05 反復と報酬
何度も何度も、観客席で目が覚めた。
山の中の陸上競技場。夜間のスタジアム。五十席しかない映画館。普通のプール。湿気の匂いのする武道館。跡の付いていないアイスリンク。遠くて長い弓道場。それから法廷。あれは――傍聴席か。
私の耳はいつでも頭に平べったく押しつぶされていて、彼女はいつでも場の中央にいた。ぽつりとただ一人だけでそこに存在していて、私に気付くと顔を上げる。
声を漏らす。
「きじま」
私たちは、あの絶望的に幸福な日々を繰り返していた。
あの時代。彼女が「特別だ」と言って、私にその美しい瞳を見せてくれていた時代。いつまでも眺めることを許してくれた、側に置いてくれていた時代。
練習試合の空き時間。帰り道の途中の公園。更衣室で最後になったとき。冬服から夏服に替わった最初の練習の日。プールの清掃を押しつけられた午前中。真夏の長い休憩。エトセトラ、エトセトラ。
側にいることの出来る全ての時間、私は彼女の陸と海の混ざった遠い国の瞳を見ていた。
そして他愛のない話を――。
もう少しも思い出せないような、どうでもいい話をし続けた。
理科の実験でビーカーが割れたとか、お弁当に入っているブロッコリーが嫌いだとか、先生の声がうるさいとか、レンゲの花が摘みたいとか、トマトが赤い理由とか。
私たちは繰り返した。
観客席から彼女のいる場所に降りて行くと、ほとんどいつも、彼女は私の知らない姿、知らない格好をしている。私はそれを贖罪のように思ったのだ。
ああ、けれど一体、誰が、誰に対して行う贖罪なのだろう。
どこに罪があったのだ。
「起きた?」
と、彼女の声がする。
私は潰れている耳を助けるために顔を上げた。そこは観客席ともいえない場所だった。手をつくと、土のような埃が手の平に埋まる。細い太ももが間に一本入るくらいの柵が見えて、その下によく知っているような、知らないような場所が見えた。
立ち上がると、分厚い暗幕が肌に触れた。体育館の上階。重い硝子の窓を開け閉めするための空間だ。
彼女はやはり場の真ん中に立っていた。
しかしそれは、私のよく知っている姿だった。あの時代。あの短く幸福だった頃の。
「ネット張るよ!」
そう言って、彼女は笑った。
体育館はどこも似たような風景をしている。
ステージがあって、時計があって、木目の床の上に赤や緑や黄色で線が書いてある。それからバスケットのリングがぶら下がっているか、天井に仕舞われているか。
「ねえ、開かない」
と彼女は床の金具を指した。
「え?」
「開かないんだって」
「開かないと困りますよ」
私は重たいポールを一人で持ったまま、さっきからずっと突っ立っている。
「開けてよ」
仕方ないので、その場にポールを下ろした。床に傷がつくと言って、他校の生徒がコーチに大声で怒鳴られているのを見てから、一度もそんなことはしたことがない。ごろん、と嫌な音を立ててさび付いたポールは少しだけ転がった。
金具はかなり傷ついていて、相当年季が入っていた。しゃがみ込んで、かかとで上から叩き付ける。こうして何度か繰り返すと、何かの弾みで突然、蓋が跳ね上がって開くのだ。
「おお」
と彼女は声を上げて手を叩いた。
「さすが名人!」
「こればっかり褒めますね」
「良いところは褒めるよ」
確かに、彼女は滅多に誰のことも褒めないが、良い時にははっきりと「良い」と言う。その声を聞くと、誰もがはっとするのだ。そして、今のは良かったのだと認識する。彼女が言えば、それは「良い」ものになる。
ネットはやはり絡まっていて、やはり私がほどいた。
「良いんじゃないかな」
ぴんと張ったネットの白帯をぺちぺちと叩いて彼女は言った。練習前にいつもやっている動作だ。その指のかかり具合を見て、私の方は納得できなかった。
「少し高いかもしれません」
やり直しましょうか、と言う前に、彼女が鼻で笑った。
「余裕」
傲慢で、優等で、周囲を一顧だにしない。それは才能による冷笑を伴った声だった。それは彼女の本当の姿だ。彼女は、本当の姿で、今私の前にいる。
純存在として。
「ボール」
「――はい」
器具室に走ることで、もう高く鳴っている心臓をなんとかごまかした。血そのものが、生き物みたいに体の中を走っている。
戻ると、先輩は両手を挙げたまま左右に倒して、軽く柔軟をしていた。見たことがある。何度も思い出したことのある景色だ。
気が付くと私たちは練習着を着ていた。
先輩の髪は、よく見知った暗い色をしている。隠しきれずに、その奥に何本もの金に近い茶色の線が走っていることを私は知っている。
「パス練」
と、気怠い声で彼女は言った。
「はい」
やはり、私はその声に、瞬時に、勝手に反応するように出来ている。
うちの部では、キャプテンはほとんど事務的なことしかしていなかった。だから全ての物事が彼女を中心に回っていたのだ。
あの部活見学会での手酷い勧誘のあと、私はすぐに体育館へ連れて行かれたのだ。さっそく目当ての新入部員を獲得出来て、上級生たちは色めき立っていたように思う。先輩も甘ったるい声で「よかったねー」と言ってふにゃふにゃ笑っていた。
バレー部に入ることを決めたのは、彼女を傷付けたかもしれないという後ろめたさと、単純に彼女の瞳の色を気にいったからだった。合わなければ辞めてしまえば良いのだと、ごく軽く考えていた。
けれど、そんな思いはすぐに消滅してしまった。
コートの中に入った彼女は、獣のようだった。
四肢の動き一つ一つが全く人間的ではなく、意志や感情を排除して肉体が動いていた。球体に向かい、走るという意志なく走り、飛ぶという意識なくすでに飛んでいる。
彼女の跳躍をコートの外から見た時、私の精神は失神していたに違いなかった。
全て止まり。
何もかもいらなくなった。
彼女の跳躍は、人生を捨てる価値のあるものだった。
「きじま」
遠くに弾いてしまったボールを追っていると、背後から彼女の声がする。
振り返ると、美しい獣が立っていた。
「あたし、もう飛ばないから」
ああ、けれど、これはいつのことなのだろう。現在? それとも過去?
どちらにせよ、これはいらない。
こんなことまで、繰り返したくはない。
「もう辞める」
引退試合を二ヶ月後に控えた、あれは夏が始まる前だった。日曜日。午前からの練習が終わった後、午後のバスケ部が来るまで、先輩は居残りで練習すると言った。勿論、私は一緒に残った。
私の上げるどんなに良いトスも、悪いトスも、先輩の前では意味がなかった。
真横から見ると、時間が引き延ばされたように、彼女はずっと空中にいる。止まったように空にいる。セッターの位置が、先輩の跳躍を見る一番の特等席だった。
いつまでもこの時間が続けばいいのにと、いつでも思っていた。
けれど、時間は終わる。過ぎる。
何本も何本も跳び続け、ふいに先輩は言った。
「ラスト」
「はい」
その、最後の一球をよく覚えている。
酷いトスだった。手汗でボールが滑ったのだ。ブレながら、かなり手前の方に飛んでしまったボールは、けれど、他の人間だったら絶対に打たなかっただろう。
現に私の口は、すみません、という言葉をもう吐いていた。
「邪魔」
と軽い声がした。
そして眼前に美しい獣が飛び出してきた。
毎秒毎秒が、永遠のような一瞬だったのだ。意志のない四肢が、横顔が、陸と海の混ざった光線のような瞳が、振り下ろされる腕の風を切る音が、私のすべてだった。
絶望的に幸福な、私の一生分の一瞬。
彼女の跳躍。
「きじま」
彼女は、私の目の前に着地して、いつものように瞳を見せびらかすように、私の目を見上げていた。
そして、もう飛ばない、と言ったのだ。
「お前が、あたしより高く飛ぶから、もう飛ばない」
彼女は冷笑していた。
「なにを、言っているんですか?」
「今日で辞める。もう一生やらない」
「先輩より高く飛んだことなんてありません」
「いずれ飛ぶよ」
「いずれっていつですか」
「近いうちの時間のどれか」
彼女の吐く言葉は、いつも少し妙だった。
「いつですかそれ!」
思ったよりも自分の声が大きく響いていて、手が震える。
「来ませんよ、そんな日は」
高い場所に手が届くのと、飛ぶのとは全く違う。いくら私が彼女より遠く、高い場所へ手に伸ばすことが出来たとしても、彼女より高く飛ぶことはないだろう。
「来るんだよ」
やけにはっきり言って、彼女は転がったボールを拾い始めた。
「お前じゃなくても、他の誰かが飛ぶ」
「高く飛んだからって、なんなんですか?」
私が彼女の言葉に口を挟んだのは、恐らく、それが初めてだった。
「他の誰かが先輩より高く飛んで、それがなんですか? どうでも良いですよそんなこと!」
あなたより美しく飛ぶ人間はこの世にはいないのだから。
「それはお前の情感だ」
「情感?」
「喜ぶかと思ったのに」
「私がですか? 喜ぶ? あなたがいなくなって喜ぶんですか? 私が?」
混乱して頭が熱くなって、くらくらした。
先輩は私を放って、ネットをくぐって向こう側のボールを拾いに行った。
「お前、コートの語源って知ってる?」
いつの間にか目の前に彼女の瞳があって、はっとした。これは今だ。今現在、目の前に存在している彼女が言っているのだ。けれど、今というのは、一体どれなのだろう。
私たちは今、どこにいるのだ。
「語源?」
「聞いたでしょ。最初に。なんであたしが死んじゃったのかって」
「聞きました、が」
そんなこと、本当はどうでもいいのだ。だって、ここにあなたがいるのだから。それだけで良い。本当にそれだけで。
だって私は、あなたのいない世界で、もう一秒だって、息をしていたくないのだ。
「聞きたいなら教えてあげるよ。きじま」
私は、あなたがいればそれだけで良かった。
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