根拠のない全能感が込み上げているのだろうか。だとしたら笑いものだ。潰れる未来が分かっているくせに、少しでも期待してしまったら反動が大きくなるだけだ。


 今度こそ、本当に絵が描けなくなるかもしれない。――でも、それはそれでいいんじゃないか。心の中で全能の僕が熱弁している間、僕は適当な首肯の裏でたった一人の女の子、いや、女のことしか考えられなくなっていた。脳髄が今にも沸騰しそうだった。だから、パンケーキに絵を描き終わって、適当な雑談を交わして、クラスの出口まで見送っても、僕は後輩のことを既に視界から透明で塗りつぶして除外していた。


「それじゃ、せんぱい。頑張ってくださいね。


 彼女はクラスを出る直前、そんな激励を遺していた。きっと、その言葉に嘘偽りはないのだろうな、と。だって、そっちの方が僕の都合に良いから。後輩とは違う女に告白するというのに、彼女のことで思考を埋め尽くすのは合理的ではないと脳が判断したのだろう。


 脳が正しく判断したことならば、僕は逆らう必要がない。

 だって、正しいのだから。


 『僕が今恋をしている人間は、後輩ではなく、先輩なのだ』とずっと前、正確には後輩と再会した七月の終わりには定義を終えていた。


 ダイヤモンドよりも強固な定義。今更、覆すつもりもない。覆すとしたら、恋の終わりを自覚したとき、だろうか。


 メイド服の上から胸に手を当てる。パッド越しに鼓動があった。高鳴る鼓動は後輩が消えても鳴りやまない。僕の内に秘めた恋愛感情はきっと、正義だ。少なくとも僕の中では確固たる、正義だ。


「おやおや、青春しているじゃないか――少年」


 ふと、教室に戻ろうとしたら背後から声がかかった。どうにも彼の声は鼻につく。重い首を振り向かせれば、目と鼻の先で風早先生こと、風早彰が僕を覗き込んでいる。不気味が過ぎて、思わず身体が仰け反った。


 足がもつれ、教室と廊下の狭間で尻もちをつく。見上げれば、風早先生の黒茶で長い前髪が彼の両目を隠していた。だからか、口元に浮かぶ薄い微笑が気持ち悪く映ってしまった。外見的な印象の問題だろうから、あえて口にすることはしなかった。風早先生が気持ちの悪い大人だったとして、その外見まで否定する権利など誰も持ち合わせていないのだから。


「あはは、驚かせてしまったようだね。立てるかな、少年」


 手を差し伸べられたものだから、仕方なく手首を掴む。掌を握るのだけは、僕のポリシーに違反していた。


「ありがとうございます……、なんて僕に借りを作ることが目的ですか?」

「おいおい、どうして君はぼくにだけ冷たく当たるんだい? ぼくとて一介の教師だ、君に情けをかけるつもりはないさ。生徒を守るのが先生の役目だし、ねえ」


 含みのある言動。無意識に僕は舌打ちをしていた。


 どうして僕は風早彰という男にこれほどまで嫌悪感を抱いているのだろう。いつからだっただろう。ずっとずっと前だったかもしれない。もう覚えていない。忘れようとしていただけかもしれない。美術部の顧問、なのに彼は事あるごとに僕へと突っかかってくる。


 揶揄いのような行為は一年生の頃から続いていたような気もする。彼はよく僕の身の上話に突っかかってきた。友人や美術部員に話を聞いてみれば、風早彰という人間はそういった人間だということが明らかになった。つまり、根本的に人間が好きで、生徒の悩みとかよく相談に乗っているような、そんな人間。


 代々……といっても僕が入学する二年前に新任で入ってきた教師だったので、三年生から『風早お悩み相談室』とか呼ばれるようになり、その呼び名は下の代にも着実に定着した。恋愛相談で美術科の準備室に長蛇の列ができたり、できなかったり。


「先生は恋愛沙汰大好きですよね」

「恋愛というより若い男と女が交わっているのを見るのが好きなんだよね」

「捉え方によっては危険じゃないですかそれ。教師としては問題発言だと思いますが」

「それもそうかもしれないね。じゃあ――、若い男女が仲良くしているのを見ると微笑ましい気持ちになる、とかなら?」

「……僕にはよく分かりませんけどね、先生の思想が。しょせんは他人の幸せじゃないですか。自分が幸せになれない限りは、他者の幸せなんて願えないと思うんです、余程の聖人君子じゃない限りは」

「なるほど、なるほどね。つまり君はぼくが幸せな人間だと言いたいわけだ」

「どんな行間読んでいたらその結論が出るんですか。国語科の先生に読解を教えてもらうといいですよ。僕は先生が余程の聖人君子に満たないと言いたいんです」

「あっはは、滅茶苦茶な偏見を投げられた気がするなあ。さすがにぼくも傷つきそうだ」


 傷つきそうだ、と口では言いつつもへらへらと笑って見せる風早先生。このやんわりとしたキャラが生徒の間では人気らしい。正直なところ、気に食わないが。


 彼のどこが気に食わないか、と言ったら、悩んだ末に彼の纏う匂いに一番、嫌悪感が募ることを最近になって自覚した。


 シャンプーやボディ・ソープのような清々しさではない、かといって安物の香水のように人工的な甘さはない。どこかで嗅いだことがある匂いで、その匂い自体は嫌いじゃないのだけれど、彼からその匂いが放たれることを生理的に拒んでいるというか。ううん、言語化が難しいがともかく、あまりいい印象を抱いていないのは事実だった。


「僕は決して、先生の考えているような青春を送っていないですよ。それに男女が仲良くしていたら青春って、判定がガバガバ過ぎません?」

「ぼくが見ていて楽しいと思えればいいんだよ。君たちは自然体でいればいい。あと少年、君は勘違いをしているようだが、僕だって自分の幸せが優先さ。自分が幸せの渦中にいなければ他人の幸せを水に流せない。聖人君子じゃないのは本当さ。――でも、ぼくは今、幸せの渦中にあるからね。だから、他人の恋愛なんてどうでもいいんだ。どうでもいいから、微笑ましく思える。そんなものだろう? だから、きっと君とは違うんだろうなあ」

「僕とは違う、ってのはまるで僕がその手の幸せに恵まれていないように聞こえてしまうんですが」

「その通りじゃないのかい?」

「……、違い、ないでしょうけど」

「表情が濁っているようだね。あらかた間違っていないようだ」


 言葉に詰まり、目を逸らす。クラスメイトが僕を呼んでいる。メイド喫茶はそこそこ繁盛しているようで、教室の前にはちょっとした列が形成されていた。


「すいません、仕事があるので」と恰好の言い訳をして、風早先生の下から消えようとする。直後、耳元で男が囁いた。





 ゾクリ、と。感染症の罹り始めみたいな悪寒が耳元から四肢へと伝って、心臓を鷲掴みにした。振り向いたが、既に小走りで風早先生は廊下の向こうへと去った後だった。震える脚で厨房へと戻る。クラスの面々が訝しげに僕の顔を覗いていた。


「メイドさん、ひょっとして疲れちゃった?」

「えっ、全然疲れてないけど――」

「でも、顔中汗びっしょりだよ?」


 心配され、気づけば僕の手中に売り物の緑茶が入った紙コップが握られていた。どうやら、飲めということらしい。脇目も振らず、僕はそれを一気飲みにして、同時に風早先生の悪魔の如く、粘っこい私語を水に流すことにした。一度目を閉じ深呼吸。僕が考えるべきは、メイドとしての職務を全うすること、そして、それ以上に先輩とのデートを成功させて告白をすることだ。


 ……結末なんて分かりきっている。だから、期待はしない。しなくていい。後輩に慰めてもらえばいい。そしたら、彼女との関係を一からやり直してみるのも悪くない、かもしれない。彼女が僕をどう思っているのかは知らないし、他に好きな男がいてもおかしくはない。だったらその時は、恋を失って暫く天文部室に籠っていればいい。他人の幸せを妬むより人間的にマシだ。


 深呼吸を二回して、ようやく僕はメイドの仕事に戻ることができた。午前中シフトは大繁盛のまま終えることができた。



 ※ ※  ※














































 文化祭初日の終わり。暮れなずむ夕景の元に僕は立ち尽くしていた。

 呆然としていた。

 目の前で承認されたあるはずのない未来に胸が詰まってしまいそうだった。























 つまるところ、僕は。先輩への告白を。――――成功させてしまった。

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