テロメア

ツジセイゴウ

第1話 テロメア(短編)

 大学病院診察室。

「本当に年齢は間違いないですよねー。」

 医師は疑うような眼差しを理佐に向けた。

「どういうことでしょうか。」

 身繕いしながら、理佐はゆっくりと医師の方に向き直った。

「率直に申し上げて分からないことだらけなんですよ。血液検査の結果を見る限りあなたの体はとても二十歳の学生さんとは思えない。」

 医師はいろいろな検査数値の並んだ診断表を見ながら説明を続けていくが、理佐には何のことかさっぱり解らなかった。医師の口からは相変わらず歯切れの悪い言葉が続く。

「何と申し上げてよいか、要するにあなたの体は、もう六十歳のおばあちゃんなんです。最近の体調の不良は、そう、一言で言うと更年期障害っていうところですか……」

「えっ?」

 理佐は一瞬わが耳を疑った。一ヶ月くらいから前から体の不調が続いていた。動悸、息切れ、めまい、そして月経不順、ありとあらゆる症状が襲ってきた。それまで体に自信のあった理佐にとって全く初めての経験であった。

「とにかく普通の検査では分からないんで、検体をDNA検査検に回しておきますね。保険効かないんで少々高くつきますが宜しいですか。」

 理佐は無言のままコクリと頷いた。小野寺理佐、京都大学文学部心理学科で臨床心理士となるべく日夜勉学に励んでいた。頭脳明晰という点を除けば、ごくごく普通の女子大生であった。

 理佐は重い足取りで大学病院の受付けを出ると学生食堂の方に向って歩き始めた。初冬の京都は既に木枯らしが吹き始め、すっかり黄色づいた銀杏の葉がキャンパスに散り敷いていた。

六十歳のおばあちゃんの体、更年期障害……、先程の医師の説明が何度となく頭の中を過ぎっていく。一体どうなってしまったのか。襲い来る不安だけが重く理佐の心に圧し掛かっていた。


「やあー理佐やんか。どないしたんや、そんな鬱陶しい顔して。」

 もう少しで学食の入口というところで、よれよれの白衣を着た学生が理佐に声を掛けてきた。理佐はその声に全く気付かない様子でトボトボと歩みを進める。

「リーサ、どないしたんや。」

 声の主は、今度は理佐の真正面に立ち塞がって、理佐の顔を覗き込んだ。

「せ、先輩。」

 理佐はようやく我に返って、声の主を正視した。勇一であった。医学部の研修生で、この春たまたま精神分析学の講義で知り合った。理佐にとっては単なるアホとしか思えない相手ではあったが、その大雑把な性格が、神経質な理佐にはある時は居心地のいい癒しとなっていた。何とはなしに付き合い始めて半年、いつも人を笑わせ明るくする性格がカウンセリングにはピッタリではないかと、常々羨ましく思っていた。

「再検査だって。結果は三日後なのー。」

 理佐は力なく答えた。

「この前言うてた血液検査か?。そうか、そやったんか。」

 勇一は自ら納得するように頷いた。理佐は、そんな勇一を無視するかのように歩みを進める。

「お、おい。ちょっと待てよ。茶でも飲もうや。」

 勇一は、無理やり理佐を学食へ引っ張り込んだ。窓際の席に理佐を座らせた勇一は、そそくさとカウンターに行き、紙コップにコーヒーをなみなみと注いで戻ってきた。理佐は、そんな勇一を無視するかのように、ずっと窓の外を眺めていた。何を言っても無駄、そっとしておいて…、理佐の顔にはそう書いてあった。

 しかし勇一の性格がそれを許さなかった。落込んでいる人を見れば見るほど、無性に明るくしてやりたくなる性格が、今日はこのまま理佐を帰してなるものかという意気込みに変わり始めていた。

「全く、今日の遺伝学の講義は最低やった。DNAチップとかいうのを使うと、ありとあらゆる病気が一辺に診断できるんやてー。それもたった一日足らずやで。ほな医者は何のためにいるんやー。こりゃ医学部崩壊やー。」

 勇一は席に着くやいないや、たった今聴いてきたばかりの遺伝学の講義の話を始めた。相変わらず自分主導である。人の話を聞く前に、一方的に自分の話だけを進めようとする。何を聞いても無駄と思っていた理佐の耳は、しかし、そんな勇一の一瞬の言葉を聞き逃さなかった。

「DNAチップ?」

 理佐は急に真顔になって聞き返した。確か医者は検体をDNA検に回しておくと言っていた。ひょっとして。理佐が突然真剣な表情になって身を乗り出したので、勇一の饒舌は加速した。

「そうや。検査は簡単や。患者からとった血液をDNAチップとか言われるガラス板の上に載せる。この板にはいろいろなたん白質が埋め込まれていて、遺伝子に異常があればその部分が発光して知らせてくれるんや。医者はその結果を見て、病気を診断する。遺伝性の病気、例えばガン、緑内障、アルツハイマー、高血圧……、ありとあらゆる病気がこれ一つでわかる。今は健康な人でも遺伝子を調べて異常があれば、発病する前に予防的治療をする時代なんや。」

 医療の世界は大きく変わった。治療医学から予防医学へと変わったのである。理佐はDNA検査で体の不調の原因が分かるのではないかと期待する一方で、言い知れぬ不安を抱え始めていた。もし遺伝子に異常があったら、そしてそれが致命的な欠陥であったとしたら…。

 勇一の話はまだまだ続きそうであったが、理佐はそんな勇一を無視するかのようにフラフラと席を立った。

「お、おい。どないしたんや。ちょ、ちょっと待てよ。まだ、話が終わって…」

 勇一も慌てて席を立とうとしたが、テーブルの角にこっぴどく膝をぶつけてしまった。

「あっ、い、痛たー。」

 勇一がしかめっ面で膝小僧を押さえている間にも、理佐は学食の外へと消えて行った。


 三日後。大学病院診察室。

「ウーン。ますます分からなくなった。」

 医師は再び頭を抱え込んだ。心配そうに覗き込む理佐に、医師は軽く手招きをするようにしてコンピューターの画面を理佐の方へと向けた。画面には理佐には分からない複雑な画像が映っていた。

「ほら、これがあなたのDNAの解析図です。この端っこの部分。ここはテロメアと言って細胞の分裂を制御しているところです。細胞が一回分裂するごとにこのテロメアは少しずつ短くなっていきます。そしてやがてテロメアがなくなると細胞の分裂が停止する。つまり細胞死です。細胞死が増えるとヒトの老化が始るんです。そして個体を維持できないほどに細胞死が起きると、ついには全体死に至るのです。」

 一頻り説明すると、医師はクルリとマウスを回して、画面を元に戻した。それで……。細胞学の講義はいいから早く結論が聞きたい、それがどのような過酷な結論であろうと、このまま焦らされるよりはまだその方がまし。理佐の心臓の鼓動はこれまでにないほど高鳴った。

 医師は少し躊躇するような仕種をした後、やがて意を決したように告知を始めた。

「あなたのテロメアは細胞がもうかなりの回数分裂したことを表わしています。そう、年齢に換算すると七十歳くらい。このままだとあと十回か二十回分裂できるかどうか……。恐らく最近の更年期障害を思わせる症状は、それが原因ではないかと……。」

 医師の口からは、歯切れの悪い説明が続く。

「そ、それって、どういうことですか。」

 消え入りそうな声で尋ねる理佐の体は、最後の結論を前にしてと小刻みに震え始めていた。

「大変申し上げにくいんですが、落着いてよく聞いて下さい。あなたの寿命はあと十年、長くても十五年位ではないかと……。原因がよく分からないんで治療法も……」

 その瞬間、理佐は、目の前が真っ白になり、全身の力がふっと抜けていくのを感じた。

 どの位時間が経ったのだろう。気がついた時、理佐は診察室のすぐ隣に置かれていた触診台の上に横たわっている自分を発見した。

「先生、もう大丈夫のようです。」

 看護師の声を聞いて、先ほどの医師がカーテンを開けて入ってきた。

「お気持ちはよーく分かります。ただ、日常生活に気を付けて努力すれば寿命はいくらでも延ばせます。決して諦めないで下さい。」

 医師は静かに説明を続けるが、もう理佐の耳には何も入らなかった。茫然自失のまま診察室を後にすると、その後どこをどう歩いたのか、気がつくと母親が目の前に座っていた。


 芦屋、理佐の自宅。

「どうしたの急に。今年の冬は研究が忙しいから帰らないって言っていたのに。」

 ティーポットを傾けながら、理佐の母親は心配そうに尋ねた。昭子、理佐の育ての親である。理佐の家は芦屋の高級住宅街の一角にあった。早くに夫に先立たれた昭子は、理佐と二人っきりでこの広大な屋敷に住んでいた。最近理佐が大学に近いマンションに下宿するようになり、三十畳ほどもあろうかと思われる広いリビングルームはますます閑散としていた。洋風に造られたその部屋は南向きで、初冬の長い日差しが部屋の奥まで届いていた。昭子は静かにティーカップを理佐の前に差出した。

 理佐は、出された紅茶には一切口をつけず、堰を切ったように医者から言われた一部始終を昭子に話し始めた。テロメアとかいうのが人より短くて、それで寿命があと十年……。理佐の口から驚愕の言葉が次々と発せられる。昭子の目はみるみる釣り上がっていった。

 理佐はDNA検査を受けたことを後悔していた。予防医学か何か知らないが、こんなことになる位なら、DNA検査なんか受けなければよかった。遺伝子診断が人の運命までをも決めてしまう。そんなことがあっていいものか。理佐は自分が置かれた過酷な運命を呪った。やがて話を終えた理佐は、張り詰めた糸がプッチリと切れたように昭子の膝の上に突っ伏した。

 突然襲って来た不幸に心が動転し、昭子はしばらく理佐を抱きかかえたまま声を失してしまった。どのくらい時間が経ったのだろう、ようやく我に返った昭子は思い出したように意味不明の言葉を発した。

「やっぱり、止せばよかった。止せば……。」

 「止せば…」、一体何を?、昭子は何を言おうとしているのか。理佐は昭子の言葉に、ふと泣き腫らした顔を上げた。一瞬の沈黙が流れた後、理佐は昭子の口から思わぬ言葉を耳にした。

「すべては私たちの所為なのよ、私たちの……。二十年前の丁度今ごろだったかしら。あの日、私たちはしてはならないことをしてしまったの。」

 まだ何のことか分からないでいる理佐に、昭子はそっと付いてくるように目配せした。昭子は黙って立ち上がると、リビングルームを出て渡り廊下の方へと歩き始めた。屋敷内には、洋風の本館の他に和室の離れがあり、そこへは渡り廊下で繋がっていた。普段は鍵が掛けられていたこともあり、理佐も小さい頃から滅多に和室に足を踏み入れることはなかった。いや、ある意味、昭子はわざと理佐を和室から遠ざけていたのかもしれない。

 その和室に、昭子は今理佐を誘おうとしている。その和室にどんな秘密があるというのか。理佐はまだ乾かぬ頬を拭いながら、昭子に続いた。

 和室は十畳ほどの大きさで、庭に面した側にはわずかばかりの濡れ縁があった。外気がそのまま伝わってくるせいであろうか、部屋の中は身が縮むほどひんやりとしている。床の間の隣には大きな仏壇がしつらえてあり、昭子の亡き夫の遺影が飾られていた。みずみずしい菊の花が行き届いた手入れを表わしている。理佐の知らぬ間も、昭子はずっと夫のことを忘れたことがなかったようであった。

 仏壇の前に正座すると、昭子は静かに手を合わせた。

「あなた、もういいでしょう。理佐に全てを話します。あの子は今私たちの助けを必要としています。」

 一頻り黙とうを捧げた昭子はゆっくりと理佐の方に向き直ると、徐に話を始めた。

「理佐、あなたが私たちの実の子ではないということは、前にも話したわね。」

 理佐は黙って頷いた。確か小学校四年生の時だった。自分が昭子の子供ではなく、亡くなった親戚の人から預かったと聞かされていた。

「でもあなたの出生について、まだ大事なことを話していなかったの。」

 昭子は、理佐の反応を確かめるように話を続けた。理佐の心は揺れ動いた。自分の出生についての大事なこと、それは一体何なのか。

「あれは二十年前の今ごろだった。死んだお父さんが突然あなたを抱いて帰って来たの。あの時は本当にビックリした。お父さんはね、時々一人で旅をするのが好きな人で。あの日も前の日から白浜温泉に行くって家を出て、それがいきなり赤ん坊を抱いて帰って来たものだから。」

 理佐は目を丸くした。自分は亡くなった親戚の家の子供なんかではなかったのである。言われてみれば自分は母親にも、死んだ父親にも全然といっていいほど似ていなかった。親戚と言ってもきっと遠い遠い親戚に違いない。だから微塵の面影すらないんだろうと自分を納得させていた。それが全くの赤の他人だったとは……。何故昭子はそんな嘘をつく必要があったのか。理佐は驚きの余り、相槌すら返せないで身を固くした。

 昭子は少し躊躇するような素振りを見せたが、すぐに話を続けた。

「あなたの本当のお母さん、私たち名前も知らないんだけど、あの日白浜の三段壁から、あなたを抱いたまま飛び降りようとしていたらしいの。その時その場に居合わせたのがお父さん。本当のことを言うと、お父さんも死ぬ気だったらしいの。あの人ったら、医者から末期のガンだと宣告されて……、それで私にも言わずに死ぬ気だったらしいの。おかしいわね。これから死のうという人が自殺しようとする人を助けたんだから。」

 昭子は半ば自嘲気味にそっと目頭を押さえた。理佐は大きなショックを受けた。初めて聞く産みの母親のこと、しかもその人は自殺しようとしていた。これはただ事ではない。もしその場に死んだ父親が居合わせなかったら……、そう思うと背筋に鳥肌が立っていくのを覚えた。

「お父さんは自殺しようとするあなたのお母さんを何とか引き止めたんだって。お母さんは思い直したらしいんだけど、今度はあなたを引き取って欲しいと言い出して。よほど何か深い訳があったんでしょうね。そしたらあの人ったら、二つ返事で引き受けたらしいの。自分でも信じられないと言っていた。見も知らぬ人からいきなり子供を預かって来たんですもの。あの人、よっぽど子供が欲しかったのね。私たち結婚して二十五年子宝に恵まれなくてね。あの人、いつもすまない俺のせいだって自分を責めて……」

 そこまで話すと、昭子は突然感情を抑えられなくなって、どっと泣き崩れた。こんなことがあるものなのだろうか。生まれたばかりの子供を邪魔物扱いして、他人に預けていく母親……。どんな理由があったとしても、それは許されることではない。理佐の心の中では驚きが次第に怒りへと変わり始めていた。

「それから半年後あの人は逝ってしまった。あなたと私を置いて。ごめんなさい、今まで隠していて。でも、あの人は死に際に理佐にはこのことは話すな、あなたが悲しむ姿を天国から見るのは嫌だって、言い残して……、それで。」

 昭子は溢れる涙を抑えながら、辛うじて話を結語まで進めた。

 理佐の口に言葉はなかった。昭子を、そして死んだ父親を恨んでも詮のないことであった。いや恨むべきは自分の本当の母親。自分を捨て、一体どこで何をしているのか。無責任、身勝手、鬼……、どのような言葉を並べてみても言い足りない。理佐の怒りはやがて言い知れぬ虚無感へと崩壊していった。

 どれくらい時間が経ったであろうか。いつしか日は西に回り、障子に赤々とした夕日が映え始めた。理佐は自分の運命を呪った。二十年も前、顔も知らない母親に捨てられ、そして今また訳の分からぬ病魔に見舞われている。これが呪いでなくて何なのだ。大声で泣き叫びたい、そんな衝動に駆られ始めたその時、昭子の唇が微かに動いた。

「その時、あなたの首にこれが……」

 昭子は、そう言いながら仏壇の引出から何かの包みを取り出すと、そっと理佐の前に差出した。赤いビロードの包みはさほど大きなものではなかった。握り締めればスッポリと手の平の中に入ってしまいそうな小さな包みであった。

 これが唯一の片身?、理佐は高ぶる感情を抑えながら、恐る恐る包みを開いた。中からペンダント様のガラス片が一つ出てきた。理佐はゆっくりとガラス片を手にとって観察する。ペンダントにしてはどこか妙である。それは三センチ程の円形のガラス板のようで、片面にはわずかにザラザラとした手触りがあり、光が当ると七色にキラキラと輝いた。

「装飾品にしては少し変だけど。でもきれいなものねー。」

 理佐がガラス片をゆっくりと裏返すと、そこにローマ字で微かに「RISA」と書かれていることに気付いた。マジックインクか何かで書かれたと思われるその文字は、二十年という歳月のせいか、ところどころ消えかかっていた。

「そうそう、あなたの名前、理佐っていうのはそこから取ったのよ。お父さんが、RISAというのが多分お前の名前だろうって。」

 恐らく昭子の言うことは正しいのであろう。その自殺しようとしていたという産みの母親とやらは、既に私の名前まで決めていたのだ。それなのに私を捨てた。何故?、理佐の頭に再び怒りが込み上げてきた。理佐と昭子は、代わる代わるそのガラス片を手にとってあれこれと観察するが、結局それ以上の何も発見できなかった。


 三日後、理佐は今後のことを考えるため京都に戻った。たとえ寿命があと十年としても、今日明日どうなるというわけではない。自分に残された時間をどう過ごすべきか、大きな宿題が理佐の肩にのしかかった。

「そうか、大変やったんやな。それでこれがそのペンダントか。でもこれだけじゃなあ。」 

 十一月の京都にしては珍しく小春日和の暖かい日であった。理佐と勇一はキャンパスの陽当たりのいいベンチに並んで腰を下ろした。一部始終を聞き終わった勇一は、ペンダントを理佐に返した。

 理佐はこのペンダントに自分の出生の秘密が込められているような気がしてならなかった。装飾品にしては、どこか歪で不格好、一見して値打ちもなさそうなガラクタのように見えた。勇一の言うように、これが唯一の手掛かりとしたら、二十年の歳月を埋めるには到底事足りない。何しろ、自分の名前が「RISA」であるらしいこと以外には、全く何の手掛かりらしいものもないのである。しかし、運命の糸はまだ切れてはいなかった。

「ちょっ、ちょっと待った。」

 勇一は大慌てで理佐の手からたった今返したばかりのペンダントを取り上げた。

「あれーっ。これひょっとしてDNAチップやないか。ほら、この前話したやろ。遺伝学の講義。あの時教授が見せてくれたDNAチップに感じがよう似てるわ。でもどっか変やなー。講義で見たんはもっと小さかったでー。」

 理佐は勇一の言葉に跳び上がらんばかりに驚いた。DNAチップ?、まさか。もしそれが事実としたら、これはとんでもない片身である。自分の産みの母親はなぜそんな不可解なものを残していったのか。ひょとすると、このチップが自分の病気と何か関係があるのかも知れない、そしてそれを警告するために産みの母親は敢えてこれを片身として残したのかもしれない。理佐は、消えかかっていた灯火が微かに膨らむように感じた。

「ねえー。その遺伝学の教授に一度このチップを見てもらいましょうよ。何かわかるかもしれないわ。」

「そやなー。たまたま今日の午後、遺伝学の講義や。理佐も出たらええー。」

 二人は、はやる心を抑えながら、医学部のキャンパスへと向った。


 医学部、大講堂。

「ハイ、今日の講義はこれでおしまい。」

 教授の合図で、大教室は急に学生の声でざわつき始めた。三百人は入ろうかという大教室に学生が溢れ、今日は立ち聴講生もいた。京大の医学部だけでこんなに学生がいるはずはなく、他学部や他大学からのもぐりの学生がいるのは明らかだった。数年前までは考えられない光景であったが、今や医学を志す者は言うに及ばず、全く縁のない者にとっても遺伝やDNAに関する知識は必須となり始めていた。

 講義が終わっても質問攻めは続く。教授は嫌な顔一つせず丁寧に応接していた。しばらくして学生の列が途切れた頃を見計らって、理佐と勇一は教授の前に立った。

「あのー、ちょっと見て欲しいものがあるんですが。」

 理佐はペンダントを差し出した。教授は一瞬怪訝そうな顔をして見せたが、すぐさま一心にガラス片を観察し始めた。頻りとチップを観察し終えた教授は驚いたように呟いた。

「随分と珍しいものを持ってるね。これ確かにDNAチップだよ。でも今じゃこんな年代物は使わないね。これは私がまだ助手をしていた頃に使っていたものだよ。」

 自分の勘が当ったこともあってか、勇一は嬉しそうに顔を崩すと胸を張って見せた。

「そうです。これは少なくとも二十年は前のものです。理佐が生まれたときからずっと持っていたんですから。」

 それを聞いた教授のこめかみがピクリと動いた。

「二十年?、それはまたまた驚きだ。二十年前じゃ本学でもこんなものは無かったはずだ。当時、これを使っていたとすれば、ケンブリッジ大学の遺伝子工学研究所かハーバード大学のDNAセンターくらいだろう。当時、DNAチップはまだ臨床実験段階でね。こんなに幅広く使われ始めたのはほんのここ数年のことだよ。私も喉から手が出るほど欲しかったがね、値段もさることながら、日本じゃ手に入れることすら難しかった。でも本当に不思議なものを持っているね。」

 教授は頻りと首を傾げながらチップを理佐に返した。ペンダントが勇一の推察通りDNAチップであったことが判明した。しかし、謎はまたしても大きくなった。二十年前には日本に存在していなかったはずのものが、なぜ芦屋の家の仏壇の中に。このチップを残した理佐の実の母親は一体どういう人物だったのか。二人は、チップに秘められた秘密の大きさに底知れぬものを感じつつ、大教室をあとにした。


「ロンドン行きJAL四○二便にご塔乗のお客様はゲートナンバー五一番へお進み下さい。」

 関西空港の出発ロビーにアナウンスの声が響く。理佐と勇一は塔乗券を握り締める手が固くなるのを覚えながらゲートへと急いだ。DNAチップの謎を解明するにはとにかくケンブリッジかハーバードに行くしかない。二人は迷わずケンブリッジを選んだ。ケンブリッジの遺伝子工学研究所は世界初のクローン羊メリーを生んだことであまりに有名である。遺伝子工学の先駆的役割を果たしたこの研究所は今日でもこの分野では世界の最先端を歩んでいた。

 初めての海外旅行、そして行く先はイギリスのケンブリッジ。楽しい卒業旅行になるはずのところが、今の理佐にとってはまさに死活を制する重大な旅になってしまった。原因不明の更年期障害を抱えた理佐にとって、十二時間のフライトはとてつもなく長いものであった。理佐は黙って毛布に包まり、頭を座席シートにもたれかけさせた。理佐を気遣う勇一は、さすがに言葉数も少なく、そっと理佐の肩を抱いて浅い眠りを繰り返していた。

 ロンドンで一泊した二人は、翌日ケンブリッジに向った。冬のイギリスは暗い。朝八時過ぎに夜が明け、午後三時ともなるともう薄暗くなる。丁度その日も、今の理佐の心底をそのまま映し出したかのように、朝からどんよりとした雲が垂れ込め、時折風花の舞う寒い日であった。

 ケンブリッジはロンドンから約一時間内陸に入ったところに位置している。海に近いロンドンに比べるとさらに寒さが増す。二人はコートの襟を立てながらケンブリッジの駅に降り立った。優に百年以上は経っていると思われるレンガ作りの建物、薄らと雪化粧した石畳の通りが、いかにも古い学究の街という雰囲気を醸し出している。二人は地図を頼りに遺伝子工学研究所へと急ぐ。レンガ作りの建物が途切れる当たりに水路があった。夏はパント(ボート)遊びで賑わうこの水路も、今は寒々とし、係留されたパントにも薄っすら雪が降り積もっていた。

 その水路にかかった石造りの橋を渡ってさらに先へと進むと、ようやく目的の建物らしきものが見えてきた。

「あっ、ここや。理佐、ここやで。」

 ロンドンを出て初めて勇一が口を開いた。勇一が指差す先には、近づかないと見えないような小さい字で「Institute of Genom Engineering(遺伝子工学研究所)」と書かれた表示板があった。これが世界的に有名な遺伝子工学の研究所かと思わせる程みすぼらしい外観に、二人は思わず顔を見合わせた。大体ここイギリスではどこへ行っても看板という類のものは滅多に見ない。余程注意して行かないと見過ごしてしまう。

 入り口の古ぼけた回転ドアを入ると、しかし、中は外の寒さとは打って変わって暖かであった。正面にしつらえられた年代物のレセプションデスクは黒光りがするほどに磨かれ、今では珍しくなったチェーン付き眼鏡をかけた初老の女性が座っていた。

「イズ ジス チップ ユアーズ」

 勇一は、例のチップを見せながらいきなり片言の英語で尋ねた。

「エニィ アポイントメント?」

 眼鏡越しに上目遣いにジロリと勇一を一瞥した受付の女性からは、その顔に似つかわしい無愛想な返事が返ってきた。

「ウィ アー フロム ジャパン。ウィ アー サーチング、えーっと。」

 勇一は何とか知っている単語を並べて話そうとするが…。

「イクスキューズ ミー。ドゥー ユー ハブ エニィ アポイントメント?」

 今度は、さらにムッとしたような答えが返ってきた。

「アポ?、アポイント…って、何や?」

 勇一はそこから先に進めなくなり途方に暮れてしまった。

「ウィ ドント ハブ アポイントメント。ウィ ジャスト ルッキング フォー…」

 今度は理佐が受け答えしようとするが、すぐに言葉に窮してしまった。やはり二人だけでいきなりケンブリッジに来るのは無謀な試みだったのかもしれない。そもそも英語すらままならない上に、話の中身が何とも複雑すぎる。二人が身振り手振りで何とか意思疎通を試みようとするものの、受付女性のテンションは高まるばかりであった。


「ワッツ ザ マター?、サムスィング ロング?」

 受付での騒ぎを聞きつけて、一人の初老の紳士が奥の扉を開けて出てきた。その紳士は、一言、二言、受付の女性と言葉を交わしていたが、突然二人の方に向き直った。

「どうかしましたか。お手伝いしましょうか。」

 天の助け?、全く予想だにしていなかった日本語に一瞬二人は言葉を失った。しかし、すぐさま二人は、堰を切ったように自分たちがこの研究所に着た目的を話し始めた。

「まあまあ落着いて。私、スチュアートと言います。昔日本に留学してたことありました。日本語はその時に少々…。今は、ここの研究所の教授と副所長してます。」

 理佐が差し出したチップを注意深く観察していた教授は、驚いたという仕草で眼鏡の縁に手を当て、さらに食い入るようにチップを覗き込んだ。

「これ、間違いなくこの研究所のものです。ほら、ここ見なさい。」

 そう言いながら、教授はチップの背の部分を指し示した。そこには極最小の字で「R14690」と刻印されていた。虫眼鏡か何かで見ないと分からないほどの小さな文字である。二人は代わる代わるチップを手にとって光にかざしながらその字を確認した。

「昔、といっても二十年程前のことです。まだDNAチップがとても貴重品だった頃、この研究所ではそれが不正に使われないよういつも番号とってました。90というのは1990年、そしてRが使ったセクション、146がこのチップの番号です。でも不思議ですね。これが何故日本に、そしてまたどうしてあなたの手に…」

 尋ねられて、今度は理佐と勇一が顔を見合わせた。チップの出所は今明らかになった。しかし、教授の言うように何故そのような物が、遠く日本に、そしてまた理佐の手に。あまりにもかけ離れた話に、二人は返す言葉を失った。重苦しい沈黙が続いた後、

教授は、付いて来いとばかりに黙って目配せした。

 教授は、すぐさま受付の隣のドアにカードを挿入すると、キーパッドにいくつか暗証数字を打ち込んだ。ピッという電解錠の外れる音がしたかと思うと、ドアは両側にスッと開いた。建物自体は大変古く見えるが、中は最新式のセキュリティーシステムで管理されているようであった。二人は恐る恐る教授の後に付いて、研究所の奥へと進んだ。研究所の中は比較的新しかった。長い廊下の両端にはいくつもドアが並んでいる。それぞれが独立した研究室のようであった。この各部屋で世界中の優秀な科学者が日夜研究に励んでいるのかと思うと、二人は思わず胸の高鳴りを覚えた。やがて廊下の端に来ると、教授は再びセキュリティーカードを使って、ドアを開けた。

 そのドアを抜けると、三人は広いホールのような場所に出た。ホールの中央には、一段い台の上に一体の羊の剥製と、そしてそれを取り巻くようにいくつかのパネルが展示されていた。教授は、ここでしばら待つようにと二人に指示すると、さらに奥の部屋へと消えて行った。

 五分ほどが経過した。待つ身は長いとはまさにこういうことを言うのであろう。理佐は教授が消えて行った扉をじっと見つめて、ため息を吐いた。

「理佐、これ、メリーや、メリーやで。すごい、すごいなあ。」

 その時、イライラを紛らわせるかのようにパネルを覗き込んでいた勇一が声を上げた。

「メリーって?」

「何や、知らんのか。世界初のクローン羊メリーや。この前遺伝学の講義で先生が話しとった。」

「ク、クローン?」

「そや、クローンや。クローン言うたら…」

 と説明しかけて、しかし、勇一はすぐさま言葉に詰まってしまった。遺伝学の講義で聞いた時は解ったつもりでいたものの、いざ人に説明するとなると存外難しい。勇一が次の言葉を探しあぐねていた丁度その時、奥の扉が開いた。

「今、あのチップを使った人を調べるよう言いました。すぐ分かると思います。」

 教授がニコニコしながら戻ってきた。たった一片のあの小さなチップ、しかも二十年も前のものを誰が使ったかすぐに分かるというのである。二人はその厳重な管理に、只ならぬものを感じた。

「当時、DNAチップはとても大切なものでした。それで使うときはいつも誰が、いつ、何のために使ったのかレコードしてました。今はもうそんなことはしませんけど。」

 教授は付け足すように説明した。理佐は、ほっと嘆息を洩らした。はるばるケンブリッジまで来てよかった、少なくとも誰が使ったのかはここで分かるはずである。そして、ひょっとすればそれが自分の出生の秘密にどうかかわっていたのかも。

 そんな二人に、教授は軽く手招きした。

「ほら、これ見なさい。あなたたちも世界初のクローン羊メリーのことは知っているでしょう。当時は大変な騒ぎでした。子供は卵子と精子が受精して初めて産まれるという世の中の常識を覆したのですから。世界中から毎日のようにマスコミの人達がこの研究所に来たそうです。」

 教授はゆっくりと中空を見据えながら、自慢気に話し始めた。

「このクローン羊メリーは、母親の乳腺の細胞を培養して作られた完全なコピーなのです。ですからそのDNAは当然、親と全く同じ。いや正しくは親でも子でもないのかもしれません。自分自身のコピーなのですから。」

 そう言いながら、教授はパネルに手を触れた。オレンジ色の光が点灯し、メリー生成の過程を説明するイラストが現れた。来訪者に説明するためのものであろう、図や写真を数多く取り入れて説明されているが、難しい英単語が並んでいて二人には全然何が書いてあるのか分からなかった。教授はそれを察してか、出来る限り平易な言葉を使って、ゆっくりと説明を続ける。

「普通、卵子と精子が受精すると細胞は分裂を始めます。一個が二個に、二個が四個に、そして八個にというように。やがて何万、何億という数に成長をすると、細胞はいろいろな器官に分化を始めます。ほらあなたの体、目や耳、手、心臓も、もとはと言えば同じ一個の受精卵から出発しているのです。」

 教授は、次のパネルへと進む。

「同じ細胞が違うものに分化する過程でDNAが関係します。DNAは体の設計図の役割を果たします。たとえば、皮膚になる運命を背負った細胞は、皮膚の設計図に当る部分だけスイッチをオンにし、他の設計図のスイッチをオフにして分化を始めます。こうすることによって皮膚が間違って心臓になったりすることはありません。同じように、体のどの部分の細胞も自らに与えられた役割にしたがって、スイッチをオンにしたりオフにしたりしてそれぞれの機能を果たすべく成長してゆくのです。ですから、一旦皮膚になった細胞は二度と心臓を作る細胞にはなれないと考えられていました。」

 二人は、なるほどとばかりに頷きながら教授に付き従う。

「ところが、私たちの研究所はある状況下で一定の電気刺激を与えると、このオフになっているスイッチが全てオンの状態に戻ることを発見しました。つまり私たちの体のどの部分の細胞を使っても私たちの体全体が再生出来ることが分かったのです。その変化は特に乳腺細胞という特殊な細胞で顕著に現れました。私たちは、羊の乳腺細胞を取り出し、別に採取した卵子の核とを入れ替え、電気刺激を与えました。すると驚いたことに、この乳腺細胞はそのまま分裂を始めたのです。まるで全く新しい一個の受精卵のようにね。私たちはその卵子を羊の子宮に戻しました。そしてメリーが誕生したのです。」

 二人は、クローン羊誕生の秘話を目の当たりにして目を丸くした。自分と全く同じDNAを持つ子孫がいること自体が大変不思議なことであった。それは果たして、自分の子供なのか、自分自身なのか、はたまた自分の分身なのか。二人があれこれ思いを巡らせていると、教授は意外な話を続けた。

「でも、クローン技術は私たちの予想を超える反響をもたらしました。もしこの技術がヒトに使われたら何が起こるか。ヒトラーの複製が一杯出来るという人もいました。宗教界からも神の領域に手を付けるものという批判が起きました。この研究所でも倫理委員会が設立され、クローン技術の利用は厳しく監視されることになったのです。」

 先ほどまでにこやかなだった教授の表情が急に険しくなったのを感じ取って、理佐と勇一は体を強張らせた。二人は科学の進歩がもたらす新たな問題に、複雑な面持ちで教授を見つめた。

 丁度その時、一瞬の重苦しい緊張を破るかのように奥の扉が開き、一人の女性が古ぼけた黒カバーのノートブックを手にして現れた。ポストイットでマークされたページを開くと、確かに「R14690」という数字があった。そのラインを右に辿っていくと、「Date(日付)、1990.2.20」、「User(使用者)、Brown/Shiina Lab(ブラウン/シイナ研究室)」、「Purpose(目的)、DNA Activation Test(DNA活性化テスト)」、というインク書きの記録があった。理佐の目は、一瞬その「User」というところに注がれた。

「このシ・イ・ナというのは、日本人の名前のようだけど……」

 教授は帳簿を手にすると、眼鏡を外してノートの記述を確認した。

「このブラウン/シイナ/ラボと書いてあるのは、ブラウンとシイナという名前の研究員が所属していた研究室のことですね。今もそうですが、この研究所では各研究室に所属する研究者の名前をレジスターしています。多分、パーソネルで調べればどういう人だったかわかると思います。」

 そう言うと、教授は二人を研究所のさらに奥へと案内した。人事課は先ほどのホールを挟んで研究棟とは反対側の棟にあった。

「大丈夫です。パーソネルは当研究所に勤務した研究員のファイルを全てストックしています。どんなに古いものでもです。」

 教授は先ほどの険しい表情を崩して微笑んだ。理佐と勇一の胸の鼓動は一気に高鳴った。ついにこのDNAチップの持ち主だった人物、そして恐らく理佐の産みの親であろうはずの人物が明らかになる。一体、どういう人だったのか、そして今どこで何をしているのか。わずかの時間が無限の時間のように感じられた。

 程なく一冊の古ぼけたファイルを手にした女性が戻ってきた。分厚いファイルに閉じ込まれた人事カードはところどころ色褪せ、インクの匂いがかすかに漂っている。示されたページには、以下の情報が記されていた。

「Name(氏名):Hatsue Shiina(椎名初江)、Nationality(国籍):Japan(日本)、Birth Date(生年月日):1954/5/27、Career(前歴):Tokyo University, Faculty of Medicine(東京大学医学部)、Qualification(資格):Vice Senior Researcher(副主任研究員)、Period(在籍期間):1989.4.5〜1990.11.30」

 ファイルを見つめながら、理佐は胸を打つ鼓動の音が耳の奥まで届くのを感じていた。DNAチップの所有者であったとみられる女性の名は「椎名初江」といい、かつて東京大学医学部から副主任研究員としてこの研究所に派遣されていたという事実が今明らかになった。一方の、ブラウンという人物はこの研究所のプロパー研究員で一九八○年から約十年間この研究所に在籍していた。

 理佐が気になったのは、このブラウンという人もほぼ同時期にこの研究所を去っていたという点である。恐らく、二十年前この二人に何か重大なことが起こり、それがゆえに研究所を去ることを余儀なくされたのではないかと理佐は推測した。

「残念ながら、二人が今どこにいるのか分からないと言っています。」

 教授は申し訳なさそうに二人に言った。理佐は再び大きな壁にぶち当たったと思った。チップの所有者らしき人の名は分かったものの、今その人がどこにいるのか、はたまたまだ生きているのかすらも分からない。理佐は、二十年という歳月の重みをずっしりと感じ取った。

 二人は沈痛な面持ちで、教授にお礼を言うと研究所を後にした。外は相変わらず陰鬱な雲が垂れ込め、冷たい風に乗って再び風花が舞い始めていた。


 日本に戻った理佐と勇一はすぐさま「椎名初江」という人物を尋ねて東京大学へと出向いた。

「ですから、何度も言うようですが、そういう方は本学にはもう在籍されていません。二十年前に退職された扱いとなっています。」

 官房人事課と書かれた窓口の向こう側からいかにも官僚らしい杓子定規な言葉が返ってくる。向こうもやや高揚してか、人気のない廊下にまでその甲高い声が響いている。

「それでしたら、せめて今の住所だけでも知りたいのですが。」

「それも、分かりません。その後の記録は何もありません。」

 という声と同時に、今度はパシッと小窓を閉める音が廊下に響いた。二人はついに断念して入り口の方へと踵を返した。確かに椎名初江という人物が二十年前まで在籍したという事実だけは確認できた。しかし、これだけでは何の手掛かりにもならない。やはりこのチップの持ち主を探し出そうということ自体が無理な話なのかもしれない。

 二人は絶望の淵に沈みながら出口の扉に手を掛けた。とその時。

「椎名君、椎名君じゃないか。」

 最初二人は自分たちが呼ばれているとは気付かなかった。その声は、廊下の向こうの方から聞こえてきた。

「やっぱり椎名君だ。本当に久しぶりじゃないか、一体どこで何をしていたんだ。」

 声の主は近づいて来るなり、さらに同じことを繰り返した。見ればその人物はもう六十歳に手が届こうかという初老の人で、薄汚れた白衣の胸ポケットには佐伯という胸章がピン止めされていた。

「私は小野寺理佐といいますが。ひょっとして椎名初江という人をご存知なのですか。」

 理佐の声を聴いてようやく、その佐伯という人物は落胆した様子で答えた。

「そうだな、そう、そう。もし椎名君だとしても、もう五十過ぎのはずだ。こんな若い娘さんじゃないな。それにしても、まあよく似とるなあ。」

 理佐は、すがるように尋ねた。

「実は、今私たちその人を探しているんです。その人のこと、ご存知でしたら何でもいいんです。教えて下さい。」

「知ってるなんてもんじゃない。椎名君は僕の一番弟子だった。それが二十年前突然失踪しちゃって。あの時は本当にショックだったよ。」

 運命の糸はまだ繋がっていた。この白衣の人物が何かを知っているに違いない。理佐の胸の中で消えかかった灯火が再び灯り始めた。

 やがて佐伯という人は自分に付いて来いとばかり目配せした。二人はしばらく顔を見合わせていたが、やがて小走りに後を追いかけた。三人は入り口を出ると、すぐ隣の古びた赤レンガの建物へと向った。師走のキャンパスを吹き抜ける風はもうすっかり冬の訪れを告げるものであった。三人は身をすくめるように入り口を通り抜けた。

 「医学部研究棟」という看板が掲げられたその建物の中は、板張りの廊下が長く伸びていた。延々と廊下を下っていくとやがて大理石の階段に出た。三人は階段を二階へと上る。上階はやはり同じように長い廊下となっていたが、閑散としていた一階とは全く違ってあちこちに雑然と物が置かれている。分厚い医学書と思われる書籍、薬品の瓶と思われるガラス瓶、古い医療器具のような機械、等々が通路をふさいでいた。

 黒地に白抜きの字で「○○教授」と書かれたプレートの掲げられた部屋が続く。やがて三人は「佐伯教授」と書かれた部屋の前に辿り着いた。ここで理佐と勇一は初めて、この白衣の人が医学部の教授であったと知った。道理で横柄な物言いである。二人は妙に納得した。

 佐伯教授は、二人を自らの研究室に導き入れた。研究室の中は外の廊下よりもさらに混乱していた。天井まで届くか思われるほどうず高く積み上げられた専門書、そしてガラス戸棚の中には、内臓のような薄気味悪い肉片の入ったホルマリン漬けの瓶がいくつも並んでいた。

「いやー。すまんすまん座る場所もないなー。」

 教授は高らかに笑いながら、近くにあった椅子の上の埃をパンパンと平手で払うと、座れとばかり二人に椅子を差し出した。二人が座るのも見届けず教授は先ほどの話の続きに入った。

「いやー、似てますかなんてものじゃない。瓜二つだ。その涼やかな切れ長の目、締った口元なんかそっくりだ。それで、小野寺さんとか言ったかなー、君は椎名君とはどういう関係…」

 理佐は唐突に尋ねられて答えに窮した。どういう関係というのは、自分の方から聞きたいくらいである。理佐は一瞬ためらったが、これまでのいきさつ、DNAチップのこと、最近の体の不調、そしてケンブリッジで見聞きしてきたこと等を順序立てて話した。理佐が話している間も、時々頷きながら聞いていた教授は一頻り聞きおわると、すっかり真顔になり話し始めた。

「そうか。そうだったのか。さっきも話したが、この椎名初江君というのは僕の一番弟子でね。当時私がまだ助教授だった頃、彼女は助手として一緒に働いてたんだよ。本当に優秀でね。彼女の能力は本学でも一目置かれていた。そんなこともあって、あれは二十年以上も前のことだ、ケンブリッジ大学との交換研究員に彼女が選ばれたのさ。僕は鼻が高かったよ。本当に自分のことのように喜んだ。何しろ教え子が、世界的な遺伝学の権威であるあの研究所に行くことになったんだからね。彼女も喜んでいたよ。世界の一流の研究者と肩を並べて勉強できるってね。」

 教授はそこまで話すと、ゆっくり立ち上がってポットからコーヒーを注ぐと、理佐と勇一の前にカップを無造作に置いた。そして自分はというと、縁の欠けた巨大なマグカップに並々とコーヒーを注いだ。

「最初は一年という約束だったが、先方に請われてもう一年滞在が伸びた。そしてその任期も終わろうとするその年の暮れ頃だったよ。研究所から突然彼女が失踪したという連絡が入ってね。驚いたよ。私も何度となく研究所に問い合わせたが、歯切れが悪くてね。何でも彼女の研究を巡って、研究所内でトラブルがあったらしいんだ。向こうにも事情があったんだろう、最後は一方的に除籍通知を送ってきたよ。彼女は本学にも戻らず、それから随分と探したんだが、結局分からず仕舞いでね。あの時は本当にショックだったよ。」 

 教授はそこまで言うと深いため息をついた。理佐と勇一もガックリと肩を落とした。またしても手掛かりがプツリと途切れた。期待が大きければ大きいほど、その後の落胆も大きい。三人は顔を突き合わせたまま押し黙った。

 理佐の勘は当っていた。やはりケンブリッジで何かあったんだ。それで椎名初江は行方をくらました。いや正確には、もうこの世にはいないのかも知れない。何しろ二十年前にも自殺を試みた人物である。生きていると考える方が不自然なのかもしれない。

 相変わらず、重苦しい沈黙が続く。教授は胸の前で腕組みをしたまま、しきりと何かを考える仕草をしている。理佐はというと、両手を組んでその上に額を当てて蹲っていた。一人勇一だけが、件のチップを手の中でいじくり回していた。

「ホンマ、けったいな話やなあ。その椎名さんとかいう人、何でこないなもん残して行きよったんかなあ。」

 その時である。教授がはっしと膝を叩いた。

「そうだ、それだ。そうだよ、チップだよ。」

 教授は勝ち誇ったように高らかに声を発した。二人が訳が分からず、顔を見合わせている間にも、教授は勇み込んで勇一の手からチップを取り上げた。

「DNAチップだよ、君たち。椎名君がわざわざチップを君に残したということは、何かを伝えたかったんじゃないかな。普通はあんなもの片身として残さないよね。敢えてあれを残したのはきっと何かあるんだ。」

 教授はすぐさま、取り上げたDNAチップをデスクの脇にあった顕微鏡のような機械に装着した。そして双眼鏡を覗きながら、器用に右へ左へとレバーを操作し始めた。

「えーと。呼吸器系に少しアノマリーが見られる。消化器系、循環器系は大丈夫そうだな。この組み合わせは、気管支喘息、肺ガンが危ない。」

 教授は独り言を呟くように診断を続ける。理佐は勇一が話していた遺伝学の講義を思い出しながら聴いていた。本当にこの小さなガラス片でいろいろなことがわかるものなのだ。一体初江はこのチップで何を理佐に伝えようとしたのか。

 一頻りレバーを操作していた教授の手がハタと止まった。

「うーん、これはかなり重症かもしれん。アルツハイマーの兆候がはっきり出ている。」

 そう言うと、教授は二人にも覗いてみろというように手招きをした。理佐が恐る恐る双眼鏡を覗くと、規則正しく碁盤の目のように緑色のドットが並んでいるのが見えた。ところどころ黄色や橙色に色が変わっている。この色の違いが病的に欠陥のある遺伝子の部位を指し示しているのだということは直感的に推測できた。その中でひときわ赤く輝く点が見えた。

「ほら、その赤いドット。ここはβ―5領域といって神経系の遺伝情報を診断するエリアだが、赤い色は明らかにアルツハイマーの素因を示している。つまりこのDNAの持ち主はかなりの確度でアルツハイマー病にかかる可能性があるということだ。」

 理佐はハッとした。アルツハイマーは脳細胞が次第に死滅し、脳が萎縮して起こる恐ろしい病気である。この病気にかかると、最初は軽い痴呆から始り、やかて全身の運動機能も侵されて、ついには死に至る。早期発見により進行を遅らせることは出来るが、未だ完全な治療法が確立されていない難病である。

「仮に、仮にだ、このDNAの持ち主が椎名君自身だとしたら、その子供にも当然にアルツハイマーの素因が受け継がれる。彼女はそのことを知っていて、敢えてこれを君に残したんじゃないかな。警告の意味も込めてね。」

 理佐は、なるほどと思った。昔は髪の毛を片身として残す時代もあった。科学が進歩した今の世の中であれば、DNAを片身として残してもおかしくはない。それは、ある意味、親から子への重要なメッセージであるのかもしれない。教授の声に促されるように、今度は勇一が双眼鏡を覗く。

 しかし、教授は一体こうした病気診断をすることで何をしようとしているのであろうか。席に戻った理佐は教授の説明に頷いて見せたが、まだこの情報が初江探しにどう役に立つのか測りかねていた。DNAチップを調べることで罹りやすい病気があることが判明した。ただ、それ以上の何もない。このチップをいくら覗いていても、初江に近付く手掛かりにはならない。理佐の心の中はまたしても沈鬱な気持ちに覆われ始めた。ところが、一方の教授はというと、無精ひげが少し伸び始めた顎をさすりながら、ニヤリと微笑んでいた。

「さてと、もし君が椎名君だったら、どうするかね。座してアルツハイマーが発病するのを待つかね。それとも…。筑波大学付属の国立遺伝病研究所は世界的なアルツハイマー病の権威でね。」

 理佐はようやく教授が何を考えているのかが分かりかけた。

「もし椎名君が未だ存命なら、間違いなくあそこの門をたたくと思う。研究のためではなく、自らの治療のためにね。」

 理佐は、慌てて時計の針を見た。今から筑波に行けば、今日中には初江の居場所が分かるかもしれない。たとえ無駄足でもいい。可能性があるのなら、一刻も早く結論を知りたい。たとえそれがどのように過酷な運命であっても。

「おっと、どうするつもりかね。直に行っても門前払いだよ。患者個人の情報はプライバシー保護のため、簡単には外部の者には教えないことくらい、君たちも知ってるだろう。」

 席を立ちかけた二人はヘナヘナと元の椅子に腰を下ろしてしまった。

「乗りかかった船だ。僕が紹介状を書こう。あそこの研究所の吉本君は僕の教え子でね。きっと力になってくれる。その代りだよ、もし椎名君の居場所が分かったら僕にも知らせてくれ。彼女には今一度会って話がしたい。昔のこともね。」

 そう言うと、教授はうず高く本の積まれたデスクに顔を埋めた。しばらく筆を走らせていた教授は五分も経たない内に紹介状を書き終えると、四つ折にして白封筒に突っ込んだ。

「明日、僕からも吉本君に電話を入れておくから…。」

 二人は丁重に教授にお礼を言うと、研究室を後にした。


 JR常磐新線が開通して後、筑波は東京からは一時間足らずの距離となった。二人は新しく出来た瀟洒な筑波市中央駅からタクシーを拾って一路国立遺伝病研究所を目指す。研究所は広大な筑波大学のキャンパスの一角にあった。

 キャンパスの中は教室から教室へと移動する学生たちの自転車で溢れていた。誰が始めたのか、この広大なキャンパスを動き回るには自転車が一番安くて便利である。タクシーはそうした学生たちの自転車を次々に追い越して走ると、やがて国立遺伝病研究所に着いた。この研究所は五年ほど前、遺伝性難病の臨床研究をするため国が設立したもので、今では世界的に有名な研究所の一つに数えられていた。

 近代的な建物の正面玄関を入ると、すぐに受付があった。二人が行き先を告げると、研究棟は隣だと指示された。どうやらタクシーは外来棟に着けてしまったらしい。この研究所は単に研究だけでなく、幅広く一般の外来患者も受け付けていた。数多くの症例研究をすることが目的であったが、一般の病院で医師から匙を投げられたような重篤な患者が、最先端の治療を受けるためにこの研究所を訪れていた。

 車椅子に乗った人、目の不自由な人、痴呆症と思われる人、ありとあらゆる患者が、ある者は杖を突き、またある者は家族に付き添われて静かに廊下を行き交う様を見て、理佐と勇一は胸が痛んだ。医学の進歩は人々を病気から救うものなのか、あるいは人々を更なる苦しみに誘うためのものなのか。

 研究棟へは渡り廊下で繋がっていた。暖かい陽光が差し込むガラス張りの廊下からは静かな田園風景が広がるのが見えた。あの患者たちはこの渡り廊下をどのような思いで通っていくのであろうか。遺伝性の病気をもって生まれたことを怨んで絶望の淵に向うのか、あるいは病気が平癒したことを喜んで戻って来る人もいるのであろうか。理佐と勇一は、これから医療に携わって行く者として複雑な思いでこの廊下を踏みしめて歩いた。

 研究棟の受付は外来棟に比べて人通りも少なく、廊下を通る足音だけがこだました。二人が受付で面談相手の名を告げると、すぐにカウンセリングルームへと案内された。殺風景なその小部屋は中央に置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに椅子が四脚置かれていた。ここで何人の人が不治の宣告を受けて涙したのだろうか。重苦しい空気が漂う中、二人は押し黙ったまま待ち続けた。

 十分程待ったであろうか。三十代半ばくらいの医師らしい人が入ってきた。

「いやー、お待たせしました。まあそのままどうぞ。」

 その人は、立ち上がろうとする二人を制するように、自らもそそくさと席に着いた。

「吉本といいます。今朝、佐伯教授から電話をもらいまして、大方のご事情はお伺いしました。本来なら患者個人の病気に関するデータはお話することが出来ないんですが、教授の紹介でもありますし…」

 吉本医師は、話を続けながら、カルテをテーブルの上に差し出した。

「調べて見ましたが、やはり椎名初江さんという患者さんが一年ほど前当研究所に来院されていました。」

「ほ。本当ですか…」

 青白かった理佐の顔に朱が点した。やはり教授の勘は当たっていた。椎名初江は恐らく「自らの治療のために」ここを訪れたに違いない。ついに、ついに探し求めていた人物に巡り会える時が来た。あと一息。

「DNA検査の結果、ご推察の通りアルツハイマーの素因が見られましたが、診察の結果まだ症状も出ていませんでしたので、とりあえず経過観察するということになったようですね。」

 吉本医師はさらに説明を続ける。よかった、まだ発病はしていない。理佐はホッとした。

「それで連絡先は分かりますでしょうか。」

 理佐は、差出された来院カードに記載された住所と電話番号を素早く書き取ろうとするが、興奮の余り手が震えてなかなか書き写せない。左手を脇から添えてようやくメモ帳に転記した。

 住所は大阪府門真市となっていた。京都とは目と鼻の先である。こんなに近くにいる人を見つけ出すのに何と遠回りして来たことか。理佐ははやる心を抑えつつ、お礼の言葉もそこそこに廊下に出ると、すぐさま持っていた携帯電話のボタンを押した。

 しかし、理佐を待っていたものは冷たい応答音であった。

「お架けになりました電話番号は只今使われておりません。今一度電話番号をお確かめの上…」

 理佐は必死になってボタンを押すが、何度やっても同じ音声が繰り返されるばかりであった。何ということであろう。一縷の望みがまたしても無残にも打ち砕かれた。

 理佐は呆然として立ちすくみ、そのまま崩れ落ちるように床に倒れてしまった。


「かなり抵抗力が落ちていますね。更年期障害に加えて、このところの無理と心労がたたったのでしょう。とにかく今は安静にして休息を取られることですよ。」

 診察を終えた吉本医師は、勇一に一言二言声を掛けると静かに病室を出ていった。その後姿に深々と頭を下げた勇一は、振り返ると心配そうに理佐の顔を覗き込んだ。

 理佐の細い腕には点滴の管が繋がれ、理佐は静かに眠っていた。無理もない。いきなり余命あと十年と言われ、その重圧を背負ったまま、イギリスへ、東京へ、そしてまた今筑波へと転々として来た。理佐は、もう心身ともに疲弊しきっていた。

 勇一はそのまま一晩理佐に付き添って、病室の中にいた。師走の長い長い夜が明け、部屋に寒々とした朝日が差し込み始めた。目覚めた理佐の目に一番に映ったのは、傍らの椅子に腰掛けたままうつらうつらしている勇一の姿であった。一晩中看病してくれていたのだと理佐はすぐに気付いた。起き上がろうとした理佐に、勇一はハッと気が付いた。

「もう、ええんか、起きても。」

「ええ。大丈夫そう。夕べは夢を見ていたようだわ。夢の中の私はまだ子供だった。見たことも行ったこともない場所をただひたすら一人で歩き続けているの。そのうち遠くで理佐、理佐と呼ぶ声がするの。でもその声の主が誰だか分からない。その内真っ暗な闇が迫って来て、もう怖くて怖くて…」

 理佐の目尻には乾いた涙のあと型があった。


 大阪府門真市。

「大阪のことやったらまかしといてー」

 勇一は理佐の手を引きながら胸を張って先を歩き始めた。二人は椎名初江が住んでいた住所を訪ねて門真駅に降り立った。

 門真は大阪のすぐ隣で、住宅や町工場が密集する街であった。バブルの崩壊後多くの町工場が倒産し一時はかなり寂れた空気が漂っていたが、最近近くに新しい工業団地「バイオゾーン」が完成した。その後多くのバイオテクノロジー関係の会社が進出し、街は次第に活況を取り戻し始めていた。二人は地図を片手に駅から歩いて目的地を目指した。

「おかしいなー。この辺のはずやけどな。」

 勇一は突然立ち止まると、途方に暮れたように地図を見直した。先ほどの威勢のよさはすっかり消え、小さな路地をウロウロと行ったり来たりした。周囲は木賃アパートが点在する住宅地で、およそ世界に名を馳せた医学者とは縁の遠そうな所である。二人はもう一度住所を確認したが、確かにこの辺りに間違いがなさそうである。

 さらにウロウロすること二十分、二人はようやく目的地と思しきアパートの前に辿り着いた。消え入りそうな字で「松葉荘」と書かれているのを確認した二人は、信じられないという面持ちでその古アパートを見上げていた。初江はここで一体何をしていたのだろう。

 目指すは二階の二○二号室である。錆の浮いた鉄製の階段を恐る恐る二階へ上がろうとした二人は、突然ゴーという振動に跳び上がった。続いてゴトンゴトンという列車が通過する音が周囲に響き渡る。アパートのすぐ向こう側は線路であった。電車は二〜三分置きに引っ切りなしに通過する。その度毎にカンカンと鳴る警報機の音が、この付近一帯の侘しさを代弁しているかのようであった。

 しかし、問題の二○二号室の扉には、「空き室あり」との貼り紙がしてあった。予想通りであった。電話が通じないことである程度覚悟はしていたが、またしても二人の期待は裏切られた。二人は隣の二○一号室の呼び鈴を押したが応答がない。隣もどうやら空家のようである。

 二人は、仕方なく貼り紙に書かれた不動産屋を訪ねることとした。不動産屋は駅近くの商店街の一角にあった。昔風の引き戸を開けて中に入ると、物件案内の広告が乱雑に散らかったデスクの向こう側に店主らしき老人が一人座っていた。

「まいどー。アパート探しかいな。」

 眼鏡越しにじろりと二人を見た店主が無愛想に答えた。

「いえ、人探しです。あの松葉荘に住んでいた椎名初江という人をご存知ないですか。」

 店主は、返事をする代りに、じろじろと理佐の顔を観察し始めた。

「どうかしましたか。」

「いやー失礼。あんまりよう似てはったもんでなー。椎名さんが戻って来られたんかいなと思いましたわ。まあ、あんさんの方が大分若うてべっぴんやけどなー。」

 似ていると言われたのはこれで二度目であった。佐伯教授も瓜二つと言っていた。そんなに似ているのであろうか。理佐はその言葉に初江との只ならぬ血縁関係を感じ始めていた。

「椎名はんは半年ほど前に引越しはった。何でもスポンサーがどうとか、新しい会社がどうとか言うてはったかな。それまでは暮らし向きもきつそうでした。時折家賃も滞納しはるしな。それが、あの日突然黒塗りのハイヤーが迎えに来よったんで、ほんまビックリしましたわ。」

「それで、行く先はご存知でしょうか。」

「いーや。あの人変わった人でなー、普段はほとんど口も聞かはれへんし。第一月の内、半分くらいはいつも留守でしたし。部屋の中には何やら難しそうな本を一杯積み上げてるし、床が抜けるいうて一回苦情言うたこともおました。出ていかはる時も挨拶もなかったし、ほんま変わった人でしたわ。」

 またしてもすれ違い。二人は愕然とした。あと半年早ければ…。理佐は、運命の糸がもう初江とは繋がっていないと思わずにはいられなかった。二十年前のあの日、初江が自分を捨てたあの日に、二人は二度と会えない運命になったのかもしれない。万策尽きた面持ちで二人は門真を後にした。


 京都、理佐のマンション。

「もう駄目だわ。やっぱりもう会えないんだわ。」

 理佐は、疲れ切った表情で嘆息を洩らした。確かにあと一息というところで何度となく肩透かしを食った。まるで誰かが二人の間をわざと遠ざけているような、会ってはならない何かが二人の間に横たわっているような、そんな感じがあった。

「まだ諦めたらあかん。やっとここまで来たんや。絶対に見つかるて。」

 勇一は、そんな重苦しい感じを吹き飛ばすかのように語気を強めたが、内心は途方に暮れていた。「スポンサー」、「新しい会社」、「黒塗りのハイヤー」…、これらが椎名初江とどういう関係があるというのか。初江はあのアパートで一体何をしようとしていたのか。考えれば考えるほど不可解なことばかりであった。

 二人はマンションの一室で顔を突き合わせたまま、これらのキーワードを結び付けるものに想像を巡らせていた。どのくらい時間が経ったであろうか、ある考えがほぼ同時に二人の頭をよぎった。二人の視線は壁際に置かれていたパソコンに同時に注がれていた。

 理佐は素早くパソコンを起動すると、すぐさまインターネットにアクセスした。キーワード「遺伝子 アンド ベンチャー企業」と入力し、検索ボタンを押下げる。しばらくして、二○七○○○件という件数が表示された。膨大な件数である。

 二人は、ゆっくりとスクロールを移動させながら、表示されたラインを一件一件、慎重に調べ始めた。どれほど時間がかかるかわからない。ひょっとすると、それは広大な砂漠の中に落ちたダイヤモンドの粒を探すようなものかもしれない。しかし、今の二人に出来ることと言えば、これくらいしかなかった。

 最初は勢い込んで調べ始めた二人であったが、時間が経つにつれペースがダウンしてきた。パソコンの画面に集中するのは疲れる。二時間が限度である。いつしか時計の針は真夜中の十二時を過ぎていたが、未だ総件数の半分にも至っていなかった。

 本当に椎名初江はこの中にいるのであろうか。この作業はひょっとすると全くの無駄骨かもしれない。二人は半ば自分自身を疑いつつも、とにかく交替で作業を続けた。

 ようやく夜も白み始める頃、理佐はマウスを握ったまま眠り込んでしまった自分に気がつき、ハッと頭を上げた。傍らでは勇一がグーグーと寝息をたてている。暗闇の中で、パソコンの画面だけが異様に明るく輝いていた。理佐はボンヤリとその画面に見入っていた。淡いグリーンを基調とする画面に、赤い字が踊っている。

「あなたの輝かしい未来と人生を再生します。バイオベンチャー、ヒューマンクリエイツ。」

 何かの企業のホームページであろうか。夢、希望、未来……、どこの企業も似たようなうたい文句を掲げて自らをアピールしている。一体そのいくつが厳しい競争を勝ち抜いて生き残るのだろうか。理佐はそう思いながらも、スクロールを進めた。

「あなたの一個の細胞から臓器を再生します。医師から不治の病を宣告されたあなた、臓器移植しか助かる道のないあなた、そんな人の期待に答える未来の技術。世界初の臓器再生工場が今始動しました。」

 理佐はそんな夢のような話があるものかと思いながら、しかし一方で半ば好奇心からそのホームページを読み進めた。

「手続きは極めて簡単です。当社の付属病院にご来院頂き、あなたの骨髄からES細胞を摘出する手術を受けて頂きます。手術時間は約二十分、入院の必要もありません。あとは、あなたがご指定された日時に指定の病院に再生された臓器が届けられます。あなた自身の体細胞から再生されたものですので、拒絶反応の心配もありません。」

 画面には素人にも分かりやすいようなイラスト入りで臓器再生の仕組みが説明されていた。何にでも分化しうる万能細胞「ES細胞」、そして特殊な酵素を使った遺伝子操作……、こうした過程を経て一個の体細胞から新たな臓器が再生されて行く工程が示されていた。最後に、心臓、肝臓、骨、神経等、ありとあらゆる人体の部位に応用可能とあった。

 理佐は、ケンブリッジで見たクローン羊メリーを思い出していた。あれは、一個体を丸々再生するものであったが、これは人体の各部位を再生するものである。まるで機械の部品を取り替えるように、人も自分の部品を取り替えることが出来る。昨日までは夢物語と思われていたこうした技術が今や現実のものになろうとしていた。

 理佐は先ほどまでの眠気も忘れて、すっかり医療の進歩に魅せられていた。この究極の技術が果たして万人の憂いを救済するものなのか、それとも悪魔の選択なのか。理佐は背筋が寒くなるのを覚えながらも、ヒューマンクリエイツ社のホームページを読み進めた。

 後は、患者に必要な法的な手続き、治療費用、医療保険など事務的な説明が続く。画面をスクロールさせて最終ページまで進んだ理佐は、ポインターを「閉じる」に合わせて、クリックしようとしたが、その瞬間、理佐の目は一点に釘付けになった。

 ページの一番下右隅に、「株式会社ヒューマンクリエイツ代表取締役社長 椎名初江」という字が、自らを喧伝するかのように光り輝いていた。理佐はしばらく押し黙ったまま、その文字を凝視していた。傍らには、目覚めたばかりの眠そうな勇一の顔があった。


 株式会社ヒューマンクリエイツの本社は阪奈学園都市郊外の田園風景の中にあった。きれいに芝の刈られた前庭を過ぎると、ガラス張りのエントランスがあった。そのたたずまいはどこかの研究所を思わせる。入り口を入るとそこは三階まで吹き抜けになっており、真冬にも関わらず、暖かい日差しが奥深くまで差し込んでいた。

 ホールの中央に緩やかなカーブを描くモダンなデスクが置かれ、受付嬢が笑顔で迎えた。

「あのー。社長の椎名初江さんにお会いしたいのですが。」

「アポイントメントはおありでしょうか?」

 「アポイントメント」の一言に、理佐はまたしても返事に窮した。椎名初江、自分の産みの母親が、すぐこの上にいる。駆け上がればすぐにでも会えるはず。しかし、目の前にはまだ越えなければならないハードルがあった。

「社長は、一見のお客様にはお会いになられませんが。」

 受付嬢の冷たい返事が返ってくる。

「ケ、ケンブリッジのブラウン博士の紹介と言って下さい。」

 理佐の口が独りでに動いた。

「ケンブリッジのブラウン博士ですね。少々お待ち下さい。」

 受付嬢は、内線電話で何やら二言三言電話で話していたが、やがて笑顔て返答した。

「社長がお会いになられるそうです。あちらにお掛けになってしばらくお待ち下さい。」

 受付け脇のソファに腰を下ろした二人の胸の内は、既にドクンドクンという音を立てていた。理佐は組んだ両手の上に額をのせて祈るような仕草で顔を伏せている。一方、勇一はと言えば、垂直に背筋を伸ばしたまま、大股に開いた右足を頻りと揺らしていた。

 掛けて待つこと十分、ようやく秘書らしき女性が現れた。その女性は、先に立って二人をエレベーターへと誘導する。社長室は三階にあった。エレベーターホールを出るとすぐ右手、全体をグリーン調に統一した軽いタッチで、いかにもベンチャー企業という雰囲気が漂っていた。

 理佐の緊張は既に極限に達しており、今にもプツリと切れそうな様子である。勇一もハッキリと聞こえるような音を立てて生唾をゴクリと喫飲した。

 女性が軽く社長室をノックすると、中からどうぞという声が聞こえた。二人は、恐る恐る部屋に入る。三十畳ほどのその部屋は、全面が大きなガラス窓となっており、そのすぐ前に社長デスクとソファが置かれていた。やはり淡いグリーンを基調とするインテリアは訪れる人に安らぎを与える。しかし、今の二人には、そんなグリーンの色がグレーに見えた。

 社長デスクの向こう側に一人の初老の女性が窓の外を見ながら立っていた。理佐と勇一は、入口近くに無言のまま佇んだ。

「とうとう来たのね。いつかこんな日が来ると思っていた。」

 その女性は二人に背を向けたまま、静かに口を開いた。恐らく、この人が椎名初江、自分の産みの母親。一体、どんな顔をして自分と対面するのか。二十年前、身勝手にも自分を捨て、そして今このような華やかな企業の社長に収まっている。椎名初江というのは一体どういう人物なのか。

 しかし、次の瞬間、理佐は見てはならないものを見ることになった。窓の外を見ていた女性が、ゆっくりと二人の方に向き直ったのである。

「あっ。」

 勇一が思わず声を上げた。明るい陽の光を背にしているせいか顔が少し暗く見える。しかし、髪の色が白いことを除けば、その切れ長の目、少し出っ張った頬骨、キリリと締った口元は、理佐そのものであった。理佐が二人。もし歳が離れていなかったら、どっちが理佐だか分からない。双子のように瓜二つであった。

 驚きの余り、声を失っている二人を尻目に、初江は悠然と話を続ける。

「本当、本当に私の若い頃にそっくり。まるで鏡を見ているようだわ。」

 自信に満ちたその顔には微かに笑みが浮んでいた。理佐は一瞬たじろぐ素振りをして見せたが、すぐさま歩を進めた。

「やはり、あなたが私のお母さんだったのね。ひどい、ひどいわ。どんな理由があったにしても、実の子を棄てるなんて。私には、絶対許せない。」

 興奮の余り、理佐は小刻みに肩を震わせて詰め寄った。

「ご、ごめんなさい。でもああするより仕方がなかったの。お願いだから訳は聞かないで。その方がお互いのため。」

 理佐の強い口調に押されたのか、初江は少し怯むような仕草をして見せたが、口から出てくる言葉は冷静そのものであった。初江の冷徹な態度に今度は理佐のテンションが高まって行く。

「それが二十年ぶりに会った我が子に向って言う言葉?。どんな訳があったのか知らないけど、あなたは人じゃない、人の仮面をかぶった鬼だわ。」

 そこまで言うと、理佐は突然張り詰めた糸がプツリと切れたように泣き崩れた。初江は、そんな理佐を庇おうともせず悠然と立っている。傍らから勇一がにじり寄った。

「理佐、あと十年の命なんや。何でもテロメアとかいうのが人より短いらしいんや。」

「えっ。ま、まさか。」

 その瞬間、自信に満ちていた初江の顔色がみるみる蒼ざめていった。遺伝学の権威であった初江にとってそれが何を意味するのか一瞬にして悟ったようだった。

 それから長い沈黙の時間が流れた。傾きかけた陽光が部屋の奥まで届き、セピア色の影が部屋の奥まで長く忍び込んできた。その光に照らされて、初江は不動のまま佇んでいた。やがて、初江の頬に一条の筋か輝き、微かに嗚咽の声が響き始めた。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。全ては私が悪いの。全ては私の我が侭のせい。」

 少し間を置いて、初江は何かを振り搾るように話を始めた。

「あれは二十二年前、私が三十三歳の時だった。あの日、いつものように鏡を見ていた私は頭の中に一本の白いものを見つけたの。ショックだった。本当にショックだった。いつまでも若いと思っていたのに。大学を出てから研究一筋、体力でも知力でも誰にも負けないという自信があった。でもどんな優秀な人にも必ず老化は忍び寄ってくる。この当たり前のことが私には受入れられなかった。」

 初江は、理佐に向かい合ってゆっくりとソファに腰を下ろした。

「当時、私はケンブリッジ大学の遺伝子工学研究所に客員研究員として招聘されていた。世界中から超一流の遺伝学者が集い、日夜切磋琢磨し議論を闘わせていたわ。あの頃はヒトクローンの是非を巡って学会が真っ二つに割れて論争が盛り上っていた。毎日が輝いていたわ。」

 当時を思い出すかのように宙空を仰いだ初江は、さらに話を続ける。

「当時の学会の主流はヒトクローンには反対だった。所内の倫理委員会も否定派が多数で、そんな中、私とブラウン博士が肯定派の急先鋒だった。私は人の寿命が科学の力によって延ばせるなら限りなく可能性を追求すべきだと主張したの。数多くの人達が遺伝病で苦しんでいるのに、健常者は単に宗教だの生命倫理だのという理屈でこの人達の人生を奪っていいいものかと思った。かつては、ワクチン技術の開発によって人類は天然痘の恐怖から生き延びた。クローン技術によってさらに人の寿命が延ばせるなら、それは人類の幸福になりこそすれ不幸には絶対にならないと確信していたわ。」

 理佐も勇一も、黙って初江の話を聞いていた。今日においても、医学を志す者にとって、いやそんなものとは無縁の者にとっても、これは大変興味深い論争であった。

「でも、やはりそこは悪魔の住処だった。たった一本の白髪が、私を悪魔の選択に駆り立て始めた。あの日以来、私は迫り来る老化の恐怖に苛まれ始めた。この輝かしい人生もあと三十年もすれば消え去る。その時どれほどの人が私のことを覚えているだろうか。人間なんて冷たい者。どんな有名な人でも、どんな立派な人でも、死んで一年も経たない内にすっかり過去の人となるのよ。」

 初江は次第に高揚して続ける。

「私は出来る限り長く生きて、科学の進歩に貢献したかった。自分が学んだこと、研究したことをもっともっと深めたかった。そして百年、二百年後の科学の進歩をこの目で確かめたかった。そのためには三十年という時間はあまりに短かった。それからというものの、私はテロメアの研究に没頭していった。当時、既にヒトの寿命にテロメアが関係しているらしいことは分かっていた。私はこのテロメアを操作することで自らの寿命を延ばすことを考えた。」

 初江はそこまで話すと、ゆっくり立ち上がって壁際のワゴンからミネラルウォーターをとりグラスに注いだ。まるでこれから話すことを、口の中に含んだ水で咀嚼するように、ゆっくりとグラスを傾けた。

「でも神の摂理は人事をはるかに凌いでいた。ベールをはいでもはいでも、またその奥に厚いベールがあるような感じだった。私は限界を感じ始めていた。そしてとうとう悪魔の囁きに導かれてしまったの。」

 やがて初江の呼吸は、気持の高揚を表わすかのように、速く浅くなっていった。

「二十一年前のあの日、イギリスの暗い冬も終わり、ようやく春めき始めた頃だった。私の右手には一本のプローブ(探針)が握られていた。私は震えるその手を止めることができなかった。プローブの切っ先はゆっくりと私の右の乳房に触れ、やがて肌を突き破って乳房の奥底へと吸い込まれていった。」

 二人は、初江が説明しようとしている情景を瞼の中に思い描いた。一本のプローブ、それが乳房を食い破って奥深く突き刺さっていく。一体、初江は何をしようとしたのか。二人は、胸騒ぎがして、次第に全身の毛穴が閉じて行くのを覚えた。理佐と勇一は次に初江の口から出てくる言葉を全身全霊を集中して待った。理佐の心臓は早鐘のように鳴り響き、動悸が耳の奥までこだました。勇一は、しきりとゴクリと喉を鳴らしている。

「オペはすぐ終わったわ。焼けた火箸を突き刺されたような激しい痛みも、あの時は不思議と快感に思えた。乳房から抜き取ったプローブの先で、私の新しい生命が脈打つ喜びに全てを忘れていた。この乳腺細胞こそ、私の新しい命、私の人生を変える宝の種…」

 「乳腺細胞」。この言葉を聞いた瞬間、理佐と勇一は初江が何をしようとしていたのか明確に理解した。そしてその恐ろしい発想に、気が遠くなりそうになるのを感じた。どのような言葉を使っても表現できない恐ろしい結論が、二人を待ち受けていた。しかし、二人が事の重大さを咀嚼しきる前にも、初江の遺伝学の講義は淡々と前へ進んで行く。

「私は、顕微鏡を操作しながら取り出した乳腺細胞の細胞核を抜くと、研究用に保存されていた卵細胞の核と入れ替えた。そして、メリーの時と同じように活性化処理を行った。一日後、予想通り卵細胞が分裂を始めたのを確認した私は、箝子を使ってそれを自らの子宮に戻す処理をした。そして一ヶ月後妊娠が確認された。」

 茫然自失。理佐の頭の中はすでに真っ白になり、その後の初江の声は全く脳に届いていなかった。しかし、初江の企図したことだけは鮮明に脳裏に焼き付いていった。この狂気の学者は自らを実験台にして神の領域に挑戦したのであった。そして、自分こそがその実験の産物…。

 理佐は頭を振り搾って、この悪夢のような帰結を振り払おうとした。そう、いくら自分を複製したとしてもそれは体だけのこと。確かにDNAが同じであれば、同じ体が生まれるかもしれない。しかし、それは単に体質が同じというだけであって、理佐は依然として理佐であり、初江とは別人である。

「狂気の沙汰だわ。いくらクローンといっても、私は私。現に、私はあなたとは別人。こんな単純なこと、あなたほどの学者であればすぐに分かったでしょうに。」

 理佐は、ぐるぐる回転している頭の中から言葉を選びながら、詰問調で投げ返した。

「そう、百パーセントは無理ね。でも、九十パーセントならそうともいえないの。当時既に、ヒトの気質や精神までもがかなりの程度DNAに左右されることが研究で明らかにされていたわ。人の気質は、一言で言うと脳内物質のバランスで決まるの。例えばドーパミンの分泌が多い人は活発で明るい性格となり、セロトニンが少ないと短気で怒りっぽくなるとか、いろいろな研究をしている人達がいたわ。そしてそうした脳内物質の分泌を促す神経細胞の働きもDNAに支配されている。」

 理佐は大変驚いた。心理学を志す者にとって、精神や気質までがDNAで決められているという考え方は受け容れ難いものであった。理佐は毅然として反論する。

「たとえそうだとしても、後天的な部分は絶対あるわ。現実にカウンセリングによって人はすっかり変わるのよ。」

「それは一時的に脳内物質のバランスが変わっているだけ。体質が変えられないのと同じで、ヒトの気質を根本から変えることも遺伝学的には出来ないわ。まさに生まれながらにして持った運命にヒトは支配されるのよ。あなたは体質だけではなく、気質まで私と全く同じものを持っているはず。そして知能もまた同じ。素材が同じであれば、後は教育と環境ね。生まれてすぐから私と同じような環境で同じような教育を受けていれば、あなたはまさに身も心も限りなく私に近い人に育っていくはずだった。たとえ私という個体が滅びようとも、私という人間は永遠にあなたの中で生き続ける。そしてあなたの体が滅びる前に、今度はあなた自身が私がしたのと同じことを繰り返せば、さらにその子孫に私というものが受け継がれ……。」

 そこまで聞いた瞬間、理佐は頭を抱えて絶叫した。

「や、やめて。もうたくさん。」

 一瞬にして、部屋の中は押し殺したような静寂に包まれた。窓の外はすっかり日が暮れ、遠くの地平線に微かに輝く残光がわずかに部屋に届き、三人の姿をシルエットのように浮かび上がらせた。迫り来る闇の中で、互いの表情はもう全く見えない。いやむしろその方がよかったのかもしれない。このような恐ろしい話は他人の顔を見て出来るものではなかった。壊れそうなほどに張り詰めた空気を最初に動かしたのは、やはり初江であった。

「でも、ことはそう単純ではなかった。研究所が私の妊娠に疑いを持ち始めたの。私がヒトクローン肯定派の急先鋒であったことから、所内の倫理委員会から目を付けられていた。そしてついに研究所は私の胎児のDNA調査をすべきと主張し始めた。ヒトクローン規制法を厳密に解釈すれば、自らを実験台とする実験も処罰の対象となる。下手をすれば、胎児どころか私自身の地位も危うくなるところだった。」

 クローン羊メリーの誕生後、世界各国でヒトクローンの研究を禁止しようとする動きが活発化し、相次いでヒトクローン規制法が成立していた。初江の行為は当然に罪となる。

「その時、私をかばってくれたのが同じラボにいたパートナーのブラウン博士だった。彼は、私のお腹の子は自分の子だと言ってくれたの。全てを承知の上でね。そして、倫理委員会の触手が伸びる前に日本に帰ることを薦めてくれた。私は断腸の思いで研究所を後にしたの。その後彼も研究所を退社したと人づてに聞いたわ。彼は私が生涯で一度だけ心から愛せた人だった。そのかけがえのない人を私は私自身の狂気ににより失ったの。私の心の痛手は計り知れないものだったわ。失意のまま日本に帰った私は、そのまま生まれ故郷の白浜に戻った。全てを失った私はもうどうでもよかった。死という言葉が私の頭の中を満たしていた。」

 そこから先のことは聞かずとも、理佐は育ての親から聞かされて知っていた。三段壁の上から飛び降りようとしていた女性、今その人が目の前にいる。理佐は自分の運命を呪った。いっそのこと、そのまま自分を抱いて飛び込んでくれていたら、このような恐ろしい運命を知らずに済んだ。全てが闇の中で終わっていた。しかし、現実は過酷な運命を選んだ。

「崖から飛び降りようとしていた私を一人の男の人が制して下さった。その方が多分あなたの育てのお父さん、お父さんは私の頬を力任せに二度引っぱたくと、私を崖っプチから引き離した。その後、お父さんが言われた言葉、今でもはっきりと覚えているわ。「人のために生きろ。」と言われたの。その時お父さんは既に末期ガンに侵されておられた。わずか半年しかない命を懸命に生きようとしている人間もいる、その人間の前で前途ある人が死のうなんて失礼じゃないかってね。」

 初江は、溢れる涙を拭おうともせず、天井を仰ぎ見て話を続ける。

「私はようやく目が覚めた。私は、残された半生をそんな人達のために尽くそうと思った。私の遺伝学の知識が少しでも人の役に立つなら、そうしたいとね。それからの私は今の会社を設立するために奔走した。一度学会から除籍された者にとって、それは辛く長い旅路でもあった。臓器再生の知識を学ぶために世界中を飛び歩き続けた。そしてついに半年前、臓器再生工場の設立に漕ぎ着けたの。」

 今、理佐は全てを聞き終わった。この狂気の科学者の我が侭のために、自分という存在が創り出され、そしていとも簡単に棄てられた。理佐の怒りと悲しみは極限に達していた。錯乱する意識の中で辛うじて自我をコントロールしようとするが、もう尋常な精神状態ではなかった。

「でも、何故私を棄てたの。そこまでして産んだ私を何故棄てたの。」

「それはお互いのため。あなたは私のクローン、ほらこんなに瓜二つなのよ。あなたが大きくなった時、早晩あなたは気が付くことになる。その時私はなんて説明すればいいの。私には、自分が母親のクローンと知ってショックを受けるあなたの顔を見るのが怖かった。

そして、あなたを罪人の子供にもしたくなかった。二度とお互いの顔を見ないのがお互いのため、私はそう思って、あなたのお父さんにお願したの。」

 いつしか外はどっぷりと日が暮れ、寒々とした青白い外灯の光がわずかに部屋に差し込んでくる。暗闇の中に漂う長い長い沈黙を破ったのは、理佐の鳴咽の声であった。理佐の口にもう言葉はなかった。ただひたすら咽び泣く理佐を、勇一は抱きかかえるように外に連れ出した。後を追いかけようとする初江を勇一の鋭い眼光が制止した。今はそっとしておいてやってくれ、その目はそう語りかけていた。


 三日後。理佐はうつ状態のどん底にあった。朝から何をする気力もなく、授業にも出ずにただひたすらマンションの一室に引きこもったまま一日を過ごしていた。

 三日前に聞いたことが全て夢のように繰り返し頭の中を巡った。自分と全く同じDNAを持つ人がこの世にいる、しかもそれが自分の母親であったということ自体がショッキングな話であった。加えて更年期障害から来る頭痛やめまいが重苦しく自らの上にのしかかっていた。

 時折、勇一が心配して訪ねて来てはくれるが、今度ばかりは勇一の言葉も耳に届かなかった。この日も朝遅く起きた理佐は、朝とも昼ともつかない食事を済ませると、何とはなしに流れるテレビの音声にボンヤリと耳を傾けていた。その理佐の目がテレビ画面に釘付けになった。

「今朝早く、和歌山県白浜町にある三段壁の崖下で頭から血を流して倒れている女性の遺体を近くに住む男性が発見し、警察に届け出ました。白浜署の調べでは、この女性は所持品から株式会社ヒューマンクリエイツ社長椎名初江さん五十六歳と判明しました。他に外傷などないことから白浜署では自殺とみて調べを進めています。関係者によりますと、亡くなった椎名さんは臓器再生で有名なベンチャー企業の創設者で、最近では……。」

「そ、そんな。」

 理佐は茫然自失のままその場にしゃがみ込んでしまった。たった三日前に会ったばかりの母親がもうこの世の人でないなんて。自分は産みの親のことについてほとんど何も知らない。まだまだ聞きたいことは山のようにあったのに。理佐はまだ閉じきらない心の傷痕に煮えたぎる鉛を流し込まれたような思いであった。気が遠くなりそうになるのを必死にこらえて立ち上がろうとする理佐の耳に突然ドアベルが鳴り響いた。理佐はギョッとしてすぐに声が出なかった。しばらくの沈黙の後、表で声がした。

「小野寺さーん。書留めですよー。」

 理佐が受取った白封筒の表には、几帳面な字で確かに「小野寺理佐様」と宛名書きがあった。間違いなく自分宛ての手紙である。恐る恐る裏を返すと、差出人名は「椎名初江」とあった。理佐は大慌てで封を切ろうとする。手紙の消印は二日前となっていた。初江はこの手紙を投函した後、自らの最後の決断を実行に移すために、二十年前と同じあの場所に立ったのであろう。

 封を切ろうとする理佐の手は、プルプルと震えてなかなか封が開かない。やっとの思いで封を開くと、中から白い便箋が三枚出てきた。そこにはやはり青インクで書かれた几帳面な小さな字が並んでいた。


「理佐へ。

 この前はごめんなさい。あんな形で親子の名乗りを上げたくはなかった。本当に許して。私は今自分のしたことを今でも大変後悔しています。嘘と思われても構わない。でも正直言って私はこの二十年間ずっと重い罪を背負って生きてきました。あの日以来、私は一日もあなたのことを忘れたことはなかった。その気持ちを無理矢理隠そうとして私は臓器再生の研究に没頭していたのかもしれない。でも私の犯した罪は消えることはない。そうこの世に全く同じDNAを持つ人間が二人いること自体が許されないことなの。

 私は、あなたが私を訪ねてきたとき、この狂気に満ちた私の人生に終止符を打つときが来たと思った。幸い、会社の方も軌道に乗り始め、もうこの世で私に残された役目はないと思った。

 それにDNAチップの秘密を調べたあなたのことだからもう知っているでしょう。私のDNAにはアルツハイマーの素因が強く出ているの。まだ発病はしていないけど、九十九パーセント間違いないわ。アルツハイマーは未だ確たる治療法が確立されていない恐ろしい病気なの。私も医学を志した人間、その末期がどんなものか全てを見知っている。私は年老いた惨めな自分の姿を人に見せるのが怖かった。

 本当に身勝手な親だと思うでしょう。自らの我が侭のためにあなたを産み、そしてまた今自らの我が侭のためにあなたを置いて先に逝く私を怨んでいるでしょう。でもそんな身勝手な私の最後のお願いを一つだけ聞いて欲しいの。私の会社ヒューマンクリエイツを引継いで欲しい。この会社は臓器再生を目的として半年前に設立しました。私の二十年間の研究の結晶です。この世には、不治の病に侵され臓器移植しか助かる道のない人が未だ数多くいます。その人達に生きる望みを与え、命の灯火を再び点して上げるのがこの会社の使命。これをあなたに是非引継いで欲しいの。

 この会社は来月株式公開することになっているわ。証券会社の人によると公開価格は百億円を下らないそうです。この全株式をあなたに譲ります。

 最後に一言。あなたのテロメアのことだけど。勇一さんが言っていた「テロメアが人より短い」というのは遺伝学的にはありうる話。そうあなたは見た目は赤ん坊として生まれても、そのDNAは私自身のものだから、既に私が生きた分あなたのテロメアも短くなっているというのは道理かもしれない。永遠の命を得ようなんて考えた私が馬鹿だった。そのためにあなたに大きな代償を払わせることになってしまった。本当に、本当にごめんなさい。

 でも、決してあきらめないで。必ず私もあなたもまだ知らない「神のベール」がまだ残っているような気がする。無責任な言い方かもしれないけれど、絶対にあきらめないで、そして私のような弱い女にならないで。グットラック。そしてさようなら。

  親愛なる理佐へ。                 初江」


 封筒の中からポロリと見覚えのある丸いガラス片が出てきた。理佐が持っているDNAチップと同じ物であった。小さい字で「HATSUE」と刻まれたそのチップの縁をよく見ると「R14790」という例の数字があった。理佐の持つチップと一番違いの続き番号であった。二十年前、初江は恐らくチップを二つ用意し、片方に自らの遺伝情報を、そしてもう一方に理佐の遺伝情報を刻み込んだのであろう。

 理佐は自らが片身として持っていた「RISA」の文字が刻まれたチップを取り出すと、

二つのチップを見比べてみた。一方が「HATSUE」、もう一方が「RISA」、本来なら別人のものであるはずだが、その中に刻み込まれたDNAの痕跡は全く同一である。

 理佐は、二つのチップを重ね合わすと、しっかりと手の平の中で握り締めてみた。この一片の小さなガラス片が親子の絆を結び付けた。二十年の時を経て、理佐はようやく自らが初江と一体化したような不思議な感覚に囚われた。

 あの狂気の学者も結局は弱い人の子であった。そのことだけでも分かって、理佐は少しばかり自らが救われる思いがした。と同時にこの世で唯一血のつながった人を失った悲しみに、理佐はいつまでも噎び泣き続けた。


 三年後。ホスピス「永遠の荘」の一室。

「はい、おばあちゃん。日記を付けましょうね。おばあちゃんが今日思ったこと、したことなんでもいいのよ。それはやがて本となり、おばあちゃんはそれを読む人の心の中に永遠に生き続けるのよ。」

 明るい春の日差しが差し込む病室は、病院とは思えないほど明るい造りなっており、安らかな空気が溢れていた。

 理佐は結局初江の志を引継がなかった。初江の遺産は全て末期ガン患者のためのホスピス「永遠の荘」に寄付され、理佐はそこでカウンセラーとして働き始めた。

 初江の会社ヒューマンクリエイツは今では規模も設立当初の十倍程となり、連日マスコミの話題をさらっていた。しかし、理佐には自らの臓器を再生して命を長らえるという初江の思想に賛同できなかった。人間の尊厳は、命の長短ではなく、与えられた時間をどう使うかによるものと、理佐は思っていた。そのため自らが大学で学んだカウンセリングの知識を一人でも多くの人のために役立たせようとしていた。

 今日は、勇一がインターンの研修を終えて、このホスピスの勤務医として着任してくる日である。理佐は朝から勇一の到着を今か今かと待ち受けていた。勇一は理佐の境遇を全て承知の上で、今春籍を入れることにしていた。

 もうすぐ昼になろうとする頃、病室の窓から見えるエントランスにタクシーが入ってくるのが見えた。理佐は急ぎ足で部屋を出て、エントランスに向う。開いた自動ドアの向こうに勇一の姿が見えた。トレーナーにジーパン姿の新米医者は薄汚いスポーツバッグを片手に入ってきた。勇一は理佐の姿を見るなり笑顔で声を掛けた。

「やあ、元気そうやんか。どないやー。」

「うん大丈夫。最近は体の調子もいいみたい。先週久しぶりにDNA検査を受けたけど、テロメアが少し伸びたようだって。先生も不思議がってたわ。」

 理佐は、今初江の最後の言葉を噛み締めていた。「神のベール」がまだ残っているかもしれない、決して諦めてはいけない、という初江の言葉を。

「そうか、そりゃあよかった。」

 勇一は本当に自分のことのように喜んだ。その素直さが理佐にはたまらなく嬉しかった。

「そ、それとー、月の方も戻ってきたようなの。」

 理佐は少しうつむき加減に恥ずかしそうに小声で付け足した。

「ツ、ツキ? へぇー、理佐でも占いなんか信じるんか。」

 勇一は、とぼけた表情で尋ね返した。しかし、一方の理佐は、相変わらず恥ずかしそうに両手を弄繰り回している。しばらく小首を傾げていた勇一は、ようやく…

「そうか、そういうことか。そやったんか。よーし、今夜は頑張るでー。」

 勇一は鼻の下を長くして、舌を出して見せた。理佐は顔を真っ赤にして、勇一に背を向けた。

                                    (了)

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テロメア ツジセイゴウ @tsujiseigou

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