第三夜
僕と後輩の脅迫関係(?) が逆転してから早三日。再び無人駅に集う予定が立っていた。実に高頻度である。白ポストを狙う他の人間と遭遇してしまわないか、内心やや心配ではあった。僕の心配ではなく、後輩の――一人の女の子への心配だ。だって女の子が夜道を一人で歩いていたり、明かりもついていない無人駅の下、たった一人で僕を待ち続けているのだから。
今日も今日とて一時半に集合する予定だった。一〇分早く到着した。そういう仕様である。後輩には時間ぴったりで到着するように忠告を入れてある。三日前に新しい連絡先を交換したばかりだった。
「せんぱーい、遅くなりました。……って遅くなるように忠告してきたのはせんぱいでしたね」
「何かがあってからじゃ遅いからね」
「なんなら私の家まで送り迎えをしてほしいところですが」
冗談じゃない。背負った円筒状のお荷物に目線を動かしながら、
「無理。君の家、学校挟んで僕の家の正反対だし。荷物が多いから駅に着く前にくたびれちゃうよ」
「もーう、しっかりしてくださいよー」
脅迫の関係が逆転してから、彼女の挙動は随分と自然体になった。お互いに思っていたことを吐き出せたからだろう。距離感は一歩二歩縮んで、ようやく中学時代と同じ距離を取り戻せそうだった。取り戻せそう、ってだけで取り戻せるかは現状未定だ。それくらいに中学の数か月と高校一年間のブランクは大きいのだ、きっと。
『せんぱいは……絵をやめてから、今まで何をやっていたんですか』という質問に答えろ、というのが後輩の出した初めての脅迫だった。脅迫じゃなくてただの質問じゃん、と呆れかえるがそれでも彼女が定義したらそれが絶対だったし、答えない義理もなかったのでさらっ、と説明した。
『天文部ですか、意外ですね』と返してきた後輩は口調が平坦で、心底どうでもよさそうだった。どうでもいいならわざわざ問うなよとモノ申したが、『それはせんぱいの偏見ですよ、これでも平静を保つためにちょっと頑張っているんですから。その結果なんですから』と早口で返された。耳元が真っ赤っかだったのがおかしくて噴き出してしまった。二回目の無人駅での邂逅は動転した彼女が繰り出す無表情のキャット・パンチで締めくくられた。
照れ隠し? いやいや、まさか。彼女にとってどうでもよくない問いだったから、どうでもいいんじゃないかと勝手に推測されて腹が立っていただけだろう。きっと、絶対。僕からしたら、後輩は自分の描くもの以外への興味が地の底よりも低い人間だと思っていたので意外だった。口に出したら失礼極まって、キャット・パンチの量が増えるのだろう。痛くはないが、しつこいのだけが難点だった。
「でも、驚きですよ。絵にしか興味がないはずのせんぱいがどうして天文部に?」
この後輩、僕が喉の奥で留めておいた言葉をあっさりと吐き出しやがった。友達作るのに苦労しそうな性格だ。
「……あの、せんぱい? なんか今私の悪口考えていませんでしたか?」
「デリカシーが無さ過ぎて友達少なさそうって」
「友達? 少ない? ……あはは」
「あはは」
「あはは……」
「語尾が弱弱しいぞ」
「察してください、デリカシーが無いんですか」
「……この話はやめようか。僕だって大した友人がいるわけではないんだし」
「同類項せんぱいですね」
「心の底から不名誉な称号だよ」
何の話だったっけ。
そうだ、僕がどうして天文部に所属しているのか、だ。
「憧れの先輩が、いたから」
後輩の肩がびく、と震えた、気がした。気がしただけ、にしては震えが大きかったかも。夜が撹拌しているだけかもしれない。発言はまだ終わらない。
「――っていうのは後付けの理由かな。手を動かさなくても星の光は勝手に降ってくるから。これも憧れた人の言葉なんだけどね」
ちなみに彼女はすでに二つ目の脅迫を僕に下していた。
『先輩の部活覗いてもいいですか? 美術部は日中しか活動しないし、そもそも活動日が少ないので』
――ただ、それだけ。だから、脅迫じゃなくない? 満足のいく回答を予測して投げたら勝手に満足してくれたので良かったのだろう。『嫌だと言ったら?』と鎌をかけてみたら『脅迫ですから』と返されたので、そこでようやく脅迫が脅迫めいた役回りを演じられたのかもしれない。つくづく損な役回りだなあ、と脅迫何某を憐れんで、三日前の僕は両手を上げて『…お手上げだ』と観念した、演技をした。
てなわけで、本日の天文部。活動内容は月一回の観測会。現部員一人、見学者一人で始めたいと思う。景気づけに「本日はよろしくお願いします」と唱えると「よろしくお願いします、せんぱい」って返ってきた。ノリがよろしい。
プラットホームは、風雨に晒されているとはいえ平坦な地面だった。おまけに屋根がないし、近くに背の高い建物が見当たらない。これはつまり、地平の稜線まで夜空が展開されていることを意味している。天文学関係者なら垂涎の観測スポットであろう。ただし不法侵入なんだけど。僕らはむつかしい法学なぞ知ったこっちゃない子どもなんだから、この無人駅だって遊び場の一つになり得るんだ。星空と、人のない駅は僕らの味方になってくれる。
リュック代わりに背負ってきた円筒をアスファルトの上に置く。備え付けられていた三脚を組み立てて、円筒と接続する。小道具をネジで繋ぎとめて、バランスよく立たせた。
「せんぱい、これは?」
「反射式望遠鏡ってやつだ」
「専門用語はちんぷんかんぷんです、解説を」
ちんぷんかんぷんって死語じゃないかなー、と突っ込みたかった舌を叱責するように噛んだ。血は出なかった。
「望遠鏡には二つ種類があるんだけど、大体の人がイメージしそうなのは、対物レンズを通して星を見る望遠鏡、これは屈折式望遠鏡って呼ぶんだけど」
「あー、なんか昔々の冒険家が覗いてそうなアレですか」
「そうそれ。でもこの反射式望遠鏡は筒の中で光を反射させてその光を接眼レンズ越しに観測するタイプの望遠鏡なんだ。ちなみに接眼レンズと対物レンズの違いは」「馬鹿にしないでください、顕微鏡の使い方を学習したときに覚えましたから」
「優秀で何よりだ」
「むー、馬鹿にされている気がします……。でも、光を反射させて星々を観測するっていうのがちょっとイメージしづらいですね」
「それは、筒の中を見てみれば分かるよ」
空を見上げている円筒を二人して覗く。筒の底には真ん中が窪んだ、いわゆる凹面鏡――主鏡と呼ぶ――が一枚沈められており、その光が一旦、星明かりを反射する。凹面鏡に到達した光は、中心に向かって収束していき、その交差点に設けられた手鏡よりも小さい凸面鏡――副鏡と呼ぶ――でもう一度反射してから副鏡の真正面で待ち構える接眼レンズへと収束し、人の目に認識される。反射式望遠鏡の簡単な説明といえばこれくらいか。後輩はといえば、僕の説明を流しつつも望遠鏡に触れること自体には興味関心を持ってくれたらしかった。喜ばしいことだがもうちょっと話を聞いてくれないとさすがに泣きたくなる。先輩への塩対応がさすが過ぎて、何かに目覚めてしまったら責任を取ってほしいほどだった。
「星、綺麗ですね。星座の知識とか一切ないですが」
接眼レンズを覗いたまま、ぼそりと独り言ちる後輩。
「でも、月が綺麗ってことくらいは分かります」
「月が綺麗、ね」
「……あの、せんぱい」
「弁明かい?」
「弁明も何も今のは別にただ月が綺麗だという事実を述べただけですよ、勘違いしないでくださいね?」
「耳は赤いけど」
「黙らっしゃい、です」
レンズに目を向けたまま、五月雨のようにビンタを放ってくる。耳の赤さは頬の方まで侵食していたが、あまり下手なことを口にして望遠鏡に危害を加えられるのは御免だった。口を閉ざすのも先輩の職務の一つである。
「なあ、後輩。そろそろ僕と代わってくれないか?」
かれこれ五分は、後輩が望遠鏡を独り占めしていた。さすがに天文部員の面目が丸潰れしそうだし、星を見たい気持ちも強かった。星に見惚れて言葉を失っている後輩に近づく。
「ほら、起きろ」
「ひゃい!?」
酷く腑抜けた声とともに彼女は後ずさりした。ついでに足がもつれてアスファルトの床に尻もちをつく。臀部を擦る後輩を横目に、僕はようやく星の観測に映ることができた。覗き、真っ先に飛び込んできたのは土星。平べったく壮大な環が巨星の周囲を囲う様がレンズ越しにはっきりと見える。一眼レフカメラを持っていえば、シャッターチャンスを逃さなかっただろうけど、生憎バイトもろくにやっていない一高校生が捻出できる費用ではなかった。
「雲一つないし、写真を撮るには持って来いだな」
「あのー、せんぱい? 良ければカメラ持ってきましょうか?」
「期待してデジタルカメラ持ってこられたら立ち直れない気がするからいいや」
「私のことをなんだと思ってるんですか。ちゃんと一眼レフですよ、お父さんからのおさがりですが、夜空だったらはっきりくっきり撮れると思いますよ?」
「でかした」
「えへへ」
望遠鏡の角度を変える。七月の一等星は春の大曲線を描くおとめ座のスピカや牛飼座のアークトゥルス、また、七夕を終えたばかりの夏の大三角――デネブ、アルタイル、ベガが有名どころだった。星と星の軌跡を描く。ふと、背中からきゅっと抱きしめられる感覚があった。僕は星を見ながら固まった。本当は背中に当たる柔らかさのせいで星から意識が逸れていた。
「写真に収めるのも確かにアリかもしれませんが、あえて写真に撮らないというのもかえって趣がある気がしませんか?」
「さっきの話?」
「はい、さっきの話です。きっと、絵を描いていたころの先輩だったら写真を撮ろうなんて口が裂けても言わないと思いましたので」
そりゃ、絵があったから。絵を描くことが命のようなもので、平面上の時間を切り取る写真は、絵画の敵だと思っていた。しょせんは事実をありのまま切り抜くだけ。筆致とか描画の技術とか、生きた人間の息遣いがまるで聞こえないのが苦手だった。瞬間を手折って、殺しているとまで思っていた。でも、あくまで天文部に加入する前までの話であり、今は違う。
「……写真を撮るようになったのも、憧れの人に感化されたからなんですか?」
空白を切り取った、後輩の言葉は単純で正しかった。無言で星を眺める、ふりをする。彼女の息遣いが、聴覚をじわじわと侵してくるから、演技は大根役者よりも劣ってしまっただろう。何が可笑しかったのか、ふふっ、と後輩は噴き出す。わずかな息遣いだけで、僕は肩を震わした。実に、蠱惑的で悪魔的だった。
「恋、していたんですね。私を差し置いて」
「――していたのかもな」
「かもってなんですか。していたんですよ、憧れの異性に抱く感情が恋じゃないなら何になるんですか」
「さすがに偏見だろ、それ。……まあ、僕が先輩を好きだったことは紛れもなく事実なんだけどさ」
言い切った。しばし、後輩は無言だった。湿っぽい吐息の、メトロノームより規則正しいリズムが抱きしめられているこちらの鼓動をアップテンポにする。情熱的なメロディが脳裏でけたたましく唸る、唸る。額に滲む脂汗は、七月の多湿な空気に溶けそうなくらい熱いはずなのに、すぐに冷え切っていくような気がした。
唇が、動く。とうとう僕は星を見ていられずに目を瞑った。
「脅迫します。せんぱいは次の質問に答えてください。もちろん、嘘を吐いてはいけません」
――せんぱいはまだ、先輩のことが好きなんですか?
声色は自信に満ち溢れた真っすぐな声だったはずだ。だけど、どうしてだろう――彼女の言葉が耳になだれ込んだとき、僕が思い浮かべたのは母親を失った子猫だった。胸が何故だか苦しくなって、抱え込む。シャツの胸元をぎゅっと強く握った。分かっている、心臓が痛いのではない。心がそこにあると錯覚しているから、胸が痛いのだ、痛いのは胸なのだ。
「好きだったよ、とても」
あえて、的外れの答案を提出した。後輩をはぐらかすのは無理難題だった。
「答えになっていません。私は過去を問うてるんじゃなくて、今を問うてるんです」「答えたところで君にメリットはあるのか? 僕は脅迫に応じれば君の絵を見ることができる。でも、君は?」
「そんなの、知らないです。知らないったら知らないです、聞きたいから聞いているんです。さっさと答えてください」
怒涛の勢いで迫ってくる後輩に若干引いた。
「ああ、好きだよ」
「やっぱり」
「――でも、この恋は成就しない。既に、絶対に」
意表を突かれた目を向けられた。だから言いたくなかったんだ。過去を掘り返すことは、傷口を塞いでいるかさぶたを剥がす行為に他ならない。叶わなかった恋に明日はなく、明日を願うということはすなわち、憧れへの冒涜を指すのだから。
「大学入って、彼氏できたんだってさ。僕よりも断然、星に詳しくて、話が面白くて、顔もいい男の人にさ」
淡々とした事実に、縫いきれないほどの空白が空を埋め尽くしていた。
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