三七日 へっつい侍
新撰組が屯所としておった西本願寺の厨は、ずいぶんと汚らしいことになっておった。
他人事のようになにを、と言われても仕方がないが、男所帯のしまりのなさはどこも変わるまい。
隊士が急にやたらめったら増えた時期であったから、取り散らかったのも無理はなかろう。
飯は交代で番をしておったが、とりあえず米を炊いて塩気の曖昧な汁を温め、寺からくすねた大根漬けなど添えれば、まあまあ重畳。
後片付けなどという殊勝な心掛けはとぼしく、茶碗は洗いもせずに積みっぱなし、食い残しは蝿がたかって悪臭を放つありさまであった。
いつであったか、幕府お抱えの松本良順という医師が近藤と土方に連れられて屯所を見にやってきたことがあった。
その当時二百名とまではいかぬが、隊士の数は百五十を超えていたであろう。
むくつけき男どもが屯する様子はよく言えば梁山泊、有り体に言えば山賊の巣そのものであった。
客人を連れて局長と副長が現れたにも関わらず、前も隠さぬ素っ裸のままくつろぐ者どもには、さしもの松本良順も閉口したらしい。
もっとも、その後隊士の秩序について諫言した松本に近藤は、
「病の者もおりますゆえ、それがしがくつろぐように言い含めてござりまする」
と、庇っておったわ。
この折に松本が、西洋の"病院"なるものを説明し、土方が即座に寺内で実行に移したのも流石であった。
さらに松本は、残った飯を干して餌とし、鶏を飼って卵をとること、そして残飯で豚を飼うことを近藤らに教えたらしい。
むろん、鶏も豚もやがて肉として食う。
身体を張って働かねばならぬわしらに、精をつけさせようという心配りだったのであろう。
ところが、いざ解体しようとする時が実にもう、難儀であった。
鶏はまあ、よい。捕まえてしまえば素手でも締められる。
往生したのは豚の屠殺だ。
己がこれからどうなるか、わかるのであろうな。
よりにもよって大寺の境内で、それはそれは凄まじいまでの断末魔をあげるのだ。
これには人斬りも辞さぬ隊士どもも、さすがに気の毒がった。
暴れる力も存外に強く、柔の達者であろうともやすやすとは捕らえられぬ。
ようやっと押さえ込んだはいいものの、今度はどう仕留めたものか皆目わからぬ。
心の蔵を突けばよいのか、首を落とせばよいのか。いや待て、どこが首なのだ。
幾人も群がっては、さように右往左往しておったものだ。
ある日のこと、ほどよく育った豚を締めることになった。
例のごとく数人で取り押さえたままぐずぐずしておると、厨の方から一人の男がものすごい形相で駆け込んできた。
襷がけをして袴の股立ちをとり、両手に桶を携えている。
顔面は逆立つように硬そうな髭に覆われ、歴戦の隊士が見てもぎょっとするような風貌だ。
「そのまま押さえておれ!離すな!!」
有無を言わさぬだみ声で大喝し、男は豚の側に片膝をつくと腰の短刀を深々とその首に突き刺した。
豚の首からは新酒の栓を抜いたかのように血が噴き出し、男は持参した桶を素早く当てがった。
血が収まるまで桶に受け、実にもう手際よく豚を捌いていく。
臓物を分けて肉をばらし、やがて事もなげに厨へと引き上げる。
後からは豚の肢やら頭やらを抱えた隊士どもが、ぞろぞろと続いていった。
たまたま鉢合わせした勤行帰りの坊主どもが、一斉に戻す音が聞こえてきた。
山賊のような、とわしが言うのもなんだが、髭面の男は顔に似合わず、実にまめに膳をととのえたものだった。
幹部連中は妾宅や料亭などで飯を済ませることも多く、わしも屯所で食うことは滅多になかったのだ。
ところがたまたま空き腹が勝って、汁と飯だけを厨で所望した時におったのがあやつであった。
椀によそった飯にざばっと汁をかけた、まあ犬か猫の餌と変わらぬものだったが、これがやたらとうまい。
出汁の味に舌の根がきゅっと縮まり、ほどよい水の量と火加減で炊かれた米は、しこしこと歯に当たって実に甘い。
「美味うござった」
もののうまいまずいを言うてはならぬ、そう躾けられてきたわしらだが、うまいものはうまい。
一息にかき込んで空にした椀を返しながら、思わずそう口をついて出てしまった。
髭面の男は、人斬り稼業が堂に入ったような強面の片眉を上げ、黙って椀を受け取った。
思えば、それはあやつにとって嬉しかったのであろう。
以来、何かにつけてはムスッとした顔のまま、
「出汁の加減は如何でござろう」
「壬生菜を漬け申した」
「鯖の塩気は如何に」
等々、わしの顔を見るたびに味見を所望するようになっていった。
妙な懐かれ方をしたものだと閉口しておったが、あやつは存外に人望があったようで、幾人もの隊士が進んで飯番を手伝うようになっていった。
人斬りどもが、肩を並べて飯を炊く景色はぞっとしないものだったが、まあ、悪いことではあるまい。
たまたま通りかかった近藤などは目をみはり、うんうん、と何度も頷いてはその後高値な味噌など差し入れたようだった。
食い物の力とは侮れぬものよな。
豚の肉を初め気味悪がった連中も、やがてすっかり虜になったようだった。
猪のようなものであろうと思ったが存外に品のある味わいで、何より命がけの勤めで身体がそういうものを欲しておったのだろう。
鍋にすることもあったが、髭面のあやつはこれを食べよく切り分け、味噌床に漬けておいたのだ。
それに串を打ち、囲炉裏の縁に並べておく。
やがて脂と味噌が溶け合いながら焦げ付き、じうじうと音を立て始めるともう、皆気もそぞろになる匂いが立ち上る。
これはまことに旨いもので、飯の菜によし、肴によし、さしものわしもこの串が膳にのぼる日ばかりは屯所におったものだった。
あやつはそのうち、畏敬の念を込めて「へっついさん」と呼ばれるようになった。
「へっついさん」とは、竈のことを京でそういうのだ。
飯炊きなどは己の領分ではないと、端から思い込んでいる連中の中には、「へっつい侍」などと陰口を叩く者もおった。
ところが、あやつは剣を執っても滅法強かった。
食い散らかしたまま膳を引きもしない者、飯炊きを率先して行う隊士を見下した者は、わざわざ道場で捕まえて散々に打ち据えておった。
少々子供っぽいようにも思えたが、わしも含めて誰も止めには入らなんだがな。
さような手練であるからして、御用改めの折には必ずあやつに声がかかった。
働きぶりは勇ましく、無論惜しむような命ではなかったはずだが、勤めの前には必ず心配することがあった。
「その、日に一度は底からかき混ぜねばなりませぬゆえ」
柄にもなくはにかんだように言うのは、あやつが大切にしておった糠床のことであった。
様々な蔬菜を漬け込み、食膳に添えておったものだ。
無論、わしも幾度か食うた。
無論、うまいものであったよ。
命の心配というのは糠床の世話にあるものかと、さすがに呆れてはおったが、「それがしが代わりに」などと笑って誰かが宥めるのが常であった。
捕物から無事に戻ると、あやつは血塗れた手を清めるのももどかしく、鉢金も外さぬままの姿で愛おしそうに糠床を混ぜておった。
思えばあれこそがあやつにとって、この世に留まっていることの証左だったのかもしれぬな。
幾度目かの捕物の後、あやつはとうとう戻らなかった。
誰がいつ斬り死にしてもおかしくない稼業であったが、さすがにいたたまれなかったものか、しばらくは代わる代わる糠床の世話をしてやっていたものだ。
だがそれも、いつとも知れずになくなってしもうた。
わしも少しは混ぜてやろうかと思わないでもなかったが、ついぞやらず終いであった。
それから屯所で飯を食ったことは、一度もない。
だが時折り、あの飯と汁に香の物、豚の味噌漬けなどの味わいが、唐突に口中に蘇ることがある。
我ながら閉口しつつも、まあ、それも供養のひとつであろうかとも思ったものだ。
ただ、それだけの話であるよ。
新撰抄 〜無銘隊士之霊位〜 三條すずしろ @suzusirosanjou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。新撰抄 〜無銘隊士之霊位〜の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます