ヘンゼルとグレーテル

老婦人「ここにはあなたが触れないほうがいいものがそこかしこにあるわ。例えば、そうね、このテーブルの真下にある床のキズをよく見てみて?」


僕「??」


 テーブルの真下には、糖衣とういが掛かったチョコレートでできた床に小さな円と星形が組み合わさったような傷があった。

 僕はそこを注視した。


 すると、そこがぼうっと霞んだように見えた。かと思うと、一本の青黒い腕が生えてきた。

 綺麗なマニキュアを塗った爪が剥がれかかり、血のような赤い液体……おそらくイチゴジャムで汚れている。

 その肌理きめも関節の動きも本物の人間の腕そのものだ。

 その手は虚空でめちゃめちゃに振り回され始めた。


僕「なっ!!!」


 魔女は、だんっと力強く床を踏み鳴らした。

 それを合図に、手はべたりと床に落ちて徐々に淡くなり、消えた。

 もしタイミングが悪ければ、僕は失禁していたに違いない。


老婦人「ふふ、こういうものがそこかしこにあるのよ。案内役がいた方がいいわ。さあ、2人のうちどちらにするの?」


僕「魔女さんじゃだめですか?」


老婦人「私はここから出られないのよ。ずっとここでゲストをお迎えするのが私の役目だから」


 僕は白鳥とカラスを見やった。

 ここがヘンゼルとグレーテルの世界を踏襲とうしゅうしているならば、僕はきっと白鳥を選ぶべきなんだろう。


 スワニルダは優しく、青白く微笑んでいる。

 しかし、その眼にはどこか怖ろしい場所へ繋がっているような寒々しさがあった。


 彼女を見た後にレイヴンを見た。

 やっぱり意地悪そうだ。

 なのに一瞬、……ほんの一瞬。

 彼の周りに、金環食きんかんしょくのような、温かい金色の輪が見えた。


僕「では、レイヴンさん、お願いします」


老婦人「ふふ、レイヴンを選んだの」


 レイヴンは無言で立ち上がると手袋を嵌め、イソップ寓話でカラスが身を飾るために使ったような、種々しゅじゅの羽毛で飾った小ぶりなシルクハットを被って支度を調えた。


老婦人「清浄な常闇とこやみの鳥ではなく、濁った世への再生の鳥を選んだのね……」


レイヴン「お言葉ですがマダム、きよめられた常世とこよよりも、醜くとも生きることを多くの人間が選びます。生きているということ自体が、何物にも替え難い宝なのだと僕は信じています」


 彼の言っていることはよくわからなかったが、そのときレイヴンがおごそかに見えた。


レイヴン「では、行こうか」


 僕は老魔女とスワニルダに辞去じきょの挨拶をした。

 スワニルダは黙って微笑んでいるだけだったが、魔女は名残なごり惜しげに僕の手を握った。

 そして、レイヴンと一緒に家を出た。


 朝、家を出て道に迷い、しばらく歩いて奇妙なお茶につき合わされた。

 それだけならば、どんなに時間の感覚が狂っていたとしても、せいぜい昼下がりになっている程度だろう。

 ところが、もうすっかり辺りは夕暮れに包まれている。


僕「あのー、どっちへ行けばいいんですか?」


レイヴン「適当にぶらぶらしていればいい。何か興味を引くものがあるはずだから」


僕「(素っ気ないなあ)」


僕「そういえはここに来る途中、水の音が聞こえていました。川か何かが近いんですか?」


レイヴン「自分で確かめてみたらいい」


僕「確かこっちの方から、音が……あ、川だ!」


 それは、僕が思っていたような牧歌的なせせらぎではなく、岩が水を砕き、白く水の表面に筋を引いている小さな渓流だった。

 小さな飛沫のせいか、辺りは冷え冷えとしている。

 その流れに沿って少し歩くと、人影が現れた。


僕「(あれ? 何だか見覚えがあるような?)」


 肩までの黒い髪が、叩きつけられる水が生む冷えた風に揺れている。

 そして、彼女が着ているのは、見覚えがある服だった。

 何かのユニフォームのような紺のブレザーとスカート……


 はっとした。


 これは、僕が通っている高校の女子の制服だ。


僕「(何か思い出しそうな……とても恐ろしいことことを)」


レイヴン「やあ、こんにちは」


 彼女はのろのろと顔を上げ、こちらを見た。


???「……こんにちは」


 彼女の顔の左半分は恐ろしいほどの黒さだった。


 皮膚が黒いのではなく、スワニルダの光のない洞窟のような目に似た、質感のない黒さだった。

 暗い、陽炎のようなものがゆらゆらと揺らいで顔ははっきりと見えない。顔から瘴気しょうきが立ち昇っているかのようだ。


 僕は心臓が縮み上がる思いだった。

 なのに、彼女の顔から眼を離せなかった。


レイヴン「ここで何してるんだい?」


???「……待ってるの……ずっと」


レイヴン「誰を?」


???「ヘンゼル……約束したから」


僕「(ヘンゼル?)」


レイヴン「どんな約束?」


???「わからないけど、すごく大事なことだったと思う……」


僕「レイヴンさん、その娘……知り合いなんですか?」


レイヴン「いや、名前は知らない。君、名前を僕たちに教えてくれないか?」


 僕は芝居がかった雰囲気を感じた。

 レイヴンはこの子を知っている。それを隠して、この子の口から名乗らせようとしている。

 恐らく、僕に聞かせるために。


???「私は……」


 彼女は項垂うなだれた。


???「私はグレーテル、だった……と思う」


僕「グレーテル? ヘンゼルとグレーテルの?!」


レイヴン「本当の名前は?」


なぜか、レイヴンの声は真剣だった。


グレーテル「わからない。覚えてないの……」


レイヴン「君たちが自分の名を思い出すことが、約束の鍵になっているんだ。その鍵がないと、記憶を削除した僕にもどうしようもない」

 

 僕はおずおずと訊ねた。


僕「あのさ……君、グレーテルって呼んでいい?」


グレーテル「ええ」


僕「僕も自分の名前が思い出せないんだ」


僕「この人と魔女と、あと白鳥みたいな女の人と一緒にお茶飲んだんだけど、そこでヘンゼルって呼ばれたんだ。君がグレーテルだっていうのと関係あるのかな?」


グレーテル「あなた、ヘンゼルなの?」


 訊ねられても、答えられなかった。

 僕は仮のヘンゼルだ。

 この半分異形いぎょうの彼女にその通りと答えて正解なのかどうかがわからなかった。


グレーテル「そう……そうなの……? あなたがヘンゼル?」


 彼女の声が震えた。


グレーテル「そうね……そう言えばその服……その服だった……」


グレーテル「ヘンゼルは音楽室で、昼休みにピアノ弾いてて……何て言う曲か知らないけど、キラキラしてて好きだったな……」


グレーテル「弾いてる人はきっと優しい人なんじゃないかって思ってたんだ」


僕「―――♪♪♪」


グレーテル「!!! その曲……」


僕「ドビュッシーの「水の反映」……二年前、コンクールの自由曲で弾くことになってたんだ。課題曲がベートーベンだから雰囲気を変えて」


グレーテル「……私、音楽準備室でずっと聴いてたんだよ」


僕「何で毎日、昼休みに準備室に隠れてるんだろうって思ってた。友達と弁当とか食べないのかなって」


 彼女は、眠ったままで話すような、どこかリアリティのない口調だった。


グレーテル「友達……友達? そんなものいなかった、と思う」


グレーテル「そうだ、私、学校に行きたくなかったんだ」


僕「……」


グレーテル「私、学校でよくものを失くしてたし、見つけた時には汚されたり切られたりしてた。無視されたりとか、机に落書きされたりとか」


僕「誰かに相談した? 先生とか親とか」


グレーテル「先生には気にしすぎだって言われた。だからそうなのかなって……私のこといい子だって思ってる家族には心配かけたくなかったし」


グレーテル「それにこのくらい耐えられるって思ってた……でも、どうしてだかわからないけど、どうしても今日は学校行きたくないって思って」


グレーテル「道路を走ってきた車の前に、ほんとに発作的に飛び出して……ヘンゼルが私を助けようとして」


グレーテル「そうよ、だからここへ二人で来たんだった……ここまで思い出せた」


 右の、まだ仄白ほのじろく見えている顔に、泥のようなものが一筋流れた。

 その醜さと恐ろしさに、腹の奥がぞくっとした。

 僕たちを見守りながら、レイヴンはもどかしげかつ苦々しげだった。


レイヴン「そういうのは後でも構わない。先に名前を思い出しなさい」


僕「そんなにせかされたって! 色んなことを思い出しながらそのうち名前も思い出しますから!


 僕が少し声を荒げると、レイヴンが僕の目をひたと見つめた。


レイヴン「この世界は、君がよく知っている何かに似ているはずだ。何に似ているか言ってごらん」


僕「えっと……グリム童話のヘンゼルとグレーテル」


 何を今更、という気分だった。

 レイヴンは視線を逸らさない。


レイヴン「この世界はもともと何もない、ただの灰色の「狭間の世界」なんだよ」


僕「……何もない? こんな森や、川や、岩や風、お菓子の家まであるのに?」


レイヴン「本当は、ここは生と死の境目、ただの灰色の混沌なんだ」


 途端、すうっと背筋から何かが抜けていくような不気味な感じを覚えた。

 

レイヴン「ここへ来た者は何らかの記憶を投射し、自分だけの世界を作って、自分の人生に夢を見たり言い訳をしながら死へ向かう。この世界を作って、僕やスワニルダにこの姿を与えたのは、君なんだ」


 その言葉を聞いた途端、やけに大きく様々な音が聞こえた。

 空を渡る鳥の声。

 木々を揺らす風の音。

 碧の木の葉の擦れるさざめき。

 渓流を流れる水の響き。


 確かに、ここは僕が幼い頃見た童話絵本の中の、写実的に描かれた風景によく似ている。


レイヴン「でも大きな代償を払って生者の世界へ戻る者もいる。……身体や能力の一部なんかを支払ってね。そういう契約を扱っているのがスワニルダなんだ」


 スワニルダという名を言うとき彼は口を歪めた。相当彼女が嫌いなようだ。


レイヴン「でもまれに偶々リンクした他者が代償を払ってくれることもある」


僕「え? それってどういうことですか?」


レイヴン「君は何も失わずにここから帰った。それは、どうしてだと思う?」


レイヴン「思い出せ。君たちの名前が鍵になっている」


レイヴン「君もだ、グレーテル。君たちが名前を思い出せば、約束の時がくるんだ」


グレーテル「……思い出せない。頭に黒い渦があるの……思い出そうとすると余計にそれが頭の中に広がるの」


 レイヴンはきっぱりと言った。


レイヴン「それは恨みと呪いだよ」


 彼女は呻いた。

 彼女の目のあたりからぼたぼたと、黒い泥が噴きだすように滴った。


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