守り得たもの

 僕たちは世界の縁へ向けて、ひたすら走った。

 ふと気づくと、真っ黒い大きな烏が僕たちの上を飛んでいた。

 烏が飛ぶその尾羽のあたりから後ろは、夜空が広がる。

 そのカラスの前方には、未だ残照が残っていた。

 空はくっきりと、金の輝きと寂滅の闇、二つの色に染め分けられていた。


 まるで瞼で目を閉じていくように、ちかちかとした、真っ黒いパルスのようなものを睫毛のようにふちに纏わりつかせ、夜が光の残る空を閉じていく。

 その瞼の開いている隙間に向けて、烏は僕たちを先導しているようだ。

 もう言葉を交わす余裕もなく僕たちは急いだ。

 

 大きな烏が、降りて僕たちの方を見た。

 もうほとんど閉じられた瞼のほんの少しの隙間がそこにあった。

 


僕「あそこだ! あそこへ行けば、僕たちは……」


美弥「ごめ……もう、無理」


 そう言うと、美弥は僕の手を放した。

 荒い息の下、彼女は言った。


美弥「私が帰っても、きっとみんな迷惑するだけだよ……父さんも母さんも、気持ちに区切りがついたから、終わりにしようとしてる。誰ももう悲しまないよ……」


美弥「ごめんね……ごめんね。でも私が帰らなければ、山上君は失くさずに済むものが……」


僕「ここまで来て何だよ! ほんとに無駄足じゃないか!」


 こういうシチュエーションでなければ、これはかなり面白いジョークになりそうだった。

 

 美弥は空気を求めて口を開き、苦しげだった。


美弥「ごめんね、本当にごめん。だけど、私もうあそこまで走れない……苦しいの……はぁ……はぁ……息ができないの……」


 僕は無言で、彼女の腕を引っ張った。

 肩を支え、レイヴンの佇む場所へひたすら走った。

 彼女を引きずるのがもどかしくなって、火事場の馬鹿力で肩へ担いだ。


 走るという行為。

 それはきっと、これで最後なのだ。

 今生へ戻れば、僕は右足を失う。

 こうして極色彩の世界を見ることもできない。

 それでももう、よかった。


 スマートさのかけらもなく喘ぎながらよろよろ進む僕たちに、世界の縁からレイヴンが手を差し伸べた。


レイヴン「さあ、こっちだ!」


 僕は倒れそうになりながら、やっとの思いで彼の手を掴んだ。

 思ったよりもその手は力強かった。

 レイヴンは僕たちを引き寄せると、広げた片翼で僕たちを一瞬くるんだ。


僕「!!」

美弥「!!」


 次の瞬間、レイヴンは思い切り腰をひねってゴルフのドライバーでも振るように、僕たちを包む翼に遠心力を加えた。

 空を切る音。

 突然僕たちは、抱き締めあったまま支えるものが何もない、真っ白な光に満ちた虚空こくうへ投げ出されたのを感じた。 

 僕たちは細く狭く残されていた、狭間の世界の縁から振り飛ばされ、ゆっくり落ちていく。


 その隙間から、レイヴンの顔が見えた。

 何と世話の焼ける、とでも言いたげの顔つきだったがやっぱり、綺麗な男だった。


 落ちていきながら僕は思い出した。

――そういえば、カラスは太陽神の御使いだったな


 そして僕たちは意識を失った。


 三日後。


 僕は見覚えのあるICUで目を覚ました。

 目を覚ます、と言っても僕の視覚には色も光もない。

 目が開いていても閉じていても、僕の知覚に差は全くない。

 顔にはひどい裂傷れっしょうがあって縫合され、右足は……なかった。

 父と母が悲鳴のような声を上げて僕の名を呼び、泣いていた。

 僕は、どうしてだか、住んでいたマンションの踊り場から落ちたらしい。


 美弥は、同じ病院で三日前の夜に生命維持装置を外されたのだが、奇跡的に自発呼吸を行いはじめ、一命を取り留めた。

 美しかった顔は見る影もなくぼろぼろで、失明していた。

 しかし、彼女の外観の美醜びしゅうは僕にはどうでもよかった。

 どうせ、見えないのだから。

 彼女も、僕の変わってしまった容姿について、そう思っていると言う。


 白鳥に渡した僕の右足は、義足を装着することでなんとか杖をついて歩けるようになった。


 僕たちは高校を辞め、身体障がい者特別支援学校の高等部へ入学した。

 二人で学校からの送迎バスに乗り、通った。


 一方で、僕は両親と音楽教室のマネージャーに頭を下げ、ピアノを続けていた。

 もちろん、音大受験の夢も捨ててはいない。

 何年掛かっても、あきらめてはだめな気がした。


美弥「ねえ、さいちゃん」


僕「何?」


美弥「私、生きててよかったのかな」


僕「まだそんなこと言う……よかったに決まってるだろ」


 美弥は、自分の生還にあたり、あまりにも大きな代償を払ってしまったことにまだ恐怖し、自らを責める。

 彼女の恐れや悲しみに寄り添い、何度でも彼女の迷いをなだめるのが僕の役目だ。

 そのかわりに、僕の夢を応援し、いつでも味方になってくれることが彼女の役割。


 もうあの世界について、二人で殊更に話し合うことも、人に語ることもない。

 本能的に、それは禁忌のような気がするから。


 今、僕は美弥の家に遊びに来ている。

 美弥は大型鳥類用のケージの扉を開け、優しい声であの名前を呼ぶ。

 すると一羽の大きなカラスが待ちかねたようにリビングへぴょんと飛び出てくる。

 美弥は手に持っていた100均の玉子蒸しパンを小さくちぎって、カラスに与えた。

 カラスは行儀よく食事をした後、大人しく彼女に撫でられている。


 三年前、僕たちが「戻ってきて」からしばらく経ったころ、美弥は怪我をした仔ガラスを拾った。怪我が治るまでの世話、というつもりだったが片翼の骨折がうまくがなかったので野生に戻せず、今に至る。

 最初彼女の両親は気味悪がり厄介払いしたがっていたが、このカラスはとても人懐こくて賢く、次第に一家全員と、それから僕とで可愛がるようになっていた。


美弥「この子ね、この玉子蒸しパン好きなんだ」


 懐かしそうに美弥が笑う。

 僕は、あのちょっと気障きざなレイヴンが100均の玉子蒸しパンをぱくついている姿を想像し、くすっと笑った。



      <終劇>

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今日、約束の場所で【フリー台本】 江山菰 @ladyfrankincense

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