小説の面白さは、小説の中にないかもしれない
ライトノベルというか、娯楽小説というのは、たまに不思議な作品が出てくる。どう不思議かというと、いわゆる既存の小説の範疇から超えているもので、例えば、ちょっと前なら「ケータイ小説」であったり、今でいうなら「なろう小説」といった類のものだ。
この手の作品は、いわゆる本好きの間では「小説ではない」とけなされていた類のものだったが、しかしこれらの小説は一定数の読者を確保し、書籍化され、商品として販売されている。これらがなぜ人気であるか、というのは他の人達にまかせるとして、僕が考えるのは、「小説ということにこだわりすぎていないか」と思うことがある。
娯楽というのは、必ずしも、それ単独で成立しているわけではなく、隣接ジャンルの影響を少なからず受けている。例えば、よく言われていることとして、ライトノベルの元祖と呼ばれるのは「テーブルトークRPGのリプレイ」だという話がある。身内でやったゲームの流れみたいなのを、文字おこしして、文章で読めるように調整したものだ、と言われている。
今の「なろう小説」で、なぜステータスが必要か、という話になってくると、僕の理解だとあれは「ゲーム実況」だからだ、という見方をしている。要するに、ゲームの世界のことを実況している「放送主」として文章を書いている、と思うとかなりスッキリくる。
さて、実際の「なろう小説」がどうかというところは余りポイントではなくて、「小説の面白さとは、案外小説の中にないかもしれない」ということだ。変な話、他のジャンルに存在している「文章化すると面白い何か」みたいなのがあって、それを上手く取り込むのがいいのではないか、と思う。
そう考えると、結果として自分が何を面白いと感じるのか、そしてそれが面白いというのはどういうことか、そして面白いと表現するためには、何が必要になるのか、という話になると思う。
もちろん、「小説としての面白さ」というのは存在していて、例えば、言葉遊びなんかは「小説としての面白さ」になると思う。
そういう風に考えていくと、自分が「面白いと感じること」に対して、受動的ではなく、ある程度積極的に向かっていく必要がある。面白いと思ったことを上手く自分なりに消化して、アプトプットできるようになる、という作業が必要なのだろうと思うし、その基礎体力をつけるといったところなのだと思う。
要は「面白い」と思ったことに向き合うという時間が必要なのかなということを考えたりする。
そういうわけで、あんまり小説のことばかり考えず、「面白い」ということについて、考えなきゃいけないなあ、と最近は思ったりなんかする。
「考えるため」に小説を書く えせはらシゲオ @esehara
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