第四夜

 観測会から一週間が過ぎた。夕方の天文部室に西日が差していた。


 グラウンドの方角に開けた窓から斜陽が覗き、運動部の掛け声が届く。生まれてこの方、運動とはかけ離れた生活をしているため、体育の評価は五段階評価中軒並み三以上が取れたことがなかった。身体を動かすことは嫌いじゃないが、団体競技がただただ苦手だった。絵を描くことは一人でできたから。チームプレーってなんですか。相手の気持ちとか動きを推し量るのって難しくないですか。人間と人間の意思疎通ってそう簡単にできるものじゃない。特に僕なんかは、言葉を投げられただけじゃ心が動くことはそうそうない。誰が声をかけるかにもよるだろうけど、少なくとも僕の感情を動かす簡単な方法は、感情を動かす絵を見せることに他ならなかった。きっとそれは、絵から離れた今でも変わらない。文章への感度は上がってきた傾向にはあるが、それでもやはり視覚的に得られるビジュアルには勝らなかった。


 我が天文部室の内装は実にシンプルだ。天文年間や天体に関する資料が最新のものから創部当時の古いものまでびっしりとすし詰めにされた木製本棚の壁が僕の背後にそびえたつ。本棚の横と窓までの中途半端に空いたスペースには五段のスチールラックが設けられていて、各段にはそれぞれ円筒状のケースに詰められた天体望遠鏡が置かれている。大きさや性能はさまざまだ。いかにも“進研ゼミの付録”でついてきそうな安っぽいものから、一〇万円を軽々超えてくるようなものまで、先代先々代、さらに前から受け継がれてきた伝統が棚の上で眠っているのだ。僕が先日の観測会で持っていったものは三段目に置かれた反射式望遠鏡。鏡の反射を使って天体を観察するタイプの望遠鏡。どうして三段目のものを選んだかというと、もちろん訳があり、包み隠さずに言えば、憧れの人が愛用していた代物だったからに他ならない。ケースにはいまだに、彼女の匂いが染みついている、気がしている。気がしているのは僕だけかもしれないが、生憎比較対象はいなかった。だって、部員は暫定一人だし。でも、今日は来客があるのだ。だから部屋は簡単に掃き掃除をしておいた。埃っぽさで咳き込むが、部室の入口と窓は全開なので通気性は抜群だ。すぐに快適な環境に戻ってくれるだろう。


 二台の簡素な学習机には、それぞれ椅子がセットで収められている。教室にもある背もたれが木製の、座り心地が酷いあの椅子だ。それらは部室の中央で対面するように並べており、僕はきまって本棚側に座る。去年から、そして今年も。今日だって、いつも通り、本棚側の椅子に腰を下ろし、足を組む。姿勢が悪い、と先輩に注意されるのが常だったが、もう先輩はこの部室にもいない。どこかに旅立ってしまった。鳥籠の中に閉じ込めておくなんて、僕にはそんな勇気はなかった。椅子を斜めに、身体も斜めに構えて、机上の原稿用紙へと視線を落とした。特別変わった紙ではない、学校の近くの文房具店で購入した四〇枚セットの原稿だ。高校にパソコンを持ち込むことは禁じられていないが、重いだろうしそもそも僕は自前のパソコンを持っていない。要らない。紙とペンさえあれば、言葉は紙の上に整列してくれる。一級品の演劇だって見せてくれるだろうから。文芸部員の端くれでもないのに、何ブンガクを気取っているんだと謗られそうな光景と思想だが、少なくとも弊高校の文芸部員にそんな堅苦しい文学少年少女は存在しないと思われる。だって去年部員がいなくて休部になったわけだし。我が校の廃部寸前文芸部の話は置いておくとしても、僕にはボールペンを片手に原稿へと向かう義務があった。社会的な義務ではなく個人的にかこつけた義務だけど。とはいえ、四〇〇字詰めのマス目は漏れなく白を保っていた。閑古鳥が鳴いていた、紙面と部室に。物悲しさを夏の風が吹き飛ばしてくれる、そう信じている。とはいえ、やっぱり、心が苦しくなることもあるわけで。


「書けない。ありえないくらい、書けない。書き出しの『書』の字の一画目すら戸惑ってるくらいに書けていない。まずい。いや、締め切りがあるわけじゃないからゆっくり書けばいいんだろうけど、でもゆっくり書いていたら書きあがらないし、でも書きあがらない者は書きあがらないんだよなあ」


 トートロジーに満ちた言い訳にいい顔するわけもなく。一向に進まない筆先でガリガリと一マス目を押し潰した。一マス目ってなんにせよ題名だ、三マスは開ける。題名抜きにしても段落の始めだ、一マスは開ける。暇つぶしにマス目を点描して刳り貫いたら、なんだかひどく虚しい気分になった。書き始めから五分が経過していた。


 陽が差してくる大窓は全開で、相変わらず外からは運動部の活力あふれる掛け声が響いていた。一般の文化系部員としては、ただただ喧しいだけだった。僕が捻くれてるだけかもしれないけど。声という名の人工騒音と夏風の涼しさを天秤にかけたら後者が勝ったので、外野の掛け声くらいは許さなきゃならないだろう。部室に冷房があったらすぐに部室を密閉したい。


 文章を書くのに集中できないので机上に突っ伏して不貞寝を敢行することにした。我ながら随分幼稚な選択肢に縋ったものだ。溺れる者は何とやら、思い浮かばぬものは船を漕げ、か。成程と、頷くことはできないが。


 でも、急がば回れとは言い得て妙なもので、不貞寝をしたらようやくいいフレーズが浮かんだ。藁を掴んだ甲斐があった。人間万事塞翁が馬。場に適した諺が脳裏で産声を上げたが、残念ながらありがたみは皆無。いいフレーズの邪魔をするなと与太を押し込める。水性の黒ボールペンを紙の上に滑らせようとした。だが、僕は直後、人間万事塞翁が馬とはまさに、『人間万事』塞翁が馬であると思い知らされた。


 カツン、と後輩が部室の玄関口に踏み入る音がした。原稿用紙を机の引き出しに押し込む。第六感じみた感覚が無意識に鳴らしてくれた警鐘が功を奏し、僕の行為は何も不自然に映らなかった、少なくとも主観的には。客観的な意見が欲しいが、相手は後輩。不自然に映ったかを聞いたところで不要な疑いを掛けられるだけだと悟っていた。


「せんぱい、すいません。日直当番していたら遅れちゃいました。もう活動始まってますか?」

「僕が来たら活動は始まっているよ。裏を返せば僕がいなかったら活動は始まっていない。君が部室に入る直前、部室に僕が存在しないと仮定していれば部活は始まっていないことになっただろうよ」

「……最近、推理小説読みました? どちらかというと叙述に偏った方面の」

「どうしてわかったんだい?」

「話し方が回りくどかったからですっ!」

「話の回りくどさと推理小説を読んだかは因果関係で結ばれないと思うけど」

「まあいいです、せんぱいが楽しそうなら」

「『シュレディンガーの先輩』を講釈したのはなかなか興味深かった」


 何もかもが戯言で屁理屈を積み上げただけだった。


「にしても」


 コホン、とわざとらしく咳き込んで後輩は訝しげにこちらを睨む。


「何やら騒がしいですね、せんぱい」

「……そりゃ、窓が開いているからね。運動部は夏休みであろうとほぼ毎日活動があるだろうし掛け声が響くのも無理ないだろう」

「そういうことじゃなくて」

「そういうことじゃないのか、じゃあいったい何なんだい?」


 白を切る。先の第六感とやらはハッタリだったに違いない。主観的には隠せたように見えたけど、頭かくして何とやら。客観的視点をおろそかにしては目の鋭い後輩の餌食になってしまう。机の下、膝元に置いた両手を開いたり閉じたりする。落ち着きがないのは僕も分かっていたし、何より後輩も認識していたようだ。溜息。僕よりも一回り小さな影がコンクリ打ち放しの床に土足で踏み入る。わざわざ土足で踏み入ったことを指摘したのは非難するためではない。部室の使い方は部活によりけりなので、天文部が部室を土足可にしたところでお咎めはない。素足とローファーじゃ足音は千差万別だ。靴下でコンクリの固い床をぺたぺた音を立てるのと、ローファーで固い床を制するようにカツカツ、凛とした音を鳴らすのではどちらが好きかというと僕の場合は後者の方が好みだった。あくまで人の好みだ。人の素足が好きって人間もいるだろうし。それは論点が半歩ズレてるか、足音だけに。


 とまあ。このように与太が与太を読んで与太嵐を巻き起こしている僕の思考回路は、文面を見ての通り全くもって平静を保っているわけがなかった。どうでもいいことをどうでもよく再生している間も後輩は眉を顰めて僕を睨んできたものだから表情を無にするので精いっぱいだった。表情を無にするために精いっぱいになる必要はなく、ただ無駄な論理心理に割くリソースを極限まで減らすだけなんだけど。


 心に無を呼ぶ。それを続けていたら彼女は盛大なため息とともにがっくりと肩を落とした。先に折れてくれたらしい。


「せんぱいはホント、嘘が下手ですよね。まあ、隠し事の一つや二つくらい誰にでもあるわけだし、心の広い私は全然許しちゃいますけど」


 『隠し事』を『書く仕事』と誤認して、やや焦ったりした。仕事ではないが。

 顔には出ていなければいいけれど。


「そうしてくれると助かるよ。別に、大した隠し事でもないんだけどね」

「大したことないんだったら隠さなくてもいいんじゃないですか?」

「でも、まだ君には知られたくないかな」


 一昨年まで絵描きだっただけの人間が、小説の処女作を書いているだけなんだけれど、僕の発言をいいように受け取ったのか、後輩の目は輝いていた。いや、そうはならんやろ。


「私には知られたくない、ということは私以外には知られてもいいことの裏返しですか?」

「いや。君以外にも見られたくない」


 後輩の目の輝きが失われた。なんか地雷を踏んだか? と訝しみつつ更なる言葉を補足する。


「特に、君には知られたくないってだけだ。極秘機密だ。サプライズだ」

「……サプライズですか?」

「ああ、サプライズだ」

「でもサプライズすることを伝えちゃったらそれはもうサプライズじゃありませんよね?」

「内容が知られなければいいんだよ、こういうのは。誕生日だったらともかく、公開未定の未完成作品でいつ発表できるか分からないから完成次第、不意打ちで送ろうとだな」

「不意打ちも先に宣言していたら意味なくないですか?」


 不意、打てないじゃん。気づいたのは口車に乗せられたあとで、既にニヤニヤと後輩がにじり寄ってきたころだった。彼女は口車に乗せていた、とは露ほども思っていなかっただろうけど。


「ちなみに、私の誕生日は三月の末ですからね」

「…………検討しておくよ」


 前かがみに近づいていた後輩は満足げにさっ、と身を引くと向かいの椅子に深く腰を掛けた。背負っていたリュックを膝の上に置き、中をガサゴソ漁っている。ほとんど空っぽそうな中から取り出したのは直方体の筆箱とA4サイズのスケッチブックだった。筆箱がぱか、と表に開かれる。中にはシャープペン三本、芯、そして消しゴムだけが綺麗に整列していた。


 シャープペンを手に取る。ペン先の黒鉛を無地の上で滑らせた。それっきり、彼女は無言で筆を滑らす。無心で描写に集中する。――絵が、好きなんだなあ。呑気な感想だけが脳裏で渦巻いていて、ちょっとだけ苦虫を噛みつぶしたような、あるいは嫉妬めいた黒々とした靄が僕を掠めた気がした。


 夏休みも中盤で、後輩の所属する美術部は週一回、全部印が集まる活動日がある以外は、個人で作品を制作する機関に充てられていた。活動場所である美術室に集うものがいれば、校舎内のどこかで道具を広げて作業するものもあった。後輩はどうやら後者のようだった。天文部室にイーゼルとカンバスを持ってこられたらさすがに送り返してしまうだろうけど。だって、部室狭いし、物が多いし。


 対して、天文部は部員一人、すなわち僕以外の構成員は幽霊含めて誰一人存在しないので活動日は僕の裁量次第でどうとでもなった。とはいえ、実家でグータラしていたら母親に叱責される。それよか誰にも邪魔されない天文部室というパーソナルスペースで休みを謳歌したいという不純な動機により、今年の天文部は夏季休業中、毎日が活動日だ。正気かよ、他の運動部でさえ毎日はさすがに活動しないんじゃないか。きっと、夏の暑さで思考が馬鹿になっているからだ。そうじゃなきゃ毎日がエブリデイ・ホリデイだろうし。


 不純な動機があると先述したが、清純な理由だってないわけではなかった。去年は先輩が『夏休みは毎日活動日!』と唱えていたから、今年もその日の浅い慣習に従ったというだけ。清純の皮を被り損ねた不純なのかもしれない。


 もう、縛られる必要ないっていうのに。先輩は、僕ではない男と付き合って、僕ではない男で男を知ったのだろうから。そうだよ、僕は星について浅学で、絵描きの夢も半ばで崩れた中途半端な人間だ。何者にもなれない、何者かだ。


 黙々と絵を描く後輩への憎らしさがわずかに突き出されて、僕は思わず彼女に問うた。


「なあ、後輩。美術室戻らなくてもいいのか? エアコンもないし、絵を描くにはここじゃない方がいいはずだよ」


 正論だった。迷いなく滑っていたペン先が止まる。見上げられた彼女の顔には不満が張り付いていた。半目を逸らして頬を膨らましている。窓の向こうを眺めながら、頬杖をつく。夏の真っ白い制服から飛び出した細腕が、スケッチブックに張り付いていて、半目がさらに細くなった。ぺらり、紙と腕の皮膚が乖離する。腕と設置していた紙面がふやけている。窓の向こうから降り注ぐ陽の光が眩くて紙の上に描かれた後輩の心象風景の一部を拝むことは叶わなかった。


「エアコンなんて要りませんよ。元来、体温調節が苦手で冷暖房が苦手なんです。美術室はガンガン効いているから、全部員の集合日は夏なのにジャージの上着持ち出しますから、……なーんて、これじゃただの言い訳なんですね」


 視点の中心が窓の外から僕へと移り変わる。


「言い訳を取っ払うと、私がここで描きたいから描いている、ただそれだけなんです。気にしないでください。それとも、気になっちゃいますか? 気に障っちゃいますか? だったら、場所を移しますので」

「それなら何も言うことはないよ。……作業の邪魔をしちゃって、ごめん」

「別に、たった数分の会話くらい、気にしてませんよ。もっと話してもいいなら話しますけど」

「君が集中できるんだったら、話せばいいさ。ただし、会話がいいかラジオがいいかは先に断ってくれるとありがたい」

「会話とラジオ? あー、対話を求めるか、一方的に吐き出すことを求めているかってことですか」


 逡巡から答えが出るまで五秒もかからなかった。後輩は再び筆を執り、スケッチブックに下した。紙とペンが擦れる、直前。


「対話で。一人で語るのは苦手なので、もしせんぱいがたくさん話しましょう?」

「喜んで。と言いたいところだけど、僕も大して喋るネタはない。気が向いたときに声を掛けてくれれば」

「じゃあ、気が向いたときに」


 後輩は再び、ドローイングに没頭し始めた。安堵半分、素っ気なさ半分をしまいこんで、背後の本棚から一冊の大学ノートを取り出す。表紙にラベリングされた『天文部ノート二〇一四』の字は僕が書いたものではない。


「せんぱい、それは何ですか?」


 雑談を挟んだことで集中力が切れかけたのか、それとも単に気が向いたからか、後輩は筆をおいて立ち上がり、僕の横へと歩み寄ってくる。ノートに描かれているのは天体のスケッチ群だった。美術的な才能とか、筆致とか、技法とかは一切求められていない。なるだけ線が交わったり重なったりしないように、見たままの被写体を観察する。そして、円の中に星々として点描していく。単純な紙面には、しかし、見るものを惹きつける不思議な魔力があるように思えた。


 果たして、その魔力とやらは僕の一方的な片思い補正によるものか。


「スケッチですね。でも、大学ノートじゃ見づらくありませんか? マス目がついてるし」

「僕が書いたものじゃないからな」

「それは、見れば一目瞭然でしょう。スケッチ一つにしても、人間の筆致って割と個性が出るものですから。ひょっとして私のこと舐めてます? せんぱい」

「舐めてないよ。むしろ判別できて当然だ」


 ノートをパラパラめくりながら過去を振り返って、思わず毒を吐く。


「こんなに綺麗な線、今の僕には書くことができないだろうよ」

「確かに綺麗な線ですね。ひょっとしたら事故に遭う前の、せんぱいの筆致より流麗かもしれません」


 その答えに思わず意表を突かれた。というか、かつての才能に浮かれていた自身を真っ向から叩き潰す一言だった。だから、次に繋ぐ言葉を放とうとしても、簡単には出てこなかった。感情が滅茶苦茶にかき乱されて整理が追い付かない。


「でも、せんぱいの絵の方が才能はあります」

「……さ、さっきの罵倒じみた台詞のあとじゃ、信ぴょう性がダダ下がりだよ」

「わざとですよ。上げて、落とす。飴と鞭の使い方が上手だって褒めてほしいくらいです」

「むしろ下手って言いたいくらいだ」


 これ以上、『大学ノート二〇一四』を見続ける気力を失って、ぱたりと折り畳んだ。表紙をうつ伏せにすると、裏面に描かれた落書きが露わになる。研究発表のメモとか、自作望遠鏡の製作工程とか、観測会の注意事項とか、卒部式のスケジュール表とか。


 このノートは、去年、先輩と僕が共用したものだった。すなわち、僕を散々連れ回した先輩の日々の記録であり、僕の積み重ねた片思いの記憶でもあった。今更振り返ったところで、先輩を僕の胸で抱くことは叶わないんだし、いい加減今年分の新しいノートを拵えなければならなかった。踏ん切りがつかなかった、というか、目指していた目標が潰えて路頭に迷い茫然自失したような、そんな空虚に浸っている。


 本棚へ振り返り、ノートをもとの場所に戻そうとした。だが、届く直前になって細い腕によって引き留められる。


 月明りを昼に持ち越してきたような、後輩の真っ白く華奢な腕に。


「どうせ、そのノートもせんぱいが片思いしてる『先輩』と一緒に書いていたものでしょう」


 彼女のその目敏さはあまり好きになれなかった。


「……だったら何だっていうんだ」

「図星ですか、図星ですよね。そりゃそうですよ、事情を知った上で一週間もこの部室で時を共にしていたら誰だってわかります。だって今年は二〇一四年じゃなくて、二〇一五年なんですから。初日、盛って二日目まではどうして去年のノートをわざわざ開いているんだろうなー、と引っかかっていましたが、三日目以降は大体察しがつきました」


 後輩の顔が耳元に近づく。僅かな吐息が吹きかけられるだけで首筋に電流のような快感が迸った。


「顔に出やすいですから、せんぱいは。――いい加減、諦めてしまえばいいのに。楽になれるでしょうに」

「君に何が分かるっていうんだ。部外者のくせに」

「部外者なのは当然ですし、それゆえに何も分かりませんよ。だって、せんぱいの恋心はせんぱいが一番熟知しているでしょうに。ただ、素直すぎるから――筒抜けで、ダダ洩れだから折角ですし助言しているだけです」


 どこまでも上から目線だった。苛々を通り越して、気が抜ける。心のどん底まで染み渡る溜息が二人きりの部室に木霊した。


 酷く、憂鬱だった。


「叶わない恋ってことは理解しているつもりだ。でも、僕はまだ答えを貰うどころか提案にすら至っていない。だから、もどかしい。告白していたら、どっちに転がっていたか考えただけで、後悔が募るばかりだ」

「ふうん」


 素っ気なく、興味なさげに。耳元から離れて、自分の陣地に戻っていった後輩はシャープペンを握ると紙面を滑らせずに、その鋭いペン先で僕の方を指さした。


「せんぱい、クソ愚かすぎて苛々するので、今から半径三メートル以内に近づかないでください。童貞臭で鼻がやられてしまいそうです。せんぱい、童貞拗らせすぎじゃありませんか? さすがにこの臭いには耐えきれません……」


 だるーんと。僕をしっかりペン先で指しながら、机に身を投げ出した。目が死んでる。


 机に接地した頬を流れるようにだらっだら、ぼろっぼろと涙を流す後輩がそこにいた。困ったような笑顔のまま、表情は凝り固まっているようだった。……ってか、何故泣いているんだ。泣きたいのは僕の方だった。過去のプライドとか、そもそもの男性としてのプライドとかが後輩の言動によってズタズタに裂かれていた。目頭が熱くなるのをこらえて彼女の肩を擦った。


「せんぱいの、童貞~~!! 意気地なしっ、愚か者、一章彼女できない~~!!」

「まるで二章だったら彼女ができているような文句だね、それっ」

「せんぱいの人生なんて第一部完ッッ!! して一生二章が来なければいいんですよ、ばか、あほ、後輩の揚げ足取りっ!」


 さすがに頭を抱えたくなった。僕が受け止めきれる罵倒の許容量にも限界は存在するからな? ばかとかあほは正直その通りだし、揚げ足撮ったのは事実だけど揚げ足撮られるようなメタ発言をした後輩がすべて悪い。意気地なしも愚か者も言い返せないし、言い返す気もなかった。事実だし、ダメージも少ない。でも童貞、お前は駄目だ。一介の男子高校生、友達少ない窓際族に童貞の二文字が痛烈に響いた。おまけに、女子の後輩から受けた罵倒でもあり、すなわち女子高生から童貞と詰られたということでもある。ある一定の期間を過ぎれば動じなくなるだろうし、性癖が歪んでいればむしろご褒美として受け取れるようになるだろうけど、生憎僕は思春期のモテない一般的な汚れていない清廉潔癖童貞男子高校生だった。


「僕、生きていていいのかな」

「涙拭いてください。ほら、ハンカチ」

「誰のせいだよ」

「ホントですよね、いったい誰のせいなのか」

「君だよ!? 紛れもなく〇:一〇で君の敗訴! あと泣いてないからっ!!」


 一つの揚げ足でいくつの反撃を受けたんだろう。言論のオーバーキルを生身で受けたので心はもうボロボロだった。


 これ以上児戯に付き合っても後輩の思う壺だと踏んだ僕は、机の横にぶら下げた自前のリュックからほとんど使っていない水色の大学ノートを取り出した。三ページ開くと、最新の活動報告が記されている。先輩が所属しているときは一週間に一回以上は必ず報告を記入していたが、僕が一人で部を仕切るようになってから月一回書けばいいか、と妥協するようになっていた。


「せんぱい」

「……、」

「せーんぱーい、あからさまに無視しないでくださいよー。私泣いちゃいますよ?」

「茶化すな。オオカミ少年になっても知らないぞ。君の場合はオオカミ少女だけど」「ふふ、忠告ありがとうございます。せんぱいの言葉通り、茶化しはしません。そのうえでいいですか? ――脅迫しても」


 脅迫、まただ。再開の夜に僕が仕掛けたはずの関係は、いつの間にか逆転して今も続行している。現状、実害を被っていないので対処を先延ばしにしていた。脅される代わりに、提示した内容を満たしていけば後輩は僕のために絵を描いてくれるらしいから、僕は交換条件を鵜呑みにして盲目的に後輩の願いを聞き入れてきた。僕が失うものはなく、後輩もまた同じのようだった。


 ……僕の過去の恋愛遍歴に口を突っ込んだりすることで彼女が得をするのかどうかは分かりかねるけれど。


「脅迫、いいよ。無理難題を突き付けなければ」

「せんぱいなら知っているでしょう、私のことを。腐っても中学時代は切磋琢磨した仲なんですから」

「前置きは要らないよ。――単刀直入に、君は何を求めるんだ?」


 机に突っ伏した後輩がのっそりと起き上がって、ブレないペン先を僕の額に突き立てた。眠そうな瞳が喜悦に満ちている。


「せんぱい、さっさと敵わない恋を諦めてください。告白してないから未練たらたらなんだったら告白してけちょんけちょんに打ちのめされてきてください。あとは私が骨の髄まで優しくしてあげますので」


 正論で真理なことは確かだった。確かだと自覚してしまった。でも、君に言われる筋合いはない言葉だった。


 いつしか、窓辺を吹く風がピタリと止んでいて室内で蒸し暑さがとぐろを巻いていた。


「ちょっと、飲み物買ってくる」


 逃げの台詞を捨てる。顔を背き、大股で部室を飛び出した。脈が速くなり、歩みは徐々に駆け足になっていく。ローファーの靴音が部室棟を校舎への連絡通路に反響する。僕は今、怒っている。苛立っている。でも、何に対して、誰に対してと聞かれれば回答を出し渋ってしまう気がした。きっと、尖った感情の矛先が自分自身だからだ。


 連絡通路を抜けて、自動販売機の前までたどり着いた。なまじ運動音痴ではない身としては、短時間の疾走ですらくたばってしまう。両手を膝にのせて俯いた。がしゃこん、と自販機からボトルが吐き出される音があった。運動の反動で動けない僕の下に長身瘦躯の影が迫る。充分に熱された鉄よりも熱いと感じる頬に刹那、冷気が降りかかる。反射で身を仰け反ったつもりが、膝が笑っていて使い物にならなかった。結果、バランスを崩して尻からアスファルトに転がる。熱された舗装が夏の制服と両手を瞬時に溶かしつくそうとしたものだから、慌てふためいて近場に遭った影へと潜り込む。ちょっとはマシになったか……、


「――やあ、少年。元気かな」

「ひっ!?」


 腰と首をそれぞれ正確な九〇度に曲げて、真っ逆さまになった顔と対面した。ストレートに伸びた地毛の薄い茶髪が柳よろしく僕の顔に垂れ下がる。鼻高で二重瞼、薄い唇は美丈夫の顔貌を決定づける三大要素であり、性格の良さも相まって当校の女子生徒からは軒並み高い評価を得ていた。吊り目がちな灰色の瞳に射抜かれて、目力のせいで気絶しそうになった。肝試しにはまだまだ早すぎる時間帯だったが、幸か不幸か、猛暑日の灼熱業火を打ち消すくらいの寒気を思いがけず手に入れてしまった。


 きっと、先輩や同輩や後輩だったら妬みの的にしていたんだろうな。


「どうしたんですか、風早先生。担当生徒に何か御用ですか、それとも手に持ったサイダーのボトルで僕を釣ろうとでも?」

「担任との距離を感じてぼくは寂しいよ、少年」

「生徒を名前で呼ばない担任に呆れているだけですよ。距離感ってものがありますよね」


 風早先生。本名は風早彰。風に早い、そして表彰の彰でアキラ。僕のクラス担任であり、とっつきやすい性格もあって男女問わず人気の教師だった。担当科目は美術であり、それゆえに美術部の顧問もしていた。すなわち、後輩とも面識がある人間である。ちなみに彼、僕に対してだけ『少年』と呼ぶ癖があった。いつ頃からそう呼ばれているかは憶えていない。去年度も担任だったし、砕けて話せる先生ではある。けど、どうして僕だけ他と違う呼称なのかは未だに謎だ。特に意味はないらしいけど。


「ちなみにこのサイダーはあげないよ。ぼくのものだから。それとも、どうしても欲しかったりするかな? だったら交換条件で渡してあげなくもないよ」

「お小遣いが残っているので買えなくはないので。でも、交換条件の内容によっては交渉に乗ることも考えますよ?」

「話が早くて助かるよ。まあ、大したことじゃないんだけど探し人」

「要点だけ掻い摘んで教えてください、さもないとサイダーだけ奪って部室戻りますよ?」


 分かった、分かったと観念したように両手を上げ降参のポーズをとる。にへら、と気の抜けた微笑を浮かべながら、風早先生は探し人の正体を口にした。


「――草彅さなって子、ここらへんで見なかったかな。僕が顧問をしている部活の一年生なんだけどさ」

「……聞いたことがあるような、ないような名前ですね。具体的な容姿とかは?」

「小柄でおかっぱの子だよ、目立った特徴はあんまりないかな」

「…………すいません、朝から天文部室に籠りっきりだったのでさっぱり」


 顎に指をあてて深刻に考える素振りをしつつ、そもそも僕にはあまり人脈がないことを思い出す。こんな時のために人間の名前と顔を覚えておくと便利なのかもしれない。滅多に機会はないだろうけど。


「それっぽい子が部室棟の近くにいたら声掛けてみますね」

「そっか。助かるよ、少年。もし会ったら、早急に美術部室へ来るよう忠告しておいてくれないかな」

「任されました、先生」


 振り返り、美術室に戻ろうとする風早先生の未開封ペットボトルに手を伸ばした。掴む。


「というわけで、サイダーいただきますね」

「へっ? ちょ、ま」

「隙ありっ」


 腕をくいっ、と後方に引くだけで、ペットボトルは僕の手中に収まった。ゲラゲラ笑いこけている膝に鞭打って、再び廊下を駆け抜ける。


「ぼ、ぼくのサイダー! 返してくれよ少年、交換条件は満たされていないだろう!?」

「今から学校じゅう漁って見つけてきますよ、先払いってことで、さ・き・ば・ら・いっ!」


 詐欺まがいの手法で担任を撒き、僕はそのまま部室棟の階段を駆け上がった。駆け上がって、天文部室のあるフロアに到達するとようやく、両足がうずくのをやめてくれた。


 先払い。僕は決して、先生の持っていたサイダーが欲しいわけではなかった。貰えるものは貰っておけの精神だ。加えて、掠め取る気も一切ない。少々手荒に奪う羽目になってしまったけれど結果はオーライ。


 部室へと戻る。スケッチブックの上を流麗に滑るシャープペンの芯の摩耗音だけが静謐と調和していた。ゾーンに入っているからか、僕がローファーの靴音を鳴らしても一切微動だにせず、イラストに心血を注いでいた。


「後輩。なあ、先生が呼んでいたよ」


 返ってくる声はない。今なら何を言っても許されそうだし、何しても気付かれなさそうだった。好機に好奇心がむくむくと膨張していく。ちょっとくらい、呼称を変えたところでバレることはないだろう。だから、あえて僕は。


――起きて」


 さっきまでほとんど完全に忘れていた後輩の名前を口にした。


 ガタンッッ! と激しく机が縦揺れする。地震ではなさそうだった。後輩の細い指から描画用のシャープペンがずり落ちて、地面に叩きつけられる。壊れかけのロボットのようにガタガタとぎこちなく首を動かして、僕の方を向いた。


 後輩は。草彅さな、という可愛らしい本名を授かった少女は、いつの間にか鳩が豆鉄砲を食ったような呆然とした顔でぼっ、と頬を沸騰させていた。とどのつまり、顔じゅうがたちまち真っ赤っかになってしまったのだ。


「あの、」

「…………今日はもう、帰らせていただきます」

「えっと、要件があるんだけど」

「今は後回しにしてください、すぐに帰らなきゃいけない用事ができたんです」


 ガタッ! と勢いよく立ち上がるとスケッチブックと筆箱を無造作にスクールバックへと詰め込むと脱兎の勢いで部室から飛び出していった。何が起きたのか、一瞬の出来事が過ぎて脳が理解に追いついていなかった。僕は頭を冷やすためにサイダーの蓋を取り、喉を潤した。爽快感のあるすっきりとした甘さとちょうどいい炭酸の強さが相まって、夏本番を乗り切るには最高の舞台装置となっていた。


 そういえば。


「先払い、できたはずなんだけどなあ……、後輩帰っちゃったじゃん」


 僕は部室の窓から校舎の方向を拝んだ、すいません、風早先生。獲物逃がしてしまいました。わざわざ目撃情報だけを流すわけにもいかないし、美術室が部室棟から遠い位置にあって向かうのも億劫だったので、草彅さなこと僕の後輩目撃情報にはそっと蓋を閉じておくことにした。


 ちなみにオチではないけれど。部活帰りにスマホの通知を見れば一件、後輩からのメッセージが届いているのに気づいた。


『名前呼び。不意打ち過ぎたのでしばらくはお控えください本当に許してくださいすいませんせんぱい……』


 しどろもどろな謝罪文にたった二文字で返したら、威嚇のスタンプが押されていたのはまた別の話ということで。

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