06 こ
Cohors
囲い地。中庭。そこで共に訓練する人間たち。軍隊。集団、群衆。
「おなじばしょで、おなじときを、すごす」
ママの声は耳に引っかかって滑らかではなく、変だった。
「かこいのなか、ひとりじゃない、いっしょ、みんなといっしょ」
でもそれは嘘だ。
ママはあたしに嘘しか言わない。いなくならないと言ったのに、いなくなった。
あたしはずっと一人だった。コートの中に入っても、囲われた土地の中にいても、誰も一緒の時間を分かち合ってくれなかった。
才能があるから。
じょうずだから。
人より、すぐれているから。
みんなみんな、あたしをコートの中でも一人にしたがった。
「先輩」
中でもきじまは一等賞だ。
まるで神様でも見るみたいにあたしを見る。
でもあの子は、高い高い場所で一人になっているあたしが好きなのだ。囲いの中にいるのに、一人でいるから好きなのだ。
だから、いずれ必ず訪れるこのあとの未来に、あたしがコートの中で一人じゃなくなったとしたら、誰よりも早く遠くに行ってしまうだろう。
だから高い高い場所へいけなくなったら、あたしはやっとコートの中で「みんなといっしょ」になって、でもきっとその時、あたしは本当の本当に一人になってしまう。
それはすぐに来る。
あたしはじきに落下する。下降する。凋落する。
本当のひとりになってしまう。
ひとり。
ずっとひとりだったのに、またひとりになる。
「あたしは、お前のせいで辞めるって言ってるんだよ」
そう言ったとき、きじまはウロの目であたしの目をぱっと見た。いつもすぐに熱がこもって、濡れる瞳が今はまだ冷たく固まっていた。
拾ったボールを籠に入れたら、ビニールの間抜けな音がする。
「どういう、意味ですか」
「そのままだ。そのままの意味だよ」
「そのままの意味では意味が分からないから聞いています」
きじまが怒っているのを見たのは、初めてだった。
そして、最後だ。
「このまま続けたら、あたしは必ず誰かに負けるよ」
その言葉に、きじまは確かに反応した。
「もっともっと高く飛べる人間はいくらでもいる。そうでなくても、あたしの絶頂は今だ。今よりあとの未来では、あたしの体はどんどん飛べなくなる。落ちる一方だよ。こんな風に飛んでいられなくなる」
「そんなこと」
「分からないって? なんでそう言えるの。だって時間は過ぎるのに」
その言葉に、ぽかんとした顔できじまはあたしを見た。
「時間?」
「そうだよ。時間だ。お前を見ていると――お前があたしを見ているのを見ていると、まるで時間が過ぎないとでも思ってるみたいだ。馬鹿じゃないのか? 時間は過ぎるんだよ。今も、今も、また今も、さっきまでとは違う。あたしは少しずつさっきの自分から成長していく。でも成長は、絶頂が過ぎれば老化だ。衰えだよ。これから先の未来、時間が過ぎていくたび、あたしは衰えていく」
頭の中にときどきママの言葉が浮かぶことがある。
膝の頭をすりむいたとき、パパに怒られたとき、空が落ちてくる夢を見たとき。ママはいつでもあたしに言っていた。頭を撫でて、眠りの水際に浮かんでいる鳥のような声で言った。
「ぜんぶ、とおりすぎるよ。こわいものは、じっとしていたら、みんなとおりすぎるよ」
その通り、恐ろしいことは全て通り過ぎた。
けれど、じゃあ幸福は?
何もかも通り過ぎていくのだとしたら、あたしがやっと手に入れた幸福は?
それもまた過ぎて行ってしまうのじゃないか。
「go by,go by,go by――」
ママのおまじないの言葉を繰り返すと、大体は安心して、ときどきは死んでしまいたくなった。
「だから、お前のせいで辞めてやる」
きじまの黒い目は、もうどろどろ溶けていた。
「どうして」
と、それだけきじまは零した。
感情をだらだら流しっぱなしで、赤ちゃんみたいだ。きじまが笑うようになったと言って拝島は喜んでいたけれど、それが本当に良いことなのか、良かったのか分からない。
「お前はあたしを遠ざけた。あたしの目を見て、遠くを見るような目をして、遠ざけて、一度だって同じ場所に来てくれなかった。ずっと一人のあたしを、もっと一人にした」
きじまは、心底から傷ついているという顔をした。笑わない機械のような人間のままだったら、きっとこんな顔もしなかったはずなのに。
「だからお前のせいで辞めてやるんだよ。拝島にも言うよ。もう自信がなくなったって。きじまがいるから、もうあたしは必要ないだろうって言うんだ。きっと止めるけれど、絶対に応じない。もう二度と飛ばない。それで」
と、もう一度きじまの顔を見たら、傷ついた顔のまま滞留していた。これ以上恐ろしいことはないだろうという顔をしていた。
けれどあたしは、もっと傷ついた顔をさせることが出来ると、知っている。
「あたしたちの引退試合にはお前が出るんだよ」
きじまの目が動いた。上向きに動いたように見えたけれど、本当は下向きに動いたのだ。だってきじまとあたしの間には、いつでも十三センチの距離がある。
「でません」
ぽこりと、水の底から空気が浮かんできたみたいに、きじまは呟いた。
「先輩が辞めるのなら私も辞めます」
「でも出るんだよ」
「出ません」
「出るんだよ!」
首元を引っ張ったら、きじまはぱっとあたしの目を見た。
「お前が試合に出て、エースとして出続けて、コートの中で一人になるまで、あたしはお前を許さない」
なんで、とその口は動いたのだろうか。音になっていないから分からなかった。
「それでどうしようもなく一人になって、一人じゃなくなることも怖くなって、時間が過ぎる音が聞こえるようになって――」
握っていた首元のシャツを放つと、きじまは二三歩後ずさって、放り出された犬みたいな顔をした。
「そうしたら、あたしはやっとひとりじゃなくなる」
あたしたちは、やっと一緒になる。
囲いの中、同じ時間を過ごせる。
「それまで、絶対に許さないから」
でも、そんな日は絶対に来ないだろう。
拝島も明菜もモモも、きじまを一人にさせるはずがない。その先も、その先も、もっとずっと先の未来にいても、きじまは一人にならない。
あたしのように、本当に感情のない人間とは違うから。
だから許さない。
あたしが許さないでいれば――いや、あたしに許されていないときじまが思っている限りは――きじまの中にはあたしが残るだろうから。
今も、今も、また今も、全てが馬鹿みたいに過ぎ去っていっても、きじまの頭の中のあたしは、今のままだ。
通り過ぎないで、このまま。
けれど、全て飲み込んで、何も吐き出さないはずきじまは小さく声を吐いた。
「待っててくれるんですか」
「ええ?」
と、自分の口から軽い声が漏れていた。きじまは続けた。
「私がこの後も続けて、先輩のようになる日が来たとしたら、またあなたと一緒にいられるんですか」
黒い瞳が固まっている。そうだ。そうだった。この子の目はこんな色をしていた。虫が作った穴みたいで、でも、それはウロじゃなかった。
きじまの目の真ん中には、いつもあたしが映っていて、その目は、たくさんの情感を孕んでいた。
「私がコートで一人になるまで、あなたは待っていてくれますか?」
情感。
感情?
「私は、あなた以外と一緒にいても、笑えません。何も面白くない。あなたと一緒じゃなきゃ嫌だ。だから、あなたがそう言うのなら続けます。それであなたが一人にならなくなるのなら、私も一人になるまで辞めません。けれど、その代わり」
そう言って、きじまはあたしに触れようとして、直前で止めた。シャツの裾を子供のように引っ張って、子供がなく寸前の顔で、言った。
「私が一人になるまで、あなたも一人のままで、待っていてくれますか」
ウロの目に映ったあたしの顔は、歪んできた。
それはきじまの目が潤んでいるからだ。
そうに違いなかった。
「それはお前次第だ」
あたしはきじまの言葉に頷くことは出来なかった。
だって、これまでずっと待ち続けていたのだ。過去から現在までの今まで、ずっと、ずっと。
誰かがあたしの元に来て、一緒になるのを待っていた。
けれど、それは、とても恐ろしいことだった。来るかどうか分からない未来を待ち続けるのは。一人で時間の過ぎる音を聞き続けることは。
それはとても、こわいことだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます