第五夜

 長いようであっという間な夏休みだった、っていう書き出しはいかにも陳腐で使い古されたボロ雑巾のような言い回しだけど、事実夏休みは破竹の勢いで過ぎ去っていったし、陳腐な言葉通りの顛末を辿った。


 苦戦した夏休みの宿題とか、何度かに渡る観測会とか、あとその他諸々。釣針のように引っかかるものをいくつか残しながら、積み重なった日々は振り返れば爽やかな甘さを帯びているような気がする。まるで行き過ぎた達観だ。まだまだ僕は高校二年生の一七歳で、過去を振り返って感慨に耽るにはきっと早すぎるのだろう。そういうのは青春が終わったと実感したときに、酒の肴にすればいいはずだ。だからせめて青春よ、僕が酒を飲めるようになるまで続いていてくれ――なんて、夏のひりつく暑さで馬鹿になった思考回路のしょうもない戯言に過ぎないけど。


 八月を超え、九月ももう中旬。季節的には秋に区分されるだろう。紅葉の季節とは程遠いけど、ちょっとずつ日が出ている時間が短くなっているのを肌とこの目で感じていた。こうして秋が深まっていき、暗色へのグラデーションが濃くなり、真冬へと移行していくのだろう。日本の四季は厭に美しい色彩を放っていて、天才的な絵が描けなくなった僕はちょっとばかり、そう、ほんのちょっとばかり嫉妬している節があった。空の色合いを忘れるために星々を眺め、寝床につく前には日記をつけるように物書きの趣味へと精を出す。絵を失った僕はすっかり、天体と文章に依存していた。空に沈み、安上がりな万年筆の筆跡に轢かれていた、惹かれていた。


 学校はというと二学期が始まり、夏休みムードの高校生諸君を瞬く間に忙しい現実へと連れ戻した。もちろん僕も夏休みの気分が抜けきってなくて夏休み明けのテストは惨敗だった。でもうかうかしてはいられない。三週間後に迫っている中間テストに向けて各々は勉強モードに切り替えていく。僕の目標、第一は赤点を取らないことで第二は学年の中の上を維持すること。三年生に近づくにつれてもうそろそろ進路を決めていかなければならないが、美術という選択肢を失った僕はいったいどの道へ行けばいいのか、全然分からなかった。結局夏休みはオープンキャンパスに一つも行っていない。近いうちに担任化進路指導に呼び出しを食らうことだろう。叱咤激励されたところで決められないものは決められなかった。僕は高二になっても、中三の後悔を引きずっている。いや、忘れようとして完全に切り替えが済む寸前に後輩が僕の前に現れたのが悪い。彼女さえ僕の世界から永遠に切り離されていれば、失われて二度と還ってこなければよかったのに。だからといって、一度再燃してしまった感情を再び鎮火するには相応の時間がかかるし、そのためにはまず僕の隣から再び後輩がいなくなる必要があった。つまり。しばらく僕は過去の燻りを心のどこかで引きずっていなければならない、ということだ。あまり表立って顔に出すことはないけれど、それでも事故の記憶が一切ない後輩の無邪気な発言で苦しくなることは、七月からこれまで彼女と接してきて少なからずあったと思う。辛うじて、両手で数えられるくらいだからまだ傷口は浅いけれど、僕の心の燻りが爆薬に着火しなければいいのだが、その危険性は充分高かった。僕は僕に言い聞かせる。後輩とはできるだけ事故に遭う前と同じように接しよう、と。何度も、何度も。


 さて、そんな歪な関係性を帯びていた(ときっと僕だけが深く考え込んでいるだけだろうけど)僕らはというと、密閉した暗い空き教室の中で二人っきりだった。部屋の照明を消し真っ暗にしたばかりで瞳孔が開ききっていない。だから何も見えない。僅かに漏れる光と熱っぽい吐息を頼りに覚束ない足取りで後輩へと忍び寄る。


「はぁ……はぁ……、あづい、です……」

「じゃあ、入るぞ……」

「ひっ、いきなりやめてくださいよっ! びっくりしたじゃないですか!」

「でも……無理矢理じゃないときついんだよ我慢しろ……」

「うぅ……せんぱいったら強引だぁ……」


 薄いシャツに張り付く、汗。チーズにも似た発酵したような汗臭さ。二人の絡まる吐息。男の骨ばった肩と女の丸みを帯びた肩が触れる。ワイシャツの短い袖口から伸びた僕の腕が、彼女の薄手のセーラー服から漏れた華奢な腕とぴったりくっつく。びくっと震える後輩だったが、すぐに触れたものの正体を認識するときゅっと力をこめて腕を絡めてきた。密着する肌と肌、布地と布地。高鳴っていく心臓の音と見た目からは理解できないマシュマロのような柔らかさが肘越しに伝った。送風機の生ぬるい風が吹きつけてくる。きっと、僕のポジションが僕じゃない誰か――特に肉食系の体育会系男子だったとしたらすぐに彼女は押し倒されて、成り行きのまま行為に及んでしまうのだろう。さすがに偏見が過ぎるだろうけど、後輩の身体はそれほどまでに男性の男性たる部分をくすぐって興奮させた。深呼吸、二度三度。僕はゆっくりと平静を取り戻していくことだけを考えた。


 すっかり落ち着いたところでワイシャツの胸ポケットから硬くて細長い棒状のものを取り出した。スイッチ一つで簡単に駆動するその装置をきっと後輩は見たことないはずだ、だって彼女は今まで買いが一筋で生きてきたわけで、それ以外の全てを地震で排斥してきたからだ。だからきっと、驚くだろうと自信があった。僕は手に持っていた棒状のそれを大き目の膨らみへと押しあてた。ぺかり、暗めの赤色が直線の軌跡を描いて膨らみへと到達している。ここで勘違いしないでほしいが、僕は決して後輩の胸にレーザーを当てたわけではない。膨らみは膨らみだけど僕は決して一度も、後輩の胸の膨らみとは言っていない。隠れ乳房の叙述トリックだった。トリックになっていないけれど。


 強烈な赤の光線が天を指すと後輩は、「ひゃっ」と素っ頓狂な悲鳴を漏らした。僕は聞き逃さなかった。じっくりゆっくりと聴覚で反芻する。録音にでもしておくべきだったな、と僅かばかりの後悔が募る。着信音にすればそれなりの後輩への脅迫材料になりそうだと悪い考えがよぎった。さすがに気持ち悪いので自制した。そもそも着信音をわざわざ作成するモチベーションが皆無だったこともあるんだけれども。


「わぁっ……綺麗」


 恍惚とした表情を浮かべる後輩の輪郭が徐々にくっきりしてきた。暗闇に目が順応してきたらしい。気づかない間に彼女との距離は吐息が首筋に吹きかかるくらいに近いものだと気が付いた。熱された教室内の空気がさらに二度、三度上昇したように感じられたのはきっと、残暑のせいだ。


 送風機によってパンパンに膨らんだドームへと、レーザーポインターを解き放つ。中央に鎮座する球状の投影機からぼんやりとした白熱灯の明かりが人工の空を突く。


「それじゃ、始めようか」と前置きをする。無言で後輩は頷いた。


 天球を模したドーム、星々を正確に映す投影機、縮小された空を指すレーザーポインター。


 二人っきり、暗闇の教室。でも、全くもってやましい要素の一切介在しない異空間。


 僕らは今。我が天文部の伝統、文化祭で実演するプラネタリウムの練習をしていた。


 そうこれはあくまで清純な青春の一ページに過ぎない。それでも要素要素を切り抜いたらちょっと湿っぽくて艶めかしい雰囲気になるものだから日本語って、どうもむつかしい。暗闇、教室、男女が二人肩を寄せ合う。ただそれだけで邪な妄想するには充分すぎた。不可抗力ってやつであり、可愛い女の子と肩を寄せ合う僕に罪はない。


 断じて、むっつり助平なんかじゃない。でも鼻腔をくすぐる少女の汗臭さに反応してしまうのが男のさがだった。


「それじゃ、問題。春の星座、代表的なもの三つ答えて。ほら、前に渡したプリントに載ってたやつ」

「北斗七星! ……じゃなくて、星座だから大熊座! あとは、おとめ座に牛飼座! 最後に天頂の獅子座!」


 ビシッ、と天球の頂上を指さしてどや顔の後輩に、僕は親指を突き立て「正解!」と合図をする。でも、まだまだだ。これくらいで満足されちゃ、唯一の天文部員である僕が黙っちゃいられない。


「それじゃ、第二問」僅かな思考時間。新たに問題が生成される。「春の大曲線までの説明してみて。北極星から始まって、大曲線までね。重要な一等星の名前は確か、三つかな」


「北極星を含めなければ三つ、ですね。おとめ座のミザールと牛飼座のアルコル」後輩はすらすらと、覚えたことを暗唱していく。「そして、北斗七星の尻尾とつなげたら春の大曲線になります。で、最後に天頂、クエスチョンマークを逆さにした形の獅子座の説明ですよね? 獅子座の一等星、デネボラと獅子の神話の説明。まだ神話の部分はあやふやなのですぐに覚えちゃいます」


「それにしても、読み込みが早いね」彼女の説明を追うように光っていたレーザーポインターのスイッチを切る。手元にあったリモコンの点灯ボタンを押せば、暗室はすぐに明るさを取り戻す。真っ白な視界。開ききった瞳孔を守るために反射で瞼が閉じる。徐々に目玉へ飛び込む外光の量が調整されていく。


 夏休みが終わり、九月も中旬に差し掛かっていたが残暑はこびりついて離れなかった。連日真夏日と猛暑日を記録していて、まだまだ冷房から離れられなかった。しかし、クラスルームはともかく、空き教室ともなると冷暖房が備わっていない。すなわちただでさえ暑い中に僕と後輩は放り込まれていた。いや、自分から飛び込んだんだけれど。おまけに窓を閉め切って光が入らないように暗幕で窓を覆い隠している、外側も廊下側も。既にサウナのような状態だ。時間が経てば経つほど、熱は増していく。流れる汗の量は増えていく。ゆえに、一日に長い練習時間を設けることは難しい。季節が季節だ。これが冬だったら幾分かマシなんだろうけど、実情は季節的に秋、体感的には夏延長戦って具合。天球を膨らます送風機の風だけが僕たちの味方だったかもしれない。熱風でも、汗をかけばいくらか涼しく感じる。


 むわっとした熱気が肌に纏わりつくし、夏服が貼りつくものだから気持ち悪いことこの上ない。ワイシャツの下に通気性の良い白シャツを着てこなかったら、今頃半裸になりたい情動に駆り立てられていたかもしれない。目と鼻の先で手うちわを仰ぐ後輩だけが唯一の抑止力だった。そして、効果は絶大だった。おかげで僕は校内で突然裸になり始める変質者にならずに済んでいた。いや、自制すればいいことなんだけどさ。


 プラネタリウムの練習をするために必要なものはドームを充分に膨らますことができて、暗幕ですっぽり覆える小さめの窓しかない部屋とドームと投影機。あとは僕が自腹で購入したレーザーポインター等の小道具だ。ここで一番大事なのはもちろん、場所の確保である。文化祭実行委員と交渉して空き教室を借りられることになったものの、環境的にはあまりよろしくない。まあ空き教室なんてみんな同じような環境なのだ。あまり文句は言ってられなかった。だが、機材の運搬は部員総数一名の天文部にはなかなか酷だった。なんといっても心細い。ドーム用の布は畳んだとしても、かなり分厚く胸の前で抱きかかえるのがやっとだ。文化部一筋のモヤシ男子高校生にはちょっと無理がある。女手でもいい、もう一人運ぶのを手伝ってくれる人がいれば……、と悩んでいたところで急遽参上したのが美術部所属の後輩だった。彼女はいつものように、いつもの時間に、いつも通りの天文部室に駆け込んできたのだ。随分と慌てていたものだから一体何があったのかと尋ねると、去年、天文部が文化祭でプラネタリウムの出し物をした話をどこかから嗅ぎつけてきたらしい。そこから話がいい方向に二転三転していき、ピンチヒッター後輩は文化祭期間だけ天文部に所属することになったのだった。だから、プラネタリウムの発表原稿を暗記してもらっていたのだ。


「にしても、こんなに至れり尽くせりでいいのかな、君は。君は本業が忙しいはずだろう?」


 本業、というのは美術部の話だ。どうやら文化祭では作品展示をするらしく、彼女はまだ完成していないとのことだった。ドームの床に大の字で寝転がる。真っ白い半球の空が視界を覆う。その裾には投影機の方をぼうっと見つめる後輩が身体を縮めて窮屈そうに体育座りをしていた。


「心配なさらずともカンバスの完成形は頭の中にありますから。あとは短時間で集中して描きあげるだけです。私をあまり舐めないでください。少なくとも、先輩と分かたれてから一日も絵を描かなかった日はないですから」


「……そりゃ、心強い」言葉の陰りを完璧に隠すことはできなかった。「君がいれば百人力ってわけだ。その意気で秋の星座も覚えてもらおうかな。僕の負担が減るし」

「まったく、せんぱいは自分に甘々なんですから。……いいですよ、A4一枚分の暗唱なんて大したことないですから」


 胸を張ってドヤ顔をする後輩を横目ですごいすごい、と受け流して僕は投影機のスイッチを切った。教室の貸し出しは一時間だけと決まっていたので、練習時間は実質三、四〇分程度しか得られなかった。


 天球と暗幕を運び終え、最後に投影機を二人で部室まで運ぶ。部室棟へと続く外廊下には雨の飛沫が降りかかってきた。日中は晴れ晴れとしていたのに夕立のように急に降ってきた。この雨は夜まで続くという。


「せんぱい、このあとは何かすることありますか?」

「んーと、プラネタリウム関連のやることはないかな」

「じゃなくて、せんぱいは何か用事がありますか、ってことです」

「うーん、特にはないかな」

「なら、……ちょうどいいので傘を貸してください」

「先輩を使いっ走りするな」

「でも私、折り畳み傘すら忘れちゃったんですよね」

「置き傘は?」

「あったら頼んでないです」

「そっかー、そうだよな……」


 部室棟をゆっくりと上り終え、天文部室に投影機をしまう。


「でも、僕も置き傘一本しか持ってきてないや」

「だったら相合傘をしましょう、せんぱい。私は濡れずに帰ることができ、せんぱいは私のようなそこそこ可愛い女の子と相合傘ができます。ウィンウィンになりますよね? よね?」

「圧が強いし、自分に自信がありすぎやしないかい後輩。そこそこって謙遜しているあたりがポイント高い」

「駄目、ですか?」


 上目遣い。あー、あざとい。確かにこれは自信のある女の顔だわ、と一蹴した。


「断る理由もないし構わないよ。それに、僕が断ったところで君には脅迫っていう武器があるものだから逆らうに逆らえない」

「えへへ、バレました?」

「さすが策士。僕に選択肢の一つすら与えないんだね」

「……別に、せんぱいが本気で嫌がるようなことはしませんから。それに、私との相合傘が嫌だったなら、ちゃんと言ってくださいね? 建前使われちゃうと、本音が暴かれたときに困っちゃいますから」


 困った顔、というよりは明らかに寂しそうな顔を向けられたので、僕は断るに断れなかった。いや、断る理由は今のところなかったのだけれど。


 廊下を並んで歩く、体育館の方ではバスケットボールが小気味よく跳ねる音が木霊していた。雨どいを降り注がれる雨粒が流れていき、極小の滝の流れを形成する。


「さっきは、」無言を破るように後輩が切り出す。「威勢よく『慣性系は頭の中にある』なんて見栄を張ってしまいましたが、実は最近、スランプ気味なんですよね」


「へえ、珍しいんじゃない? 少なくとも、僕が知っている君は毎日毎日、筆を止めないし気づけばポンポンと作品を発表しているイメージだったんだけど」

「へへ、それ、中学時代の話ですよね」

「だって僕が知っているのはあくまで、僕が絵をやめる前の君だからね」


 僕らには空白の期間が滞留していてその溝は、技術だけじゃ埋まらないくらいには深いものとなっていた。


 顔の方へ吹き付ける雨の飛沫を手のひさしで遮る。僕は無意識のうちに後輩を廊下の内側へと避けさせて雨除けの役割を果たしていたらしい。だからか、外廊下を渡りきることには片側だけびしょ濡れになっていた。


「今ここで先輩に絵を描いていたころを思い出してもらうのは、いささか失礼なことを承知しているんですが――そのうえで、せんぱいは絵が行き詰ったとき、何をして気分転換していましたか?」

「そんなの、人それぞれでしょ。僕のリフレッシュ方法が君と合うとは限らない」

「論点がズレてます、きっとわざとなんでしょうけど」


 言葉の棘を感じ取り、眉を顰めた。どうやら、後輩は本気で困っているらしい。


 でも、僕に問うべきことではないのも事実だ。美術から遠ざかった人間よりも、現行の美術部員に聞いた方が彼女の意に沿った回答が期待されるだろうから。それに、スランプにかかったことがないから解決策が浮かばないのは僕も同じだった。


「せんぱいの、意見が聞きたいんです。せんぱいじゃなきゃ、駄目なんです」

「……僕のやり方で解決できなかったとしても?」

「解決できないわけがないですから」

「その心は?」

「だって」


 すんなりと分かりきっていたであろうことを彼女は口にした。


「天才には凡人の気持ちが理解できないから」


 過信もいいところだよ。毒づくように舌を打つ。


 後輩が――いや、僕の後輩じゃなかったとしても、『草彅さな』という少女がそもそも天才だったとしても、天才を自称していても、彼女の天才性を天才性たらしめるのはこの世界だ。世界対一人の四面楚歌に身を投じて優勢になった者だけが天才と呼ばれるのだ。彼女の自称は自惚れだ。僕は彼女の絵を中学の一年と少しの間鑑賞し続けた。少なくとも僕は彼女を天才と呼ぶだろう。しかしそれは身内贔屓であり、片思い贔屓である。フィルター越し。インスタにアップされるキラキラ加工写真と大差ない。


 身内だから、いや、単純に、私的に。嫌われたくない、距離を置かれたくない、ドブに捨てたくない。


 キツい批判を舌の裏に隠す。昇降口に転がっていた何かの枝葉を踏んづけた。ぱきっ、何かがまた、折れた。


「……あら、あらあらあら。偶然だね。偶然を装って必然かもしれないね、少年」


 湿っぽい秋雨が似合う男を視界にとらえて、視界からすぐに外した。


 空気にするには、いささか濃ゆい。密度というか、臭気というか。なんというか、厄介だ。そう、厄介だ。


「へえ、隣にいるのはウチの草彅さんじゃないですか。これはその、あれですか? あれなんですかねえ」


 粘着。汗でべとべと張り付いたワイシャツよりも粘着質だ。首筋が痺れて痒かった。振り向きざまに、ポケットから一〇〇円玉、投擲。一〇円玉、一〇円玉、投擲。借りは返した。字義通り。


「いつかの飲み物代。風早先生きっと金欠だろうなと踏んでいたので返しておきます。どうせ給料日手前なんでしょう?」

「ふふ、大正解だよ少年。どうやら君は簡単に靡かないようだ」

「年食った三十路の大人は男女構わず興味はないんですよね」

「心配ないよ、ぼくはまだアラサーだ」

「そもそも男に興味がないんですよ、恋愛対象にならない。あとは、そうだな、先生と――大人と友情を結ぶ気がさらさらないんですよ僕は」

「あ、あはは。どうやら今日の少年は不機嫌極まりないようだ」


 高圧的な態度で跳ね返すと大の大人は怯んだ。が、気を取り直し今度は僕の横の女の子をナンパしにかかる。


「でも、草彅さんは靡いてくれるよねぇ? そりゃもちろん、ウチの美術部の部員であり、顧問であるんだから当然でしょう。他の女の子と同じようにね」

「そう、ですね」


 躊躇いながらも、社交の笑顔を貼りつけた。


「顧問と仲良くしなきゃ、部内の風紀が乱れますしね。仲良く生きましょう。これからも、ええ、絶対。上級生に迷惑を掛けたくないので」

「ふふ、少年も草彅さんの言動をちょっとは見習ってほしいものだね。社交辞令って処世に必須だと思うよ?」

「余計なお世話ですから」


 下駄箱に上履きをしまって、水に濡れたローファーを取り出す。ガタンと、底が床に触れ、叩いた。


「風早先生、さようなら。また、美術の時間に」

「……失礼します。先生」

「さようなら、少年、草彅さん。……今のうちに二人っきり、たくさん青春しておくといいよ」


 ただでさえ雨の空気で辟易していたところに余計な苛立ちが追加されて、ついカッカしてしまった。昇降口の手前で小さく手を振り去った風早先生の口元にはにやけがうっすらと浮かんでいて、その表情がまた、腹立たしかった。後輩は、困ったようなあるいは陰りを含んだような微笑を浮かべながら、顧問が去るまで手を振り続けた。


 彼がいなくなった瞬間に、上っていた手はだらり、下されたけど。


 傘立てから自分の置き傘を引き抜き、高校の正面玄関を隣り合って出る。


 ぶわさ、と傘を開くと歩幅を揃えて、帰路の軌道に乗る。室内よりかは幾分か涼しくて、じめっぽい匂いも薄らいでいた。残暑が激しい晴れの日が続いたなかでの、久々の雨だった。気分が潤うこと請け合いなしだった。


「風早先生と仲悪いんですか、せんぱい」


 傘の持ち手の向こう側、後輩は腰を曲げて、低い位置から僕を見上げた。


「仲が悪いってわけでもないし、仲がいいわけでもない。あっちが僕のことを少年呼ばわりしてくるから、勝手に身体が拒絶反応を起こすだけ」


 拒絶反応、自分で咄嗟に口に出したものの案外これがすんなりとくるたとえ方だった。風早先生は僕以外のせいとのことは『さん』あるいは『くん』付けで呼ぶ。生徒から渾名で呼ぶように強要されても譲らなかった。でも僕に対しては彼の方からいつからか『少年』と呼ぶようになっていたのだ。理由を聞けば特にないと返されるし問い詰めようとしても真相に追いつかない。だから、いつからか妥協してしまった。


 呼びたいなら勝手に少年と呼べばいい、とこんな具合に。心が折れた、とも。結果、僕は密かに風早先生から唯一渾名を賜った生徒として一部ではディスられ、一部では風早先生への信仰がさらに深まった。できれば、できればでいいので僕のような部外者をキラキラ人間の出しに使わないでほしいんですわ、風早先生。クラスの隅っこで陰湿な目立たないキャラクターを演じきっている脇役を、無理矢理きらびやかな主役に大抜擢するようなものだ。精神がもたない。


 帰路にまであの頓狂教師のことを考えるのも癪だったので話題を変える。いや、正確には、戻す。


「さっきのスランプの話なんだけどさ」

「……そういえば、話の続きでしたね。改めて、せんぱいの案を教えてくれませんか」


 彼女も風早先生が割り込んだせいですっかり忘れていたようだ。

 ならいっそ、全く別の話題を振るべきだっただろうか。後の祭りだった。


「やっぱり風早先生に尋ねるのが一番なんじゃないかな? あの人、ああ見えて現役のアーティストとして活動しているって聞くし。やっぱり経験量が僕の比じゃないだろうしさ。当然あの人だってスランプの一度や二度は経験してるでしょ――」

「そうじゃ、ないんです。だから、そうじゃ、ない」

「知ってるよ」


 知っての上での発言だ。わざわざ論点をすり替えたのには、どうしても僕が助言できないわけがある。


「僕に経験がないから。そりゃちょっとは才能があったかもしれない。だから、成功体験の密度は濃い気がするよ。だけど、その反面、スランプになったことがない。敗北を知らないんだ、僕は」

「なんともまあ、さすが、天才ですね」

「だから、その天才ってなんだよ。僕と君とその他小規模な世界の比較でしかない、その天才って言葉は虚構なんだよ」


 言い切る。僕は天才なんかじゃない。天から得た才覚は長かれ短かれ、生涯を通して万人の心を滅茶苦茶にする。大別すれば、喜怒哀楽、詳細を並べれば無数の感情の機微のどれかを外側からぶん殴り一生戻らないようにする。


 それが天才だと、僕は思っている。それが天才なら、僕にとっての天才は僕なんかじゃなくて、後輩だった。僕と後輩が天才なのではなく、後輩が天才だったせいで僕は正反対に突き抜けることを強要されたのだ。全部、才能のせいだった。でもそんな一時的な気の迷いは――ひょっとしたら才能があるのでは? という予感のような自惚れは、すぐに瓦解する。面白いほどに崩れる、頽れる。たとえば、他の才能に打ちのめされたとき。たとえば、自分がやむを得ず才能の芽を摘んでしまったとき。


「僕らはいずれ、天才を自称するのをやめなければならない時が来る。そもそも天才なんざ、自分を天才だと認知してないような別格なんだ。僕らは井の中の蛙。しょせん、片田舎。しょせん、人口五万人にも満たないような小規模な世界での一位なんだ」

「せんぱいの御高説が聞きたいわけではありません」

「んなこと知るかよ。僕の言っていることはきっと万人が万人、あらかた頷ける正論だ」

「正論が欲しいわけでもありません」

「じゃあなんだ? あれか? 話を聞いてほしい、ってやつか? 相談には乗らなくていいから、話半分に相槌を打てっていう不毛な作業のことか?」

「……そういうところが、実にせんぱいは変わっていませんね、昔と」


 俯いて、吐き出され、ちょっとだけ胸が痛む。待ち針に刺されたような痛みだった。


「嫌味か?」

「話の流れで分かるでしょう、せんぱい。まったく、大人げないんですから」

「僕は子供だよ」

「私も子どもですけどね」


 無言がはしる。心に突き刺さった針がじくじくと穴を押し広げている。そんな、慢性的な痛み。


 傷ついた。でも何に刺された? 確認するために胸元に手を下ろし、腕越しに猫背の後輩と目が合った。


 段ボールに詰められた捨て猫のような悲しさと寂しさと切なさと儚さをないまぜにした、人の心を射殺す表情。


 ああ、ああああ。ずるいなあ。


「ちょっと、言い過ぎたかも。ごめん、なさい」


 突っかかりながらも謝罪をすると彼女の目に光が戻る。困惑と驚愕を足して二で割って三乗くらいしたような、見たこともないものを初めてみるようなそんな、好奇心に満ちた目。


「――――あ、ああ。わ、私こそ、せんぱいに、失礼なことを口走ってしまいまし、た……?」

「噛みすぎ。焦らないでゆっくり言ってくれないと聞こえないからさ。それと語尾が疑問形になっているよ」

「だって、せんぱいのちょっと成長したところが見られたので……」

「中学時代からまるっきり変わらないことはないだろう。それに僕は昔から人に謝れる人間だったよ」

「ふ、ふぅん。そ、そうでしたか。初耳、です。でも、私、謝られたこと、ないですねえ」

「謝るようなことがなかったからだよ、きっと」


 僕の記憶に頼れば、中学時代に後輩と喧嘩した覚えは一切なかった。二人とも絵を描くのに夢中で、それ以外の諍いにリソースを割くのが非効率だと無意識で分かっていたからだろう。


「で、アドバイス。これは本当に、できない。断言できる。スランプにかかる前に筆を折ったから」

「大丈夫です、ちゃんと、分かりましたよ。――でも、どうしてもせんぱいに話を聞いてほしいんです。せんぱいじゃなきゃ、駄目なんです」

「ふふ、光栄だね、でも、その心は? 内容によっては僕より他の誰かに聞いてもらった方がいい場合もあるはずだよ」


 言葉に言葉を重ねていく。棘で破れることはない。折り目のないただの布がただただ積み重なる。


「せんぱいが私の第一号のファンだから。そして、私が初めて師と仰いだ人だったからこそ、なんです」


 大げさだな、と吹き出せば雨で鬱屈としていた感情の雲間に光条が差し込んだ。


 悪い気が起きるわけ、なかった。


 それから僕は後輩の悩みを聞き入れることにした。時折、相槌を打ちつつ考えを求められたら持論を投げる。雨脚は弱まることを知らず、ローファーの爪先はもうびしょ濡れだったが、話に花が咲いたおかげで一時的に忘れることができた。


 高校の最寄り駅に到着する。ここから地元の無人駅まで普通電車で一時間近くかけて帰るのだ。ホームのベンチで電車を待ちながら、後輩はなんとか悩みごとを解決できる算段がついたようだった。


「ありがとうございます、せんぱい。やっぱり、せんぱいに聞いてもらってよかった」

「喜んでくれたならよかった。これでもう、次の絵は描けるよね。楽しみにしてるからさ」

「頑張ります。頑張りますけども、自信はありません」

「じゃあ」


 きっと、この時の僕は気前が良かった。良すぎた。調子に乗っていた。だから、


「どうすれば自信を持てるかな」


 手を差し伸べて、「あっ、」と後輩がふと閃いたようにはっと目を開け、次の瞬間口元を緩めた。


 何か、悪い企みを思いついたのだろう。


「脅迫です。今日も今日とて、折角ですので脅迫します」


 足を突っ込んだら、沼だった。後輩の、脅迫沼。まさか、この期に及んでどんな謀略を思い浮かべたのだろうか。


 単純な興味が、やらかした後悔を軽々と上回る。


「えぇと」恐る恐る、後輩の肩を叩く。ふいっ、と振り向き、おかっぱが波打った。「どんな脅迫をするんだい、後輩」

「せっかく文化祭なんだから、文化祭っぽいことをしたいじゃないですか。文化祭といえばブラスバンドに軽音楽ライブ! お化け屋敷にプラネタリウムでしょう? でもさすがに一人で回るのは心細い。そういうアトラクションってだいたい誰と一緒に回るでしょう」

「ともだ」

「――好きな異性と、ですよね?」


 ゴリ押しだった。お前そういう方向に持っていきたいだけなんだろ。となると僕が想像できる脅迫内容はただ一つに絞られてきた。最悪だ、頭を抱えたくなる。


 どうして。どうして、こんな雨でじめじめして苛々する日に。



「脅迫です。――せんぱいは片思い中の大好きな先輩さんと文化祭を回ってください! そして、伝えられなかった想いを何もかも洗いざらいにしてください。せんぱいが約束してくれるなら、私も文化祭に提出する作品は自信を持って描き上げるので!」



 ――断れないお願いを、無理矢理承諾する羽目になるんだ。


「最悪すぎる。最低で最悪だ。それはない、いや、マジで。人の心がないってものだよ」


 僕はそのまま頭を抱えて、ずるずるとベンチの背もたれを滑っていった。


「第一、先輩に相手がいることは分かっているんだ。先輩が自ら教えてくれたんだから、僕は白を切ることなんてできない。それでも告白をした方がいいのかな、そもそも告白できるのかな」

「確かに常識は外れているかもしれません。ですが、せんぱいはこうでもしなきゃ未練をずっと引きずりっぱなしでしょう? そうなるともう、過去の人に囚われたせんぱいはずっと、ずっと恋愛をしなくなる、できなくなる。過去の人で需要と供給が一致しているんですから。でもそれって、叶わない恋を繰り返すっていうことでしょう? 失恋し続けるってことでしょう? いや、恋は失っていませんね。だとしたら、悲恋っていう言葉が相応しいでしょうか」


 消沈する僕を横目に、後輩は僕の傘でアスファルトを叩く。雨水を一身に受けたそれから雫がぽたぽた流れ出して、水玉模様がそこらじゅうに生えていた。


「せんぱいは、恋を失っていないんです。だから、過去を引きずって燻ったままなのでしょう」

「だからって、君は僕に告白しろと脅迫するのか? くだらなくないか、まるで中学生男子が遊びで設ける罰ゲームみたいだ」


 僕らは中学生ほど幼くないが、きっとまだまだ大学生は程遠い。大学生、大人と子供の境界線、汽水域。女の子が女になるにはいい季節。男の子が獣になるにはいい時分。先輩はもう女になったのだろう。女と男の子じゃ、どう足掻いても釣り合わないのは明確で。そもそも彼女を女にした獣が狭い世界のどこかにいる事実で吐き気が込み上げるのだ。


「悲恋は悲恋のままでいい。過去の回想に耽って、僕は僕で勝手に妄想の世界で気持ちいいことに耽っていればいいんだよ」

「……愚か。愚かが過ぎます、せんぱい。そんな偏屈な性格じゃ、尽かされるものがあると思いますよ」

「なんとでも言えよ、言ってくれ。事の発端は僕が先輩への想いを最後まで口にできなかったのがいけないから」


 電車がホームに乗り込んでくる。僕は背もたれから滑り落ち、しゃがみ込むようにしてゆっくり起き上がった。隣席を占領していたスクールバックを肩にかけて「傘、」とだけ残して後ろに手を置くと、かぎ爪状の持ち手が手首にかかった。


「それでも、まあ。未練はいずれ、果たさなきゃ、いけないよなあ」

「せんぱいの『いつか』は、墓場まで守り通す『いつか』なんですか?」

「いや、死ぬ前にはやっておきたい、『いつか』だ」

「でも、その『いつか』がいつになってもやってこない場合だってあると思いますよ」


 後ろに伸ばした手首を、細くしっとりした指が掴んだ。発着のアナウンスが遠ざかっていく。


 振り返る。後輩は、それ以上多くは語らなかった。


 燐光帯びた両の瞳が強く何かを訴えかけている。


 手前で、プシューと音を立てて、電車の扉が閉まる音があった。でも、気に留める暇さえ、与えられなかった。


「人間は、いついなくなるか分かりません。いつ死ぬか、いつ引っ越すか、いつ仲違いするか、すべてが未知数なんです。だから、せめてもっともっと取り返しのつかない悲恋になるうちに、伝えること、伝えましょうよ」


 楽に、なりましょうよ。


 耳元で囁かれた甘言、僕はもう限界だった。


 僕は、脅迫に従って、『いつか』の着地点を文化祭に定めた。九九.九%の高純度悲恋を過去の遺産に還すべく。

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