二羽の鳥

レイヴン「遅れたけど自己紹介をするよ。僕はレイヴン。そして彼女はスワニルダ」


 掌を上に向けてレイヴンが白い女を指し示す。スワニルダは軽く目礼した。


レイヴン「そしてこちらのマダムは、……」


 彼は唇を動かし、彼女の名を発音した。

 それなのに、なぜだか僕にはその部分だけが何かに邪魔されて聞きとれなかった。


……それは音声のめちゃめちゃな羅列にTVの砂嵐のノイズを混ぜたような、少し不気味な空気の振動だった。


僕「???」


 僕の訝しげな顔を見て、レイヴンはもう一度、おばあさんの名を言ってみせる。

 やはり聞こえるのはあの不協和音だ。


 どの言語でも、固定名詞くらいはある程度わかる。

 なのに、なぜかそこだけ、呪われたように聞き取れない。


 レイヴンは少し黙った後こう言った。


レイヴン「君も思い出せないなりに、何か自己紹介してごらんよ」


 このカラス男の底意地の悪さを感じながら、僕は今の状況を口に出してみた。


僕「えっと……僕の名前は……なんでだろう……思い出せない……住所も、通ってた学校もわからない……」


僕「頭がぼんやりして、なんだかおかしいんです……僕がどこから来て、誰なのか、普通に覚えてるって感じがあるのに、それをはっきり思い浮かべようとすると消えてしまうんです」


老婦人「そうなの……では私が「ここでは何なのか」わかるかしら?」


僕「え?……ここでは何なのかって?」


老婦人「お菓子の家に棲んでいる年寄り女が一体何なのかくらいはわかるでしょう? グリム童話なら思い出せるんじゃない?」


僕「え??? 魔女?」


老婦人「ええ、その通り。ご明察だわ」


 魔女?

 冗談もいい加減にしてくれ、と言いたいところだ。

 しかしこの菓子でできた家の精巧さ。

 この黒と白の男女の、CGとは比べ物にならない生気ある翼。

 何より、リアリティ番組の隠しカメラがどこかにないか探してみているのだが、怪しいものは何もない。

 もし彼女が本当に魔女で、このお菓子の家が本物ならば、ここはあの童話の世界なのではないだろうか……


老婦人「馬鹿馬鹿しいと思っているのね?」


僕「……ちょっと信じられなくて」


老婦人「まあ、信じなくてもいいわ」


 そのとき、血の気を感じさせないほど肌も髪も白い女が静かに口を開いた。


スワニルダ「あなたは、2年前、ここへ来たのよ。私があなたを帰してあげたのよ、未だ思い出せないの?」


 彼女の白い姿に大きな瞳だけが不調和に黒々と、暗い洞窟のように見える。


老婦人「それは彼が自分で思い出さなければならないことよ。ヒントを出す権限があるのはレイヴンだけ」


レイヴン「僕はヒントを出す気はありません」


 カラス男はにべもない。

 老魔女はやれやれといった様子で溜め息をついた。


老婦人「ねえ、お客様? あなたを、仮にヘンゼルと呼ぶことにしましょう。グレーテルは連れてこなかったの?」


 そうだ、ここがその童話の世界であれば大事なヒロインがいなければならない。そうでなければヘンゼルはここへ監禁されて魔女に食い殺される運命だったはずだ。

 でも覚えていないものは覚えていない。

 魔女は白と黒の鳥人間たちを交互に見ながら、少し苛立たしげだ。


老婦人「あなたたち、私にも言ってないことがあるわね? 教えてくれたっていいじゃないの」


 レイヴンは呟くように言った。


レイヴン「マダム、あなたはここではシンボルでしかないのですよ」


老婦人「私がシンボルでも、この子はまだそうではないわ。少しヒントがあってもいいじゃないの」


レイヴン「……仕方がありませんね」


スワニルダ「そう、仕方がないのよ、レイヴン」


レイヴン「黙れ。どの口がそれを言うか!」


 翼をわずかに広げ、彼はスワニルダを鋭く罵った。

 そして僕に問いかけた。

 

レイヴン「思い出してみたまえ、二年前に何があったか」


僕「……二年前?」


レイヴン「よく思い出せ。君の額に残る傷は、何だ?」


 思わず額に触れる。

 前髪の下にうっすらした皮膚の盛り上がりが筋を描いている。縫合した痕だ。


……そうだ、二年前というと


僕「僕が二年前にここへ来たなんてあり得ません。僕は交通事故でしばらく植物状態で……」


レイヴン「奇跡的に回復したんだろう? 「指の一本も損なわず」に」


僕「どうしてそれを……」


 その途端、脳のなかに稲妻のようにイメージが走った。

 歪んだ微笑を湛えた、少女の顔。

 フラッシュバックは閃光のように、一瞬の鮮やかさを残して消えていき、捉えることを許してくれなかった。


老婦人「奇跡というものは大きな代償を伴うことが多いわ……あなたはなにか大きな代償を払ったのかもしれないわね」


 スワニルダがその続きを補足した。慎ましやかに黒い目を伏せながら。


スワニルダ「それか、誰かが代わりに払ってくれたか、なの。あなたはその誰かとの約束を果たしに来たんじゃないかしら?」


僕「……約束?」


レイヴン「トゥオネラ、オルフェウス。この二つの言葉を重ねてみるといい」


僕「お菓子の家にいるものは、魔女。トゥオネラにいるものと言えば……白鳥??」


 オルフェウスは、ギリシャ神話に出てくる。

 若くして死に別れた妻を生者の世界へ連れ戻すために冥府へ行った竪琴の名手の名だ。

 

 冥府めいふに流れる川は北欧の伝承ではトゥオネラといい、白鳥がいるとされる。僕のように楽器をやっていてクラシックを演奏していれば、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」という曲のおかげで常識だ。

 そういえば、白鳥はヘンゼルとグレーテルの家への帰路を助け、川を渡してくれた鳥だった。

 そして白鳥は古来、東西を問わず死の象徴とされる。


 不吉な推論に背筋が硬くなるのを感じたがここでそれを気取られるのが恐ろしい。


 最初、ここは死者の世界なのではないかと思った。

 自分の死に気づかず彷徨さまよう霊の話はよく聞く。

 そんなふうに存外と気づかないものなのかもしれない。


 しかし僕は一度ここへ来て、そして生還できた。

 だからここは完全な死の世界ではない。


 ここは生と死の狭間はざまの世界なのでは?


老婦人「少し、この世界のことを思い出したみたいね?」


レイヴン「いいえ、マダム。彼にとっては新しく得た知識であり、2年前の記憶が戻ってきたわけではありませんよ」


スワニルダ「ヘンゼル、あなたは二年前の約束を果たしに帰ってきたのよ。その約束はあなたが思い出さないと反故ほごになるわ」


レイヴン「チッ」


僕「(えっ? 今レイヴン、舌打ちした?)」


僕「あの……約束って?」


スワニルダ「それはあなたが思い出して」


僕「思い出せないときは?」


スワニルダ「さっきも言ったでしょ? 反故になるわ」


僕「すみません……反故になったら、どうなるんですか?」


スワニルダ「あなたはまた「代償」を払って、レイヴンに記憶を消されて元の世界へ戻るか、「この先の世界」へ行くか決めることになるわ」


「この先の世界」と言ったときのスワニルダの微笑が、得体の知れない闇の中に白く浮かび上がった白鳥を思わせた。

 美しいというより、長い首が蛇のようで恐ろしく、僕は思わず身震いした。

 彼女ととても仲が悪いらしいレイヴンは、彼女に掴みかからんばかりの形相ぎょうそうで睨みつけている。

 魔女がやれやれという顔をした。


老婦人「……ヘンゼル、お茶やお菓子のおかわりはいかが?」


僕「あ、……いえ、もう充分いただきました」


老婦人「だったら、ここを出てあちこち歩いてみなさい。お供に、この鳥たちのどちらかを選んで」


 どちらを選んでも、剣呑な気がした。


僕「あの、一人でぶらぶらしますから大丈夫です」


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