蚕殖

木古おうみ

蚕殖

 ––––天の虫だ何ぞと書くが、実際哀れな生き物だよ、蚕ってのは。


 学者さん、どうしてこんな山奥まで来て、そんな虫を調べたがる?

 伝統文化、ねえ。わかんねえな。若いんだから、他に面白いことも山ほどあるだろうに。といっても、俺と大して変わらないか。

 今年で二十六、だったかな。独りでいると忘れるもんだよ。

 ガキの頃からずっと、ひとといたより蚕といた時間のが長い。

 ああ、だから、俺に聞きにきたってわけか。そうだね、都会から遥々来て手ぶらじゃ帰れんわなぁ。


 じゃあ、俺でよけりゃ話しましょう。うちで採れる絹糸と、蚕の話を。


 元々、ここら一帯は養蚕業で栄えてたらしい。

 桑の木が文字通り山ほどあったからな。桑ってのは、そう、蚕がそれしか食わないってあれだ。さすが先生、詳しいな。


 まぁ、化学繊維だ何だが出て、絹なんぞ誰も欲しがらんって、皆どんどんやめていってねえ。俺が生まれた頃には、もう俺の家しかやってなかった。

 さっき学者さんの言った、伝統文化の保護って奴さ。

 親父が頑固でねえ。儲かる儲からんの話じゃない、養蚕は誇りだって。


 そんなんだから、周りともよく揉めて、うちはほとんど村八分だったな。

 隣の家の晩飯が何かも皆知ってるような狭い村だが、ガキの頃うちに他人が来た記憶はない。

 まぁ、親父はそれでも曲がらなかった。お袋は三歩下がってという奴さ。何でもはいはいって従って我儘なんぞ言わなかったし、俺はガキだったからなぁ。


 そんな調子で外に友だちもいないし、うちにいても養蚕台のある納屋に近寄るとぶん殴られた。

 学校? 俺は先生みたいな学はないよ。寂しい子ども時代だと思うか。まぁ、そうなるんだろうなぁ。

 でも、蚕が一斉に桑の葉を齧る音を聴いてると、昼間でも雨みたいで楽しかったよ。

 うん、納屋には親父しか入れなかった。

 俺が生きてる蚕を見たのはずっと後だ。それまでは手の平で転がる繭しか知らなかった。


 絹糸っていうのは蚕を殺さなきゃ採れないんだよな。あんなに白くて小さな繭の中に、冷えた蚕の死骸が収まってるんだ。ゾッとしたよ。



 ちょっと前まで元気にころころ太って転がってたのに、絹糸ほしさにぽんと殺されちまうんだから、蚕ってのは哀れだよな。

 ほら、神話でもあるだろ。

 口なんかから食い物を出せる女神がいて、飢えた旅人に振舞ってやったのに、汚物を食わされたと勘違いした旅人に斬り殺されて、死骸から蚕が生まれたって。


 え、それは後世の創作だって。そうか、神話とくれば学者さんには釈迦に説法だよなぁ。恥ずかしいことをした。


 まぁ、いいや。俺は俺の領分があるさ。養蚕の話だな。

 事業は細々やってたんだが、ある年酷い冷夏があってな。俺が十一の頃だったか。大事な桑もみんな枯れて、いよいよ立ち行かなくなった。

 親父は荒れて酒浸りになるわ、お袋や俺を殴るわで酷いもんだった。蚕が桑を齧る音も聞こえなくなって、親父が納屋に篭ったら、お袋の泣き声しか聞こえなかったな。


 ある日、ついに堪忍袋の緒が切れたんだろう。俺が納屋の裏の井戸で水汲みなんぞしてるとき、普段泣いてばっかりのお袋が親父と何かしら怒鳴り合ってる声が聞こえたのさ。珍しいこともあるもんだと思った。そんときはそれきりさ。


 だが、その日の夜中、目を覚ましたらお袋がいなくてね。

 親父を起こして、聞いたんだよ。また殴られるかなと思ったが、親父は半目を開けてひと言「出ていった」と。それでまた寝ちまった。

 月も出てなくて、夏だってのに冬みたいに枯れた桑の木の枝が、障子に蜘蛛の巣みたいな影を落とす夜だった。

 暗い家中に雨音が響いてて、こんな土砂降りのときに行かんでもと思った。だが、翌朝見たら土は何にも濡れてなかったんだ。あれは蚕が桑を食う音だったんだ。


 それから親父はすっかり落ち着いて、また養蚕に戻った。桑は相変わらず枯れてたが、不思議と上等な絹糸が山ほど採れた。元通り、いや、それ以上。お袋なんて元からいないみたいだった。

 ただ、納屋の音がおかしいんだ。さくさくと乾いた土に雨が染みるようだったのが、じくじくと激しいが湿った夕立みたいな音になったんだ。


 とうとう気になってしょうがなくて、俺は入るなと言われてた納屋に入った。

 秋だったのに蒸し暑くて、牛の汗みたいな匂いがしたな。そのときもじくじく音が響いていた。

 薄暗がりの中、音を立たんようにゆっくりと進んでいくと、足元にぽとっと何かが落ちた。

 拾うと柔らかくて微かに動いてた。丸々太った蚕だ。生きてるのは初めて見た。


 視線を上げると、その先にぼんやりと大きな影があった。

 俺は手探りで明かりを灯した。

 ぼうっと逢う魔が時の陽みたいな橙色が広がって、目を凝らすと、影は奥の養蚕台にあった繭だった。

 ただの蚕の繭じゃない。ひとひとり入れるような巨大なやつだ。匂いと音はそこからした。

 よく見ると、絹で包んだようなその繭が微かに蠢いてた。親父が道楽でこさえた作りもんじゃないのか、まさかこんなデカい繭の中本物の蚕が生きてるのか。そう思って、俺は近づいた。


 違うんだよ。蚕が繭の中で動いてたんじゃない。動かしてたんだ。

 繭にたかった何百何千という蚕が。


 じくじく、じくじく、音を立てて、繭を破って入ろうとするように必死で食いついてたのさ。


 俺は走って、納屋から飛び出した。

 もう夕暮れで、空は傾いた陽で納屋と同じ色に染まってた。

 俺が息を切らしてると、ふっと後ろが真っ暗になってね。日が落ちきるには早すぎる。

 振り向くと、真後ろに親父が立っていて、その影が俺に覆い被さるように伸びてたんだ。


「おい、納屋の奥を見たか」

 昔俺やお袋を怒鳴りつけたときとは違う、静かで聞いたこともないほど低い声だった。親父の顔は、逆光で見えなかった。

 俺は殺されるんじゃないかと思ったが、口の方が勝手に動いて聞いていた。


「親父、あれは何なんだ」

 親父は真っ黒な顔で、静かな声のまま俺の名前を呼んで言った。

 心配するな。あれは悪いもんじゃねえ。むしろ俺たちにはありがたいもんだ、と。

 そう言って家に戻ろうとした親父に、俺はもう一度同じことを聞いた。

 背中を向けたまま、親父は確かに言ったんだ。

「あれは蚕の神様の繭だ」


 と、話はそれでお終いだよ。つまらなかっただろ。

 え、神様なんていないって? どうだかねぇ。

 だが、仕事はそれから右肩上がり。親父が死んでからは俺が継いで、何とかやってるさ。都会から先生がわざわざ訪ねてくれるくらいにはな。これがご利益じゃなくて、何だってんだろうねぇ。


 先生はここに来るとき、桑の木を見たか?

 見てないだろう。桑なんかなくてもやっていけるもんさ。蚕はそれしか食わないなんて迷信だ。

 代わりの餌は何かって、そりゃあ企業秘密だ。悪いな。

 肉? 肉なんか食わないよ、蛆でもあるまいし。先生はおかしなことを言うな。


 お袋のことはって、知らねえよ。どっかで別の男とガキでもこさえただろう。探したいとも思わない。村から出てもどうしようもないしな。

 俺は十八で一度外に出て家庭も持ったが、結局ここに戻ってきちまった。

 そういや、野生の蚕っては見たことないな。不思議なもんで、あれはひとに飼われないと駄目らしい。俺も親父も、蚕みたいなもんだね。ここを離れたらくたばっちまう。


 失礼、動かないでくれ。

 肩に虫が。

 怯えなくていい、そら、とれた。

 え、蛆? まさか、蚕だよ。たまに納屋から出ちまう。大事な商売道具だからな。閉まっとかないと。


 すごい汗だな、先生。暑いか。 ここは熱が篭るからねえ。窓を開けようか。

 少し埃が出るぜ。ひとりでいると掃除もままならなくて、悪いな。


 嫁はもういないよ。出ていっちまった。どこまでも親父と一緒さ。


 さぁ、開いた。これで風が通るだろう。ははは、まだ汗がひどいな。顔も真っ青だ。学者に田舎の気候は合わんだろう。俺は気に入ってるけれどねえ。


 こっちに来て風に当たりなよ。

 ちょうどいい時間だ。日暮れだな。空が真っ赤に燃えて、村に蓋するみたいに垂れ込めて。


 いや、これは夕立じゃない。

 蚕だよ。

 蚕が餌を食む音だ。ここでもよく聞こえるだろう。

 じくじく、じくじく、遣らずの雨みたいに響くんだ。誰も彼も、蚕に関わるもんはこの村から出さない、ってな。


 あ、本当に降り出した。学者さん、傘は持ってきてないよな。こりゃあしばらく止まないぜ。


 どうする、先生? せっかくだ。雨が止むまで、もう少し話をしようか。

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