かこいち、きゅうてい、あいしあう。

犬怪寅日子

01 従順と積年


 観客席で目が覚めた。

 何も覚えていない。 

 耳が平べったく頭に押しつぶされているせいで、自分のいる場所と時間が分からなかった。でも、もしかすると、その両者に関係はないのかもしれない。

 顔をあげると緑の芝が見える。それから白線で四角く囲われたコート。

 あれは、ある種の人間に呪いを齎す線だ。だって実際にはあの線の内側と外側で、違うことなどなに一つないのだから。

 線を越えたらアウトで、越えなければセーフだというのは、集団幻覚だ。

 それでも、その幻覚の中でしか見られない景色が確かにある。あった。

「ああ」

 夢だ、と思ったのは見慣れぬ光景のせいではなく、見渡す限り一匹も、一頭も、一尾も動物がいない世界の中に、一人だけ人間が存在していたからだ。

 芝のコートの真ん中で、彼女はことさらゆっくり顔を上げた。

「あー、きじまぁ」

 声と共に、金色に近い明るい髪が肩の下で甘ったるく揺れている。

 見知った顔だし、見知った声だし、見知った表情だった。

 だけど、意味が分からない。

 私は、その彼女の髪色を、写真の中でしか見たことがないはずだ。線香臭い悲しい部屋で見たのだ。

 なぜその姿なのだろう。

 どうせ現われるのなら、幸福と共にあった時代の姿で現われるべきだ。

 それは勿論、私が幸福であった、という意味で、彼女の方はどうだか知らない。もしかすると、別段記憶に留めておくべき時代ではなかったのかもしれない。だからその時の姿でいないのかもしれない。

 考えただけで気が狂いそうだ。

「やっと起きた」

 下まで降りていくと、彼女はそう言った。

 はぁ、と自分の口から声が漏れていることが、摩訶不思議なことに思えて仕方がない。

「起きた、というより、寝たんじゃないですか?」

 そう答えると、彼女がかくんと首を傾ける。

「なに? 哲学的な話?」

「哲学――ではないですね。これが夢なら現実の私は寝ているわけですから、起きたかと聞くのはおかしいと言ったんです」

「きじまの夢なの?」

「私には意識がありますから、夢ならば私の夢だと思いますが」

 つまり、このやりとりが自問自答ということになる。

「それって、あたしも意識がある場合はどうなるの?」

「――さあ」

「分かんないの?」

「よく分からないです」

 誰の夢か、ということではなく、全体的に意味がわからない。

 すると、彼女は犬にボールを取ってこいと言うような気軽な傲慢さで命令した。

「じゃあ考えて」

 私の頭は彼女の声に従順で、即座に言われた通りに考え始める。

 まずこの景色には見覚えがない。夏空が見えるけれど、温度も感じなければ、音もしない。本当に夏かどうかも分からない。

 ただ、とても明るいことだけは確かだ。

 全ての物が、プールの底から見上げた太陽のように色をしている。

 そして、どこにも誰もいない。 

 けれどそれは、とても正しいことのように思えた。ここは、何もいないことで初めて出来上がる世界に違いなかった。

 そんな風に私が懸命に、真剣に考えている間、彼女は蝶々に気でも取られているような顔をしていた。コートの外で真面目な顔をするのが苦手なのだ。

 よくそれで顧問に怒られていた。

「霊界との扉が開いたのかもしれませんね」

 そう答えを出すと、彼女が無意識から意識の方へスライドしてくる。そしてまた首を傾けた。

「れいかい?」

「霊界。ゴーストの霊です。界の英語は知りません。世界の界」

「ああ、霊界。spiritual world」

「霊界の英語ってスピリチュアルワールドなんですか?」

「たぶん。使う機会ないからあやふやだけど」

「私もはじめて発声しました」

 はっせい、と言って彼女は笑った。

 意識して行うのでない彼女の笑いは、いつでも冷笑めいていて、とても好ましい。甘ったるい雰囲気が消える瞬間――彼女の獣めいた純存在が見える一瞬――それが好きだった。

「霊界ってぇ、なに?」

 間延びした声に戻って彼女は呟いた。

 彼女の瞳は薄い青と茶が混ざっている。それを見る度、どこか知らない遠い国の、やはり誰もいない海の浅瀬を思い出した。思い出していた。

 幸福だったあの時代。

「先輩は死んでいます」

 すると、彼女はごく簡単に「うん」と答えた。

「私は生きています」

「そうだね」

「普通、生きている人間と死んでいる人間は同じ次元にいません」

「いないかな」

「いないと思いますが」

 少なくとも今まで、私の前には現われなかった。

「だから――ここは霊界です」

「なるほどねぇ」

 その口癖もよく覚えている。

 これを使う時、彼女は納得しているのではなく、会話の内容に飽きている。

 案の定、今までの会話を勢いよく投げ捨てるようにしゃがみ込むと、彼女は芝の上にぐったりと横になっているネットをぞんざいに掴み上げた。

「じゃあ、ネット張ろう」

「じゃあ?」

「うん?」

「順接で良いんですかそれは?」

「じゅんせつ?」

 おぞましい、と形容したいほどにそのネットは絡まっている。

「どうしてネットを張るんです?」

「そりゃあコートだからだよ」

 彼女がぶんぶんと振るので、ネットは余計に絡まったように見えた。彼女が持っていない方のワイヤーと手にすると、全く覚えのない重みをしている。

「なんのネットですか?」

「テニスのネットだね。ここはテニスコートだからね」

 改めて辺りを見回すと。確かにテニスコートに違いなかった。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。

 彼女は笑っている。

「コートにネットがあるのに、張らない理由がない」

「――なるほど」

 彼女の言動はいつも突飛だが、彼女の言うことはいつでも正しい。

 少なくとも私にとっては、常に、最上級に、鮮烈に、正しいと思える。

 そういう所は変わっていない。



 無論、ネットの絡まりをほどくのは私の役目だった。

 テニスのネットは張ったことがなかったけれど、いつもやっているのと大して違いはなかった。すべてを張り終えて、ラケットもボールもないことに気が付いたが、あった所でテニスをするとも思えない。

「張れました」

「張れたね」

「どうですか」

「どう? どうって?」

「なにか感想は」

「ネットだなって思うよ」

「そうですか」

 海と陸の混ざった瞳で、彼女はぼうっと観客席の方を見ていた。

 せっかく張ったのだから、もっとネットを見てくれても良いものだと思いながら、同じ方向を眺める。

 少し場が翳ってきているのかもしれない。

 こんな場所でも時が止まらないのだとしたら、あまりにも絶望が過ぎて、ほとんど希望のようにさえ思えてくる。

「お前、あそこで寝てたんだよ」

 と、彼女は言った。

 その声に、小さな足の爬虫類が猛然と体の上を這って行ったように感じた。その足の触れた場所が粟立って固まる。

 彼女の放つ三文字の言葉は、いつでも、私に畏怖に似た興奮を齎した。

 二人でいるとき、彼女は私に「お前」という言葉をよく使った。

 他の人間をそう呼んでいるのを、見たことはない。

「いつまでも起きないから、もう起きないのかと思った」

 微かに甘さを残した、けれど、本質の見え隠れした鋭い声音で彼女は続けた。

 本質。

 彼女の純存在。人間社会にこなされる前の、彼女の本当の姿を見られるのは私だけだと、あの頃の自分は何度思っただろう。 

「そんなに長い間寝ていましたか」

 そう言って顔を覗く。あの頃は、十三センチの隔たりがあった。私はあれから五センチ身長が伸び、彼女は変わっていないように思える。

 どうも、彼女も同じことを思ったようだった。

「お前、やっぱり背が伸びてる」

「やっぱり?」

「うん。数字で見るのと、実際に見るのとは違うよ」

「数字で見たんですか?」

 しかし、彼女はその質問には答えなかった。

「テニスコートってどれくらいの大きさかなぁ?」

「――さぁ」

 屋外だと物の見え方が違うので、どれくらいなのか全然分からなかった。

「同じくらいじゃないですか?」

 ふうん、と彼女は興味なさそうに呟いた。声色に甘ったるさが戻ってきている。

 そのことに、妙な焦りを感じて、同時にこれは夢だという気軽さが湧き上がってきて、私は口走った。

「先輩」

「なに」

「どうして死んじゃったんですか?」

 けれどそこで突然、私の意識は途切れてしまった。

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