第六夜

 九月も半ばに差し掛かった。午前一時半の邂逅から早くも二か月が経っていた。時の流れは夏を絞殺し、冷たくした。残暑に見舞われるのはあくまで日中だけ。夜が更けるころには道路の舗装の熱も冷めて、薄らと鳥肌が立つくらいには肌寒かった。


 無人駅の周辺に、実った稲穂の匂いが漂う。実りの秋、すなわち食欲の秋。米だけにかかわらず野菜や果物も収穫の時期だ。駅に至るまで、田んぼと田んぼの間に挟まる畑がちらほらと見受けられた。


 乾いた土に埋まるさつま芋とか、木々に生えた栗や葡萄の実とか。サービス業よりも生産業が盛んである僕の街は、今時珍しい超がつくほどのド田舎だ。無人駅は日本にもそこかしこに点在しているらしいが、田園のド真ん中っていかにも青春小説で取り上げられそうな、あるいは青春十八きっぷのポスターで用いられそうなベタな土地に建てられているものは意外と少なかった。


 山間部はそれなりにあるらしいけれど。ド田舎、ああド田舎。人っ子一人いない、だと言い過ぎだけど、きっと地元の若者の数は限りなく少ない。


 ましてや、午前一時半――終電後の駅に用がある若者なんて僕と後輩くらいしかいないだろう。


 稲穂の匂いが涼しい風に乗って鼻腔をくすぐる。甘く心地いい香り。人によっては空腹を誘われるんだろうけど、生憎僕はごはんよりパン派だった。米粉パンを出されたら根負けされるのでは。


 終電後の駅は閑散としていた。まばらに散っていく残業帰りのサラリーマンが訝しげにこちらを睨んできたが、無外を悟るとすぐに田園に続く道を速足で去っていく。大学生とかは日中でもない限りなかなか見ない。そもそも近辺に大学がないため、大学に進学した場合は一人暮らしがほぼ確定となる。


 僕もまた二年後、大学に進学できたら一人で暮らすことになるのだろうが、そんな未来の話は想像できない。想像できない。今を生きるので精いっぱいだからだ。しかし、残業帰りのサラリーマンにはなりたくないな、とぼんやりとした希望だけはあった。定時退社しても憎まれ口叩かれない企業に就職できればいいや、とだけ。


「お待たせしました、せんぱい」


 後輩の、草彅さなの声に顔を見上げたところでばつん、と音を立てて駅舎が消灯した。すぐそこまで彼女が迫っていたが、蛍光灯の光に慣れてしまった両目は暗転した視界に後輩を映すことができない。しかし、軽い足取りは迫るばかりだ。きゅっと目を瞑って三秒、軽く暗順応しかけた目で再び闇に目を向けようとして――発光。「いぎゃ」と情けない声を喉から漏らしつつ、目を細めた。闇に浮かぶ、一点の光を目視した。


 円形の物体が宙で激しく輝き、浮遊しているように見える。御霊か? 墓場はこの近くにないし、お盆の季節はとっくに過ぎている。一か月前だったら百物語のいいネタにもなっただろう。非常にマイペースな魂だ。呑気にそんな考えに耽っていた。そもそも幽霊は信じないクチだったからだ。幽霊(笑)はチカ、チカと付いたり、消えたりしている。きっと成仏寸前なのだろう。浮世に残した未練が晴れたのだろうか。まさか『幽霊になって人の前に現れたい』っていう至極くだらな――いや、大層幼心に溢れた未練だったのだろうか。なら、ちょっとは驚いておいた方がよかっただろうか。足取りは近づく、ぺた、ぺたと。縁系の輝きが間近でチカチカしている。脳内会議の末、数秒沈黙したあと、両手をだらしなく挙げて「うわわわわ」と驚くふりをした。僕は決して、役者じゃなかった。


「……あの、せんぱい」

「…………どうかな、後輩」

「どうもこうも、どうしたんですか。まさかまさか頭をどこかに打ってしまったのですか」

「やだなあ、冗談キツイよ。――いくら臓器売買とはいえ、頭を売っちゃったら金があっても使えないじゃないか」

「バイ、じゃなくてストライクですって。幼稚な言葉遊びはやめて現実に戻ってきてください」

「その前に」チカチカする電球の真下に見上げてくる後輩の顔をとらえた。「ライト、消してくれない? 目が痛い」

「おっと、忘れてました。すいません」


 けろっとした顔でウインクにピースを重ねてくる。悪気はないらしい。憎たらしいやつだ。手前で止まった後輩が、目つぶしのライトを消して、手元に戻した。すぐに点灯。「ばぁ」と抑揚のない声で彼女は顔を真下からライトで照らした。だから僕は幽霊を信じないクチなんだ。いくらやっても無駄なんだ。無表情で睨み返すと、じわ、と後輩の目じりに涙粒が溜まってきたので僕は仕方なく「うわわわわ」と驚いたふりをした。涙粒を浮かべながら彼女は「このばかせんぱいなめてますねこのこのこの」と胸を叩いてきた。大根役者も鼻高々に笑うくらいの演技力なんだ。高望みをしないでほしい。あと驚かす相手を間違えたのは後輩の運が悪かったっていうことで、うん。やはり理不尽だ。


 叩き飽きた彼女は、涙をぐしぐし、制服の袖で擦った。制服のままだった。最初に無人駅で再会した時から、この駅で鉢合わせるときは決まって、彼女は制服を着ていた。部屋着姿は見せたことがない。見せることに躊躇っているのだろうか。まあ、たかが中学高校が一緒なだけの、それも異性の先輩に部屋着姿を見せるはそれなりに抵抗があるのだろう。


 ちなみに僕は最初から貫徹してジャージの寝間着姿だ。そもそも後輩と再会する以前から僕は深夜の無人駅を訪れていたし、その頃から寝間着姿だったから。日が変わるより前に寝静まる我が家からそっと抜け出して、白ポストを漁ってすぐに帰らなければならないのだ、音を立てずに。外向け用の着替えを着たところで見せる相手もいなかった。今は後輩がいるけれど、着替えている音で両親に勘付かれるのは御免だった。


「とにもかくにも、おそようございます、せんぱい」

「こんばんは、じゃなくてわざわざおそようを使った意図は?」

「……帰宅してからぱったり気絶するように眠りこけてしまい、ついさっき起きたばかりだったので。……早寝早起き、帝国起床英国就寝をきっちりかっちり一〇と四年、厳守してきた身としては奇絶怪絶珍事件なんですよ」

「あくまで厳守してきた身、だったらな」


 午前一時半に徘徊している人間はまず早寝はしていない。


「さすが。ボケのし甲斐がありますね。でも、誇張はすれどあながち間違っていないんですよ、実は」

「どういうことかな?」

「私が無人駅に訪れるのは一週間に一回、決められた時間帯ですから」


 じぃぃぃぃ、と。変に舐め回すように、後輩は僕の目をひたすら覗いていた。まるで何かを訴えかけているように。だが、直接的な言葉がなければ、察しのいい人間にしか言いたいことは伝わらない、僕は決して察しのいい人間である自信はなかったし、どちらかといえばどんくさい方だと思っている。


「後輩の白ポスト物色事情に興味はないよ。どうせ、未だに吐き気を催すグロテスクな御本を収めているんだろ?」


 果たしてそれが彼女の希望した返答かは分からない。希望に逸れていたとしても、正解が分からないんだから不正解も当然分からないわけで、僕に罪はないはずだ。僕と彼女の再会は白ポスト――要はエロ本によって繋がれたようなものなのだから、その方面なのかな、と推論立てただけである。


 後輩は、「さあ、どうだか」と意味ありげににやけ顔を向けてくるだけだった。これじゃ、頭から尾まで不透明だ。どうやら、真相は暈されてしまったらしい。彼女は一度、ぐるりと田園風景を見回すと、「急ぎましょう」と手招きし、駅舎の奥へと僕を導いた。ちょっとだけ、突っかかりを感じた。別に急がなくても、僕は逃げないし、時間はみな平等に二四時間きっかり等速で流れているのだ。僕と後輩だけが居座る無人駅の時間の流れが特別早くなることはない。でも、そんな常識を糾弾したところで常識は常識以上にも以下にもなり得なかった。彼女なりに深いなり浅いなり理由があるのだろう。それを問いただす時間すらも危ういくらいに逼迫しているのかもしれない。


 無人改札を僕は飛び越えて、そして後輩は潜り抜けた。三者三様のやり方でプラットホームに半歩だけ踏み入る。――直前、月明かり挿す空の下で何かが軋む音がした。半歩前に出た足ですぐさま後ろへと跳ねる。途中、後輩の首根っこを掴んで引き戻した。「ぐえっ!? な、何やって……」と混乱した表情を見せる彼女の口を、空いている左手で塞ぐ。


「静かにして」


 驚愕の表情に変化していく彼女の耳元で静かに囁く。目線はおもむろに鋭くなっていた。


「でないと、見つかる。白ポストの前に、知っているやつがいる。それもかなりマズいやつだ。危ないから、君は僕から離れるな、絶対。いいね?」


 柔らかい桃色の唇に押し付けた掌がじっとりの彼女の呼気でぬるく、湿る。指が触れる、彼女の頬も心なしか熱い。いや、うぬぼれかもしれない。熱くなっているのは、ひょっとしたら僕の体温かも。定かにしたら、気でも狂いそうだ。


 息を、殺す。――何も、このようなことは一度きりじゃなかった。たまたま後輩を連れているときに出くわしたのが初めてなだけであり、単独で自宅から白ポストを徘徊していたら、同業者に出くわすことはそれなりにあった。交流をするわけではないが、ばったり出くわすと大抵は相手の方から逃げ出す。そう、大抵は逃げる。というか僕の知る限りじゃ一人を除いて、逃げていた。レンタルショップの十八禁コーナーで声を掛けられる気まずさと似ているような気がする。


 駅舎の影から、かがんでプラットホームを覗く。じっくり目を凝らし、ポストに貼りつくようにして中の本を取り出そうとしている人影を観察する。月光に照らされて、その全容が判然としてくる。先程飛び出した際に一瞬だけ見えた顔は、かつて深く目に焼き付けられたものだった。


 白ポストの目の前に立ち尽くしているのは、黒い目出し帽で顔をすっぽり覆った男だ。黒のジャケット、黒のチノパン、黒のスニーカー、そして黒のタートルネック。何もかも夜闇に擬態させるための服装のように見える。肌の露出を極めて嫌う男の姿勢は不気味さを通り越して清々しさを感じなくもなくもない。背丈が高く、すらっとした身なり。だが、上着にちらほらと浮き出る引き締まった身体は相当鍛え上げた者なのだろうと容易に想像がつく。その擬態は敵から隠れるためのものではなく、敵を捕食するためのもの。グラスホッパーではなく、カメレオン。


「最悪だ」

「……むがっ?」


 ぽろっとこぼれた、絶望。口を抑えつけられながら後輩は首を傾げた。彼女がまだ遭遇していないは幸いだった。


 絶望――言い過ぎではない。僕にとってはまさしく、あの目出し帽にスーツ姿は絶望の象徴なのだ。


 僕は今年の春先、この無人駅であの男――敬称略で軽率に『マスク男』と命名しておくことにする――に襲われたのだ。


 いや、それだけじゃない。彼は僕を抑えつけ、乗用車の荷台に積もうとしたのだ。もしも捕まったままだったら、どうなっていたか。想像しただけで吐き気がしてしまう。きっと、後輩と再会することもなかっただろうし、一生の運を全て使い果たした気分だ。しかし、『九死に一生を得る』を地で行く経験がありながら僕の深夜徘徊は相変わらず続いている。命知らずな自分に呆れてしまうが、もはや中毒なのだ。やめたくてもやめられない。


 自然にマスク男だけには細心の注意を払うようになっていた。だから、自分一人のときにマスク男を目撃したら足早に無人駅を去るようにしている。彼は八割がた、車で駅を訪れる。残り二割は徒歩だったか。車は遠目でしか見たことがないが、日産のレトロカーだったような気がする。夜目で見ると、埃のない黄色い塗装が瞬く綺羅星のようにぺかぺか光っているのだった。


 最悪だ。最悪すぎる。


「今日は撤退した方がいい。あの男は危険だ」


 ぷは、と僕の手を引っぺがした後輩が不足した空気を補うために大きく深呼吸した。大声は出すなよ、と一応注釈を受けておく。叫ばれたら二人揃ってマスク男の餌食になりかねない。幸い、今日は駅舎の近くに一台の車もなかったので拉致はできないだろうけど。


「…………でも、どうしても今日やらなきゃ駄目です。人目をはばからずに。そうしなきゃ踏ん切りがつかないじゃないですか」


 今日やらねばならないこと。僕の『先輩』への未練を果たすための作戦会議だ。後輩が声高々に午前一時半の無人駅を指定したものだから二つ返事で了承してしまった。今思えば、どうしてわざわざ午前一時半の無人駅に集まらなければならないのだろうと疑問が湧き出なくもない。別に天文部室を貸し切ってしまえばいい話だ。でも、指定されたときの後輩の必死そうな顔を見てしまったので、僕には何の意見も出せなかった。深夜徘徊は慣れていたから、後輩さえよければ僕は深夜の無人駅でもどこでもよかった。でも――マスク男がいるなら話は別だ。


「どうしても、ここじゃないと駄目なのか? 僕の家とかもしくは君の家とか、安全な選択肢だっていくらかはある」


 お互いの家くらいしか選択肢がないのがド田舎の辛いところだ。近所に二四時間営業のファミリーレストランでもあればそちらに回ればよかったが、生憎そういったものすら存在しないのだ。コンビニすら二四時間営業していない。ありとあらゆるお店は午後一〇時、遅くとも午前〇時には閉まってしまう。


「無理に決まっています。この時間ですよ、せんぱいの家族だって心配するはずでしょうし、私の親はなおさらです」

「どうせ、こっそり抜けてきているんだろ、君も。こっそり抜けてきたならこっそり入れば大丈夫だ、きっと。っていうかそれ以上に妙案が浮かばない。……いいか、あのマスク男は危険なんだ。ソースは僕。実際に一回襲われたから実証できる」

「でも、……今、ここでじゃなきゃ嫌なんです」

「どうして固執するんだ? 作戦会議なんて、ただの『話し合い』だろう? 場所に拘る必要は――」


「今じゃなきゃ!」


 叫び。心臓が口から飛び出そうになった。外でガタッと何かが崩れる音があった。


「今じゃなきゃ駄目なんで――っ!?」


 まずい。まずいまずいまずいまずい。脳内警鐘音量最大。よりにもよって後輩が声を上げてしまった。少女が、年端のいかぬ一六の女子高生の声が、深夜の無人駅に響いたのだ。近くに不審なマスク男が居座っているというのに。これじゃ、隠れていたら逆に危険だ。逃げ道が塞がれる。行く手を阻む自動改札を飛び越えようとした。が、後輩の小さい手が僕の左手を塞いで、離そうとしない。それどころか、音のした方へ引っ張られる。


「ちょ、まずいから!?」


 改札の仕切り版を飛び越えようと片足上げたところで引っ張られたのでそのまま体勢を崩し、なし崩し的に僕はプラットホームに足を踏み入れてしまう。後輩の右手がパッと離れて、支えを失った身体が風化したアスファルトの床に打ち付けられる。躊躇なく尻を打ち、すぐには立ち上がることができなかった。こうしている間にもマスク男は僕らに向かって襲い掛かってくるはずだ――、


「……い、いない」


 プラットホームは僕と後輩が出会った夜のような静けさに満ち満ちていた。当然、マスク男の姿は見受けられない。近くに隠れているかもしれない。例えば無人の線路下とか、ポストの裏とか、駅舎の影とか。夜は簡易的な隠れ蓑を量産する。よって後輩のような女の子がむやみに出歩くものではない。対向する手段を一切持っていないのだから。


「あ、あれ……おかしいですね……、さっきまでいたはずなのに……、のに」

「どうしたんだよ、後輩。やっぱり怖い? 怖いよな」

「………だったのに」


 ぶつぶつと耳を傾けてもギリギリ聞こえないくらいの声量で彼女は何かを呟いていた。


 聞こえなかった。わざわざ聞き返す気もなかった。どうしてかって? 悲鳴だと認識したからだ。


「なあ、後輩。――今日のところはここまでにしよう。ひょっとしたらまだ近くにいるかもしれません」

「……そ、そうですね。すいません、せんぱい。今日はたくさん迷惑かけてしまいました」


 彼女は両腕をだらり、と垂らして俯いた。影になった彼女の顔には何が映っているのだろう。


 僕には悲壮のように思えて、その理解不明な悲しみにどう反応すればいいのかが分からなかった。


 彼女はいったい、何に悲しんでいる? 涙のようなものが一粒、掌に垂れてきた、気がした。実際はぼたぼたと降り始めた大粒の雨だった。深夜帯の天気予報なんて碌に見ないものだから、お天道様に不意打ちされた気分だ。立ち尽くす彼女の手を取り、ひとまず駅舎の中へと戻ろうとする。その途中で、白ポストの前に散乱した薄い本の数々に目が行った。自然と僕の足はそっちに向いた。いや、僕よりも早く彼女の爪先がポストの方へと向いた。


「……相変わらず、趣味の悪い本しかないな。後輩が描いたんだろ?」

「はい、そうですね。ここにあるものは全部私の本です」


 そこかしこにグロテスクな本ばかりが散っている。白ポストが成年雑誌投函ボックスであることは重々承知だし、一八禁のジャンルは様々だ。でもあからさまに偏っている気がする。マスク男の趣向に合わなかったのだろうか。あの不気味な男にこそ、残虐性の高い作品はマッチするんだろうけど。


 マスク男はきっと、後輩の叫びを聞いて慌てて逃げだしたのだろう。そしたら、ポストを片付ける暇もなかった。だから、そのままにしてしまったのだろう。


「ってか、まだ描いているのかよ、こういうの。怖いんだろ、やめておけよ。それと――」

「大丈夫ですよ、もう、償いなんかじゃないんですから。これはあくまで、私のためですから」


 自分のため? 画力をあげたいのだろうか。確かに成年漫画を描く練習をすることは、身体の構造を理解し肉体美の感じられる絵を描くために役立つのだろう。でも、わざわざ無理をして吐き気を催す絵を描く必要はないはずだ。必要はないと断定してしまうのは悪いかもしれないが、彼女にはやはり闇よりも光の絵の方が似合う。強みなのだ。わざわざかつての僕に憧れるクチで真似事をする必要はないのだ。むしろしないでほしい。脅迫関係もあるが、僕は彼女のお願いを叶え続けてでも、彼女の描く最高出力の光が見たいのだ。見なければ、多分ずっと絵の描けた過去に縋ったまま、燻ったままになってしまう。


「もう、せんぱいはせっかちさんなんですから」

「――えっ?」

「思っていること全部口に出てますよ? そーんなに私の絵が好きなんですね」


 得意げに胸を張る後輩。事実だったので何も言い返さなかった。


 いきなり降ってきたにわか雨は散弾のように駅舎の薄い屋根へと打ち付けられ、渦を巻く水流は雨どいを駆け落ちて、舗装を水浸しにしていった。だだ、だだ、だだ。小学生の鼓笛隊のように快活で、しかしまったくリズムが取れていない不協和音が僕らの間に響く。ただ、それ以外の音は一切、排除された。呼吸さえも忘れるくらい、胸が張り裂けてしまいそうだった。


「好きだよ。ああ、好きだとも」

「なら、私が満足するまで脅迫に従ってもらいますねー。こっちにだって描けない理由はあるんですから。とても込み入った事情が」

「……その事情とやらを聞かせてもらうのは」

「まだまだ脅迫が足りませんね。出直してきてください」


 なかなか辛辣だった。


 駅舎の闇に潜る。地面でぺたりと体育すわりしている彼女の横に腰を下ろし、足を伸ばした。


 ざあ、ざあと。にわか雨に思われた激しい雨はなかなか止まなかった。雨粒は風を孕んでより強く屋根を叩く。叩くというか、もはや殴るに近い勢いだ。


 後輩は折り畳み傘こそ持っていたが、僕は手ぶらだった。そもそも傘を持って出歩いたなって無人駅に燕がえしするのだけは避けたい。みっともないから。


 となるとやっぱり、二人で肩を寄せ合ってじっと、石のように雨が止むのを待つしか道はなかった。しかし、この時間は『作戦会議』を決行するにはちょうどいい賜暇のように思えた。


「――――しょうがないので、予定から大分遅れましたが作戦会議を始めましょうか」


 後輩も同感のようだった。


 会議、という名の雑談寄りの話し合いは小一時間、それこそ雨脚が弱まるまで続いた。裏を返すと、雨が強いままだったら一晩中二人で肩を寄せ合うことになっていたかもしれない。天気は僕の味方をしたし、きっと後輩の味方もしてくれたのだろう。


 固い床に座りっぱなしでいることは男子女子高校生に問わず誰だって苦痛を訴えるだろう。ましてや、そのまま一晩過ごすとなったら拷問だ。


 だからこそ、話が煮詰まり二人とも疲れを感じた瞬間に、土砂降りだった雨が止んできたのは幸いだった。滅茶苦茶ついているな、と確信した。一週間分の運くらいは使い果たしたんじゃないか。


「これにて、作戦会議を終えます。あとは実践に移すのみです」

「って言われてもな、ろくな作戦考えてないじゃないか。文化祭の出店やアトラクションを効率よく回る方法を考察しても根本的な解決にはならないだろ」

「根本って何ですか? せんぱいが憧れの先輩に告白することでしょう? 告白の仕方とかは生憎教えられるものじゃありません。私だって告白したことがないんですから」

「何えばってるんだよビビリ」

「せ、せんぱいには言われたくないですっ!」


 団栗の背比べだった。お互いに深いため息が出た。不毛な議論もいいところだった。


 すっかり、雨雲は過ぎ去って、天蓋から星明かりが差し込んできた。


 腕時計は午前三時を目指して、刻一刻と時を刻む音を微かに鳴らす。


「……帰ろうか」

「そうですね、帰りましょう」


 農道を並んで歩く。瑞々しく濡れた稲穂の群れが左右で揺れた。


 結局、先輩に告白するのは自分自身だ。だから、どんなアドバイスもぶっちゃけ自分の行動を一〇割変えることはないし何なら二割程度も変えないと思っている。あくまでそういうものは、自分に発破をかけるための鞭のように考えておけばいい。


 要は。


 大事なのは、自分の心の持ちようだということだった。


「日付は変わりましたし、文化祭まであと一週間切りましたね」

「そうだね」

「緊張、してます?」

「そりゃ、するよ。告白している未来が思い浮かばないけどさ」

「大事なのは成功するイメージですよ」

「告白に失敗するのを成功するっていうイメージ、持ちたくもないよ。ましてや、一年間片思いしていた相手に振られにいくんだ。傷口をえぐって失血死する勢いだって」

「じゃあやめますか?」

「……やめないけどさ」


 やめるわけないけどさ。四方八方どん詰まり、前に進んでも槍に刺され、後ろに退いたら崖に真っ逆さま。無事でいられるわけがない。


 それでも。――それでも。


「逃げたら、何も伝えられない。独りでに真っ逆さまのどん底へ落下するだけだ。だったら、声をあげたい。好きだって訴えながら槍で突き刺されたい」

「ふふ、とてもとてもマゾっぽいたとえですね。また、せんぱいのことをちょっとだけ知れた気がします」

「あらぬ誤解を招いている気がするんだけど」

「気のせいですよ、気・の・せ・い」


 くるっとターンし、振り向いた彼女は口角を上げて、あざとくウインクした。


 おもむろに、僕は彼女の頭をポン、と叩いた。


「……ありがとね、後輩」


 ちょっとだけ、気恥ずかしい気がして僕は目を逸らした。


 ふふ、と堪え切れない笑いが彼女の口元からこぼれた。



 文化祭まで、あと一週間。


 

 夜更けの農道に――カシャ、と。どこからともなくシャッター音が聞こえたような気がした。


 立ち止まる。数歩先を行く後輩が振り返る。


「せんぱい? どうかしましたか?」

「……いや、なんでもない」


 気のせいだと、意識の端から追いやった。文化祭の準備とか、先輩に告白する準備とかで最近はいっぱいいっぱいだったから、疲労が蓄積していたのだろう。


 それだけじゃない、マスク男との遭遇でいくらか神経質になっている。


 落ち着けよ、僕。シャッター音があれど、フラッシュは向けられなかった。

 電灯もまばらな農道だ。写真を撮るにしても光が少なすぎる。

 大丈夫だ。何もない。


 農道から無人駅をじっと見つめた。

 墓場のように静かな、廃れた駅舎がぼやけて見えた。


 この週末はできるだけ、八時間睡眠を心がけようと胸に誓った。

 次の日、目覚めたら僕は風邪を引いていた。誰に言われるまでもなく、八時間以上の睡眠を強いられた。

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