第二夜

 ばっさりと。その表現通りに、ただただばっさりと。僕の後輩は、背中まで伸びていた黒い髪を切って、無人駅にホームに現れた。見事なおかっぱだった。――と、こんな風に髪形を褒める機会は多分、いや絶対これから先に一度もないだろう。見事なおかっぱって。見事な黒髪ロングならまだしも、おかっぱて。


 だが、脅迫とはいえ後輩はいい仕事をしてくれた。


 黒く長い髪が嫌いだ。大好きだった時期もあったかもしれない。もう忘れてしまったけど。だから、心のどこかは腐りかけの未練から解き放たれたように軽くなっていた。そうだ、僕にはもう、希望の欠片も残っていない。夢想を盲信しても戻ってこない選択肢は戻ってこないのだ。同じことの繰り返し、トートロジー、あるいは同語反復。この説明すらもトートロジー。まるで僕そのものを換言した熟語でなんだか腹が立つ。希望の欠片は何度でも潰える。そう、何度でも。


 無人駅のホーム、時刻は一時半きっかり。時間に律儀な後輩は僕が到着する一〇分前には駅のロータリーをうろちょろしていたらしい。曰く、「まだ、終電が走り終えていなかったので」終電にもなってこんなド田舎の無人駅で降りる人間なんて肩指を折って数えられるだけなので、怪しげな視線をあちらこちらから向けられていたと報告を受けた。じっとしてろよ。


「だ、だって、先輩に脅迫されて終電後の駅に侵入することになったんですよ? そわそわしないわけないじゃないですか」

「責任転嫁はよしてくれ。そもそも君は僕がいなくとも白ポスト目当てで不法侵入するつもりだったんだろう?」

「うーん、言われてみればそうかもしれません。あまり頻度は高くありませんが……」


 今日は、僕に脅されていなかったら駅に寄っていくこともなかったという。真偽は定かではないし、丸呑みすることもない。白ポストを漁るという行為には、使用済みの成人向け雑誌を獲得するという動機が必要だ。きっと。というかそれ以外でどんな理由があってわざわざ多少のリスクを背負って駅に不法侵入するんだよ。思春期の男はエロに弱い、これは真理だと思う。思春期の女性は知らない、性別が違えば価値観は一八〇度違うことだってあるだろうし。後輩は思春期の男子寄りの考え方なのかしらん。一緒くたにカウントするのは筋違いだろうけど。


 こぢんまりとしたロータリーで彼女と鉢合わせた時に、タイミングよく駅舎の電気が一斉に消灯した。暗さに慣れていなかった両目がぼんやりとした闇と駅舎の影法師を投影する。僕が後輩を無視するように独りで改札を素通りしたら、右腕を後ろから引かれた。手汗に滲んだ細い手指が手首に絡みついて、じわじわと人の熱を伝える。一瞥すると、怯えたような目で見上げた彼女がいた。あくまで一瞥だった。手首を握られながら改札機を渡るとすぐにプラットホームが視界に広がった。監視カメラの類は一台も設置されていない。


「まさか君がそんな従順だったなんてな。脅迫とはいえあくまで口約束みたいなものだったし、効力なんかたかが知れていただろうに」

「ふふ、あのような手酷い脅迫を受けてしまっては逃げ道が残されていませんでしたからね。仕方なく、ですよ仕方なく」

「仕方なく、の割には随分乗り気な顔だな。嫌な顔はしていないしむしろ清々しさを感じるくらいだ」


 気のせいですよー、と後輩は返答を曖昧にした。おかげで僕は、この期に及んで彼女が何を考えているかが一切分からない。喜色の裏にとんでもない事実とか伏線とか孕んでそう。前方をモデルのように整然とした歩幅で歩む彼女は突如としてくるりと半回転した。黄色い点字ブロック、『止まれ』を表す凹凸に爪先を引っ掛けて駒のように。星色に染まった後輩の姿を目に焼き付けて、勝負事をしているわけでもないのに勝てない、勝てなかったと謎の敗北感が脳裏によぎる。敵わなかった。


 前へ倣え。星屑に満ちた空を背景に、後輩の微笑から吐き出されたものは、


「開口一番、髪を切れ、ですよ? つまり、女の子の武器を奪うってことですよ?」

「考えてもなかった」

「ほんとそういうところですよ、せんぱい」

「責任転嫁するな、結局切るって決めたのは君じゃないか」

「脅迫されてなかったら切らなかったですよ」

「そりゃ髪を切る意味がないしな、言われていなかったら」

「そう、言われていなかったら、です」

「脅迫じゃなくても切っていたような言い回しだな」

「言葉の綾ですね。でも、先輩の提案であれば何なりと受け答えできますよ。自慢の後輩だったので」


 自慢の後輩だったことはスルーして、乾いた笑い声だけが喉から漏れた。中学時代の記憶が撹拌されている。思い出したくもない思い出だったから、ずっとしまい込んでいた。


 後輩とは中学時代にあったとある事故を境に顔を合わせなくなった。事件以前は『自慢の先輩』と『自慢の後輩』。ダウト。それよか『好敵手』として彼女は僕の横に立ちはだかり、僕も彼女に真っ向から挑んだ。


 あの頃は油絵具と鼻につく匂いが嫌いじゃなかった。いっそ好きだったのかもしれないし、そもそも日常だったから、好きも嫌いも空気の中でないまぜになって鼻腔をかすめていたのだろう。呼吸の無意識と似ていた。


「だけど、良かったです。せんぱいが私に求めたのが、『髪を切ること』だけで」「もっと酷いことされると思っていたのか?」

「脅迫にしては威力が弱いですよね。だって、絶対的な権力ですよ? 相手をいくらでも服従させることができるんですよ? 思春期男児からしてみたら夢のような展開ですよ、裏を返せば薄い本にありがちなご都合主義展開なんですけどね」

「ご都合主義のターンだったから、僕なりに君を傷つけられそうなことを言ってみただけだよ」


 僕の目は彼女を凝視したまま固まっていた。いや、特に意味はない。特に意味はないんだ。なんとも。頭をかく、さする。痛いわけじゃないのに。空いていた手は口に運ばれていた。自分でも行動の忙しなさがいやに目についていた、気がした。


「嘘を吐いていますね、バレバレです。グーグル先生の検索窓で『嘘 仕草』って探したら真っ先に出てくるような仕草ばっかりです。いっそわざとやっているんじゃないかって疑えるほどに」

「……最近調べたからな」

「今度は嘘じゃなさそうですね。でも、普通の人が嘘を吐く人の仕草でサーチをかけるなんてなかなかありませんよ?」

「書いているものがあってな」

「描いているもの、じゃなくて?」

「ああ、絵を描くんじゃなくて、文を書く方」


 へえ。――後輩はさも興味なさげだった。絵一筋で今までやってきたからだろう。結果的にその話題に深入りする必要がなくなったのでこちらとしてもありがたかった。どうでもいいけど、ありがたかったって言いづらくてありがたがたかったがたがたって噛んでしまいがちだ、本当に、至極、クソ、どうでもいいんだけどさ。


「でも、なんというか」


 思考を放棄しがちだった僕を引き戻す接続詞と間隙。がたがた。歯と歯が噛み合わずに震えていた。なんでだろう、分からないけど『なんというか』という曖昧な言霊が不吉を予感していて、


「――案外、せんぱいは今でも優しいところは変わっていないんだなって」


 予感は、小さめの口から真っすぐ解き放たれて確信を超え、事実として現実と僕の思考領域に刻まれる。無残なまでに残酷に、爪痕を立てる。見透かしているような目でニヤニヤと含み笑いを漏らす後輩。眩暈がした。過去がぼんやりとした輪郭を、忘れたくて希釈した理想郷を色濃く浮かび上がらせる。細部まで彫刻刀で削られていく。さながらスクラッチで花火が描かれるように。汚い、花火だ。


 ――細い腕、緻密な流線形、油絵の具の匂い、パレット、二つ並ぶカンバス、無人の美術室、ロッカー上の石膏像、有形と夕景。


 ――衝突、アスファルト、何かが折れた音、ダブルミーニング、激痛、赤、血、卒倒、闇、青ざめた身体、道路の向こう、倒れた後輩、救急車のサイレン、信号無視の乗用車。


 ――闇、闇、病室。頭に包帯を巻いた彼女は、何も知らないような顔で、実際何もかも知らないように、「案外、せんぱいって優しいんですね」と、笑顔で。記録、欠落、思い出したくもない憧れと共存してきた二対の夢の塊。


 昨日の好敵手は、明日になる前に敵となって、悪となって、いや、自己防衛のフィルターがはたらいて悪として映された、うつされた。無自覚だからこそ、邪悪だった。誰も悪くないはずなのに、僕には誰かを悪く思うことしかできなかった。巨大な嫉妬だけ、僕だけしか分かり得ない膨大な感情だけが胸の底で沈殿している。煮凝りのように。


 誰も責めることを許されなかった。嫉妬の対象から逃げることで劣等感をなあなあにした。それもこれも過去の話だった。二年も前、僕が中学三年生だったときの話だ。いつまでも過去と和解しないでいるわけにはいかない。腐っていては前を向けない。そんなことは言われなくても分かっているけど、


「何も知らないくせに、騙らないでくれよ」


 口上から出てきたのは、本心とは真逆だった。それとも僕が常日頃自分に言い聞かせている忠告は薄っぺらな上辺だけの建前に過ぎなかったのだろうか、かもしれない。僕には僕が分からない。分からないばっかりが募っていく、燻っていく。


「それに、僕の脅迫はまだ、終わっていないから」


 せめてもの苦しみを味わってほしかった。へらへら笑って済ませるなと行き場のない怒りをぶつけたかった。君が僕だったらよかったのに。そうだったなら、無駄に苦しまなくてよかったのに。命を懸けてまで助けてしまった相手から、助けた瞬間の記憶だけが欠落してしまったら、僕は、僕が命と同じように大事にしてきた右腕に救いはないだろう、そうだろう?


 笑うな。せめて、苦しんで苦しんで苦しみぬいてくれよ。君を苦しめるためだったら一度にとどまらず、二度も三度もそれ以上も、何度も何度も何度も何度も脅迫するから。


 ……脳裏で。黒く長い髪を風に揺らした二歳上の女が、拙くなった僕の絵を褒めちぎってくれたのを思い出した。卒業してしまった彼女は、一年前に結んだ口約束を忘れてしまったのだろう、新しい出会いで上書きしてしまったのだろう。


 偶像すら、もう得ることはできない。一度にとどまらず、二度も。


 救いを奪われて、絵に囚われて、そのせいで苦しみ続ける羽目になった。


「せんぱいが満足するまで、私は脅迫され続けますから。私対せんぱいの我慢大会ですね。言っておきますけど、私は面倒臭くてくどい女ですから。覚悟しておいてくださいね?」


 言い切った後で、「あれ? これじゃあまるで私が脅しているみたいですね?」と照れたようにはにかむ後輩は、何もかも包み隠さずありったけの感情で、真実を突き付けてきた。はにかみ、緩んだ彼女の表情が嘘偽りの賜物だったら、今度こそ僕は立ち直れないだろう。もう、あらかた倒れ伏しているようなものだけど。それくらいに、後輩は自然な笑みを僕に向けてくるのだ。向けてきているように思えるのだ、いくらかは。


 一週間前に見せた怯えた表情はどこにも見当たらなくて、不気味とさえ思った。ただ、自然さはそう長く続かなかった。きっと夜の闇が彼女の表情筋の在処をぼかしていたからで、自然に見えていたものは暗順応で次第にぎこちなく映った。実像だけが正直で、ありのままの現実だった。そのぎこちなさは些事に過ぎないだろうけど。どうせ、『せんぱい』の御機嫌取りに忙しいんだろう。自然を装うことしかできないんだろう?


「では、せんぱい。次は何を求めるんですか」

「そうだな……」


 視界の端に白ポストが映る。途端、妙案が浮かんだ。とっさの判断だったから見せかけの妙案、中身は愚案かもしれない。でも、閃いてしまったからにはわざわざ判断をする過程はすっ飛ばした。


「君が見ている成人向け雑誌を見せてもらおうか。白ポストに通っているんだったら、つまりそういうモノも読むんだろう?」

「それだけですか?」

「いや。君の趣味嗜好性癖が詰まっている本を君が読むだけじゃ、ただの自慰行為だろう? ――だから、君と一緒に僕も、君が選んだ本を読むことにするよ」「…………なかなか拗らせてますね、せんぱい。でも、やってあげましょう」


 だって私は脅迫されているのですから。彼女はそう、自分に言い聞かせるようにして自己暗示を強調しているようだった。ちなみに僕が同じことをされたら、恥辱で滅茶苦茶になって三日三晩は寝込むことになる。うん……、これは苦しい。苦しいはず。


 というわけでここからが本題。後輩の性癖垂れ流し大会の始まりだ。我ながら豪が深い行為だが、反省も後悔もする気はない。


 僕らは列車の来ないプラットホームから線路へと両足を投げ出して並び、座る。


「今日持ってきたのはこちらです」

「そうか、じゃあさっそく――」


 一週間前と同様、手提げ袋から数冊の薄い本や雑誌が取り出された。作者名はやはり『凪早』ばかりでどの絵も天才的な筆致である。にもかかわらず、描かれる内容は女の子が悲惨な目に合うものばかりだ。腹パンなんて序の口で、流血表現は当たり前。輪姦から欠損モノ、その他性癖のジャンル名も口に出せないようなタブー中のタブーな嗜好がページをめくればめくるほど濃密に書き込まれている。


 込み上げる吐き気をどうにか飲み込んで、もしかしたら僕の方が苦しんでないか? と今更ながら妙策を愚策だと見誤った自分の目を激しく恨んだ。後輩の性癖が異常すぎて辛い。いや、怖かった。僕だったら、こんな悲惨で理不尽な物語は焚書してしまう。本棚に差しておくだけで不吉。僕はあくまで幸せな物語しか読むことができなかったから。


 よく、こんなもの読むよな。僕が後輩に対して抱いたのは紛れもなく恐怖感情だった。だって、同性がひたすら嬲られる内容の本を何の動揺もなく、なんなら興奮しながら読みふけっているわけだ。正気の沙汰ではない、というのはあくまで僕の意見だけど、こちらからしてみればその性癖は理解しがたかった。読み進めているうちに目がくらんできたのでページを進める先輩の手を止めようと腕を伸ばした。


 触れる――――その瞬間、僕は制止する言葉すらも失ってしまった。


 後輩の腕はふるふると震えていた。慌てて腕を離し、彼女の表情を拝む。瞼の奥から光は失われていて、口元がからっからに乾いていた。壊れたロボットのように何回も首を横に振っている。その姿は何か恐ろしいものを拒絶しているようだった。少なくとも、後輩がこれらの薄い本を楽しんでいないのは明白だった。


「どうしたんだよ、怖いなら見るのやめちゃえばいいのにさ」

「……何を言っているんですか。私がわざわざ嫌いなものを見るとでも」

「手、震えてるし。目、笑ってないし。そんなんじゃ誰が見ても無理してるって思われちゃうよ」

「無理じゃないです、無理なんかじゃ、ないんです……!」


 いやいやと拒絶するその姿はまるで子供だった。僕が手を押さえつけても抵抗の力を緩めることはない。意味が分からなかった。どうして読みたくないものをひたすら読もうとするんだ。吐き気を催したり、身体を震わせたり。嫌がって見ているようにしか見えないのに。ホラー映画を見る人の心理に『恋をするドキドキをホラー映画のドキドキで補っている』というものがあるんだけど、その類だろうか。もしくは『ホラー映画でドキドキすることで脳からエンドルフィンやドーパミン分泌し安心感を得るため』だろうか。凌辱モノはホラー映画ではないが。ドキドキのような可愛らしい擬音でとても表せるものではなく、もっと人間の根底に根付いた生理的な闇に、恐ろしさよりもおぞましさを感じるような。うーん、いいたとえが浮かばないものだ。


 抵抗を頭ごなしに抑えつけていると、すぐに彼女の細腕は力を失った。すかさず彼女のひざ元で開かれていた薄い本を奪い取る。もちろん、これ以上中身を見る気はないので本は閉ざした。俯き、両手で顔を覆った後輩の背中をおもむろに擦った。ほぼ無意識だった。強い言葉を吹っ掛ける度胸はないし、きっとそれは場違いな行動だと理解していたから。


「――あの本、全部私が描いたものなんです」


 塞ぎこんでいた顔から両手を離すと、後輩は唐突に事実を口にした。驚嘆の声すら僕は上げられなかった。


「『凪早』――先輩が昔使っていたペンネーム、勝手に使っちゃってごめんなさい」

「僕の名前を使ったことはどうでもいい。だって元々は好きだった人の名前をもじっただけだからさ」


 気にしていないような口調だけど、いつ堪忍袋の緒が切れてもおかしくなかった。訳が分からないし、内心許したくなかった。許せなかった。憧れの人からとった自分のペンネームをこっぴどく貶された気分になったから。何故なら、


「どうして。僕のペンネームで、僕が絶対に描かない絵を描いているんだ? 君なら知っているはずだ、僕が幸せな物語しか描かないことを。凌辱とかレイプとか寝取られとかリョナとかに嫌悪感を抱いていることを、君が知らないはずがないだろう?」

「それは、」


 続いた言葉は、無残にも胸のうちを滅茶苦茶に引っ掻き回し、いとも簡単に堪忍袋の緒が切った。それどころか堪忍袋をぎゃりぎゃりに、びりびりに引き裂いてしまった。言葉よりも先に体は動いた。激情の熱に浮かされている。僕は横にあった後輩の上に覆いかぶさり、プラットホームの上で押し倒した。細い腕を根元で抑えつける。この両腕は、きっと僕が持っているはずだった完全なる両腕だ。ひび割れのない、傷一つもない、最高傑作の彫像だ。後輩はその腕で天才的な画才をもって、精緻な絵を描いている。僕にとって彼女は嫉妬と羨望の塊だった。


 だって、かつては僕も後輩と肩を並べて、絵を描いていたのだから。


 ――中学時代の話だ。僕は美術部の先輩で、彼女は美術部の後輩だった。その中で僕らは二大巨頭のような扱いを受けていた。中学に入り、絵画の才能が開花し始めた二人。僕らはお互いに互いの絵を好き合っていた。中二までは暗い絵を描く方が多かったのだが、後輩が美術部に加入してから、明らかに彼女に影響を受けたような明るい作品が増えた。彼女の描く世界に憧れた。毎日、美術室に入り浸っては油絵の具のツンとした匂いの中で、横に並んでカンバスにお互いの描く新世界を描きこむ。夕景が僕らの味方をしていた。いつしか僕は暗い作品を一切描かなくなっていた。ちょうど、中学最後の絵画展が迫っている、そんな矢先だった。


 不慮の事故なのは確かだった。信号無視して交差点に進入してきた乗用車に後輩が轢かれそうになる。僕は何も考えずに彼女の身体を突き放して、代わりに傷を負った。


 右腕の複雑骨折。再び、絵を描くには時間が必要だったし、以前のような繊細な筆致は戻らないとまで言われた。絶望だった。生きる糧を失った僕は病室でひたすら日々をすり潰していた。絵画展はとっくに終わっていた。泣くことすらもできずに、個室で一人、ノートに向かう。ギプスを嵌めた右腕は使い物にならなかったから、左手に鉛筆を持って、文字を書くことから。


 ちょうどそのとき、病室に来訪者があった。後輩だった。どうやら、絵画展でいい成績を収めたらしい。喜ばしいことだった、ただそれだけだったら。僕は彼女の絵が好きで、彼女のことも嫌いじゃなかったから。ただ、それだけだったら。


「『――それにしても、どうしてせんぱいは絵画展、出られなかったんですか?』だったよね。ああ今でも憶えているよ、身体の底から体温が冷え切っていった。そんなの、君を助けたからだっていうのに、君はそのことを一切憶えていなかったんだ」


 後輩は記憶障害だった。僕が突き放した際に頭を打ったらしく、そのせいで事故の前後の記憶が一切合切抜け落ちているのだ。それよりもさらに前の記憶だけは残っているから、彼女は依然、僕のことを仲がいい『せんぱい』としか思っていないのだろう。


 後輩と身体を重ねる。夏の灼熱を浴びて熱した鉄のように熱かったはずのアスファルトは、星明かりに冷やされて生ぬるくなっていた。点字ブロックと隙間を縫うように背の低い雑草が生い茂っている。彼女に顔を近づける、近づく両の瞳が潤んでいても、僕は後輩のことを許す気にはなれなかった。


「今だって理解はできたけれど納得には至っていない。反省はしていないけど後悔はしている、そんな具合だ。だったら、僕が絵を描く腕を失ったのはなんでだろうって」

「だから。――だから、『罪滅ぼし』をしたかったんです」


 僕の怒りを爆発させたその単語が再び解き放たれる。


「私の作品で酷い目に遭うのは皆、私のような容姿で、私に寄せた子ばっかりです。きっとせんぱいは私を恨んでいるでしょうから、私はこうされるべきだって、全部私が救われちゃったからって。私が酷い目に遭えばよかったんだって。だって、私はせんぱいに救われたこと、何も憶えていなかったんですよ? せんぱいが絵を描けなくなったことをいまだに信じ切れていないんですよ? 私が救われてしまったばかりにっ! 私は!! 救われてしまったっ! ばかりに!!」

「いい加減にしてくれ!」


 腕の中でボロボロと泣きじゃくる後輩に向けて、滅茶苦茶になった感情をありったけぶつける。僕が本当にそんなことを望んでいると妄信しているんだったら、僕と君の過ごした二年すらも空白に帰してしまう。


「確かにさ、絵を描けなくなった僕にとって、君は嫉妬の塊だったよ、羨ましかったよ。僕は君の横でカンバスを並べることで君の絵を特等席で眺めることができたんだ。その席に座れないのがもう、悔しくて悔しくて居ても立っても居られなくてそれでも腕は戻らなくて、ただただもどかしい。おまけに君は事故の記憶がない。僕が嫉妬しても、君はその理由すら分からないんだ。だから、絵に向き合うのがただただ辛くなって、僕は絵を描くのをやめた」

「ほら、それじゃあ、私がいけないんじゃないですか」

「ああ、そうかもね。せめて、君が記憶を失っていなければって何度考えたことか」


 イフの話なんだよ、今となっては。未来予想図は破綻していて、僕に残されているのは極彩色の過去とグレースケールの現在だけ。色彩を帯びていた輝かしき日々が大好きで、だからこそ灰色になってしまった日々が疎ましかった。


 でも、それでも。それ以上に罪滅ぼしと称した後輩の挙動が一番癪に障った。


「……僕はね、君の絵が好きだったんだよ、大好きだったんだ。あの幸せな世界に導かれるように最後の一年は画風さえも一変してしまった。それくらいに憧れだったんだよ」

「だったら……だったら! 私だってせんぱいの描く暗澹とした世界観を心から愛していました! 恋を超えて愛ですっ! グロとか凌辱とか、元々せんぱいの得手だったでしょう? あの頃の私はつまるところ、光しか描けませんでしたから。だから、せんぱいの絵は私とかけ離れていて、目を惹く何かが眠っていたっ。好きだった、いいや、好きです大好きですばーか!!」

「馬鹿ってなんだよ君の方が……、お前の方が馬鹿だよ馬―鹿!! お前は自分にしか描けない幸せな世界を描けばいいじゃないか! せっせこ幸せになれよ馬―鹿っ! リストカットの意趣返しなんて死んでもやるな、つまらない自傷で得られるものは何もないんだからさ! しょせんはお前の自己満足なんだよ後輩。それともあれか? 今こうやって乱暴にされることで満足できるのかよ。お前の書いた虚構の不幸せな世界に僕を巻き添えれば幸せなのかよ、歪んでんじゃねえよ!!」

「私は……私は! それでいいです! いいんですよっ!」


 化粧をしなくても愛らしい彼女の顔は滂沱で濡れて、泣き顔のせいで不細工な皴が刻まれている。似合わない、不釣り合いだ、だから泣くんじゃない。泣くなよ、後輩、お前。口元だけの叱責は空回りして、一向に彼女の嗚咽は収まらなかった。収まらなくても、途切れ途切れ伝えたいことが募っていく。


「……そう、じゃなきゃ、ダメ、なんです。傷つけた、分。傷つけられなきゃ、私は、せんぱいと、釣り合わない」


 それはきっと、彼女にとってさも深刻な理由だったのだろうが、僕はどうしても呆れかえってしまった。


「もうとっくに釣り合ってねえよ。僕は絵を描けない。過去の栄光に縋るだけだ。君は絵が描ける。栄光の未来を夢見ればいい」


 後輩の絵が好きなのだ。幸せな絵ではなくて、幸せな“後輩の描いた”絵に心から憧れているのだ。たとえば、夕景の中カンバスに向かう学生たちを描いた、ただそれだけの日常だって彼女の神の右腕にかかれば多幸感に満ちた温もり溢れる絵に様変わりする。後輩の目に映った何気ない世界は、高解像度で幸福な補正がかかる。僕にはできない、温かい筆遣い。


 そう。僕にはできなかった。僕の絵筆は常に暗色を帯びていて、生み出されるのは夜よりも底深い暗澹だ。赤黒い血のような色彩と水玉がそこかしこに浮遊する、救いのない世界観。幸せとは程遠い不幸せな物語。闇は光に惹かれ、光もまた闇に惹かれる。影があるから光がある、光があるから影がある――きっと、僕と後輩の関係性はただそれだけの単純構造で結ばれていた。


 作風が闇だったとして、僕の嗜好が光に寄っているものだというのは確かに違いない。しかし、僕に描けるものは闇だけだった。後輩のおかげで作品に光は得られたとは言ったが、光のおかげで闇は際立つばかりで、僕の作風は何度描いても何度描いても、闇から抜け出せず後輩への憧れの感情が大きくなれば大きくなるほど、闇の深さは比例した、してしまった。


 でも、そのおかげで僕は僕の絵を認めることができた。光は描けないが、闇を描ける。後輩とは真逆のアイデンティティを抱いているのだ――ただそれだけの納得。きっと恋のようなはっ、とした出会い。


 だから。僕は後輩の絵が憧れで、好きなのだ。


 だから。悔しいのだ。自傷するように絵を描く後輩の姿勢が。


 憧れを己の手で潰そうとしている憧れの女の子が、許せないのだ。


「どう足掻こうが、僕の腕は戻ってこない。――二度とそんな自傷行為やめろ、僕は君の絵が好きだったんだから。好きで好きで、もう追いつけなくて嫉妬して、その嫉妬すらも無下にしないでくれよ」


 こんな発言、一二〇パーセント僕のエゴでしかない。僕は君に嫉妬し続けたい、だからせめて失望させないでくれよ、僕が一番好きだった絵描きが地に堕ちるところを見たくないんだ、君は一番なんだ。


「せんぱいだって」


 胸中で収まった彼女は袖で涙を拭いた。涙は収まっていた。


「せんぱいだって私の一番だったんですから。描けなくなって私を避けるようになって、向けてくる視線はずっとずっと恨まれているのかなと思っていました。私が助かったせいでせんぱいは助からなかった。だから、せんぱいと同じ世界に私が落ちればいいと、だから」

「二度と、するな。しないでくれ」

「どう、しましょうかね。しばらく幸せなものを描けていないので。でも、せんぱいの要望とあらば」

「頼む」


 もはや、懇願だった。目つきが鋭くなる。


「君の幸せな世界をもっと見せてくれよ。そのためだったら僕はなんだってするからさ。絵は描けないけど」

「なんでもできないじゃないですか。絵は描けないですし」


 何も答えられない。押し倒す体勢もなかなかきついので、身体を起こす。瞬間、後輩は勢いよく起き上がって胸倉を掴んできた。時間にして僅か一秒にも満たない空隙を縫うようにして、後輩の愛らしい顔が近づいてくる。時間が止まったのか、それとも思考が凍結したのか。訳が分からない瞬間的逆転劇にただただ息を呑んでいると。彼女は、見上げた。涙で赤く腫れた両目がにやりと笑っている。



「ねえ、せんぱい。今度はわたしが脅迫しましょうか。先輩が言うこと聞いてくれないんだったら私は先輩の好きな絵を描いてあげません。逆に――言うことをきっちり聞いてくれたら、最高傑作でせんぱいをぶっ殺して差し上げましょう」

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