「下手くそ」に感じたら、成長した証拠

 謙遜のためかもしれないが、「下手くそかもしれませんが、読んでください」という文句の小説に出会うことがある。多くの場合は、たぶんそれは建前だとは思う。お土産に「つまらないものですが……」というようなもので、本当にお土産でつまらないものを送ったら、ただの嫌がらせになる。


 僕は、他の人がどういう気持ちで小説を書いているかは知らない。もしかしたら、本当に自分の小説が下手くそだと思っているのかもしれない。しかし、小説を公表するということは、ある程度はどこか「自分は面白いのを書いている」ということなのだと思う。

 小説を発表する、ということは少しの傲慢さ、というか自信がないと出来ないことだ、と僕は思っている。そして、それは悪いことではない。

 少なくとも、今はいろんな娯楽があり、その娯楽の一つとして、Web小説があるわけで、そのせめぎ合いの中で、自分の小説は「他の娯楽を消費する時間を奪ってまで」読ませたい、と思う傲慢さが無いといけない。何かを発表する、ということはそういうことだと、僕は思う。


 さて、僕も小説を書いているわけだけれど、久しぶりに自分の小説を読み返すと、本当に下手くそだな、と思って笑ってしまった。

 僕は良く自分の小説を読み返す。そもそも、読み返す価値のに耐えるほどの小説でなければ、他の人が読めるわけではないし、また自分がまず面白いと思わなければ、他人が面白いと思わないだろう、と考える。だから、読み返す。

 すると、そのとき書いていた小説が本当に下手なのだ。いや、やっていることは面白いと思うし、面白いから書いている。それは作者サイドとしてはそうなんだけど、読者サイドから見た場合、いまいちその面白さが、自分の技術力の無さで伝わっていない、と思うのだ。

 これじゃ読者が付かないよな、という当たり前の事実に対面するわけだ。


 今日はマクドナルドでセットを頼んで、それを夕食にしたわけだけど、小説はポテトに近いな、と思う。要するに書きたてのときは熱々だから、自分で食べてみて「おいしい」と感じるんだけど、時間が経つと、どんどん食べられたものじゃなくなってくる。

 最初は凄く面白いものが書けた、と思うし、なぜ読者が付かないんだ、と思うし、宣伝作業に走ったりもする。もちろん、それは作者の熱意というものだから重要なんだけど、冷静になって読み返してみると「下手くそから読者つかないんだな」といいう当たり前のことに気が付く。


 下手くそなものを下手くそ、と認めるのは本当に勇気のいることだけれど、それが成長だと思う。よく「昔の作った作品に拙さを感じなければ、成長していないのと一緒」という話があったが、それに近いと思う。逆に言ってしまえば、「自分の作品を下手くそだと思うまで、感性を研ぎ澄ます」ということが重要なのだろう。自分の感性が上がらなければ、そもそも下手だと思わないのだ。

 実際「自分の作品が下手くそ」に見えた瞬間、レベルアップの音がした。そして、今からもう少しだけ良い文章が書けるような気がしたのだった。


 幸いなことに、Web小説は、投稿したあとも書き直しが出来るところがいいところだと思う。これが新人賞に応募する場合は、そうはいかない。そして、一度完成した作品というのは、なかなか読み返す機会が持てない。ただ、こういう連載形式の場合、読み返す機会が持てるというのは、いいことだと思う。


 そういうわけで、僕は自分に対して「本当に下手くそだな」といいながら、自分の作品を修正するのだった。

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