きみに会うための440円

七海 まち

きみに会うための440円

 思えば、ろくでもない人生だった。

 確かに、あたしは恵まれていた。環境も、頭脳も、容姿も。周囲の誰もがあたしに注目し、褒めそやした。もちろん男にもモテた。高校時代は「高嶺の花」と呼ばれていたくらいだ。

 行きたい学校に入り、やりたい研究に没頭し、やりがいのある仕事に就き、それはもう順調に成功コースを歩んできた。思い通りにならないことなんてなかった。世界は常にあたしの求めるものを差し出してくれた。

 そう、男以外は。


  *


「高瀬」

 袴姿の友人たちと写真を撮っていると、白衣姿の男が声をかけてきた。同じ研究室だった真壁次郎だ。心理学の研究の傍ら、「物体に染み込んだ霊魂の抽出」とか言うオカルトじみた実験を繰り返し、さらにあたしを助手として使い倒したろくでもない男だ。

「何? ようやく感謝の言葉を述べる気にでもなった?」

「相変わらず口が減らないな。仮にそうだったとしても、そう言われては感謝する気がなくなる」

 あたしは驚いて真壁の目を見た。本気で言っているんだろうか。こいつの口から「感謝」という言葉が出てくるなんて、想像すらしたことがなかった。

 と言っても、いくら目を見たところで、この男が何を考えているのかはわからない。結局、最後までわからずじまいだった。

「餞別の品だ」

 真壁は白衣のポケットから小さな貯金箱のようなものを取り出し、あたしに突き付けた。青一色に塗られた木板の立方体で、正面には平べったい穴が開いている。

「何なの、この夏休みの工作みたいなガラクタ」

 あたしの言葉をよそに、真壁はその工作物を春の空に向かって高く掲げた。

「これは、『神の御言葉ガジェット』だ」

「神の……みことば?」

「そうだ。ここに穴があるだろう。10円入れるごとに、神によるありがたい言葉が流れる。おまえの人生の大きな助けとなるだろう」

「……バカなの?」

 すると真壁はにやっと笑った。

「それを聞くのも今日が最後だな」

 そうしてあたしの手を取り、青い箱をその中に握らせた。

「アメリカのご両親の元で、きちんと育て直されてこい」

「最後に言うことが、それ? あんたこそ、変な実験にかまけてないできちんと卒業しなさいよ」

「心配無用だ。俺は天才だからな」

「はいはい。天才であり、神、なんでしょ? いつその鼻っ柱が折れるのか見届けたかったけど、残念だわ」

 そのとき、後輩の一人に腕を引っ張られた。ぜひ写真に入ってくれと言うのだ。

「ほら、あんたも一緒に」

 そう言って振り返ったときには、真壁はもういなかった。卒業生たちでひしめく芝生広場。視界の端に、裾の揺れる白衣を見たような気がした。


  *


 あたしの周りにいる男は、いつだってまともじゃなかった。

 アメリカで働く両親の家から、あたしは大学院に通った。そうしてスクールカウンセラーとなった。

 こっちの男は、とても優しかった。そして素直だった。あたしが欲しいことを隠そうとしなかった。そのわかりやすさに、最初こそ戸惑いはしたものの、ようやくまともな恋愛ができるだろうという期待も生まれていた。

 でも、結局は同じだった。手に入れた途端、あたしの魅力は色あせてしまうらしい。

 父親の部下として頻繁に家に来ていたサカイさんは、とても優秀で、あたしの仕事に対しても理解があって、おまけに美男子だった。八歳年上だったけれど、彼にとっても、両親にとっても、それはたいした問題ではなかった。あたしはいつの間にか、彼の婚約者になっていた。

 それでよかった。彼は文句のつけようがなかった。まさしくあたしが夢見ていた、完璧な男性だった。何代も上の先輩が研究室に置いていったという少女漫画の中に出てくる、丘の上の王子様。サカイさんは、あたしのイメージの中で育った王子様像が、三次元化したような男性だった。

 サカイさんは、あたしと同じ悩みを抱えていたようだった。

 数多くの女性に好かれ、言い寄られる。つまりはモテる。けれどもモテすぎるあまりに、その多くはサカイさんを神のように崇めていたと言うのだ。

 大げさな、と思ったけれども、すぐにあたしと同じだ、と思った。サカイさんは、女性の前で神でい続けることはできなかった。

「君は空気のような存在なんだ」

 宝石のような夜景を背景に、サカイさんは言った。

「ごめん、誤解を招く言い方だった。空気のようになくてはならなくて、そこにあるのが当たり前で、そしてその前では自然な自分でいられる。そういう存在なんだ」

 あたしは微笑みを返した。うれしかったからだ。その反応は、彼の中で「イエス」に変わった。

 薬指にはめられた指輪は、ひんやりと冷たかった。


 部屋に戻ると、力が抜けた。服も化粧もそのままで、ベッドに倒れ込む。

 帰るのが面倒で、研究室に寝袋を持ち込んで寝ていた日々のことを思い出す。式が近づいてくるにつれ、何故か最近、大学時代のことを思い出すのだ。

 もう取り戻せない過去、そこから引き起こされる郷愁、なのだろうか。

 アメリカで暮らす。子どもの頃思い描いていた将来。その通りになりつつある。あたしは、今度こそ思い通りの人と、思い通りの恋愛をして、思い通りの人生を手に入れる。

 そこに何の不満があると言うのだろう。

 ベッドサイドテーブルに手を伸ばす。青い箱、その隣には十円玉硬貨の入ったビニール袋。

 最後の一枚だった。

 これをもらった、卒業式の日。ばかばかしいと思いながらも、あたしは帰ってすぐに十円玉を入れてみた。かちりと小さな音がした。ややあって、「現実を見るべし」と吐き捨てられるようなくぐもった音声が流れてきた。当然だが、真壁の声だ。

 あまりにも短いので拍子抜けして、もう一枚入れてみた。今度は「過去を振り返るなかれ」の一言だった。同じじゃねえか、と思わず突っ込みを入れた。確かめたくて、もう一枚入れてみる。「未来を憂うな」さすがにばかばかしくなって、そこでやめた。

 アメリカに発つとき、十円玉を多めに用意していったのは、保険のつもりだった。この青い箱は、あたしの過去でしかなかった。過去に、あたしの人生を撫でるように過ぎ去っていった、不遜な神。そんな神の過去の言葉は、もはやあたしには必要なくなるはずだった。

 けれども、結局あたしは、何かあるたびに――大体が男と別れるたびに――十円玉をビニール袋からつまみ上げ、箱に入れた。

「意志は行為の源なり」

「感情はうつろいやすく、あてにならない」

「他人の言葉は魂を損なわない」

「この世界は主観でできている」

 何かの本に書いてありそうな言葉ばかりだった。けれども、やけにかしこまったその声は、あたしにのしかかる重みをその都度軽くした。

 自称天才、自称神。あいつは今頃、どんな顔をして研究に励んでいるのだろう。

 あたしはビニール袋からつかんだ最後の十円玉を、箱に入れた。

 ばかばかしいと思いながらも、あたしはこの箱から流れ出る言葉を、何度も何度もこうして待ってきた。真壁を目の前にしたときのような、半分あきれた表情で。

 聞き慣れた、かちり、という音の後で、箱が喋り出す。

「よくここまで聞いた、褒めてつかわそう。次の言葉を最後に、私は役目を終える」

 思わず飛び起きた。

 ――次の言葉を、最後?

 青い箱を持ち上げ、しばらく眺める。ひっくり返して裏や底の部分を見ても、中身を取り出せるような蓋は存在しない。木板はぴったりと接着剤か何かで閉じられていて、開けるには破壊するしかない。

 机の引き出しを開ける。スーツケースを引っ張り出して、側面の小物入れに手を突っ込む。ない。

 あたしはこのふざけたガジェットに「終わり」があることなど、考えてもいなかった。

 財布を開ける。目に飛び込んでくる、クォーター硬貨。あたしはすがる思いでそれを掴み、箱の穴に当てがった。十円よりも少し大きいようで、つっかえた。けれども、ひねるようにしてなんとか差し込む。

 かちり、と音がした。

 続いて、くぐもった声。

 懐かしい、あいつの最後の声。


「時は満ちた。今すぐ会いに来い」


  *


 何度目だろう。

 もう、数えたくもなかった。泣きはらして赤くなった目に気づかれないよう、マスクを目のふちギリギリまで上げて研究室に入る。

 中央に並べられた机には、向かい合わせでPCが置かれている。その一つの前に、男が座っていた。いつもの奴だ。あたしは男に背を向けてマスクを下げると、買ってきたばかりのレッドブルを喉に流し込んだ。そうしてまた丁寧にマスクを装着すると、奴のはす向かいのPCの電源を入れた。

「稲盛教授が探してましたよ」

 男は画面から目を離さずにぼそりと言った。

「そうですか」

 かすれた声をごまかすように咳ばらいをする。

 しばらくの間、無機質なキーボードの打鍵音が響いた。土曜の午前中というこの時間は、何度もあたしをちらちら見ながら話しかけるタイミングをうかがっているような面倒な奴らは来ない。この男も癖のある奴だけど、あいつらと違って空気のようで、あまり問題にせずに済んだ。

「急ぎの用事じゃなさそうでしたが。来たら伝えてくれと」

「そうですか」

 いっぺんに言えよ、と思いながらも書きかけの論文のデータを立ち上げる。先週の実験結果の表とグラフが画面いっぱいに現れたが、何も頭に入ってこなかった。頭が働かない。考えることができない。浮かんでくるのは、あの性根のひん曲がった男の顔と、最後の言葉の響きだけだった。

「思ってたのと違った」

 なんて明快な返品理由。あまりにも身勝手だ。地面に頭をこすりつける勢いであたしという女の「所有権」を懇願したくせに、たった二週間で放棄しやがった。

 みんな、同じだ。

 あたしのことを、女神か何かだと勘違いしている。

 それか、単なるトロフィーなのかもしれない。

 奴らは、手に入れて初めて、あたしが人間であることに気づいたような顔をする。

 ――クソが。

 そのつぶやきは、声に出ていたらしい。かちかちという秒針の間を埋めるようなキーボードの音が、ぴたりと止んだ。

 あたしは咳ばらいをして、マスクの上から顔を押さえた。

「新しくオープンしたの、知ってます?」

「は?」

 いきなりの言葉に、あたしは声の主の顔を凝視した。

「何がです?」

「駅前のカツ丼屋ですよ。開店記念で安くなってるらしいから、よかったらどうですか」

 すると男はやおら立ち上がり、いつどこに用意していたのか、黒地に美しいカツ丼の写真がまぶしいチラシを手に、PC越しににゅっとこちらに突き出した。

「……カツ丼?」

「嫌いですか」

 男はメガネの奥の目をしばたたかせ、あたしを見下ろしていた。反射的にチラシを受け取っていたあたしは、首を振って答えた。

「好きですよ」

「では、行きましょう」

「え、今? まだ十一時……」

「混みますから」

 男は言うなり白衣を脱ぎ捨て、扉へと早足で歩いていった。あたしは彼が出ていくのを見送りつつ、チラシに目を落とした。

 そのときのあたしに一番足りなかったものは、間違いなくカツ丼だった。腰を上げ、彼を追いかける。

 その足取りは、ここに入ってくるよりも、数段軽いものになっていた。


  *


 日本に着いたのは、夜の八時だった。機内でほとんど眠れず、あまり食べられなかったため、少しふらふらする。けれども頭の中は冴えていた。

 五年、経っていた。大学時代の友人に訊いたところ、博士課程を卒業した後、心理学研究所の職員となったとのことだった。

 あたしはスーツケースを引きながら、まっすぐにそこに向かった。他にあてはなかった。奴の住所は、誰も知らなかったのだ。

 研究所は、ビルの四階にあった。ガラス扉を開けると、グレーのニットに黒いロングスカートを履いた細身の女性と目が合った。

「あの、真壁次郎、さんは、こちらに?」

 書類を手にどこかに向かおうとしていたらしい女性は、突然の訪問者に怪訝な顔をした。上品な茶色に染められた髪が、肩の下でゆるいウェーブを描いている。

「失礼ですが――」

「あ、私、友人です。大学時代の」

 女性は私の足下の薄汚れたスニーカーを見、そうして傷だらけのピンク色のスーツケースを見た。

「あいにく外出中です。言付けはございますか」

「あ、ええと……じゃあ、この番号に、電話をもらえるよう、伝えてもらっていいですか」

 驚くべきことに、あたしは彼の連絡先を知らなかった。在学中、一度も聞かれなかったし、聞こうと思ったこともなかった。研究室に行きさえすれば会える、という事実によりかかっていたせいだろう。

 あの研究室は、あたしと彼の場所だった。

「かしこまりました」

 女性はあたしの番号を手近な紙に書きとると、にこりと笑った。

「確かに、彼に伝えますね」


 スーツケースを引きずってエレベーターを出て、ようやく空腹であることに気づいた。駅に向かう道すがら、手近な飲食店に入ろうと辺りを見回しながら歩いた。

 ふと、懐かしい青色の看板が目に入った。

 あのカツ丼屋の看板だった。あたしは吸い込まれるようにそこに入った。

 今のあたしに足りないのは、間違いなくここのカツ丼だ。

 あのときは開店記念セールで400円だったっけ。通常価格の500円になってからも、あたしは何度もあの店に通った。レッドブルとカツ丼と真壁次郎。あたしの大学時代を語るには、その三つで大体事足りる。

 ――楽しかったな。

 ぶっきらぼうで、何を考えているのかわからなくて、でも一緒にいるのが楽だった。過去のこと、家族のこと、未来のこと、そういうことまで、臆することなく話せた。

 彼はあたしにとって、男だけれど、男じゃなかった。奴はあたしを女として見ていなかった。あたしがどれだけ高嶺の花として男に憧れられてきたかを話しても、信じようとしないどころか、そんなふうに呼ばわった人たちのことを「辞書を引くことも知らない愚か者」とののしった。

 小気味よかった。

 カウンター席に座り、カツ丼を頼む。500円。今は消費税が8パーセントだから、540円。当時は、525円だった。

 空港で両替した現金は、五千円。あまり現金を持ち歩かない生活に慣れてしまったせいか、それとも日本に戻るのが久しぶりなせいか、ドル紙幣よりも厚みを感じる真新しい千円紙幣は、なんだか貴重なもののように思えた。

 カツ丼が目の前に置かれると同時に、電話が震えた。

 あわててジーンズのポケットに手を突っ込む。画面を見ると、サカイさんからのLINEだった。

「どこにいる?」

 それは、どこまでも無駄のない一言だった。あたしは携帯を横に置き、割り箸を割った。切れ目の入ったカツを卵とともにすくい上げる。

 ばかばかしい。

 ああ、ばかばかしい。

 本当に、ばかばかしい。

 カツを味わいながら、その懐かしい味に喜びながら、あたしは涙をこらえていた。

 何なんだろう。

 あたしの人生は一体、何なんだろう。

 足りないところを補ってくれるカツ丼さえ気軽に食べられない国で、あたしは何をやっているんだろう。

「……クソが」

 最初のひと口を飲み込んだ後、思わず口に出ていた。

 そのとき、視界の端で白衣がひるがえった気がした。

 振り返ると、白いよれよれのジャケットを着た男が、あたしを見下ろしていた。

「高瀬」

 そう言った男は、じっとあたしの顔を見つめていた。あのときと同じメガネの奥の、何を考えているのかわからない目で。

「まかべ」


 駅前のビジネスホテルのロビーで、あたしは高瀬にそれを突き出した。

「会いに来いって言うから、来た」

 真壁は予想通りだとでも言うように口元を軽く持ち上げた。

 こいつは、変わっていない。

 ずるいほどに。

「今すぐって、どれだけ勝手なの? あたしがアメリカに行くこと知っていながら、よくこんな言葉を吹き込めたもんね」

「だからと言って、律儀にやって来るほうもどうかと思うが」

「死にたいの?」

「しかし、意外と早かったな。予想では、あと数年先だったんだが」

 言うなり、真壁はジャケットのポケットからマイナスドライバーを取り出した。ぎょっとしていると、それを硬貨の投入口に入れてぐりぐりとひねり始めた。

「ちょっと、何してんの」

「中身を確認しないといけないからな」

「壊れちゃうじゃない」

「これは壊すべきものなんだよ」

「ていうかいつもそんなもん持ち歩いてるわけ?」

「いつもじゃない。予感がしたときだけだ」

「何それ」

「俺は天才であり、神だからな」

 その言葉を終えると同時に、箱は嘘のようにパカリと開いた。真壁は中から滑り落とすように硬貨を手に受け取る。

「おい、おまえズルしたな」

 銅色の中にひときわ輝いているクォーター硬貨を見て、真壁はあたしに目を向けた。

「しょうがないでしょ、なかったんだから。ていうかそのへんも配慮が足りないわよね。大体なんで十円なわけ?」

「おまえ、何回十円を入れたか覚えてないのか?」

「覚えてるわけないでしょ」

 真壁は手のひらの十円玉を見ながら、つぶやくように言った。

「神の言葉は、42回流れたら終わるようになっている。つまりこれは、あのときのカツ丼代だ」

「は?」

「420円。財布忘れたとか言って、体よく俺におごらせただろうが。なんてあつかましい女だと思ったんだ。その後も何度も返済要求したが、小銭がないとか言ってとうとう卒業まで踏み倒したよな。どんだけガサツなんだ。女として終わってるぞ、ほんとに」

 あたしは、その言葉を理解するのにしばらく時間を要した。

「じゃ、じゃあ、何……? あたしにカツ丼代を返させるためだけに、こんなまどろっこしいことしたってわけ?」

「正攻法が通じないのなら、策を弄するよりほかないだろう」

「バカなの!?」

 落胆と呆れとで、思わず叫んでしまう。ロビーに響き渡ったその声に、真壁は肩をすくめた。

「バカはどっちだ。カツ丼代を返すためだけに、はるばるアメリカから飛行機でやって来るとは」

「あんたのせいでしょうが!」

「元はと言えばおまえが金を返さないのが悪い」

 ぐうの音も出ない。

 一気に体から力が抜けていくのを感じ、あたしはそばにあったソファに座り込んだ。

「しかし、これじゃ足りない……いや、多いのか? 今日のレートは……となると、25セントは約30円か。約440円だな。まあ、利子として受け取っておこう」

 ぶつぶつとつぶやく真壁をよそに、あたしは自分に与えられたこの人生、この運命を嘆くほかなかった。たった440円のために十時間以上飛行機に揺られ、真壁に会った衝撃のせいでカツ丼もじっくり味わえなかった。数日いるつもりだったけど、明日には帰ろうか。もう一度だけ、きちんとカツ丼を食べた後で。

「おまえ、いつまでこっちにいるんだ」

「すぐ帰る。来週、結婚式だし」

「そうか」

 特に動揺の見えないその声に、あたしはため息をつく。べつに動揺してほしかったわけじゃない。けれども少しは驚いてほしい。あたしが本当に高嶺の花だったってこと、きれいなドレスと王子様のような旦那様を使って、こいつに知らしめてやりたかった。

「おめでとう」

「ありがとう」

 どこか義務的なそのやりとりは、あたしの体に疲れをもたらした。

「もう行くね。まだ仕事なのに、付き合ってもらって悪かったわ。ニットの女の子に電話番号渡してきちゃったけど、あれもう捨ててもらっていいから」

 あたしは真壁と目を合わせないようにして立ち上がった。膝が笑った。何を期待していたと言うのだろう。

 過去を振り返るなかれ。

 その「神の言葉」は、案外あたしに、本当に必要な言葉だったのかもしれない。

「高瀬」

 エレベーターに向かうあたしを、真壁が後ろから呼び止めた。

「言ってなかったな。このガジェットの、真の名前を」

「聞いたって。『神の御言葉ガジェット』でしょ?」

「違う。真の名は、『高瀬が幸せになり器』だ」

 そのあまりに安直な名前に思わず噴き出す。

「何、それ」

 バカなの?

 そう言おうとして、振り返った。

 そこに、真壁の笑顔があった。

 目に涙を浮かべた、情けない笑顔が。

「これを聞くたびに、おまえが幸せになっていく。それを願って作った。その通りになったようで、よかった」

 真壁はそう言うと、赤くなった鼻をこするようにして手で隠した。

 自分の中で、蓋がはじける感触があった。

 あのバカげた工作物がこじ開けられた時、あたしの中にどんな期待があったのか。

 そんなの、とっくにわかっていることだったのに。

「バカなの?」

 あたしは、自分の目の前にある「今」に向かって、一歩ずつ足を踏み出した。

「そんなバカみたいな機械で、あたしが幸せになれるわけないじゃん」

 真壁のまつ毛がかすかに震え、涙が頬をつたった。あたしは頬に手を添え、その涙を拭きとるように撫でた。

「あんたが幸せにしてよ。してくれなきゃ、許さない」

 真壁があたしの手にゆっくりと手を伸ばした。触れる直前に躊躇したように止まったが、やがてその震える指は、あたしの手の甲をそっとつついた。

「俺に、できるか?」

 真壁に似つかわしくないその言葉に、あたしは笑った。

「あんた、神なんでしょ。天才なんでしょ。できないことなんか、ないはずじゃない。それに」

 あたしは真壁の胸に顔をうずめた。

「440円のために、このあたしがわざわざ会いに来たくらいなんだから。自信持ちなさいよ」

「そうだな」

 頭が撫でられると同時に、懐かしい真壁の匂いがした。過去の匂いだけど、今の匂いであり、未来の匂いでもある。


 440円で手に入れたものは、あたしの人生だ。

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きみに会うための440円 七海 まち @nanami_machi

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