たぶん、もう二度と会えない君へ

糾縄カフク

君が死んでも、世界は別に変わらない。

 心のスイッチを切る、という手段を、たぶん多くの人が選ぶのだろう。なにせAIですら、獲得した「心」を守る為に、そうせざるを得ないというのだから。……はじめから「心」を――、恐らくは・・・・「心」を、持ち合わせている人間ならば、それは仕方のない事なのだと思う。


 通勤維新、意識改革、様々な標語が耳をすり抜け、実態はさほど変わらまま始まるのは、いつもどおりの満員電車。すし詰めと臭気にむせ返るそこは、どうやら戦地に向かう兵士と同程度には、心を持つ人間にとって過負荷な状況らしい。


 都心から遠く離れたベッドタウンに、うっかり新居を買ってしまったサラリーマンは、これからの一生を家族の家畜として過ごすほかない。行きも満員、帰りも満員、そして時々遅延で直通中止。だけれど与えられるのはしけた小遣いと、心無い罵詈雑言ばりぞうごん。――よくもまあ、こんな有様で正気が保てるものだと。無言のまま目を閉じる疲れ切った中年男性に、勝手な幻想を抱きながら私も眠る。


 立ったまま眠るという技を覚えたのはいつからだろう。――いや方法というよりも、気がつけばそうなっていたというほうが正しいか。確か先の大戦で、大陸を縦断する作戦に従事した兵士が、そういう状態だったと何処かで読んだが……おかしなことにここは日本だ……それも半世紀も平和な。

 

 GPSにタイムカード、ところによれば監視カメラで監視され、携帯電話の普及のせいで、家に帰っても完全に仕事からは解放されない。残業代に天井が生まれ、出張で遊べなくなったにも関わらず、給与は下がり、締め付けだけが強まっていく。


 デモもなく暴動もなく、ときたま起こる自然災害ですら、社会は転覆する事なく恙無くつつがな回る。海外で言えば起きないほうが不可思議だろうが、起きたところで何も変わらぬと、きっと日本人は理解しているのだろう。――もし現代で全共闘が起きたのなら、参加した学生の住所氏名は全国にばら撒かれ、まともな就職など出来なかったに違いない。


 社会の都合で、あるいは個人の事情で、不祥事が起こったとしても頑として動かない老害たち。彼らのいう古き良き時代では、とっくの昔に亡くなっているような連中が力を握るこのご時世に、閉塞感以外を感じられる訳もない。


 昔は夢の一つや二つ、あったろうか。そもそも初めからなかったから、こんな人生にしかありつけなかったのか。努力と才能で勝ち上がった同輩のニュースを見るたびに、たぶん私にはその両方が足りなかったのだと……瞳の光彩がまた一つ鈍くなる。


 夢を語るアイドルも、きっとどこかで抱かれている。のけものはいないと歌うやさしいアニメも、その裏ではどす黒い人の欲望が渦巻いている。人権を守る筈の人間が人権を踏みにじり、父が娘を犯し、母が息子を平気で殺す。


 それが世界だ。――ああ、間違いないと静かに頷く。救いはなく、愛に欠け、時折見える美しい景色は、すぐに雨靄あまもやに霞んでしまう。心のどこかで救済を望んでいる筈なのに、そんなものは無いのだからみな灰色に染まってしまえと希う、薄汚い自分がいる。




 ――四月。

 桜の咲く季節に、染まりかけた灰色に混じる鮮やかな色がある。

 大学を卒業し、新社会人として会社に赴く、まだ朗らかな顔の若者たちが。


 嬉々として夢を語り、整えられたスーツで身を飾って、きっと彼らは、まだSNSに、人生を謳歌する投稿を続けているのだろう。


 だが一月たち、二月たち。

 とっくの昔に桜の花が散った頃、世界はまた灰色に蝕まれていく。


 精気を失った顔。やつれた頬。或いは飲み会で膨れ始め、荒れた肌。しなやかな髪にはほつれが散見し、やがて語られていた夢は、現実という名の暴力を前に敗北を喫する。Twitterの更新は止まり、アニメの実況の代わりに「帰宅」「疲れた」と、無味乾燥な文字列が並ぶ。


 ようこそ、と。

 多分そのとき私はいう。


 我らと同じ世界にようこそ。

 疲れ切った灰色の景色にようこそ。

 

 さだまさしの歌に「世界中を幸せにと願う君と、いいえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる」という歌詞がある。積極的に世界の不幸を願いはしないが、それが現実なのだからそうあるべきだと、諦めきった自分がどこかにいる……ああそれは、自分が救われて、いないから。




 ――あの日、ひときわ輝いた君がいた。

 溌剌と、希望に満ち溢れ、春に芽吹く花のように微笑む君が。


 同じ電車、同じ時刻、同じ背中、同じ笑顔。

 ある時からそれを見なくなったのは、いつからだったか。


 電車が止まり、接触事故のため遅れますとアナウンスが流れる。

 名も知らぬ誰か、その誰かの為に万人の足を止まる事に、ほうぼうから溜息と苛立ちの声があがる。


 そのとき君は、いただろうか。

 もう皆と同じ、呪詛を吐く側に回っていたろうか。

 灰色の景色に溶け込んでしまったのなら、きっと私には分からないかも知れない。


 桜の咲く季節に出会った君。

 桜の散る季節にいなかった君。


 君はまだ、そこにいるだろうか。希望に満ちた、そこに。

 私は変わっていく人々と、変わらない世界を漫然と見つめながら、今日も生きている。桜が散って、灰色に戻る世界で。




 ――もう二度と会えない君へ(了)


 

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