『午前一時半、無人駅にて。』
音無 蓮 Ren Otonashi
『午前一時半、無人駅にて。』
第一夜
終電後の無人駅に横たわるのは闇と静寂。初夏だったら蛙がげこげこと求愛する音、秋だったら鈴虫こおろぎその他鳴く虫が以下略。しかし、今の季節は真夏。七月の中旬だ。夏の夜はけたたましい蝉の鳴き声が埋め尽くす。
およそ健全的な人様とは無縁の地と化す、無人駅。僕は不健全なのでノーカウント。自分の都合のいいようにしか話を進ませたくないんだ、それが人間のサガだろう? 違う? 人それぞれかもね。
ともかく、その日。少なくとも健全ではない僕は無人駅の改札を素通りした。
田舎の無人駅ともなると使う人間はたいてい限られている。隣町の高校に通う学生とか、多少の会社員くらい。公務員は町役場の職員しか乗り合わせないし、小さな町の役員なんて数が知れていた。あとは観光列車が素通りするくらいか。車内が年配の方々で鮨詰め状態のアレ。登校の時間に合わせて通過していくその手の観光列車には、無意識で中指を立ててしまう。ただでさえ本数が少ないのだからやめてほしい。
さて、ここまでは朝から晩、すなわち鉄道の運行時間帯の話だ。
ここからは、鉄道の業務が終了した後の話だ。
一時半前の終電が走り去るとたちまち無人駅はその日の業務を終了する。無人なので自動で。だから監視の目もないし、改札口の電気も全部ぱったり切れていた。木材を次いで接いだ建屋とプラスチックの瓦を敷き詰めた屋根は田んぼのど真ん中に建っていて寂寥感と微々たる不気味さを醸し出していた。駅への侵入は苦ではない、むしろ楽々だ。問題はその後である。
まさかまさか、駅に先客がいるとは思わなかったのだ。それも、同性ではなくて異性。寝間着姿のままこっそり家を抜け出してきた僕は、風呂に入った後でまだしとしとだった髪を振り払って、改札からホームを除いた。
視界の隅、改札の屋根がギリギリ届くところで人の影がもぞもぞと蠢いている。ホームレスではない。こんなド田舎で家なき子するんだったら都会でその日暮らしする方が効率良いだろう、だからだ。
では、影の正体は何なのか。
長い髪を後ろで結んで、ぷらぷらと垂らしている。立派なポニーテールだ。遮る人口灯が限りなく少ないため、満天の星空が直接目に届き、ホームで座り込んだ少女の髪を柔く濡らす。質の良いまっさらな原稿用紙よりもさらに白く、丹念に磨かれたガラス玉よりも透き通った肌が眩しい。髪と肌の境界線、ほっそりとした項のグラデーションは、この過疎地帯、この駅、この瞬間じゃなきゃ見られなかっただろう。僕だけの特別な秘境にたどり着いたのだ。ああ、人類の神秘かな。気持ち悪いくらいに見とれてしまった。
息を殺すことに集中する。惚けた吐息で相手方にバレるのはさすがに笑えない。この無人駅に深夜に来ることはすなわち肉食獣の狩りと同義だ。食うか、食われるか。捕食者が餌に集う。ただし、素性を知られてはならない。ゆえに必死。滲む手汗を寝間着で拭き取っていると、ホームの方から微かに甘い香りが漂着する。
鼻息を荒くしないように、また手違いでクシャミをしないように入念に、慎重に匂いを嗅ぐ。その香りは都会で流行っている香水のような作り物の“臭い”ではない。いわゆる、女の子の匂い。形容しがたい、天日干しした敷布団の匂いと女物のシャンプーの控えめな香りを足して二で割った黄金比が僕の鼻腔をハッキングした。そう、紛れもなく女の子の匂い。遺伝子的に男性を寄せ付ける少女の色香。
改札口を出てすぐ、僕の歩幅だと五、六歩の位置でガサゴソと音がした。続いて、
「だ、誰も……、いないよね……?」
女の声。ガッチガチに緊張しているらしい。
(誰もいないわけではない、誰もいないと錯覚しているだけだ)
内心で訂正を付け加える。口には出さない。物珍しさに物見遊山の時間を多くとりたいからだ。夜の闇に浮かぶ影の輪郭はぼんやりとしているが、長い髪が背の中腹まで延ばされていることだけは確かだった。あと、長めのスカート穿いてる。
珍しいことに、彼女は僕と同類項にあたる捕食者、あるいは消費者らしい。当然、不法侵入を実行したことだろう。清純そうな身なりをして、なかなか侮れない女。深夜の無人駅に目的を持ってやってくる人間は一人残らず不純な動機を抱いていて、僕も少女もその点で似た者同士で違いはなかった。
かがんだ少女の向く先にあるのは、縦に長細く伸びた、白い箱だった。少女はそこの周りをウロチョロしながら、しきりに箱の浦に手を伸ばし、手元で何かを弄っている。カチャカチャ、と金属と金属が咬合する音が跳ねてこちらの耳に飛び込む。
箱の後ろで蓋が開く。下開きのそれは少女の手をするりと抜けて、ばたりっ、と乾いた音を立てて地面を叩いた。多分、失態。箱の前で座り込んだ少女は盛大に震えあがると、神経質に周囲をぐるぐる見まわしていた。誰かに見られたくないんだろう。そりゃそうだ、駅に不法侵入しているわけだし。だが、理由はきっとそれだけではない。同類項だから肌で感じ取れる、恥ずかしいことに。
周囲に気配がないことを確認できたからか、少女は狼狽えることをやめて箱の裏側を物色し始めた。気配がないわけではなく気づけていないだけだが。慎重な手つきで箱から取り出されたのは薄い冊子や週刊誌の数々。新品ではなく、使用済みのものだ。彼女は手持ちの手提げ袋から箱の中に積まれていたものと同じような冊子を取り出して、箱の中にあったものと交換する。
――消費者か。同性の同族は何人か遠目で見たことはあるが、異性は初だった。その手の欲は性別の垣根を超えるらしい。
この無人駅を深夜に利用する数奇な客は、白い箱の中身目当てで訪れる。僕もその例に漏れなかった。
通称・白ポスト。公序良俗に違反する書物を回収する装置で、僕が駅を使い始めたころにはすでに改札口の屋根がギリギリかかるところに置いてある。今年になり箱は新調された。すなわち、まだまだ現役で稼働しているというわけだ。ただまあ、利用者層? 利用目的? は一八〇度ズレてしまっているだろうけど。それもこれも、ポストを閉ざす南京錠が半ばぶっ壊れているのがいけない。接合部をテキトーにカチャカチャ弄っていれば開いてしまうのだから。ポストは新調したのに壊れかけの錠を買い替えなかったのはなんで。
てなわけでガバガバ南京錠くんのせいで=おかげで、公序良俗促進ポストは公序良俗阻害ポストに大変身というわけだ。
言い忘れていたが、ここでの公序良俗に違反する書物とは成年誌、くだけた言葉で換言すればエロ本とか、薄い本とか、ヌード写真集とかとか。ともかく、思春期男児の大好物が毎週ポストに投函される。こんなド田舎であるにもかかわらず。白ポストの存在は希少だが、実用性は高い。実家で捨てるわけにもいかない多感なお年頃の少年たちが人目を忍んで使用済みの御本を箱に投函するのだろう。成年誌のリサイクル。微かに精液の臭いが染みついた本を手に取って、再利用する、臭いを上書きする。背徳的な言い回し、背徳的な行為だ。きっと、性欲が残っているうちはポストのお世話になるのだろう、僕は。
持ち込んだ冊子をポストに積み終わると少女は裏の蓋を閉じて、南京錠のロックを掛けた。身体を起こし、手提げ袋を持ち上げると改札口の方に、つまり僕のもとへと迫ってくる。そして、彼女の身体は硬直した。僕と目が合ってしまったからだ。
寝間着姿の僕。対する少女は、黒いセーラー服を纏っている。おまけに僕の通っている高校のものだ。胸元で結ばれたリボンの赤色から、一個下の学年、高校一年生だと推測する。
「あれ……、あ、ああの、せ、せんぱいですか……?」
声は震えているものの、声質は風鈴の音色よりも軽やかな可憐さを秘めていた。聞いたことがある声。主に二年前まで腐るほど間近で聞いてきた声だ。中学時代の記憶、折れた筆、使い物にならなくなった利き腕。痛み。嫉妬。フラッシュバック。――やめろ、今思い出して何になる。ぶんぶん、と頭を振って現実を直視する。暗闇をスマートフォンのライトで照らした。
「誰だよ、ったく」
「まぶしっ」
微かな悲鳴。両手で顔を隠そうとして隠しきれていない少女の顔はやはり、見覚えのあるもので確かに中学時代、最も仲の良かった顔だった。今では、心の底から嫉妬している人間の一人であるが、負の感情をわざわざ表に出す気もなく僕はただ淡々と、
「久しぶりだね、後輩。君のような人間が白ポストを漁るなんて、明日天変地異が起きてもおかしくないな」
「ひ、久しぶりですね、せんぱい。それとも――、」
「もう、あっちの名前は使っていないから。だから、二度とそのことは口にしないでくれ」
言葉の棘を隠し切れていない。失言を悔い、視線を逸らした。逸らす直前、後輩の悲しそうな目が映ってしまい、脳に海馬に刻みついて、こびりついて離れなかった。舌打ちをこらえて、
「……当たりが強すぎた、ごめん」
「本当にお久しぶりですね、まさか、こんなところで出くわすとは思ってもみませんでしたが。……お恥ずかしいところ、お見せしてしまいましたね」
「お互い様だろ。でも、まさか君が白ポストを漁ってるとは思わなかった」
彼女の印象からして、不釣り合いだからとは口に出さなかった。
「高嶺の花として名高い君が、エロ本や薄い本を漁っていたなんて知られたら――」
「ふふ。脅迫ですか、それ」
「確かに、脅迫するのも悪くはなさそうだな、名案だ」
後輩が横を通り過ぎていこうとした。若干駆け足だったが、僕はその肩を掴むことができた。逃す気はない。
胸中でぼこぼこと湧き上がる黒い感情に身を任せる。
せっかく。
せっかく、嫉妬の標的がのこのこと僕の前に現れたのだから。きっと今日は彼女にとって一生に一度の厄日で、僕からしてみればきっと真逆で最高の佳日といえる、はずだ。きっと。復讐は悪だ、と勧善懲悪ゴリゴリ理論に押しつぶされない限りは。
君が、……いや、お前が。お前が、――だったらよかったのに。
「な、なんですか、せんぱい」
「だから、脅迫だよ。このことをバラされたくなかったら、ちょっと僕に付き合え」
「ちょ、肩、掴まないでくださいよっ、力、強いっ!」
僕の手がするりと解けると、後ずさり。しかし、二歩、三歩後退したところで両足がもつれて、そのままホームのアスファルトに尻もちをついた。身動きが取れず、ただ小刻みに身体を震わせ顔を真っ青にした彼女へとじりじり、間合いを詰めていく。
「あ、あの、せんぱい……?」
「逃げるなら今のうちだ。もっとも、ここで逃げたら明日には噂が広まっているかもしれないけどね」
「はは……選択肢、ありませんよね、私に」
無いわけはない。今ここで不意打ちをすれば僕はまんまと引っかかるだろう。そしたら逃げつつ警察に電話すればいい。そのときは携帯電話ごと線路へと投げ捨てるだけなんだけど。選択肢を狭めているのはあくまで後輩自身だった。
「で、せんぱい。私に何をしてほしいんですか?」
「考えたこともない。今の今まで二度と会うことはないって思いこんでいたから」
「同じ街に住んでたら、一度や二度は会うはずでしょう?」
「会おうとしなければ会えないだろ。現に僕が中学を卒業してから今日に至るまで君とは一度も会っていなかった」
「それは、せんぱいが」
「僕が、どうしたんだい?」
「……なんでもないです、ないったらないです。守秘義務契約があるので」
「誰とだよ」
「秘密です」
「そりゃ、守秘義務があるんだったらそうなるよな」
「――で、せんぱいは何をご所望なんですか?」
他愛もない会話の間、思考をフル回転して考えていた。今だったら、彼女は何を言っても従ってくれそうだ。たった一回、エロ本を漁っている姿を見ただけで嫉妬の対象が隷属してくれるなんて思いもよらなかったから。
「そうだな、」
一息置く。ごくり、と後輩が息をのむ。
「とりあえず、その長い髪を切れよ。むしゃくしゃするから」
「…………わかり、ました。それでせんぱいが満足してくれるなら」
「でも、君が髪を切ったとして校内で出くわすことはほとんどないだろう? 君が入学して三か月半が過ぎているわけだし。その間一度も顔を合わせていないし」
「私は、せんぱいのことを――」
言いかけの言葉の破片にわざと重ねる。言い訳は要らなかったから。
「僕は、君のことを見かけた覚えはないよ。君がどうだったかなんて聞いていない」
「ごめん、なさい」
「謝ったところで何も出ないんだけどね。で、君が髪を切ったことを証明するにはどうすればいいかな」
逡巡の末、後輩は提案をする。
「一週間後、午前一時半にこの駅のホームで待ち合わせるのはどうでしょう。週末にならないと時間ができないので、ちょっとだけ猶予をください」
「大丈夫さ、僕はせっかちじゃない。約束さえ守ってくれればそれでいい」
「じゃあ、それでお願いします」
時間も時間なので、私はこれで。立ち上がってスカートについたゴミを手で振り払うと、彼女は背を向けた。改札口に潜ったところで、一度だけひょいと顔を出し念を押すように、「約束守りますから、せんぱいも守ってくださいね」と警告してきた。
それは君次第だと返すと、むすっとした顔を逸らして、速足で無人駅から去っていく。駆け足の足音が蝉の騒音の中ではっきりと聞き取れた。誰もいなくなった無人駅のホームで白ポストを物色する。後輩が残していった冊子を残らず取り出して並べてみる。軒並み成人向け同人誌で、作者名は全部一緒だった。
――凪早。なぎさ。
かつて僕が使っていたペンネーム。あるいは、かつて僕が勝手に好意を抱いていた少女の名前をもじった名前。
できれば、二度と聞きたくなかった名前。
目を背ける。僕は再びその冊子を白ポストの中に積んだ。イラストの筆致はどれもこれも素晴らしいもので、成人誌としての実用性は軒並み高い。しかしジャンルはリョナや、寝取られ、またはレイプとか負の感情を大々的に露出させたものだった。できれば『凪早』の名前を借りて、汚い世界を映してほしくなかった。
ああ、嫌なものを見た。忘れてしまいたい、忘れてしまおう。
白ポストに鍵をかける。南京錠は壊れかけなのに、たったそれだけの行為で臭い物に蓋をした気分に浸ることができた。
絵を描いていた自分は遠い昔の遺産だ。綺麗な世界を夢見て、幸せな――裏を返せば夢見がちな絵を量産して製本していた。
夢だった。夢だから、終わりはあって。
気が付いたら、僕は絵が描けなくなっていた。
使用済みの冊子をポストに投函する。本日の収穫はゼロ。それどころか気分的にはマイナスだった。
一週間後、後輩が髪を切ってこなかったら酷い損失を被った気分になるんだろうな。そもそもアイツが約束を守るか分からないし。口では噂をバラまくと脅したものの、行動する勇気はなかった。高嶺の花を取り巻く陣営は強固だから。ましてや、ただでさえ友達が少ない僕が太刀打ちできるわけがなかった。
このときは後輩のことを一切信じていなかった。
だから、一週間後の午前一時半、約束通りに無人駅のホームで落ち合った彼女が約束通り、長かった髪をばっさり切ってきたときは純粋に驚いてしまったのだ。
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