03 連綿と全部

 

 また観客席で目が覚めた。

 何かを覚えているような気もしたが、何も思い出せなかった。

 ただ、彼女がいる場所だということだけは分かる。それでも、やっぱり私の耳は頭に平べったく潰されていて、それ以上うまく頭を働かせられなかった。きっと両者には関係があるに違いない。

 観客席は眠るためのものではないのだ。

 体を起こすと、水が放つ薄い青色が見える。その他も、かねがね水色をしている。しかしこれは水自体の色ではなく、底に塗られたペンキの色だ。薄くて白い青。

「起きたぁ?」

 と、飛び込み台の上から二番目に立っている彼女が、大声で呼びかけてくる。

 かなり広いが、室内だった。天井と壁の色は白に見えるけれど、よく見るとそれもうっすら青い。全体、明るい水底に作られているような色をしている。水泳競技専用の施設のようだ。

 彼女のいる飛び込み第の上から二段目に辿り着くまで、相当時間が掛かった。

「起きたね」

 辿り着くと彼女はそう呟いた。

 やはり、少し明るい茶色の髪をしている。それもまた、写真の中でしか見たことがない。この前見たときより、若い頃なのか、そうでないのか。

 彼女の明るい髪は見慣れないが、彼女にとってはその髪色の方が自然なのだ。あの頃は、地毛を暗く染めていた。スポーツ精神をはき違えた大人たちのせいだ。

「制服だ」

 と彼女は言った。

 なんだと思うと、確かに私は高校の制服を着ている。しかも夏服だ。白いブラウスに赤くて細いリボン、それに古くさいジャンパースカート。私は、この制服を数える程度しか着たことがない。ほとんどジャージで過ごしていた。

 彼女が着たらさぞ似合うだろう、と何度も思った。

「なるほどね。なかなか」

 と言う彼女の方は、薄いピンク色のブラウスに、黒いタイトスカートを着ている。オフィスカジュアルというものだろうか。ということは、晩年のものかもしれない。晩年。死ぬ前の。

 そこまで考えて、この前のやりとりのことを思い出した。もしかして、核心に触れてしまったら消える世界なのだろうか。

「なになにー」

 黙っていると、彼女がにやにやと顔を覗き込んで来る。その背面の、遙か下方にある人工的な水溜まりに、足が竦む。

「先輩。どうしてそんな縁に立つんですか」

 止めてください、と小さく言うと、余計ににやにやした顔で見られた。

「きじまは臆病だからなぁ。やっぱりアタッカーに向いてないよ」

「知ってますよ、そんなことは」

 そう言って、手を引っ張ると大人しく少し内側に寄ってきた。ここから落ちた所で死にはしないだろうが、と考えて、そう言えばもう死んでいるのだった、と思い直す。

「セッターに転向したんでしょぉ?」

 まだ笑みの残る声で彼女が言う。見ると、なぜか服が替わっていた。

 知らない制服だ。白と紺のセーラー。赤いリボン。髪色もかなり明るくなっている。染めている金色だ。高校の頃だろう。あの頃、私は何度その姿を想像したか分からない。私の全く知らない生活をしている彼女のことを。

 中学のあの一件以来、私たちは校舎で稀にすれ違う程度の関係しか持たなかった。彼女が先に卒業して、それきり会っていない。私は隣の県の高校に進学した。

「もったいないなー」

 いけしゃあしゃあ、という言葉を使いたくなるような口調で彼女は呟いた。

「なにがですか」

「だって、それだけ身長あるのに」

 アタッカーを辞めたことを言っているのだろうか。今さっき臆病だと言ったのを忘れたのかもしれない。彼女はとても忘れっぽいから。

「これくらいの身長、上に行けばいくらでもいます」

「上。上ね」

 まずい、と思ったがもう遅かった。彼女が言葉を繰り返す時、ろくな目にあったことがない。

「もう笑えないって言ってたのにね」

 その声に、心臓から泥が流れ始めたみたいに、急激に体が重くなる。

 けれど彼女の言葉に重みはなかった。それが却って体に重くのし掛かって、喉が詰まった。

 彼女はやはり軽い調子で続けた。

「傷つきやすいね。やっぱりアタッカーに向いてないよ」

「だから」と無理に声を出した。「それは知ってます」

 というより、スポーツ全般に向いていない。戦うことが嫌いだ。負けて悔しいという気持ちが未だに分からない。いくら高尚さを気取ったって、勝ち負けへのこだわりは醜い。戦争と何が違うのか分からない。

 部活に入ったのだって、本当にやりたいと思ったわけじゃない。

 この人がいたから。

「相変わらず怒らないなぁ」

 と、顔を覗き込んだまま彼女は零した。

「怒らない? 私がですか?」

「そうだよ。どう考えても理不尽だろうに」

「怒る?」

 自分の声が水や壁に反響して帰ってくる。まるで何も知らない宇宙人みたいな声だ。

 酷く間抜けで、頼り甲斐がない。

「腹が立ったら怒るべきだ」

 全く、というように彼女は腰に両手をあて、ふう、と息を吐いた。その姿は相変わらず愛らしかったが、今はそれどころではない。

「私が先輩に怒るわけないじゃないじゃないですか」

 これだけは、心底から理解して貰わなければ困る。

 そんなことは、あり得ない。

 彼女は私の全てだった。私が私である全て。存在する全て。いくら遠くに行ってしまっても、それだけは変わらなかった。いつか会いにいけると思いながら、もう会えないかもしれないと思いながら、それでも。

 それでも彼女は私の全てだった。

 私の栄光の全て。

 私の感情の全て。

「それは刷り込みだよ」

 と、彼女は私の知らない制服を着たまま冷笑した。

 だからなんだ、と口にする前に、私の意識は途切れてしまった。

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