失うもの
グレーテル「……ヘンゼルのピアノを聴くの、私の学校での唯一の楽しみだった……でも、ヘンゼルはここから『戻る』ために左腕をスワニルダに渡そうとしてて、私、助けたくなって」
グレーテル「……でもその後で気付いたの。私も本当は戻りたかった!!」
レイヴン「自分で決めたことだ」
グレーテル「そうよ! だからもう、ヘンゼルを助けるって決めた自分を呪うしかないの! 呪う度に、私はもう人間じゃないんだって……」
その時、頭の中に閃光が走った。
???「こうなったのも私のせいだし、もともと死のうとしてたんだもん。私の『戻る』権利をあげる」
引き攣った笑顔で強がった彼女。
魔女は僕らを轢いた、無辜の気の毒なおばあさん。
スワニルダには僕を愛さず男を作って出て行った生母。
レイヴンは、……病苦に耐えかね自ら命を絶った、気難しかったが優しい従兄。
そんな顔を、僕は与えていた。
そして、僕のと彼女の名は、
僕「
僕「これが彼女の名前だ」
僕「そして僕は、
僕「これで合ってますよね!! レイヴンさん!!」
僕が叫ぶと、美弥はどろどろの顔を歪ませた。
数回、僕が口にした彼女の名を呟く……久しぶりに着た大事な服を、体になじませるように。
驚愕が、ノスタルジックな安堵に変わっていく。
僕「僕は、二年前に目を覚ました時、美弥のことを覚えてなかった……美弥の家族に土下座されても、なんのことかわからなかった」
僕「ごめん」
レイヴン「約束を思い出せたかい?」
レイヴンが静かに言った。
僕は答えた。
僕「美弥の帰るところがあるうちにもう一度ここへきて、美弥が生還を望むなら、今度は僕が彼女の命を請け出すに足るものを差し出すこと。……彼女が守ってくれた僕の腕以外で」
レイヴン「正解だ……」
レイヴンは彼らしからぬ大声を上げた。
レイヴン「全く君たちはどうしてそんな無意味な約束をしちゃったのかなあ!!」
溜め息をつき、悲しげにレイヴンが手袋の嵌った手で額を擦った。
大きな鳥の羽音がした。
すい、と空を滑って、死を運ぶ白い女が女神のように下りてきて僕の隣に優雅に立った。
レイヴンが睨んだ。
レイヴン「聞いていたのか」
スワニルダ「ええ、どこにいても聞こえるわ。それが私の役割だもの」
レイヴン「……チッ」
スワニルダ「さあ、あなたたち、二人で帰るつもりなんでしょう? 何を差し出すの?」
僕はおずおずと申し出た。
僕「あの、片足とかどうでしょう?」
スワニルダ「お話にならないわ。」
僕「じゃあ、それと片目?」
スワニルダ「足りないわ。それは今回あなたがここへ来た再訪分にしかならないわ。彼女を預かっていたこの二年の利息もあるし」
僕「じゃあ、両目」
スワニルダは黙っている。
僕「顔もどうかな。大してイケメンでもないけど」
スワニルダ「まだまだね」
レイヴン「このクソ鳥が……」
スワニルダ「あなたは黙ってなさい、レイヴン」
静寂ののち、美弥の細い咽喉から震える声が漏れた。
美弥「私……もう、約束を守ってもらえると思ってなかった」
美弥「もう一度、家族みんなに会えて、あったかい本物の陽を浴びて、生きている世界に置いてもらえるなら、もう私は……」
美弥「私も顔と、目を渡すわ。……どう?」
スワニルダ「……」
僕「あと、僕の腎臓の片方とか……」
その途端、柔らかな風が、プリズムを通したような色彩感のある光と共に僕と美弥を包んだ。
もはや、美弥の顔に渦巻いていた黒いものは剥がれて散り飛び、懐かしい白い顔が現れた。
僕たちは自然に、互いの手をしっかりと握って見つめ合った
今まで見たどんな顔より、美しい、と思った。
スワニルダ「よく目に焼き付けておきなさい。もう二度と見ることのない、あなたたちの顔を」
スワニルダの声にレイヴンの声が悲しげに被さった。
レイヴン「だから僕は君たちがそんな取引をするのに反対したのに……あのとき、君が腕を、彼女が耳を素直に差し出して帰っていたらこんなことにはならなかったのに!」
レイヴン「なのになんでわざわざ戻ってきて……ああ!!もう」
レイヴンが言いたかった言葉が、僕らには分かった。
――生還した一人だけでも、何もかも忘れて幸せに暮らせていたらよかったのに
僕は美弥の顔を見た。
美弥も、大きな黒い瞳で僕を見ている。
後悔なんかするもんかと思った。
レイヴン「とにかく、もう仕方がない。時間がないみたいだ! 走って!!」
僕「え? 何で急に?」
スワニルダ「グレーテルの体にタイムリミットが来ているんだわ。丁度今日が約束の期限だったから、今日までしかもたないようになっていたのよ、いかに人工呼吸器に繋いで延命させていようと。住む者のいない家は早く傷むもの。二年も命を繋いでくれたご家族に感謝することね」
スワニルダは無表情に言った。
「約束」は「帰るところがあるうちに」果たされなければ。
帰る場所とは
僕「ああ、今まで僕は何をしてたんだろう! もっと早く来ればよかった」
レイヴン「ぼやいている暇があったら走れ!」
僕「どっちへ?!」
我ながら間抜けな質問だった。
レイヴン「どっちでもいい! どこへ向かってもこの世界の縁へ向かっているから!」
僕「じゃあ……えっと、こっちでいい?」
僕は初めに歩いてきた道を指差した。
レイヴン「どっちに走ろうと構わない! とにかく走れ!」
僕は美弥の手を引っ掴むと走りはじめた。
もう夕暮れの光が消えかけている。
夜が来る。
夜が来たら、美弥が帰る肉体は無くなる。
そしてこの約束は御破算で、僕は親にもらった片目と片足を失っただけで帰れる。
でも、この握った手のぬくもりは永久に失われてしまう。
とにかく、僕たちは走った。
今僕たちは肉体の枷が外れ、幽体だか霊体だかになっているはずなのに、思うようにこの世界の縁へ辿りつけない。
地響きがする。
何かが崩れる不吉な音がする。
振り向く余裕はない。
走りながら横目で見ると、この世界が崩れていた。
僕たちが約束を全て果たし、戻ることが確定したあの地点から、地に足をつけて走っているこの場所、つい踵の後ろまで、大地が砕けていた。
美弥が悲鳴を上げた。
美弥「山上君、道が崩れてる!」
僕「見ちゃ駄目だ! 走れ!」
おそらく、この約束に関わる大きな出来事が現世で起こったのだ。
走れば走っただけ、背後の大地は崩れ、底なしの暗がりへ吸い込まれていく。
美弥の足が、少し縺れはじめた。
美弥「山上君、何だか……苦しくな……って」
僕「頑張れ! 生きたいんだろ?! 戻りたいんだろ?! 二年も僕を待ったんだろ?!」
美弥「はぁ……はぁ……うん……」
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