07 永久と庭(あい)

 彼女が死んだのは私が大学二年になる、やっぱり夏の前だった。

 拝島さんから久しぶりに連絡が来て、またOB会でもするのかと気軽に電話を取った。

 私はバス停にいた

 少し前まであぜ道だったのに、いつの間にか舗装されていて、一体いつごろ工事をしたのだろうと考えながら、拝島さんの声を聞いていた。

「死んだ?」

 私が声を発したのはそれだけだった。

 拝島さんは泣いていた。よく泣く人なのだ。彼女が部活を辞めた時も、自分がいけないのだと、何もかもを任せすぎたらかいけないのだと言って、ずいぶん長い間泣いていた。

「死んだ」

 何度も繰り返してみたけれど、ただ同じ音が口から出るだけで変わらなかった。

 あの人と連絡を取り合える人間は拝島さんしかいなかった。だから私も、拝島さんとは連絡を取り合っていた。いつか会いに行くときに、連絡を取って貰わなくてはいけなかったから。

 いつか。

 いつか――。


「溺死だって」

「えー。私は不審死って聞いたけど」

「だから、その溺死が不審だったって話なんじゃないの」

「どゆこと?」

「いや察してよ」

「は?」

 かなり久しぶりにあった部活の面々は、黒い服に着られて窮屈そうだった。顧問が連絡の取れる人間にはみんな連絡を取ったのだという。

 彼女は大学にも専門にも行かず、高校を卒業すると同時に就職した。建築会社の事務で、小さな会社だった。それは知っていた。あの人に会いにいく時に、そういう情報を知っていなければ、拗ねられてしまう可能性があった。

 あたしのことなんて、忘れてたんでしょ、なんて言われたら堪らない。私は、彼女に会いに行く想像をしなかった日は、ほとんどなかった。

 それでも、行かなかった。

 どれくらい頑張れば、あの人が納得してくれるのか分からなかった。自信がなかった。せめて、何かの試合で実績を残して、どこかの実業団に入れば、もしかしたら。

 そんなことを言って、本当は諦めていたのだ。

 自分が、あの人のように一人になれるはずなんてなかった。

 それにいつまでも、記憶の中のあの人は美しく飛んでいたから。それだけあれば、もう充分なのではないかとも思っていた。

「あなた、木島さんでしょう?」

 そう声を掛けてきたのは、喪主の女性だった。彼女の叔母だという。

 父親は前の年の冬に亡くなったと聞いた。

 目尻に皺が寄っているが、口元が少しだけ彼女に似ているような気がした。けれどもう、本当はしっかりと彼女の顔を思い出せなかった。

「あの、」

 惑っていると、その人は赤い目からほろほろ涙が零れるのを気にもとめず、続けた。

「あの子に良くしてくれて、本当にありがとうね」

「え?」

 自分の声がこれほど間抜けに聞こえたことはなかった。

 そんな私のことなど気にせずその人は続けた。

「あなたの話ばっかりしてたのよ。本当に。今度の試合ではレギュラーだって、とても喜んでて」

「それって」

 思わず肩を掴んでしまって、はっとなってすぐに離した。けれど、その人はそれも全く気にしなかったようだった。私が取り乱していると思ったらしい。

 勿論、取り乱していた。

「あの人は、私のことを――」

 そこまで言って、言葉が続かなかった。だって、何を聞けばよいのか分からない。

 私のことを知っていたんですか? 恨んでませんでしたか? どう思っているんですか?

 そんなことを知っているはずがない。あの人以外、知りようがない。

 もうここにいないのに。聞いても仕方がない。

 あなたはもう、会えない場所に行ってしまった。

 もう会えない。もう二度と。顔を見ることが出来ない。

 あの人の美しい瞳を見ることが出来ない――。



「なにか思い出した?」

 顔を上げると、私はまだ体育館にいた。

 観客席ではなくて、コートの中にいる。そうして、彼女が。先輩がまだ目の前にいた。

「よっ」

 と小さく声を出して、彼女は感触を確かめるようにボールを何度か床に叩き付けた。叩き付けて、弾んできたボールを、手の平の上に滑らせてくるくる回す。よくやっていた癖だ。よく知っている。

 それを盗み見ていると、彼女はぱっと私に目線を送って、笑った。

「お前もこれ、やってたね」

 そうだ。

 あれ以来、私はずっと彼女の真似をしていた。

 足の踏みきりの位置も、手の振りの大きさも、振り下ろす強さも。サーブを受ける時に一度コートの外へ視線を外すのも、流れが悪くなるとシューズの裏を手の平で触るのも、右腕で頬を擦って汗を拭くことも。

 早く一人になるために、この人と同じになるために、何もかも真似をしていた。

 そんなことは無駄だと思っても、そうせずにいられなかった。

「先輩」

 それが今、目の前にいる。

 今までだって、ずっと一緒にいた。沢山の観客席で目が覚めて、話をした。何の関係もない話をし続けてきた。けれど今では、どうしてそんなことが出来ていたのか分からない。

 だって時間は過ぎるのに。

「せんぱい」

「なに」

「どうして――」

 どうして? と彼女は繰り返した。

 冷笑ではない。けれど、いつもの甘ったるい声色でもない。優しく先を促すような、それは初めて聞いた声だった。

 せっかく彼女がそこにいるのに、視界が滲んで顔が見えない。

「わたしは、先輩に、聞きたいことが、たくさん」

 規定の量を遙かに超えた風邪薬と、多量のアルコール。それが彼女の死を不審にさせた原因だった。事故なのか、少しでもその意志があったのか。

 叔母は、あれは事故だと言った。

 会社の人たちは、最近少し元気がなさそうだったと話していた。

 その一週間前に、拝島さんは社会人のチームに彼女を誘っていたのだという。

 その時、今はまだ無理だと言って、彼女は笑っていたそうだ。

 どれが本当なのだろう。一体、彼女は何を考えて生きていたのだろう。

 聞きたいことがたくさんあるのだ。どんな生活を送ってきたのか、その時何を思ったのか、私は、彼女のことならば何でも聞いて、なんでも覚えておきたい。

 何もかも知りたい。

 けれど、本当に聞きたいのはひとつだけだ。これだけ。

「先輩は、私のこと――待ってたんですか?」

 あの時、許さないとは言ったけれど、待っているとは言ってくれなかった。

 時間が過ぎるにつれて、私だけがこんな風にいつまでも昨日のことのように覚えているのではないかと、不安になった。話に聞く彼女の生活は、中学時代のことなど全く忘れてしまっているように聞こえた。

 けれど、この人はずっと私のことを見ていたのだ。

 私のことを知っていた。次の試合でレギュラーになったことまで、ちゃんと。

「ばーか!」

 と突然彼女は明るい声色で言った。

 瞳の中の涙が邪魔で、顔が見えない。けれどぼんやりと手が伸びて来て、頬に触れたのは分かった。

 触れたと思ったら、すぐに両頬を強く抓られた。ぽんぽんぽん、とボールが弾んでどこかへ行く音がした。

 涙がいくつか零れて、視界が少しはっきりする。

「待ってたよ!」

 怒った顔で、彼女は言った。けれど、それは怒っているふりをしている時の顔だった。怒っていないのに怒っていると思われて、怒っていたときの顔。

「お前は、本当にヘタレだ! いくら待っても来ないし、あたしのことなんて忘れましたーって顔して生きてるし。でもあたしから行くのなんて絶対嫌だし。待ちくたびれて間違えて死んじゃったじゃん! どうしてくれんのさ!」

「間違えて――死んだんですか?」

「そうだよ! 酔っ払って死ぬなんてマジださい。お前のせいだ。お前が、来ないから!」

 と、抓る力を緩ませないまま、私の頬を左右に大きく引っ張り、離した。

「いっ、痛いです」

「でも許すよ」

「え?」

 私の聞き返した声を無視して、彼女は転がったボールを取りに行った。

 ネットの向こう側に行ってしまっただけで、酷く心細くなる。この競技では、囲いの向こう側が一番遠いのだ。すぐ近くにあるのに、ベンチよりも、観客席よりも遠い。

 彼女はコートの中に戻ってくると、手元でくるくるボールを回しながら「許すよ」ともう一度繰り返した。

「許して、くれるんですか?」

「うん。だって、今ひとりじゃん」

 そう言って、先輩はあたりを見回した。

 見たことあるような、ないような体育館だ。やけにまぶしい光が窓から入って来ている。誰もいない。見渡す限り一匹も、一頭も、一尾も動物が見当たらない。

「ここには、お前とあたししかいない」

 ずっと、どこに行っても二人しかいなかった。

「お前は生きてる人間としてひとりだし、あたしは死んでる人間としてひとりだし。だから許すよ。すっごい遅いけど、迎えに来てくれたってことで」

 彼女が笑いかけてきて、それを見たら私の口が勝手に「うう」と声を漏らした。

 先輩は下にいるのに、私を見下げるような目をして、また冷笑した。

「お前、本当に赤ちゃんみたいだね」

「い、いわれたことありません」

「そう? みんな頭悪いから気付かないのかな」

「そういうところが――そういうところですよ」

「ええ?」

 少し嫌そうに、けれど、全然嫌そうじゃなく、彼女は笑った。

 彼女はコートの中だけでなく、本当はずっと傲慢だし、優等だし、周囲を一顧だにしていない。この人が一人なのは、この人のせいだ。

 けれど、一人でよかった。

 誰も許さず、この人が一人でいてくれてよかった。

「よし、じゃあやろうか」

 そう言って、彼女はボールを投げてよこした。ネットから少し離れて、助走の位置に入る。それから、ちょっと目を細めて言った。

「下手なトス上げないでね」

「はい」

 でも、そんなのは関係なかった。どんな上手なトスも、下手なトスもこの人の前では意味がない。

 彼女は飛んだ。

 あの頃と同じように、止まっているようにずっと飛んでいた。けれどそれは、永久のような一瞬ではなく、ただの一瞬だ。

 今、私と同じ時間にいる彼女の、ほんの一瞬。

 ボールの叩き付けられる音がして、彼女は着地した。

「きじま」

「はい」

「良いこと教えてあげようか」

「なんですか」

 そう聞くと、その瞳を見せびらかすように、私を見た。

「コートって、求愛するって意味があるんだって」

 いけしゃあしゃあとそんなことを言って、彼女は冷笑した。

「知ってますよ」

 と、彼女の美しい瞳を見ながら、私は答えた。

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かこいち、きゅうてい、あいしあう。 犬怪寅日子 @mememorimori

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